水晶森の咎人 第2章  甘くて苦い想い出 2

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 階下に降りると、廊下は綺麗に磨かれていた。ドアを開けば、昨日は水浸しで足を踏み入れるのも躊躇われた床も、清潔に整っている。竈のある土間と続きの居間、そして廊下の掃除だけにしては少々時間がかかりすぎではあるけれど、昨日の惨状を考慮すれば充分及第点といえるだろう。
「うん、上出来。ありがとう」
 振り返って労えば、少女はホッと表情を緩めて頷いた。
 居間を横切り土間へと降りたソルは、竈をのぞき込みながら「今朝作ったスープとパンでいい?」と問う。しかし、背後からの応えはない。
「いい?」
 今度は振り返って問いかけるが、フィラはまるでその声が聞こえないとでもいうように、テーブルを拭いて食器を並べていた。
「……聞こえてる?」
 訝しんで、彼女の様子を注意深く見つめながら声をかけると、ようやく顔をあげて周囲を見回した少女は、こちらを向いて小首を傾げた。
「君には他に誰かいるように見えるの?」
「あ、いえ、はい、私、ですよね。えと……なんですか?」
「大丈夫? まだ具合が悪いんだったら」
「だ、大丈夫です。すみません。ちょっとぼーっとしちゃっただけで」
 顔の前で手を振る少女は血色もよく、体調がどうこうということはなさそうだ。
 フィラには、時々こういう素振りが見られた。話しかけても、まるで自分は関係ないという顔をしているのだ。もしや時々耳が聞こえなくなるのではと疑いたくなるが、どうもそういうことでもないらしい。元々こういうぼんやりしたところがある子なのかもしれないと思いながら、「お昼は今朝のスープとパンでいい?」と先ほどの問いを繰り返した。
「はい」
 頷いた少女は、スプーンやフォークを並べ始める。
 一度言ったことはそれなりに覚えるし、指示がなくともこうしてテーブルを拭いたり、必要な食器を配すことができるのだから、そこまでぼんやりした子ではないはずだ。しかし、そうかと思えば、部屋を水浸しにしてみたり、無造作に髪を切ってみたり、思いも寄らないことをしたりもする。
 よくわからない子だと思いながらひとつ息を吐いたソルは、再び竈をのぞきこんだ。今朝おこした炭が、まだわずかに生きている。一から火をおこさなくても大丈夫らしい。ソルは竈の前に跪くと、手近にあった木屑を足して呼気を送り、細目の小枝を選んでその上にくべていく。湿気っているのか思うようには燃えない枝に、ソルは再び炭の上に木屑を足した。
 ふと視線を感じて振り返ると、瑠璃色の瞳がじっとこちらを見つめている。物問いたげなその眼差しに「どうしたの?」と水を向けてやると、戸惑うように視線が泳いだ。
「なに?」
「あ、その……」
「うん?」
「魔法を、使わないんだなって」
「あぁ、なるほどね」
 本当なら師匠である魔女が不在の今、朝食を食べるよりもそのぶん寝ていたいソルだ。けれども、食事を作るどころか火をおこすことすら出来ないフィラがいる以上そんなわけにもいかず、ここ数日は日の出と共にのろのろと起き出して朝食の支度をしていた。
 その朝食の支度時。思い起こしてみれば、今朝もフィラは火をおこす様をじっと眺めていた。ような気がする。寝起きの悪いソルは、朝のうちは周りにほとんど注意を払っていないから、実のところよく覚えてはいないけれど、少女が近くで手元を覗き込んでいたような気がしないでもない。
「僕はほら、ただの弟子だから」
「でも、助けてくれた時には使っていましたよね? 魔法」
「あー、そうじゃなくてね。師匠に言われてるからさ」
 よくわからないという表情の少女に微笑んで、ソルは竈に視線を戻した。
 小枝の上では、ようやく赤い揺らめきが踊り始めた。それを潰さぬように、再びいくつかの小枝を放り込むと火の勢いは増していく。もう大丈夫だろうと判断したソルは、太めの薪を竈の中にくべていった。
「水晶森の魔女が、ですか?」
「そう。うちのお師匠さんは魔法はあまり使っちゃいけないって方針なんだよ」
「魔法使いなのに?」
「魔法使いだから、かな。魔法を使わなくても出来ることに魔法を使ってはいけません、ってね」
