カノジョの婚活 07

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「食べられないものはないですか?」
「はい」

 頷くと「よかった」と男は微笑んだ。
 長袖シャツにエプロンをする姿は前世でも目にした姿であったはずだけれど、現代の、しかも他人様の家のキッチンで料理をする様は新鮮というよりも違和感を覚える。
 少し長い前髪の下に隠れた右目は、今生ではちゃんと見えるんだろうか。もっとも、前世だってその眼帯の下がどうなっているのかはとうとう知らずじまいだった。
 近侍として共に書類仕事をしていた時に訊いたことがあるのをふと思い出す。眼帯の下は傷なのか、痛んだりはしないのか、と。どの本丸の『燭台切光忠』もかつての主を髣髴とさせるその姿で顕現するから、彼の姿はそういうものなのだと認識はしていた。でも、それとは別に、傷だけならまだしも痛みがあるのならば手入れをした方がいいんじゃないかと考えたからだ。光忠はほんの少し目を瞠った後に、口の端を引き上げた。「気になる? 一緒に寝れば確認できるよ」などとやけに艶めいた声音で言うものだから返答に困って固まったら、すぐに破顔した。心配してくれてありがとう、と。

「すみません、鶴さ、兄さんってば可愛いフィアンセを置いて」
「いえいえ、私もアイス食べたいと思ったので」

 プロポーズの返事はいったん保留にさせて貰ったのに、なぜか家族に紹介したいと言われてあれよあれよと日取りが決まってしまった。もっとも、今日のところは彼のご両親は不在で、弟妹に引き合わせがてらの食事会だと連れてこられた。実家で弟さんが手作り料理を振る舞ってくれるとのことだったので、畏まらなくていいと言われていたけれど、一応は婚約者(仮)として会う以上それなりの体面を保たなくてはならない。セフレでしたなどと言うわけにもいかないので簡単な口裏合わせはしてあるけれど、それにしたって緊張するに決まってる。
 鼻歌でも歌いそうな機嫌のよさでレタスを洗う男をそっと窺い見る。燭台切光忠といえばどこの本丸でも主の胃袋を掴む刀剣男士のベスト3に入っていたけれど、彼は今生でも料理好きらしく、三ツ口コンロを駆使して何品も作ってくれているらしい。
 先ほど弟だと紹介された時には愛想笑いがヒクリと引きつった。まさか元とはいえ刀剣男士に引き会わされるとは思ってもみなかったからだ。自分の本丸の男士でなかったからよかったようなものの、もしもあの光忠に余所の鶴丸と婚約(仮)などと知られたら何を言われることか。考えただけで背筋に冷たい汗がつたう心地になる。
 あの頃の私の想いに気付いていた刀は、いたような気もするしいなかったような気もする。厳密にはわからないけれど、ただ初期刀や三日月、光忠などにはそれとなく踏み込んだことを言われたような覚えもあるから、もしかしたら察していたかもしれない。
 なんにせよ、鶴さん──今生の名前は五条国永さんというそうだ──や、光忠さんは私が審神者だったなんて気付きもしないだろう。二人は鶴などと名前に一文字もかすらない名を名乗ったり呼んだりしているあたりかつての自分たちを思い出しているのかもしれないけれど、訊けばやぶ蛇でしかないから触れずにおく。

「あの、お邪魔じゃなければお手伝いしてもいいですか」

 少しは料理はできる。つもりだ。凝ったものは作れないし、光忠さんには遠く及ばないだろうけれど、手持ち無沙汰でソワソワした気持ちを持て余しながら座っているよりは、少しでも手伝わせて貰った方がマシなような気がして声を掛ける。

「それから……出来れば敬語はやめていただけると嬉しい、です」
「敬語? 苦手?」
「その、み、おと……光忠さん、とはそれほど年が変わらないか、私が年下なんじゃないかなって。だから敬語で話されるとなんとなく居心地が悪いというか」
「そう、か。確かに義姉(かぞく)になるんだから敬語は変だよね」

 異論はあるけれど、口にするのは憚られるから曖昧に頷く。

「だったら花奈かなさんも敬語はやめようか」
「私?」
「うん。義弟おとうとに敬語っていうのも変だと思わない?」
「私は、えと、その鶴……国永さんにも敬語で話すくらいで……敬語のほうが話しやすいというか」
「そうなの?」
「はい。慣れてきたら、多少抜けるかもしれないんですが、これが普通の話し方だと思って頂けると。実家でもそうなので」
「ふふ、それじゃあ仕方ないね。じゃあお言葉に甘えて。その鍋、あく取りをしてくれる?」
「はい」
「あ、エプロンあるよ」

