セックスの後、彼女がこんな風に寝入るのは初めてのような気がする。大きな枕を抱えるようにうつ伏せて、身じろぎひとつしない。上下する剥き出しの肩もひどく微かで、ともすればこのまま呼吸まで止まるのではないかという儚い動きを横目に、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。
枕に顔を押しつけて頑なに堪えていた声は、嬌声かそれとも嗚咽だったのか。少なくとも、これまでこんな風にバックから攻め立てられることばかり強請ることはなかったはずだ。
泣いていた女を抱こうとまでは思っていなかった。途中でまた泣き出されても面倒だし、興醒めて切り上げるくらいなら最初からしない方がマシだからだ。ただ、あまりに頼りなげな表情に思わず抱き寄せてしまった女を、修羅場を演じたあの場に置いてくるのはさすがに憚られた。もっとも、これを機にまた使い勝手よく呼び出せるなら都合がいいとは思ったけれど。
「今日は……どこでするんですか?」
近くに停めていた車まで戻るうち、俯いたまま袖を引き、誘いかけてきたのは女の方だった。
彼女と初めて出会ったのは、行きつけの店でだった。駅から少しばかり離れていることもあり、顔見知りが来ることも、煩く囃すような輩が集まることもほぼない。酒の品揃えも、ほどよく腹を満たすフードメニューも気に入っていた。
あの日の先客はテーブル席に一組。男ひとりに女がふたりのグループだった。男は明らかに片方が目当てで、漏れ聞こえてくる会話の九割はその相手へと向けられていた。もうひとりのほうは特段不満そうにするでなく、ただ手持ち無沙汰にグラスを弄び、場の空気を乱さない程度に会話に参加しては相づちを返していた。席を立つタイミングを窺ってだろうか。それとなく腕時計を確かめる様子に、少しだけ同情心がわいた。だから目が合った彼女をカウンターに招いたのだ。隣に来い、と。
軽く目を瞠ったのは、見知らぬ男に呼び寄せられたからか、それともこの容姿に対してだったのか。正直どちらでもよかったが、話し始めて亀と名乗った彼女に興が乗った。そんな軽口もすぐにひっこめ『ヒナ』と名乗った時には思わず訊き返したものの、すぐに『ヒワ』だと訂正された。
店の近くのホテルへと連れ込み、口づけながらシーツへと押し倒した瞬間、見上げてくる眼差しに内心舌を打った。愛おしそうに、夢でも見ているような視線。一夜限りのアソビ相手としては少々重い。かといって、昂ぶる熱に今更後戻りもしたくない。ハズレをひいたと思いはしたが、連絡先を教えることなく、このまま別れてしまうなら問題もないだろうと割り切ったのは、今日は帰らないわけにもいかず、かといってこんな熱を持ち帰ることは出来なかったからだ。
おざなりな愛撫でシたいように振る舞っても、肢体は従順だった。だから思うさま発散するだけの行為を手短に済ませる。いつもと違ったのは、終わった後、相手がベタベタと身を寄せてくることがなかったことだ。てっきり名前を教えろ連絡先をくれとピロートークがてら求められるかと思いきや、何を言ったらいいのかわからないという心情を顔に張り付かせた彼女はベッドから身を起こしながらウロウロと視線を彷徨わせた。
「ご、ごちそうさまデシタ?」
「ふっ、ははっ、この場合、それは俺の台詞じゃないか?」
ようやく口を開いた彼女の言葉に思わず噴き出すと、「そうですか?」と心外そうに少しだけ唇を尖らせた。
よかっただの、また会いたいだのと言われることはあれど、「ごちそうさま」は初めてだ。じわじわとこみ上げ続ける笑いを噛み殺しながらベッドを抜け出す。
「まあいいさ。オソマツサマデシタ」
シャワールームで、過ごした時間ごと洗い流す。
『亀』といい『ごちそうさま』といい面白いとは思ったが、情事の最中の想いをのせたような視線を思えば二度目以降は面倒そうな相手だ。
「人と同じベッドで寝るのは嫌いでな」
早々にホテルを後にする時も、拍子抜けするほどに何も訊かれないまま、会釈とも頷きともとれる程度の動きと共に「はあ」と返事ともつかない声が返っただけだった。
しばらくはあのバーに行くのは避けておこうと考えていたそばから、週明け早々再び会うこととなった。日中のオフィス街。タクシーを掴まえようと大通りに向かう途中、正面から歩いてくるのが視界に入った。書類ケースを小脇に抱え背筋をしゃんと伸ばす様は、ベッドの上で気が抜けた返答をしていた姿とは少々ギャップがある。いかにも仕事中という顔つきだ。
