カノジョの婚活 5

 瞼の向こうはうっすらと明るい。もう夜が明けてるんだろうか。それなりの時間寝たような気もするけれど、ろくに眠っていないような倦怠感がある。頭はひどく重く、指先を動かすのも、目をあけるのすら億劫だった。
 眠る前の記憶を手繰り寄せれば、今は高校生の彼と隣で微笑む女の子の姿が脳裏を過り息が詰まる。浮かんだ光景を振り払うように瞼を押し上げると、周囲は光量を絞られたベッドサイドランプに淡く照らされていた。寝乱れたオフホワイトのシーツが昨夜の痴態を否応なしに思い起こさせる。身を起こしながら見回してみても、空調の音だけが微かに響く室内には誰の姿もない。ただ、サイドテーブルの灰皿に残る吸い殻が、男が確かにここにいたことを顕していた。
 両手で顔を覆いため息をつく。
 何も考えたくなくて、でもあの顔は見たくなくて、強請りながら枕に顔を伏せ続けた。いっそどろどろに溶かされてなにも覚えていなければよかったのに、残念ながら断片的な記憶が羞恥心といたたまれなさを連れてくる。彼はいつも通り終わったらすぐ帰って行ったようで、寝起きに顔を合わせずに済んだことがせめもの救いだ。
 ベッドを降りて、備え付けの冷蔵庫へと足を運ぶ。冷えたお茶を口にすると、喉を滑る感触がクリアに感じられ、やけに心地いい。その違和感に、あー、あー、と声を出してみる。少し掠れた声音は起き抜けだからというだけでもなさそうだ。
 ぽすんとベッドに腰掛ける。そうするともう立ち上がるのも、思考を巡らせるのも面倒で、このままずっとベッドの上で目も耳も塞いだまま丸まっていたい気になる。
 思い出しても、もう涙が出ることはなかった。いろんなものが溢れだして零れ落ちて、すっかり空っぽになってしまったのかもしれない。このままここで全部終わって消えてしまえたらいいのにと思いかけ、その感覚に既視感を覚えた。いつのことだったかは思い出せないけれど。
 厚いカーテンの隙間からは、うっすらと蒼い光が差し込む。備え付けの時計に目をやれば、そろそろシャワーを浴びなければ出勤前に着替えに帰るのは無理になりそうな時刻だった。
 
「休んじゃおっかなぁ」

 独りごちたところで賛同も、異を唱える者もいない。
 少し掠れたこの声ならば、風邪ですとでも言えば説得力はありそうだ。
 重い腰を上げて、ハンガーに掛けたコートのポケットに手をつっこむ。取り出したスマートフォンの画面には、婚活サイトのマイフォルダにメッセージが届いているお知らせと通販サイトからキャンペーンなどを知らせるダイレクトメールが並んでいた。それらをのろのろと削除して、メッセージアプリを立ち上げる。
 ヤることをヤッたいつも通りの夜と言えなくもないけれど、あれこれと強請った昨夜の言動はセフレとしてどうだったんだろう。正しいセフレの在り方なんて未だにさっぱりわからないけれど、いい大人の、しかも行為の最中に泣き続ける女のお守りだなんてさぞや鬱陶しかったに違いない。思い返せば申し訳ないけれど、お陰でひとり抱え込んで鬱々と過ごさずに済んだ。お詫びとお礼くらいは伝えておこうと、ごく短いメッセージを打つ。

『昨夜はすみませんでした。ありがとうございました』

 誘いの返事以外にメッセージを送ったのは初めてだったかもしれない。送信ボタンを押してから、そう気付いた。
 まだ朝も早いというのに、メッセージはすぐに既読になった。とはいえ、彼がこんなものにいちいち返信してくるようにも思えず、再びポケットに戻そうとした途端、スマホが震え取り落としそうになる。目を落とせば返信どころか電話の着信。あの男からだ。まさかこのタイミングで電話が掛かってくるなど想定外過ぎて、動揺のあまり咄嗟に声が出ない。

「……は、い」
『おはよう』
「おはよう、ございます」
『ふはっ、ひどい声だな』
 
 散々泣いていたからと暗に指摘された気がして口にしかけた謝罪は『まあ俺のせいなわけだが』と軽やかな声に遮られた。
 
 
 
◇  ◇  ◇    ◇  ◇  ◇
 
 
 
 その日はいつもといろんなことが違っていた。
 今朝の電話で、なぜか夜に再び会うことになった。なぜかもなにも約束をしたのだから当然ではあるけれど、週に一度を越えて、それどころか昨日の今日でなんて初めてのことだ。
 正直、まだダメージを引き摺る心と体でセックスなんて気分ではなかったものの、昨夜は恐らくセフレらしからぬあれこれに鶴さんの方が満足できなかったのかもしれない。ならばここは譲歩するべきなのではと断りの言葉は飲み込んだ。
 休もうかと思っていたはずが結局は出勤したのは、家に一人で居れば考えなくてもいいようなあれこれで地の底まで気分が落ちていきそうな予感があったからだ。そう考えると、仕事後にひとりの部屋に帰るよりは彼と会うのもまた気が紛れていいのかもしれない。
 終業後、常よりも少し早い待ち合わせ時間。連れてこられたのは随分とハイソなホテルのレストランで。フォーマルな店内の雰囲気に、シャドーストライプのスーツを身につけた彼はいいとして、黒のハイネックにベージュのフレアスカートなんていうオフィスカジュアルはドレスコード的にギリギリアウトなんじゃないかと落ち着かない心地で周囲の客たちの服装へと目を向けてしまう。そんな私の心中など知ってか知らずか、彼は「乾杯」とグラスを合わせた。

