「汲まぬのかの」
背後からの涼やかな声に振り返ると、みおの身長ほどの高さもある大きな岩の上に童男が腰掛けていた。みおと同じくらいのそろそろ童を抜け出す頃合いの年齢に違いない。
白い単の着物を身につけ、その肌もひどく青白い。それでもその大きな目には生気があふれ、幽霊には見えない。かといって、白銀の髪を肩に垂らし、深い水底のような色をした目は人間のそれにも見えない。
ほんの先ほどまで、ここにはみおしかいなかった。ただ蝉の声が降り響くばかりだった場所のはずなのに、いつのまに現れたのだろうか。
(とうとう迎えに来たのかな)
みおは声もたてずに、童男の姿をじっと見つめた。
そんな少女を不思議そうに見つめた童は、己の背後を振り返ると、再びこちらに視線を戻して首を傾げる。
「珍妙な童じゃ。なにを見ておるのやら」
「なに、って……他にもまだ何かいるの?」
みおは慌てて伸び上がり彼の背後に目をこらしたが、岩の後ろには大きな木があり、その向こうには古びた社と鳥居があるだけだった。
「まさか、見えるのか? 我が見えているのか?」
「あなた……だれ?」
「ほぉ、見えるのか」
問いには答えぬままに、指先で顎をひと撫でした童は、座ったまま面白そうにこちらを見ている。
「私は、みお。あなたは?」
「我は我じゃ。おまえに聞かせる名なぞないわ」
胸を張って尊大に答える童を見つめ、しばし考える。
名なぞない。
それは誰にも名前をつけて貰っていないということだろうか。もしかしたらこの童のような妖も、自分と同じくひとりぼっちなのだろうか。
肩をそびやかす姿を哀れむように見つめ「名前がないの?」と重ねて問えば、彼は心外だと言わんばかりに目を吊り上げた。
「ないのではない! そなたに教える気はないと言っておるのだ!」
「あぁ、よかった。名前はあるんだね。私を、迎えに来たの?」
「なんで我がおまえなぞ迎えにくる必要があるのだ」
「違うなら、いいの」
ホッとしながら微笑んだみおは、桶を胸に抱いたまま再び泉に向き直った。
妖だかなんだかわからないけれど、どうやら自分を連れ去りに来たものでないなら問題ない。そんなことよりも、早く水を汲んで帰らなくてはならない。何往復かしなければ、家の水瓶は到底いっぱいにはならないだろう。
意を決して泉のふちに立ってはみたが、及び腰で覗き込む水面は深く澄んで底が見えない。震えそうになる指先を握りこんで深呼吸してみるが、そこに跪くのすら怖かった。
「なにを突っ立っておる。水を汲みに来たのではないのか?」
「うん。……ねぇ、この泉は深い?」
「深いもなにも、これに底などないわ」
「えっ? そんなに深いの?」
「入水ならやめておけ。ここは社の内。神域で入水など、罰当たりなことこの上ない」
「ち、違うよっ。そんなことしない」
「ならばとっとと水を汲んで去ね」
そうしたいのはやまやまだったが、底がないと聞けばますます怖い。これならば川で汲む方がまだよかっただろうか。しかし、川を見ただけで足がすくむのに、そこに近づいて水を汲むというのはやはり無理に違いない。
(どうしよう……)
立ち尽くしたみおを不審に思ったのだろう。童は「どうした?」と尋ねてきた。その顔をじっと見つめて数瞬。
「あの……ちょっとこっち来て」
少女は、思い切って童を手招きする。
何事かと目を眇めた彼は、地面にふわりと飛び降りた。その音も重さも感じない様に、やはりこれは人ではないのだろうと思ったが不思議と恐怖は感じない。 それは童の姿に似合わぬ尊大な口調が滑稽だったからかもしれないし、やんちゃそうな瞳が生き生きとして見えたせいかもしれない。
