confidential

 
初夏の風がさわさわと頬を撫でていく。
水辺に座った望美は膝から下を水の中に浸しながら、全開の笑顔で告げられた彼の言葉を反芻した。
 
─── 夏になったら、とっておきの場所に連れてってやるよ。
 
季節は着々と夏に向かっている。
彼女が今、深刻な表情でこんな所にいるのはそれが理由。
 
─── お前もきっと気に入るよ。泳ぐにはサイコーなんだ。
 
 
やはり誰かに教えてくださいとお願いすべきだったろうか。
 
そう思いかけて、いやいやダメだと思い直す。
 
言えない。いくらなんでも言えない。それは絶対に恥ずかしすぎるから。
 
海の上を自由に駆ける男の ─── しかも三山とその水軍を統べる別当の妻が実はカナヅチなどと、いったい誰に言えようか。
 
 
 
 
 
池というには大きく、かといって湖というほど広くもないそこは、つい最近の散歩で見つけた場所だった。
森の中は鬱蒼としていて、木漏れ日だけではやはりどこか暗い。
なのにこの水辺は、上空を木々が覆っていないおかげでひときわ明るく光が射し込み、離れた場所からでも目をひいた。
底まで澄んだ水に誘われるように手を浸すと、意外にもそれほど冷たくはない。
日の光に温められたのかとも思ったが、魚1匹泳いでいないうえに、水のやわらかな感触は温泉のそれによく似ている。
すごくぬるい温泉というか湧き水みたいなものだと、望美はひとり結論づけた。
 
 
 
光をキラキラと反射させる水面に目を細め、鳥の声に誘われて見上げれば、樹木の緑に縁取られた丸い青空に太陽がのぞいていた。
「夏は嫌いじゃないんだけどね…」
ため息混じりに言って、ぱしゃりと水を蹴飛ばしてみる。
彼女の後ろには、ここまで上に着てきた着物が綺麗に畳まれていた。
では今はいったい何を身につけているかといえば、海女装束だ。
膝丈ほどしかない小袖のようなもので、本来海に潜る海女が身につけるため、袖もそれほど幅がない。いうなれば、かなりゆったりした長袖のシャツといったところだろうか。
本当ならそれを1枚着て腰ひもでとめるのだが、なんとなく心もとなくて望美は2枚重ねて着ていた。
水着のないこの世界での、望美なりの苦肉の策である。
「浮き輪…せめてビート板があればなぁ…」
 
─── 夏までにどうにか泳げるようになりたい。
 
運動神経は悪くない望美だが、プールの授業だけは憂鬱でしかたなかった。
子供の頃、川に落ちたのが影響しているらしく、そこそこ深さのある水ともなると怖いのだ。
ここまで泳げずにきたものが、急にすいすい泳げるようになるとも思えないが、せめてカナヅチからは脱しておきたい。
そう思って練習場所を探していた彼女にとって、ここは理想的な場所だった。
泳げるほど深い川では流されそうで心配だし、かといって海では人目があり過ぎる。そもそもまだ泳ぐような季節ではない。
その点ここは屋敷からもそう遠くないわりに、道を少し入った場所のせいか人はこない。水も冷たくないし、落ちていた木で深さをみてみたが、せいぜい胸の高さくらいだろう。
海女から衣をわけてもらい、ヒノエが1日中帰らない日を狙い、準備万端で臨んだのだ。
 
「迷ってる場合じゃないな。よし!」
両手で、えいっとばかりに地面を押して水に入ろうとしたのと、
「待ちなさいっ!」
背後から声がかかったのはほぼ同時のことで。
「え?…きゃっ!」
つい振り向いた望美は、バランスを崩して水に沈んでしまった。
落ち着けば足がつく深さでも、慌てる者はそれにすら気づけない。
必死でもがく手がふいに握られ、水上へと引き上げられる。
「落ち着いて。大丈夫ですか?」
ゴホゴホと咳き込みながら、声の主を見上げると、ずぶ濡れの女性の心配そうな表情が目に入った。
どうやら自分の為に、水に飛び込んでくれたらしい。
「すみません…ありがとうございます…」
どうにか呼吸を整えた望美はようやくお礼を口にした。
白い肌に薄くさした紅がよく映えている。切れ長の瞳が印象的な美人である。
「いえ、私が急に声をかけてしまい驚かせてしまいましたね。申し訳ありません」
確かにその通りではあったが、そうですねとも言えず望美は曖昧に笑って応えた。
「あの…失礼ですが、こちらでなにをなさっておいでですか?入水かと慌ててしまいましたが、どうもそういったことではないご様子…」
 