 視線で示した冷蔵庫の横には、淡い水色地にパステルカラーの水玉が踊る可愛らしいエプロンが掛けられている。両親が不在がちだというこの家で、女の子らしいデザインのそれを誰が使っているのかなど訊くまでもない。
 この家で、ふたりの男性に特別大切に想われているお姫様。そんな彼女の持ち物を身につけるなんて烏滸がましい気がして、大丈夫ですと首を振る。

 家に着いて「お邪魔します」と玄関を上がり光忠さんを弟と紹介されたのは衝撃的だった。でも、その後すぐに妹さんを紹介されたことの方が遥かに心臓に悪かった。初めましてとはにかんでいたのは、いつか見かけた、鶴さんの隣で可憐な笑みを浮かべていた女の子だった。
 妹? 彼が彼女に向けていた眼差しはどう考えたって肉親に向けるそれじゃなかった。でも、妹。妹ってそれはつまり? え?
 混乱のあまり鶴さんと彼女の顔とを交互に見ていると、鶴さんは軽く吹き出して「似てなくて驚いてるか?」とさも愉しそうに笑った。そこには、あの時見かけた男性として愛おしげに彼女のつむじを見下ろしていた色はひとかけらもない。婚約者に妹を紹介する完璧な兄の顔だ。

「親が再婚同士でな。妹とはいえ血は繋がってない」
「むぅ、でも小学校の時からずっと国兄は本当のお兄ちゃんだよ」

 初対面の一応は客を前に唇を尖らす仕草は少し子どもっぽいけれど、成人したばかり、しかも女子大生ともとなるとこんな感じが普通なんだろうか。

「こら、それより挨拶だろ」

 真っ黒な髪をかき混ぜるようにして頭を押され、下げるように促される。「そうでした」とテヘと笑みを浮かべ挨拶を口にする妹さんはどこまでも可愛らしい女の子だった。
「妹の陽那ひなです。ところで花奈さん、アイスは好きです?」
「……? はい、まあ」
「よかった。じゃあちょっと国兄と買ってきますね」
「こぉら、自分が食べたいだけだろ」

 柔らかに握った拳でコツリと彼女の頭を叩きながらも、窘める声はどこまでも甘い。
 そうか、家族には。ううん、想い人にはこんな声で話すのか。そういえば、あの鶴丸だって私を前にしながらも彼女には随分と打ち解けた口調で訊いたこともないような声で話していたっけ。
 思い出した事実には胸が痛んだものの、ここにいるのは違う鶴丸だ。彼が誰を想っていても、ただ事実として受け入れられる。
 それにしても。血が繋がっていない兄妹って、結婚出来ないんだっけ? 妹さんは彼にもよく懐いているようだし、フってしまった相手にする態度でもないだろう。ならば彼は告げることもなく諦めてしまっているんだろうか。

「光兄。コンビニ行ってくるけど何かいる?」

 キッチンカウンターの向こうへと、小走りにぱたぱたスリッパを鳴らして行く。寄ってくる彼女を見下ろす光忠の眼差しも、随分と甘やかなものだった。

「すまん。俺たちが甘やかすから随分とマイペースでな」
「いえいえ。可愛くていいと思います」

 彼女に尻尾があったなら、きっとぶんぶんと振られていただろう。そんな愉しげな様子を見ながら答えると、爆弾が落とされた。

「それから、あのふたりは婚約してる」
「…………」

 何か聞き間違えている気がするんだけど。

「……こん?」
「婚約」
「……は? なん……え?」
「兄妹と言っても血が繋がっていないんだ。そこまで驚くことじゃないだろう」
「や、だって……」

 あなたも彼女が、などと言えるはずもないから、零れかけた言葉は喉の奥に押しとどめる。

「婚約したのは最近だが……まあ、随分やきもきさせられたからな。やっとといった感じだ」

 はあ、とか、へえ、とか、意味のない音で相づちを打つ。
 そんなに切なげに見つめているのに、彼女はまだしも光忠さんがそれに気付かないなんてことがあるだろうか。
 いや、でも、つい同じ姿だから混同してしまうけれど、鶴さんが私の知る鶴丸ではないように、光忠おとうとさんだってあの光忠とは別人の、ただの初対面の男性に過ぎない。もしや彼はそういうことに鈍いんだろうか。
 それにしたって、こんなに愛おしそうに見つめているのにとひどく哀しい気持ちになった。