だからみおは躊躇うことなく、地面に降り立った童男に手を伸ばし、その掌をきゅっと握った。しかし、ひんやりとした柔らかさを感じた途端、その手は素早く振り払われた。
「なんだ!?」
「あの、お願い。手を繋いでいて」
「なんで我がっ」
「だって。水に落っこちたらどうするの?」
「知るか。だいたい水汲みくらいで落ちるわけなかろう」
「わからないもん。落っこちて沈んだらどうするの?」
「落ちないと言っている。だいたい落ちたら、泳いですぐにあがればよかろう」
「……」
「……なんじゃ?」
「……化けて出てやる」
「なっ──」
「……」
「~~~」
恨みがましい少女の視線に根負けするようにひとつ舌打ちすると、彼は仕方なさそうに手を差し出した。少しめくれた袖からのぞいた腕には、鱗が並んでいる。やはり童男は人外なのだ。
目を瞠った少女に溜息をついた童は、再び手を引っ込めてしまった。
「気味が悪かろ。だから手など繋がず……」
「きれい」
「は?」
「虹色に光ってる。きれいね」
思ったままを口にしたみおは、引っ込められた彼の手に手を伸ばす。冷たい掌は、今度は拒むことなく握り返された。
* * * *
「暑い……」
この村に来てから、2度目の夏だ。
着ている麻の着物は所々擦り切れて、少女が着るには少々小さくなってはきたが、居候の身の上で新しい着物をねだれるはずもない。けれども今は、その丈や裄の短さが有り難く思えた。
畑の手伝いを終えて、いつものように古びた社にやって来たみおは、己の顔を手で仰ぎながら泉の近くの大きな岩に寄りかかって腰を下ろす。
背に伝わる岩の冷たさは心地よかったが、炎天下のなか丘を上がってくる間に吹き出た汗はぽたりぽたりと地面に落ちる。木立のなかの水辺とくれば畑などより遙かに涼しいけれど、それでも止まらない汗を袖で拭ったみおは、再び「暑い」と口にした。
「暑いの寒いのと、人の子はほんにうるさい。夏が暑くなくてどうする」
突然目の前に童男が涌いて出た。深い水底のように青い瞳をこちらに向ける姿に驚くこともなく、みおは「だって暑いものは暑いんだもん」と唇を尖らせる。
彼に出会ったのは、去年の夏。村に来てすぐの頃だった。
両親を亡くしたみおは、生まれ育った村を離れ、母方の縁を頼ってこの村に来た。親類である子のない夫婦は、みおの醜い姿に眉を顰めながらも身を寄せることを許してくれた。
少女は顔立ちだけいえば、けして醜女ではない。目はくりりと丸く愛嬌があったし、ふっくらとした薄紅色の唇は童を抜け出しつつある娘らしい愛らしさがあった。けれど、右目の周り、顔の半分を覆うほどの大きな紫のアザが蝶の姿で張り付いていた。
人々はそのアザを薄気味がって『鬼子の印』とひそやかに、けれど少女の耳にも入るほどの無遠慮さで囁きあっていた。
『本当は鬼の子に違いない』
『いつか妖が迎えにくる印だ』
心ない言葉に傷ついて泣くたびに、抱き締めて頭を撫でてくれた両親はもういない。
まだひとりで生きていくことが出来ない以上、誰かの庇護の下に入るしかないのだということは子供心に理解できた。醜いアザはどうしようもないが、少しでも役にたたなくては、いつ夫婦の気が変わり追い出されるか知れない。
(役にたたなくちゃ)
その一心で、村に着いて早々手伝いを申し出たみおは、水汲みを言いつかった。
小さな村のたったひとつの井戸は、前年に枯れてしまったのだという。田畑には川から水路をひいているが、日常使う水は川か社の泉で汲むと教えられたみおは、家にほど近い川を避け、小さな丘の上にある社を訪れた。
今は神主もいないという社は、鳥居と小さなお堂があるだけの小じんまりとしたもので、朽ちかけた縁がいかにも落ちぶれた風情だ。参る人の姿もないそこは、ただうるさいほどに鳴き立てる蝉の声が響いていた。
