水晶森の咎人 第2章  甘くて苦い想い出 3

オリジナル, 水晶森の咎人

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 裏庭で洗濯物を干していたフィラは、さえずりに誘われるようにその手を止めて空を見上げた。すべてを包み込むような穏やかな青空を小鳥が数羽、戯れるように飛んでいく。
 ここの来る以前──ほんの七日前まで、空は近く、木々の緑は眩しいほどに遠かった。こんな風に草を踏みしめ空を見上げる己は想像の中にしかいなかったから、今が現実なのかとふと心配になる。すべては夢で、目を覚ませばいつものように薄暗いあの部屋で、自分はやっぱりひとりぼっちのままなのではないか。目を合わせようとすらしない者たちが時折出入りするだけの寂しい場所で、なにもすることのない一日を始めるのではないか、と。
 己の手をぎゅっと握ってみる。確かな感触がある。
 大丈夫。これは夢なんかじゃない。
 俯いて小さく息を吐いたフィラは、顔を上げると洗いたてのシーツを勢いよく木の間に渡らせたロープにひっかけた。背伸びしながらシーツの皺をのばしていると、あの日打ちつけた肩だけでなく、腕や足に鈍い痛みを感じる。まだわずかに痛みは残っているらしい。
(筋肉痛って、長引くものなのねぇ)
 慣れない作業が新たな痛みを生んでいるなどと考えもしない少女は、そんなことを思いながら鈍く痛む二の腕をそっと撫でた。
 魔女の家に来た最初の日の夜。熱を出したフィラは、倦怠感だけでなく体のあちこちが訴える痛みに、なにか重篤な病にでもかかったのかと怯えた。
 そんなフィラに、痛みの正体が打身と筋肉痛だろうと教えてくれたのはソルだ。「筋肉痛とはどんな病気なんですか?」と恐るおそる尋ねると、呆れが滲む苦笑を浮かべながら「病気じゃないことは保証するよ。だから安心しな」と軽い調子で言いながら胡桃色の髪を柔らかに撫でてくれた。指先が軽く髪をすきながら離れていく感触に、不思議と心が凪ぐ。とても懐かしい感触だと思いながら目を閉じた途端眠りに落ちて、気付けば朝の光がカーテンの隙間から射し込んでいた。
 ソルは、ことあるごとにフィラの頭を撫でる。それは少女をこそばゆい心地にさせたけれど、同時に子供扱いをされているようでわずかばかりの反発心も覚える。もう少し年相応に接して欲しいと考えたものの、肝心の『年相応』というのものがどんな扱いすらよくわからないことに気付き、フィラは再びため息を落とした。
 知っていることは、きっとあまりにも少ない。
 髪を売ってお金を得ることができるということも、つい最近知ったことのひとつだ。思いつきで切り落とした髪は、ソルによってお金に換えられ、その金で着替えの服と小さな瓶詰めのドロップを得ることが出来たのだ。
「知らないことばっかり……」
 呟きながら、もう一枚のシーツを籠から拾い上げる。
 魔女の不在を告げたソルに「なんでもしますからここに置いてください」と頭を下げたのはフィラだ。それなのに、役に立つどころかソルの手間を増やしてばかりいる。
 最初の失敗は掃除だった。掃除は幾度も見たことがあったから、簡単に出来るものと引き受けたフィラは、手始めに床に幾度も水をまいた。
 掃除にやってくる女たちは床に置いてあるものをどかして、いつも真っ先にそうしていた。その後にブラシで磨き、仕上げとばかりにもう一度水で流していたのだ。フィラはいつもその様をぼんやりとベッドの上で膝を抱えて眺めていた。
 思うさま部屋中に水をまいたフィラは、ソルが貸してくれた掃除用具の中にブラシを探す。しかし、彼女の知るブラシはなく、仕方なくブラシとは少し形が違うもの──ほうきと呼ばれる物だと後から聞いた──それで床をこすり始めた。けれど、いくらこすっていても水は減らず、ただほうきの先がぼろぼろになっていくばかりだ。
 フィラがかつていた部屋では、水はいつの間にかどこかに吸い込まれるように消えて床は乾いていったのに、どうもそうならない。
 あの部屋は石の床で、ここは木の床だからだろうかと首を傾げながら、仕方なく雑巾で床を拭き始めたフィラだったが、存分にまき散らした水は拭けども拭けどもきりがなく、様子を見に来たソルを絶句させた。