「ケーキも買ってあるんだが。ま、きみならデザートは別腹でアイスが増えてもイケるな」

 言いながら私の頭をぽんぽんと撫でるのは、光忠さんの視線を意識してだろうか。そんな穿った思考がよぎる。頭の上でやわらかに跳ねる掌。ふたりきりならきっと、こんなことはしなかっただろう。
 随分と性急なプロポーズの理由がようやく腑に落ちた気がした。

「そうですね。……ストロベリーがいいです」
「は?」
「アイス。買いに行くんですよね」
「ああ。……一個でいいのかい?」
「どんだけ大食いだと思われてるんですか」
「はは、すまんすまん。冗談だ」

 かつて『よき主』を求められていた時と同じように、上手に笑えているといい。そう思った。彼が『よき長兄』『よき婚約者』の顔で微笑んでいるのと同じように、『仲のいい婚約者』の顔で、私もちゃんと笑っていなくちゃいけない。

 光忠さんの手料理はどれも絶品だった。前日から仕込んだという牛肉の赤ワイン煮はスプーンでも食べられそうなくらいほろほろに柔らかかったし、いろんな野菜ときのこのラタトゥイユは爽やかな酸味だったし、かぼちゃとチーズのサラダもおいしかった。そのほかにもあれもこれもと肉や魚、野菜とどれもこれも主菜副菜様々な料理が並び、何か苦手な食材があったとしても充分愉しめるようにとの気が配られていた。それはそのまま私を歓待してくれる心遣いのように感じられて、素直に嬉しかった。

「お酒、飲んでもよかったんですよ?」

 一通り食べ終え、光忠さんたちが軽く片付けてお茶の仕度をする間にソファーへと移動した。
 メニュー的に酒の肴にもよさそうだったし、よかったらと勧められたけれど辞退した。弱くはないけど、特別強い方でもない。ましてや、鶴さんも飲まないのに私ひとりというのも気が引けた。
 婚約者として不自然でない程度の隙間をあけて隣に腰を下ろしながら言うと、鶴さんは「飲んだらきみを送っていけないだろう」と苦笑する。
 行為の後、彼が送ってくれたことなんて一度もない。プロポーズされて以降は送ってくれることも増えたけれど、それだって相変わらず『本命』かららしき電話があれば彼は迷わず私を置き去りにした。

「……変なこと、訊いてもいいですか?」
「ん? なんだ改まって」
「あの……時々電話がかかってきて鶴さ、……国永さんがすぐに帰ってしまうことがあるでしょう? あれって、妹さん、ですか?」

 ぴしりと音をたてて空気が固まったような気がした。けれど、それも一瞬のこと。嫌そうに顔をしかめながらも「まあ、そうだな。仕事の時もあれば、あの子……妹からの時もある」と答えると、長い脚を組んで軽く髪をかきあげた。

「なんだ。文句を言わないから気にもしていないかと思ったが、不服だったか?」

 そういう文句を言わないところが面倒くさくないからきみを選んだのに、と言われたような気がしたのは被害妄想だろうか。まあ、それ以外には手近でタイミングがよかったくらいしか私が求婚相手に選ばれた理由なんて思い当たらないから、恐らく当たらずとも遠からずというやつだろう。

「いいえ。そうだったら、納得だなって思っただけです」
「納得?」
「なんていうか……守ってあげたい女の子ってああいう子なんだろうなあって。お陽様の下でにこにこ笑って咲いているお花みたいというか」

 一緒に食事をしてみて、無邪気で、容姿もそうだけれど表情も性格も可愛らしい子だなと感じた。例えば同じ職場に居たならば、彼女は彼女なりにきっと頑張って仕事をするだろう。それでもなんとなく心もとなくて、ついつい手助けしてあげたくなるような子だと思った。
 そんな彼女が、自分に何かしらを求めて電話やメッセージを送ってくるならば、つい応えてあげたくなるだろう。想う相手ならばなおのことだ。

「まあ、そうだな。あの子については俺の役目でもないんだが、俺の方が時間の融通がききやすい。夜は特にな」

 光忠さんは幾つかの飲食店を経営しており、自身が店に出ることも多いらしい。それに加えて、父親が海外に行くことが多く、子どもが成人してからは母親がそれについていくことがほとんどで、ともすれば夜は陽那さんひとりになってしまうそうだ。
 鶴さんにヘルプを求めるのは光忠さんを呼び出せない時の代理。とまで言ったら言い過ぎだろうけれど、悪気がないだけにタチが悪い。もっとも、その呼び出しにも迅速に嬉々として応じているのだから、なんというか彼も相当健気だと思う。