通りかかってみれば、髪を後ろにひとつで束ね、綺麗に編んである女性が目に入った。場所が場所だけに様子を窺っていると、水辺に座ったまま、なにやらブツブツと考えこんでいる様子である。
と、突然決意したように水に入ろうとする。これは入水に違いないと慌てて呼び止めたのだ。
けれどどうだろう。引き上げてみれば、入水どころか生命力に溢れたという形容がぴったりの少女である。
 
「入水!?いえいえ!私、ちょっと泳ごうと思っただけで…」
「泳ぐ?ここで…ですか?」
己の早とちりにようやく気づき、苦笑を漏らすしかない。
それにしても。
少女の身につけているものは海女のものだ。なぜわざわざ貝のひとつも採れないこのような場所で泳がねばならないのか。
熊野は参拝だ、修行だと人の出入りが激しい土地ではあるが、それらで訪れた者がこのような場所で泳ぐはずもない。
「はい…」
「ここが、どういった場所かはご存じですか?」
知らないだろうと思いながらも尋ねてみる。
自分の知る限りでは、このあたりに住まう者ではないはずだ。
着ているものは粗末だが、水辺にたたんで置いてある衣は、一目で上等な物だとわかる。いったい何者なのだろうと不審に思いながら、それを表情にだすことなく彼女を見つめていた。
「いえ…。つい最近散歩していたらたまたま見つけて…。もしかして、ここ、泳いじゃいけない場所でしたか?」
このあたりには幾重にも結界がはってあり、そうそう入ってこられる場所ではない。もしも本当に『たまたま見つけた』のならば、感嘆に値することだ。
「いけないというわけでは…。あなたがここに入ってこられたのなら、ここに入る資格があるという権現さまの思し召しでしょう」
その言葉に、ここが神域の類であると気付いたらしい少女は、反省の色を浮かべる。
「すみません…。あの…着物もごめんなさい。名前をお伺いしてもいいですか?」
心底申し訳なさそうにあやまる少女に、よからぬことを企んでいる気配を感じられず、張りつめたものを少しだけゆるめて答えた。
「………。ヒナと申します。ああ、でもどうかお気になさらずに。あなたさまの責任ではありませんから」
「でも、私のせいで濡れちゃって…。あ、私、望美っていいます…」
「のぞみ…さん?そうですか…望美さん…」
ヒナはその名前にひとりだけ心当たりがあった。
「……?あの…」
なるほど、彼女ならばここに入ってくるのは容易いことだったろう。それこそ、そうと知らずにここにたどり着いたに違いない。
「こちらにはひとりでおいでですか?」
見たところ周囲に従者の気配がない。気配もなにも、誰かいたならば彼女が水に落ちた時点で飛び出して来そうなものだ。
「……はい。家が近くなものですから」
やはり、と確信する。
ならば屋敷まで送り届けたほうがいいだろうか。
しかし噂に聞く彼女であれば、きっとまたここに1人で来てしまうに違いない。
 
こうと決めたら、やり抜く女だからね。
 
自慢げな声音が思い出される。
 
「そうですか…。あの…泳ぐにしても、このような場所で先ほどのようなことがあっては大変でしょう。これも何かの縁。少しだけおつきあいしようと思いますが、いかがでしょうか?」
ヒナはにっこりと微笑んで、そう提案した。
 
 
 
 
「ええ、そうです。そのまま力を抜けばいいんですよ」
 
これでもかと精一杯辞退したはずなのに、気付けば望美はヒナから泳ぎの手ほどきを受けていた。
 
『ここは案外深い穴がいくつかあいているんですよ』とか、『どうせもう着物は濡れてしまいましたし』とか。
何を言っても柔らかに返されるうちに、ついに泳げないことを白状してしまったのだ。
 
ヒナに手を持ってもらい、どうにか浮こうと試みても先ほど溺れかけたばかりのせいか力を抜くということがうまくいかない。力を抜かなければ、体は水に沈むばかりで、ゆえに一向に進歩がない。
「そろそろお疲れではないですか?今日のところはきりあげませんか?」
まだそれほど疲れてはいなかった。とはいえ、いつまでもつきあわせては申し訳ない。
そうですね、と言おうとした背中に
「ふーん…。オレに隠れて逢い引き?それはないんじゃない?姫君」
よく知る声がかかった。

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