その小さな社の奥。泉のそばに、彼がいた。
左隣に腰を下ろした童男の手を取り、そっと握って引き寄せ、己の頬にあてがう。
「冷たくて気持ちいい」と笑えば、彼の口からはただ呆れたような溜息だけがこぼれた。
袖の中にのぞく虹色の鱗を見つめるみおに、「そこまで暑いなら、泉にでもつかればよい」と言いながら童はやんわりと少女の手をほどいた。
「確かに暑いけど、底なしの泉なんておっかなくて入れないよ」
「ならば、村の子らと川の浅瀬で遊べばよい」
「川は、嫌い」
「嫌い、か。みおはいつ見てもひとりでおるの。川でなくとも、皆と遊んでいるところを見たことがない」
「……? いつも見てるの?」
童とは2日とあけず会ってはいるが、それはみおがここにやって来るからだ。ここ以外では姿を見たことなどなかったから、てっきり彼はここ以外には出歩けないものだと思っていたみおは、意外な気持ちでその横顔を見つめた。
「た、たまたまじゃ! 我が村を散歩していたらたまたまよく見かけるのじゃ」
「ここ以外で会ったことないよ?」
「見えないようにしておるのじゃ!」
「なんで? 見かけたなら声をかけてくれればいいのに」
「考えてもみよ。おまえが我と話をしているのを見られても、村の者には我の姿は見えぬ。気味悪く思われようが」
どういうワケか、童の姿はみおにしか見えない。
見えてよかったと心から思う。1年を経て、いまだ村に親しく話す者もいない少女にとって、この童は本当に貴重な話し相手なのだ。
「そんなの……話しかけてくれていいのに」
「だからそれではお前が気味悪く──」
「もう、気味悪がられてるよ」
胸が痛む筈の台詞を、からりと笑って伝えられた。
痛まないわけではない。けれどもうそんな痛みにはすっかり慣れてしまうほどに、物心ついた時からずっと周囲が自分を見る目は忌み子に向けるそれだった。
「ほら、私、鬼の子だから」
「ふん。そういえば、村の者もそのようなことを言っておったの。おまえのどこが鬼子だというのじゃ」
「違うの?」
「おまえごときが鬼子なものか。人間ふぜいが図々しい」
「だって」
「なんじゃ?」
「これは、このアザは鬼の印でしょう?」
「その蝶のことか? そんなものが鬼子の印だなど、聞いたこともないわ」
「本当に? だったら。……だったらなんで父さまと母さまだけ連れて行かれたの? 一緒に流されたのに、私だけ……なんで川の神様は、私だけ連れて行かなかったの?」
降りやまぬ雨は、あの日みおの村の川を溢れさせ、その濁流は多くの家を押し流した。
流された者は皆命を落としたが、少女だけは木の梢に帯がひっかかり流されることなく生き延びた。そうして難を逃れた村人は『やはり』と気味悪そうに言ったのだ。『鬼子は殺しても死なぬようだ』と。
鼻の奥がツンとする。喉の奥にせりあがってくる熱いものを必死で堪えながら絞り出した問いに、けれど童は答えなかった。
こんなことを訊かれても困るだろう。鬼の子の印でないと妖である童が言ってくれるなら、きっと間違いないのだ。自分はちゃんと人の子だ。それがわかっただけよかった。
そんな風に俯いたまま必死で己を宥めていると、そっと頭が撫でられた。
「そのようなこと、知るわけなかろう」
優しく撫でる感触に反して、童の台詞はひどく素っ気ない。
「みおはまだ寿命があったのじゃろ。そうでなければ、水神の気まぐれじゃ」
「気まぐれ?」
神様とはいえ、そんないい加減なもので人の命は左右されるのだろうか。気まぐれで、父も母も命を奪われたのだろうか。
納得がいかず顔をあげると、瞳に溜まっていた涙が零れたがそんなものには構う気にもなれなかった。