「コーヒーと紅茶、どっちにする?」

 ケーキの箱を携えて、光忠さんがミルクポットやシュガーをソファーの前にテーブルに並べる。

「私カフェオレ~」
「陽那は知ってる」
「俺はブラックで」
「知ってる。もう、そうじゃなくて。お客さんが居るってわかってる?」

 日頃の兄妹の関係性が透け見える会話は微笑ましい。でも、各自の想いのベクトルを思うと微妙に居たたまれない。

「花奈さん?」
「あ、はい」

 このぶんだとみんなコーヒーだろうか。コーヒーよりは紅茶の方が好きなのだけれど、自分の為だけに紅茶を煎れて貰うのも申し訳ない。

「光忠さんもコーヒーです、よね」
「……僕は紅茶にしようかなって」
「え、光兄珍しい」

 気を、遣わせたかもしれない。コーヒーと即答すればよかった。後悔先に立たずだ。

「紅茶で、お願いします」
「了解。……あ」
「はい?」

 何か言いかけた光忠さんは、ううんと首を振って、紅茶やコーヒーの仕度へと戻っていった。

「わぁ、いろいろあるねぇ」

 ケーキの箱を開いた陽那さんが満面の笑みを浮かべる。

「あ、やったぁ! ショートケーキもある!」
「こら、彼女が先だ」
「そうだった。花奈さん、どれがいいですか?」

 ショートケーキにガトーショコラ。チーズケーキと果物のたくさん載っているタルト。この中ならば生クリームのショートケーキが一番好きだけれど、人の好物であろうものを横取りするのも気がひける。それはそれとして、鶴さんや光忠さんの好みがわからないので、どれを選ぶのが無難なのかわからない。

「きみ、案外優柔不断か?」
「え、ケーキごときでそういうこと言っちゃいますか」
「いや、選べないくらいどれも好きなら俺の分もやろうかと思ってな」
「どれも好きだけどひとつでいいです。つ、国永さんは?」
「国兄はこの中ならフルーツタルト一択だよね」

 なるほど。ってことは、残るはガトーショコラとチーズケーキ。光忠さんはどっちだろう?

「お待たせ。レモンは好みで使ってね」

 トレーに紅茶とコーヒー、スライスレモンを載せた皿を手に戻ってきた光忠さんに「光忠さんはどれが好きなんですか?」と尋ねた。

「僕はどれでも好きだよ」
「え、光兄はガトーショコラじゃないの?」
「それも好きだけど、自分が好きなものだけ買ってきたからどれを選んでも大丈夫。花奈さんが好きなのは?」
「よかった。なら私はチーズケーキを頂きます」

 選んでいいものが判明してホッとする。チーズケーキもガトーショコラも嫌いじゃない。だからどちらでもいいのは光忠さん同様で、陽那さんが選択を狭めてくれるのが内心とても有り難かった。

「花奈さんはチーズケーキが好きなの?」
「そうですね。というかケーキ全般好きですよ。お酒がきいてるのは苦手ですけど」
「この中ではチーズケーキが一番好き?」

 光忠さんが重ねて問うのがなんとなくひっかかって、小首を傾げながらも「どれも好きです」と答えた。

「……なんていうか、二人ともよく似ているね」
「私と国永さん、ですか?」

 似ている要素なんてあっただろうか。隣の彼を窺えば、金色の目を怪訝そうに眇めている。

「譲ってばっかり居ると、一番好きなものを食べられちゃうよ?」

 知っているんじゃないか、と思った。光忠さんは鶴丸さんが陽那さんのことを好きなのを知っているか疑っている。そしてそれをきっと鶴丸さんも気付いている。
 鶴丸さんは光忠さんのことも大切で。陽那さんのことも心から大切で。全部飲み込んでこんな私を『婚約者』としてここに連れてきた。だったら、私が出来ることなんてたったひとつだ。
 何かを見極めるように向けられる隻眼を見つめ、にっこりと微笑む。

「大丈夫ですよ。本当に一番好きなものは誰かに譲ったりしないですから」

 ね? と『婚約者』に笑みを向ければ、軽く目を瞠った彼はふっと笑って「ケーキごときで何を言っているんだ」と私の肩を抱き寄せた。
 どこかホッとしたように和む光忠さんの眼差しが心に刺さる。同時に、この弟妹と生活を共にする国永さんの気持ちを思うとやりきれない気がした。私はその気になればきっと鶴丸と二度と会わないことも可能だけれど、彼はそうはいかないのだ。

 プロポーズの返事を曖昧にしたまま同棲を開始したのは、この一ヶ月後のことだった。

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