 振り返って確かめるまでもない。少女は納得がいかないという顔をしていることだろう。それは至極まっとうな疑問で、彼自身ここに来てすぐの頃は同じようにそれを不可解だと思った。
 ソルが魔女に弟子入りしたのは六才の時だった。あの頃ソルはすでに魔法力の兆しがあったから、なんでもかんでもできることはすべて魔法を使ってみたい、そういう頃だった。そうして魔女に叱られたのだ。『息するみたいに魔法使うんじゃないの。出来ることは自力でしなさい。魔法が使えなくなっても何も損なうことがないような、そういう自分になりなさい』と。
 その後も彼女の目を盗んでは魔法を使ってラクをしようとするソルに、魔女はことあるごとに小言を繰り返した。
 そんな日々を思い出しながら「なんでも魔法でやってると思った?」と振り返ると、少女は少し考えてこくりと頷いた。
「あのさぁ。君はなんで魔法使いになりたいの?」
 ぱちりと薪がはぜて瞬間そちらに気を取られたソルは、その時ひどく困ったように眉を寄せたフィラの表情に気付くことはなかった。
「魔法で済ませばラクができるから、とか?」と鍋をかきまぜながら尋ねると、「そうかも、しれません」と答えた少女は「憧れて……いたんだと思います」と続けた。
 ひとつひとつ言葉を選ぶように、探すように答えたフィラは、少し俯きがちに微笑みながらテーブルの皿にパンを配していた。
 少女の様子を振り返ったソルは、まただ、と思う。フィラはすぐに俯いてしまう。自信がないのか、単なる癖なのかはわからないが、せっかくの綺麗な瑠璃色が自信なさげに伏せられ、前髪に隠されてしまうのはもったいない、とひそかに思っている。あとで髪を切るついでに、彼女の表情を隠してしまう前髪ももう少し切ってしまおうかなどとこっそり考えながら、問いを投げた。
「憧れるって、『邪教』使いに?」
「『魔法』使いに、です。あ、水晶森の魔女に、かな」
「ふーん……」
 己の師匠に憧れていると言われ、ソルは誇らしく感じつつも胸が痛んだ。
「魔法使いになりたいのなら、学校に行くって方法もあるよ? 弟子入りするよりそっちのほうがずっといい」
「学校、ですか?」
「うん。魔法を勉強したい子たちが集まって一緒に過ごすんだ。そっちのほうが楽しいと思うけど?」
 これもいつか彼女に言われた科白だ、と内心苦笑しながら提案する。『こんな場所で、ひとりぼっちで修行するよりも、その方がずっとタメになることがいっぱいあるわよ』とあの時彼女もそう言ったのだ。
「私は……私は水晶森の魔女がいい、です」
「そう」
 少女の姿に、いつかの自分の姿が重なる。『僕は学校に行きたいんじゃなくて、ここで修行したいんだ』と。答えた少年に困ったように笑った師の気持ちも、今なら少しわかる気がする。子供じみた頑なさだと、あの日の彼女も思ったかもしれない。
 かつての師の心情に思いを馳せつつも、フィラの気持ちもわからないではないソルだ。
 こんな風に一途に願う少女を目にすれば、聞き届けてやりたいという思いもわずかばかり生まれてくる。けれど、それは叶わないのだ。水晶森の魔女はおそらく、否、間違いなく。もうここに戻ることはないのだから。
「……」
「あの」
「うん?」
「スープ……」
「うわっ!」
 いつの間にか竈の鍋はふきこぼれんばかりに煮えていた。我に返ったソルは鍋つかみを手に、スープを火からおろすとふたつの皿へとよそった。

「いただきます」
 精霊への感謝を込めて目を伏せると、倣うようにフィラも「いただきます」と呟いて目を閉じる。
 グリアンの信徒ならば食事の前にマサルサスに祈りを捧げるものだけれど、フィラはそれをしない。それについて訊いてみることもないままに、ソルはスプーンを手にしてスープを口に運んだ。
 向かいの椅子に座るフィラはといえば、スプーンですくいあげたスープに幾度も息を吹きかけて慎重に冷ましている。
 フィラが熱を出した初日、ソルは彼女の為にリゾットを作ってやった。立ち上る湯気をしばし不思議そうに見ていたフィラは、あろうことかスプーンですくいあげたそれをまったく冷ますことなく口に運んだのだ。あの時に懲りたのだろう。小さな子供のように真剣な顔でふーふーと息を吹きかける姿に知らず笑みが浮かぶ。