「気まぐれで父さまも母さまも死んだの? 村の人もいっぱい死んで、全部ぜんぶ流されて、そんなのってない!」
「……。みお、夏は暑いの」
「今はそんな話をしてるんじゃ──」
「夏は暑い。冬は寒い。日が照れば渇き、雨が降れば潤う。それだけのことじゃ」
「意味わかんないっ」
涙の余韻に震える声で、何が言いたいのかと童を見ても、その表情からは何も読み取ることが出来ない。
深青色の目はちらとみおを見た後、梢の向こうの空へと投げられた。
「おまえは夏が暑いと言った。では涼やかな夏がいいか?」
「そりゃ……」
夏が涼しければ快適に決まっている。そう思いかけて、でも、と考える。冷たい夏は作物を育てない。雨が降りすぎるのと同じく、それは人を悲しませるだろう。
「匙加減は気まぐれでの。まあそれもまた理の内なのだろうが」
「……」
「天帝は人の子らだけの為に物事を司っているわけではない。その声を聞く道筋は残してはあるが、結局万象は理の中にある。人の生き死にも同じことじゃ」
「よく、わかんない」
てんていというのはきっととても偉い神様で、彼の気まぐれひとつで季節すら決まる。そういうことだろうか。
今、彼が伝えてくれていることは、きっと物事の本質的な話で、とても大切なことなのだろうということは漠然と感じる。けれど、やはりみおには童の言わんとすることがよくわからなかった。
自分が『人の子』だからわからないのか、それとも学がないからわからないのかはわからないけれど、ただそう答えたみおに向けられる眼差しが、少し哀しそうで、なのに慈愛に満ちていることだけはわかった。
同時に、目の前の存在は姿こそ自分とそう年の変わらない少年だが、やはりひどく隔たれた存在なのだということを感じて、とても寂しくなった。
「川が溢れたのは理の内じゃ。けれどみおが生きているのはきっと、父御と母御が守ったのじゃ。愛おしいそなたの命だけでもと願うたから、水神がおまえに情けをかけたのじゃ」
「本当?」
「……知らん。でも、きっとそうじゃ。そう思っておけばよい」
「うん」
今度は素直に頷いた。
「私がこんなだから、神様も連れていくのがヤだったんだって、ずっと思ってた」
「こんな、とは、そのアザのことか?」
こくりと頷けば、「人とはほんに不可思議なことを考える」と眉間に皺を寄せた童は、みおのアザを掌でそっと包んだ。
「これがなくなればよいのか?」
「え?」
「このアザがなくなれば、おまえは……」
「……?」
頬に感じるひんやりとした感触が徐々に熱を帯びていくのに気付き、少女は不思議な心地でその掌に自身の手を重ねて窺うように童を見つめる。
そこには、尊大さもやんちゃさもない、ただ真剣な眼差しがあった。
みおの胸は、なぜかせわしく動きだす。駆けった後のようなその鼓動の意味もわからないまま、少女はただ添えられた熱を感じていた。
ふいに熱が離れ、童の掌に重ねていた手の所在を考える間もなく、みおはそれに気づいて目を瞠る。
真っ白だった彼の掌に、蝶のアザがあった。
「──っ、それっ!?」
「面白い形をしておるものを。我は前々からこれが気に入っておった。人の世では疎ましいもののようじゃからな」
呆然としながらも、両手で己の顔を撫でてみる。なめらかな感触はいつも通りで、アザの有無などわかるはずもない。それでも、彼の掌の蝶は、ほんの先ほどまでここに留まっていたものだというのは、すとんと心に落ちて理解できた。
幾度も己の顔を撫で回す少女の頬をからかうようにひと撫でした童はひょいと身を離して岩に飛び乗り、「これは今日から我のものだ」と自身の掌を目の前にかざし、得意げに宣言した。
