confidential

 
『今日はたぶん夜まで戻れない』
 
 
そう言って出て行ったはずの彼の声。
肩越しにそっと振り返ると水際には、思った通りの人物が立っていた。
「ヒ、ヒノエくん。ずいぶん早かったね」
「まぁね。花の笑顔に出迎えてもらうつもりが、書き置きひとつで出掛けたっていうから探し回ってみれば…」
「素直に、心配したんだ、無事でよかった、と言ったらどうですか?」
くすくすと笑いながら、ヒナはさも楽しそうに目を細めた。
「楽しそうじゃねぇか、おい。頭領に仕事を押しつけるとはいいご身分だよな?」
「人聞きが悪いですね。あの方をこんななりでお送りしてきたのですから、このくらいの息抜きは目を瞑って頂きたいものですね」
「他の女ならいくらでも。そいつはオレのだからダメ」
親しげに言葉を交わす様子に、ふたりの顔を交互に見やった望美は、会話の切れ目にそっと割り込むように言葉を発した。
「ふたりとも…知り合いだったの?」
その言葉に、一瞬驚いたように目を瞠り、すぐに視線を投げたヒノエは面白そうに自分を見ているヒナと目があった。
どうやら望美には、なにも言っていないらしいと得心して。
「望美…まさかそいつのこと…オンナって思ってる、とか?」
「なに言って…」
背は私よりも高いけど。
声は確かに少しハスキーだけど。
………。
どこからどう見ても綺麗な女の人なのに?
「申し訳ありません。誤解しているだろうとは思ったのですが…」
苦笑して、すまなさそうに言うヒナを、信じられないと凝視する望美に
「男だよ。正真正銘、男」
ヒノエが、最後のとどめとばかりに声をかける。
 
 
おとこ。
 
男。
 
男!?
 
 
ようやく状況を把握した彼女は、はだけてはいなかった襟元を咄嗟に押さえて飛び退いた。
否。飛び退こうとして足を滑らせ、本日2度目の撃沈となった。
 
 
もがいて引き上げられれば、片方の手をヒナが、もう片方の手を、先ほどまで水際にいたヒノエが持っていた。
「大丈夫かい?姫君」
「私がここにいるものを、あなたまで水に飛び込む必要はないでしょうに」
彼女…もとい彼はなかば呆れたように言って、望美の手を離した。
「あいにくと。姫君を助けるのは、オレの役目と決まってるんでね」
ヒナは、当然だろうという表情の頭領を揶揄するように見つめる。
「ふふ、あなたの慌てた表情が見られただけよしとしましょうか。では私は戻ります。神子姫さま、また日を改めてご挨拶にお伺いしますね」
「え…はい。ありがとうございました」
なにがなにやらわからないままに、ぺこりと頭を下げた望美は、水を含んだ着物を重そうにしながら岸へと上るヒナを見送った。
「うちに寄って着替えてけよ。紅くらい落とさなきゃ、また野郎が寄ってくるぜ?」
ヒノエが声をかけると、
「姫君も、ですけどね。お言葉に甘えてそうしますよ。ごゆっくり」
楽しそうな声音のヒナはひらひらと手をふって去っていった。
 
ふたり無言のまま、しばしそれを見送って。
「さてと。それで?あられもない姿でオレの姫君はなにをしてたんだい?」
気まずそうにしている望美に、問いかける。
「えーと…水遊び?」
彼が夜まで帰ってこないと思ったからこそ、望美はこんななりでここにいるのだ。屋敷の者には口止めをすればいいし、帰って湯浴みをすれば髪が乾いていなくたってヒノエにバレることはない。そんな心づもりでいたものを。
この状況では、既になにもかもがぶち壊しだった。
「水遊び、ねぇ…」
「火、火遊びよりいいでしょっ」
なかば開き直って、強気な口をきいてみる。
「言うねぇ、姫君。で?ここに来たのがあいつじゃなくて、他の野郎だったら、オレのお姫様はどうしてたのかな?」
軽い調子で訊きながら。その瞳はまったく笑っていなかった。
 