「出勤したんだな」
「え?」

 意味をはかりかねて間の抜けた問いを返せば、ドライシェリーを含んだ口元に苦笑が浮かんだ。

「いや、昨日の今日だからな。今日は休んだかと思っただけだ」
「あぁ、あー……昨夜はご迷惑をおかけしました」
「ん? いや、別に迷惑なんざ被っちゃいないさ。ま、あの場合は役得というんじゃないか。そういうんでなく……存外真面目だなと思っただけだ」

 金色を優しげに細める様にどうやら誉められているらしいとはわかるものの、気の利いた返しが出来ずに「はぁ」と曖昧に頷けば、笑みが返った。
 正直見たい顔ではなかった。なにしろ同じ顔だ。それなのに、会ってしまえば案外平気な自分に驚いた。姿形も声までも何から何まで一緒ではあるけれど、私の鶴丸とこの鶴さんは明らかに別人だということを、自覚している以上にきちんと認識できているらしい。そう思いかけて、ツキンと胸が痛む。私の、ではない。私が顕現しただけの鶴丸国永だ。最初から最後まで、私の鶴丸だったことは一度だってない。わかりきった事実を苦く噛みしめていると、どうした? と声がかかる。ふるりとひとつ頭を振って、誤魔化すような笑みを浮かべる。

「おいしいですね。パプリカの香りがふんわりして……すごく、おいしいです」

 もっと言いようもあるだろうにと頭を抱えたくなるけれど、運ばれてきた時に言われたなんちゃら風ソースなんて名前は右から左へと通り抜け、既に遠く記憶の彼方だ。
 本命であろうあの人やセフレカースト上位の方々はいつもこんなところで食事してからイタしてるんだろうか、なんて下世話なことを考えつつ、さっぱりとした白身魚のムースを口に運ぶ。
 居心地が悪い。ベッドの上ならばいざ知らず、こんな風にじっくり向き合うことなどこれまでほぼなかったと言ってもいい。今日は元々の相手がキャンセルになったと言っていたけれど、それにしたってなんでよりによって私だったんだろう。
 間がもたなくて、誤魔化すようにミモザを口にする。オレンジの爽やかな香りは、少しだけ置き所のない気持ちを鎮めてくれる気がした。

「婚活ってのはどういうことをしてるんだ?」

 メインの料理を半分ほど食べた頃、おもむろに切り出されて軽くむせそうになる。意図をはかりかねて窺えば、瞳に浮かんで見えるのは好奇心だ。
 顕現されたばかりの頃の鶴丸は、目線が違うだの、人の肌で感じる風が新鮮だのと言っては毎日こんな顔で箱庭のような世界を見渡していた。
 そんな彼に、本丸や戦場ではない景色をあれこれ見せてあげられたら喜ぶだろうかと思ったのを覚えている。同時に、主従という鎖を解いてひとたび自由に飛び立てば、鶴は主など顧みることもなくどこまでも自由に飛んでいってしまうのだろうとも思っていた。
 実際、輪廻の先へと羽ばたいた鶴は『主』という初恋は既に過去だと言い切り、大切な一人を定めていた。
 目の前のこの鶴にしてもそうだ。なんでセフレなどと遊んでいるのか知らないけれど、たったひとり思い定めた人がいるはずだ。一度だけ見たことがある。彼女に寄り添う彼は、昨日鶴丸が時折あの子へ向けていたのと同じくらい、蕩けそうな眼差しを向けていたはずだ。あれはセフレではないな、と一目でわかるほどに。あの彼女は、彼のこんな素行を知っているんだろうか。

「婚活に興味があるんですか?」
「ネットなんかで言葉は目にするが、実際身近では聞かないからな。合コンとか見合いとか、何かそんなものとは違う特別な活動でもあるのかと思ったんだが」

 彼には一生縁のないものだろう。だからこそ、興味を惹かれるんだろうか。
 どんな返答が来るのかワクワクと待ち構える瞳を前に、冷えたワインを口にしてこくりと飲み込む。
 
「まあ、そうですね。相手に求める条件を提示しておいて、それを見た人からメッセージがきたり、自分でもメッセージを送って……会う約束を取り付ける、とか。婚活会社がセッティングしてくれるパーティみたいなものに参加したり、そんな感じですよ」
「条件ねえ……」
「別に面白いものでもないですよ。……まあちょっと面白い人がいることはありますけど」