* * * *
「……いないの?」
この村で迎える2度目の冬。
早朝から降り出した雪が、村の景色をすっぽり白く包む中、桶を抱えて白い息を弾ませながら社に来たみおは、童の姿を探しながら声をかけてみる。
「ねえ? いないの?」
シンと静まる泉のふちには、鳥の羽ばたく音すらしない。ただ音もなく、降る雪が泉へと消えていくばかりだ。
「ねえったら!」
みおは童の名前を知らない。初めて会った時に拒まれて以来、彼の名を問うたことはなかった。
知りたいと思わないでもなかったが、童はいつだって泉のほとりに居たし、会っている間はふたりきりだったから、名前を知らなくとも不便はなかった。
けれど今、みおは猛烈に後悔していた。
(なんで名前をちゃんと訊かなかったんだろう)
この静寂の中に、呼びかける名がない。
不安に鼓動が早くなる。どこかに行ってしまったのだろうか。もう会えないのではないのか。
次々浮かぶ不安に、みおの目が潤みだす。
「出てきてったらっ!」
「うるさい! ここに居るわ」
頭上から、不機嫌な声が落ちてくる。
木の上にいたらしい童が音もなく降り立つのと、桶を放り出したみおがその首筋に腕をまわして抱きつくのとは同時のことだった。
「なっ、何事じゃ!?」
「……った」
「なんじゃ?」
「いなくなったかと、思った」
「……昼寝を、してただけじゃ」
抱きついて嗚咽を漏らすみおは、その背後に童の腕が回りかけたことに気づかない。空をさまよった手は、結局彼女に触れることすらなく降りてしまった。
「……っ、……」
「いつまでそうしておる? たいがい離れよ」
声に促されておずおずと身を離す。すると、腰に手をあてて、不機嫌そうな顔をした童がこちらを見ていた。
「泣くことはなかろうが」
「だ、だって……い、いなくなっ、なっちゃったかって」
「我がここからいなくなるのは、消えてなくなる時くらいじゃ」
消えてなくなる。
その衝撃的な言葉に、みおの涙も引っ込んだ。
「消えて……なくなる?」
「おまえが生きてるうちは平気じゃろ。この社を壊してなくすことでもない限り、そんなことも起こらぬわ」
だから泣くことなどないのだと、みおの頭を軽く撫でた童を見つめる。
出逢った時は少し上だった童の視線が、今は真正面だ。
童は、みおが生きているうちは消えないと言った。ならばどれだけ生きるのだろうか。どれだけ、生きてきたのだろうか。
訊いてみたいと思ったが、そんなことを訊いてどう思われるか心配だったし、何より人との違いを──己との違いを、今耳にしたくはなかった。
「だって……名前を知らないから」
「名前?」
「私は名前を知らないから、呼ぶことも出来ないし」
「好きに呼べばよい」
興味なさそうに視線を逸らした童は、放り出された桶を拾いに行くと、押しつけるように少女に渡す。
「そんなの。そういうのは『名前』って言わないよ」
「なるほど。『真名』か」
「まな? それがあなたの名前?」
女の子の名前にも聞こえるその響きに小首を傾げて尋ねると、童は唇の端を引き上げた。
「違う。真名のことかと言っておる。おまえの言う名前じゃな」
「真名……」
「そんなもの、天帝と……つがう手合いの者ならその相手が知っていればよいものじゃ」
天帝にはなれないけれど、つがう相手にはなれるのだろうか。そうしたら、名前を教えて貰えるのだろうか。過ぎった考えに、すぐに心の中で首を振る。それは、人である自分には到底無理なことだ。
みおはぎゅっと桶を抱きしめて「なんだ、つまらない」と殊更明るく笑って言うと、泉のほとりに膝をついた。
「この村にこれだけ雪が降るのも珍しい。こんな日くらい、川で汲んだらどうじゃ?」