たった1人丸腰で出掛けたと聞けば、ヒノエでなくとも心配する。
たまたま早く帰ってきた彼は、屋敷の者に話を聞いて、すぐに望美を探し始めた。そう遠くに行くはずもないのに、およその場所は探したが見つからないという。
ならばここならば、望美は入ってこられるに違いないと探しに来てみたのだ。
 
「………ごめんなさい」
 
八葉として常に共にいた時ならばいざしらず、熊野別当としては四六時中彼女の傍にいることなどできない。
もちろん、まだここの生活に慣れたとは言い難い望美が、外に出て歩きたい気持ちも十分わかっている。
だからこそ。
「ま、こんなひと気のない場所に来たいときにはさ。オレを誘ってくれると、嬉しいかな」
せめて誰かを連れて行け、というのが彼なりの譲歩。
 
上目遣いにヒノエを見れば、濡れた前髪をかきあげながら、仕方ないなという表情で。
望美はもう一度、ごめんねと呟いた。
 
 
 
 
「なるほどね…」
実は泳げないのだと告白した望美に、てっきり笑うかと思ったヒノエはようやくわかったとひとり頷いた。
「オレの耳に入らないと思った?美しい神子姫さまが舞を披露して、引き替えに海女の着物を貰っていったってね。内緒で練習するつもりだったんだろ?」
もうこうなったら隠しようもない。恥ずかしさを堪えて「そうだよ」と肯定した。
「誰かに教えてもらおうかと思ったけど、まさか水軍の頭領の奥さんがカナヅチです、なんて誰にも言えないし」
「誰かにじゃなくて、なんでオレに言わないかな、姫君は…。まぁいいや、とりあえず浮いてみなよ?」
とりあえず浮けるくらいなら、私は今頃カナヅチではありませんと。
言ってやりたい気持ちをグッと堪えていると、それを見透かしたようにヒノエはひょいと望美を横抱きにした。
「なになにっ、ちょっと待って!」
「まぁオレに任せてよ」
わたわたする望美に、ヒノエは自信満々の表情で。
そういえば、こんな表情はもう幾度も目にしていて。
今まで期待は1度だって裏切られたことはないから。
望美は、ふっと体の力を抜いた。
「そうそう、そのままな?」
ゆっくりと水面に横たえるように、ヒノエは望美を降ろす。
首と腰に手を添えてやると、なすがままの彼女は難なく水に浮いた。
「……浮いて…る?」
「力抜いてりゃ、人間浮くように出来てるんだよ。ましてや羽のように軽いオレの姫君が、浮かないはずがないだろ?」
水にたゆたう感覚は、思いのほか心地よかった。
目を閉じて、つかのまその感覚を楽しんだ望美が再び目を開けると、得意げに覗き込むヒノエがいた。
「どう?姫君。泳げそうな気がしてきたろ?」
「ふふ、そうだね。ヒノエくんとなら、なんでもできそうな気がするよ」
無防備なその言葉と笑顔に思わずくらりとして。
ヒノエは望美の口唇を、自分のそれで塞いでしまう。
途端に身をこわばらせて、水に沈みそうになる彼女をしっかりと抱き留めると、深く深く口づける。
不安定な場所で、ろくに抵抗出来ない望美が、もう一度くたりと力を抜くまで、それは続いた。
そっと口唇を離すと、ようやく満足に空気がすえたと言わんばかりに呼吸して、ヒノエにつかまりながらどうにか立っている。
「もぉ!溺れるかと思ったでしょっ」
少しも迫力がない潤んだ瞳で見上げてくる彼女は、やっぱり今日も可愛かった。
 
 
「たまにはイイじゃん。オレはいつもお前に溺れてるんだからさ」
さも楽しそうに笑うから、そんな笑顔にすら、思わず見惚れてしまう自分が望美はとても悔しくて。
 
─── 私も、そうだよ
 
なんて、絶対絶対言ってあげない、と強く心に誓うのだった。

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