 婚活サイトで見かけた、趣味が埋蔵金探しの人や宇宙との交流と書いていた人の話をしてみる。

「ふはっ、そいつは話くらいは聞いてみたい気もするが、結婚相手としては頂けないな」
「そうですね。あれが本当なら、嘘がないぶん誠実ではあるのかもしれませんが」
「誠実ねえ……。きみは? なんて書いたんだ?」

 訊かれて思わず瞬きをふたつ。私について訊かれるとは思わなかった。他にはもっと面白い話はあっただろうかと、記憶に検索をかけていたから咄嗟に固まってしまう。まじまじと彼を見つめると、ん? と小首を傾げられた。

「あ、私は……趣味に料理、特技に華道と」
「かどう? あの花をいける?」
「はい。小学校に上がる前から高校生くらいまではずっとやってたので、一応特技に書いても許されるんじゃないかなって」
「そこまでやってたら、そういう関連の仕事に就こうとは思わなかったのか? 花が好きなんだろう?」

 花は確かに好きだった。でも、華道を続けたのは、なかば強制されただけのことだ。期待もしていなかったクセに、世間体だけで続けさせられていたそれを私はさして好きではなかった気がする。
 もっとも、彼にわざわざ話すほどのことでもなく、曖昧に笑んでやり過ごした。

「条件って言ってたな。具体的に年収とかそういうことか? 一千万とか?」
「そこまでは。その半分ちょっとくらいでもいいかなって」
「へえ。じゃあ、長男は嫌だとか、家を持っていないととか?」
「鶴さんが婚活する女性だったら注文が多そうですね。確かに婚活シートにはそういうチェック欄もありましたよ」
「長男でもよくて、家がなくてもよくて、高収入でなくてもいい。だったら、きみくらい可愛ければ婚活会社の世話にならずともすぐ決まりそうなもんじゃないか」

 彼の言葉に再び固まる。
 きみくらい可愛ければ、って言った? 
 ベッドの中でもそんな台詞を聞いたことはない。だからこそ、友達にデリヘルと何が違うんだなんて言われてしまったのだけれど。

「どうした?」
「……鶴さんが、社交辞令を言うなんて思わなかったので。ちょっとびっくりしました」
「……? ああ、きみが可愛いって?」

 じわじわと頬が熱くなる。お世辞に反応してしまった自分がたまらなく恥ずかしくなって、再びグラスに手を伸ばしたところでデザートが運ばれてきた。洋なしのソルベなんて、この無駄な熱を散らすにはちょうどいい絶妙のタイミングだ。

「意外だな。きみは褒め言葉なんて受け流すかと思った」
「蒸し返さないでください。ちゃんと身の程は弁えてるんですから」
「……きみは可愛い」

 まっすぐな蜂蜜色を向けられて、思わずスプーンを取り落としそうになる。

「だから、正直婚活を始めると聞いて、それがホントならすぐに相手が決まるだろうと思ってた」
「ホントならって……本当ですよ。真面目に活動してます」
「真面目ねえ。ま、きみが真面目なのは確かだな。昨日の今日で出勤するくらいだしな」

 もう昨日のことは忘れて頂きたい。なんてことは言えるはずもなく、黙ってソルベを口に運ぶ。ほんのり洋酒の香りがするそれは舌の上で溶けるばかりで、視線によって熱くなる顔にはどうにも効果がないようだ。

「なあ。どうして結婚したいんだ?」
「それ、婚活会社の担当さんにも同じことを訊かれました」
「ま、基本的なことだろうからな」
「ですね」
「それで? きみはなんと答えたんだい?」

 あの時、高村さんにその問いを向けられた私は結局。

「それが……答えられませんでした」

 すっと細めた目で、へぇと口の中で呟く。その声音が冷たく響いた気がして顔を上げると、いつも通りの彼が居るばかりだ。

「したいのか? 結婚」
「まあ、そうですね」
「正直、きみは恋人が欲しいとか結婚したいとかそういう欲求が薄そうだと思ってた」
「……自分でもそう思います」

 なにしろ不毛な片想いが長すぎて、もういろんな感覚が麻痺してしまっている。恋人の話を愉しそうに語る友達を羨ましく見ることはあったけれど、自分がそうなりたいと思ったことはない。そうなれるという前提が想像できなかったからだ。

「でも、このままだと実家からお見合い話が持ち込まれそうで。断り切れずにそのまましちゃうくらいなら、自分で相手を探してみてもいいのかなと思いまして」
「なんだ。出来なきゃ出来ないでいいようにも聞こえるぜ?」
「実際そういう自分を想像したことないんです。恋愛とか、結婚とか」

 お見合いだって、うまく断れるものなら断りたい。その先に誰かと、というのも今は想像がつかない。けれど、あの母親を説得してお見合いを回避することも、その後に断ることが出来るようにも思えない。
 なにしろあの人には、私の言葉なんて通じないんだから。

「そうは言ってもきみだって好きな奴くらい……」
「……」
「いや……。なあ。だったら俺でもいいわけだな」
「は?」
「俺で手を打たないか? 俺と結婚しようじゃないか」

 今度こそ、手にしたスプーンを取り落とした。