 次の大きな失敗といえば、食事の支度だ。シチューを煮込んでいた時、庭にハーブを摘みに行ったソルに火を見ているように言われた。竈の中では炭が赤く燃えこそすれ、上に組まれた薪が燃え尽きていくとともに、その炎はどんどん小さく頼りなくなっていく。番を頼まれたからには消してはいけないと、慌てて薪をどんどん足していったら景気よく燃え上がり、鍋がふきこぼれるころには火柱があがり、丸ごと焦がす羽目になった。
 ソルのお陰で事なきを得たものの、火を消し終えた彼は「家ごと燃やす気?」と盛大に呆れていた。
 失敗は小さなものを含めれば、両手の指でも既にたりないほどだ。このままでは魔女が帰ってくるより先に、彼の我慢の限界を超えてしまうのではないだろうか。
 魔女は、いつ帰ってくるかわからないのだという。ソルは「帰ってこないかもしれないよ」と言っていたけれど、弟子である彼がここで留守を守っているのだから、きっといつかは帰ってくるに違いない。
 そもそもソルは自身の身の上を棚に上げ、魔法使いに弟子入りすることそのものに反対らしい。「魔法使いなんて、それしか出来ない奴がすることだ」というのが彼の持論のようだった。
 もっともフィラは魔法使いになることなど望んでいない。ただ、『水晶森の魔女』に会って願いを聞いて貰いたいだけなのだ。少女が知る限り、この願いを叶えてくれる者は『水晶森の魔女』しかいない。問題は、その魔女が帰ってくるまでにここを放り出されてしまうのではないかということと、日々の生活が楽しくて、このまま魔女が帰って来なければいいのにと思い始めていることだった。
 朝起きて、その日にやるべきことがある。たったそれだけのことが、フィラには楽しくて仕方なかった。ベッドを抜け出して、身支度を整えて部屋を出る。そうして顔を合わせれば、朝の挨拶をする相手がいる。それがただ幸せだった。
 もう信じてはいないはずの、マサルサスを思う。これが魔女が帰ってくるまでの限定された時間だったとしても、その幸せを与えてくれた神に感謝しそうになる。
(神様なんて、いないのに)
 手の中の洗濯物を知らず握りしめた少女は、足にかかる生温かい風に驚いて我に返った。いつの間にか足下までやって来た葦毛の小馬は、どけと言わんばかりにスカートに隠れた足をその鼻面で押してくる。よろけるように退くと、彼は先ほどまでフィラが立っていた辺りの草を悠々と食べ始めた。
「ここはダメよ」
 小馬の不興を買わないようにそっと手を伸べ、少し硬いたてがみを遠慮がちに撫でる。
「ここは、洗濯を干しているでしょう?」
 この馬がロープの下に陣取っていては残りの洗濯物を干すことも出来ないし、なにかの拍子に干したものを落とされてまた洗う羽目にでもなれば、朝からの奮闘が無駄になるというものだ。
「ね、あっちの草にしてくれないかしら?」
 語りかけながら、少し離れた場所で同じように草を食むソルの馬を指す。
 口をもぐもぐと動かしながらも頭を上げた小馬は、アーモンド型の瞳をひとつまたたかせて、不服そうに鼻息を吐くと、赤毛の馬の方へと移動してくれた。
「ありがと」
 初日に少女を振り落として駆け去ったこの馬を、ソルは人の言葉を解す賢い馬だと評していた。確かにこんな風に、まるでフィラが伝えたことがわかっているように動く様は、とても賢い振る舞いだ。ならばせめてあの時、振り落とすことなく、連れて逃げてくれればよかったのにとも思うのだけれど。
 そう、あの日。男たちに取り囲まれた時、自分は死ぬのだろうと思った。
 フィランゼア様──とあの男は言った。それはもう何年も前に死んだ少女の名だ。
 あの日見下ろした葬送の列は、今も脳裏に焼き付いている。長く伸びた葬列の中で、ひときわ小さな棺。あれがきっとフィランゼアの棺だったのだろう。
 男は知っていたのだろうか。知っていて、裁きにきたのだろうか。
「罰なら、ちゃんと受けるわ」
 震える声で呟いた少女の耳に「フィラー!」と呼ぶ声が届く。家の中から響くそれに意識を向けた途端、ソルが窓から顔を覗かせた。
「終わったかい?」
「あと少しです」
「そう。じゃあ終わったらおいで。昼にするよ」
「はい」
 少女は慌てて残りの洗濯物を広げ始めた。
 
 
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