「だって、雪で滑ったらどうするの?」
「泉とて同じじゃ」
「違うよ。全然違う」
「泉の方が深いのじゃぞ?」
「だって……ここならひとりじゃないもの」
ここに来れば童がいる。
村の中でも、シンとした家の中でも、たったひとりでいる時でも、本当にはひとりぼっちではない。みおにとっては、それがとても大切な支えだった。
「ここに来れば、ひとりじゃないから。だから、泉は怖くないよ」
冷えて感覚のなくなってきた両手を擦りあわせながら答えて笑うと、童はなんとも複雑そうな表情になった。
「おまえは相変わらずひとりでおるの。アザが消えたのに、なぜひとりで暮らすようにした? 人と交わるどころか、ますます離れていくばかりじゃ」
「それは……」
アザが消えたことで余計周囲との溝が深まったなどと、目の前の童に言えるはずもない。
なにかにつけて古びた社に通う少女の顔からアザが消えたことに、村人は一様に驚愕した。けれど、人々はそれを少女が社に通った御利益だとは考えなかった。
なにしろ社は、かつてこの村を襲った飢饉以来、奉り捨てられたような状態ですっかり落ちぶれていたし、参る者どころか神主すらいないのだ。希に社を訪う村 の年寄りが、誰もいない泉から大きな水音が聞こえたなどと言いたてたり、泉の近くで薪を拾っていた者が社の中から物音がするのを聞きつけたりで、この社は 化け物が住まうのではとまことしやかに囁かれていた。
そこにきて、少女のアザの消失だ。
『妖の仲間だ』
『鬼子の娘は喰われて、妖が成り代わったのではないか』
そんな憶測がまるで事実のように人々の口に上り、夏の終わり、少女はとうとう夫婦の家を出されてしまった。
表向きは、夫婦に子が出来たから。でもその実は、気味の悪いやっかい者として追い出されたにすぎない。
それでも、村を追い出されなくてよかったと、みおは胸をなで下ろした。
社の丘のすぐ近くの小屋をあてがわれたみおは、今はたったひとりで暮らしている。
「ひとりの方が、気楽なんだもの」
「そのようなことを……。人は人の世で、人と交わって生きていくものじゃ」
「……そのうちね」
童のため息の気配を感じながら、視線をはずしたまま微笑んだみおは、泉に桶を入れると水をすくいあげる。
指先に触れた水が、痛みを感じるほどに冷たい。桶を置き濡れた手を着物で拭いながら立ち上がり、指先に息を吹きかけてみたが、冷えきったそれがそう簡単にぬくもるはずもなかった。
ふと、目の前に歩み寄ってきた童がみおの両手をそっと包んだ。
みおの鼓動がとくんと跳ねる。
温度のない冷たい掌だ。それでも、それはなによりあたたかく感じる優しい手だった。
童はみおの手に布袋を押し込んで、その身を離した。
「見ているこっちが寒々しいわ。とっとと帰って、これでも食べながら火にあたれ。水が足りねば、今宵は雪で賄えばよい」
布袋の中には、栗や椎の実がいっぱいに詰まっていた。
「ありが……──くしゅっ」
「疾く帰れ。社に通う者が咳の病に罹りでもしてみろ。ますますここの評判が悪くなるわ」
「でも」
もう少し一緒にいたいのだという言葉は、思いのほか心配そうな眼差しを前に、言い出せないまま飲み下した。
「……でも、なんじゃ?」
「ううん。ありがとう。またね」
「転ぶでないぞ」
「大丈夫」
桶を手に、布袋を懐に大事に抱いたみおは、踵を返して小走りで泉を後にした。
「今更これを返したところで……」
小さな背を見送って、掌の蝶に口づける。
「……でもの先も、言ってみればよいのじゃ」
呟きは、ただ冷たい静寂へと溶けていった。
--------------------------------------------
→ 中編