連絡先の交換すらなく別れた女。過去の経験を踏まえて考えれば、挨拶がてら寄ってくるだろうと思えた。さて、なんといって躱してやろうか。身構えたそのすぐ横を、視線を逸らしたまますり抜けるように通り過ぎる。とんだ肩すかしだった。
話しかけられると決めつけていた過剰な自意識に思わず苦笑する。このぶんでは、愛おしげだと感じたあの夜の眼差しすら、とんだ思い違いかもしれない。
どうにも行動圏内が被っているのか、そんな邂逅が片手の数を超える頃、話しかけたのは俺の方からだった。俺自身に興味がなさそうだ。それが好ましかった。
何度肌を合わせても、彼女はあまり知りたがらない。恋人はいるのか。どこに住んでいるのか。仕事は何をしているのか。初対面の人間ですら雑談交じりに尋ねてくるようなことも訊いてこない。だからといって黙りこくっているわけでもなく、こちらから話したことは訊いていいことだと判断しているのか当たり障りなく会話をこなす。ただ、踏み込んでくることはけしてなかった。
付き合っているというには語弊があり過ぎる関係は、大抵四、五人の同時進行だ。一人、二人だと自然呼び出す頻度が上がり、相手の勘違いを招く。かといって毎回その場限りの女を調達してストーカー紛いに化けられるリスクを思えば、割り切って関係を愉しめる相手をリピートするのは逆に後腐れがなく、それを納得ずくで続けられるような相手ともなれば、自然と人数は絞られた。
なかでも、彼女は異色だった。仮初めですら恋人のような振る舞いやデートを望むでなく、こちらにスマホを向けてシャッターをきるようなこともない。何番目なのかと尋ねることも一番を望むこともなく、何かを買って欲しいとねだるでも、食事に行きたいと言うでなく、ただ当然の顔でホテルについて来る。急な呼び出しに彼女を放り出して帰った次にはさすがに連絡をスルーされるか、すっぽかされるかと思いきや、何事もなかったような顔で待ち合わせに現れた。
ヤる場所をホテルから寝るためだけに借りている部屋に移しても、室内を物色する様子もなかった。部屋に呼ぶようになると、途端に態度が変わる女が多い中、相変わらず一緒のベッドで眠りたがるようなこともない。
連れて歩いたところで見栄えはしないし、彼女の人脈が俺にとって有益だという気配もない。ただ、文字通り『都合がいい女』──言い訳やその場凌ぎを口にしないで済む分、一緒に居て気楽だった。珍しく一年あまりも切れることがなく続いたのは、その気楽さがあったればこそだったように思う。
ただ、彼女になんのメリットがあるのかと不思議だった。こんな関係を受け入れているくらいだから恋人はいないんだろう。だからといって性欲の解消を必要とするほどにそういう行為を好んでいるようにも感じない。何がよくて続けているのか知れない関係だったから、突然の終わりも驚きはあったが、するりと納得のいくことだった。
婚活などという理由は気を惹くための口実だったのではとよぎりもしたが、ラインひとつないあたり、正真正銘終わりの宣言だったんだろう。
あの気楽さを惜しみつつ、かといってこちらから連絡をとるほどの執着もない。そういう存在だった。あんな風に張り詰めきった今にも泣き出しそうな顔で出会わなければ、このまま過去へと埋もれて消えていくはずだったのだ。
日付が変わるまであと一時間半。彼女は一向に起きる気配がない。
いつもの部屋でなく、手近なホテルにしておいてよかった。なんなら金だけ払って、このままここに置いていけばいい。
腕の中で子どものように泣きじゃくっていた姿を思い返しながら、煙草を灰皿へと押しつける。
元々表情が豊かという印象はない。かといって、無表情というわけでもない。その程度にしか考えていなかった相手があんなにも感情を顕わに頼りなく泣く姿というのは案外インパクトがあったらしい。いつもならばとっくに着替えて放り出して帰っただろうに、今はひとり残して行くことをつい迷う。
一度声くらいは掛けておくか。そう決めて、眠る彼女の髪に手を伸ばしかけた途端、スマホがけたたましく音をたてた。
「どうした? ……いや、大丈夫だ。ふっ、あのプリンか? わかったわかった。すぐに帰る」
ほんの先程まであったはずの迷いは霧散して、俺は急いで部屋を後にした。