 ふとその気配に気づいたように顔をあげたフィラが、問うように小首を傾げた。
「なにか……変ですか?」
 居心地悪そうに視線を落としたフィラは、せっかく冷ましたスープを皿に逃がしてスプーンを置いた。
「ごめんごめん。一生懸命冷ましてるのが、可愛いなと思ってさ」
「可愛くなんか、ないです」
 喜ぶでなく、照れるでなく、フィラはただ困ったようにそう言うと、パンを手にした。
 フィラは多少幼いとはいえ、どちらかといえば整った顔立ちだ。例えば照れてはにかんだり、やわらかに微笑んだら相応に可愛いだろうと思うのに、少女はそんな顔を少しも見せない。もっとも、ソルが彼女にしていたことといえば、用事を言いつけたり事情を聞き出そうとするばかりだったのだから、それも仕方がないのかもしれない。
「午後はなにをしたらいいですか?」
「そうだなぁ」
 フィラが出来そうなことを考えてみる。
 しなければならないことは、いろいろとあった。薪になりそうな枝を拾ってきたいし、水くみもしておきたい。でも、彼女にそれを頼む気はなかった。
 少女の手足はひどく細い。掃除をしたことがないだけでなく、いわゆる労働めいたことなどなにひとつしたことがないに違いない。まだ熱が下がったばかりのフィラには、午前中の掃除だけでもそれなりに重労働だったであろうことを考慮すれば、午後はゆっくり休ませてやりたいところだ。
「あの?」
「うん……うーん。じゃあさ、大事なことお願いしたいんだけどいいかな」
「はい」
 大人の手伝いを喜ぶ幼子のように、彼女の表情がぱっと明るくなる。その無防備な了承に、ソルは大げさにため息をついて見せた。
「内容を聞かずに頷くもんじゃないよ? 無茶なお願いされたらどうするの」
「あ……」
「まぁいいけどね。じゃあ、お願いしようかな。重大任務」
「……」
「留守番。お願いしていい?」
「留守番、ですか?」
「そう、留守番。出来る?」
「出掛けるんですか?」
「うん、ちょっとね。食材とか買い出ししてこないと」
 ヴァンリンドゥから書簡が届くまでには、まだそれなりに日数があるだろう。それが届くまでにある程度の情報を集めておきたいと考えたソルは、近くの集落に足を運ぶつもりでいた。
 ここから少し馬を走らせた先にある集落は、各国を旅して歩く商人たちの中継地点となる場所だ。小さい集落ながら物も人もそれなりに集まるあそこなら、シュリーフトに出入りしている商人の多くが立ち寄る。祈年祭も間近なこの時期ならば、それは尚更期待出来るだろう。
 そんなことを考えながらふと向かいを見れば、少女はしゅんとうなだれている。留守番という任務は、彼女にとって期待はずれだったのだろうか。
「どうかした?」
「ごめんなさい」
「なにが?」
「あの、私がここにいるから食材の買い物が必要なんですよね?」
 フィラの言うことは一理ある。ソルひとりならば、まだ買い出しの必要はない。しかしそうは言っても少女が食べる分などさしたる量でもなく、こんな風に落ち込むほどのことでもないのだ。
 それでもソルは、悪戯心半分で少女に尋ねた。
「そうだねぇ……じゃあ、自分の家に帰る? 君が帰るなら買出しに行かなくていいかもしれない」
 一瞬目を瞠った少女は、俯いてふるふると頭を振った。
「ごめんなさい」
「なんてね、冗談だよ。別にそれだけの為に出掛けるってわけじゃないんだ。用事もあるし、ついでに君の服を買ってくるよ。まさかずっと、僕のや彼女のを着てるわけにもいかないでしょ?」
 フィラが今身につけているのは、魔女のものだ。その服ですら少し大きいが、それでもソルの服を貸すよりも遙かにマシな状態だった。
 なにしろ彼女が着ていたワンピースは繕って着るにも無理がある状態だったし、少女は着替えひとつ持っていなかったのだ。フィラがあと何日ここにいることになるかわからない以上、ある程度のものは揃える必要があった。
「すみません」
「申し訳ないと思うなら、しっかり留守番してること。それよりほら、冷めるよ? 食べちゃいな」
 そうでなくとも、君細すぎるんだから、と促すとフィラはおずおずと食事を再開した。その様を見つめながら、内心ため息をつく。
(なにやってるんだかなぁ……)
 見ず知らずの少女を、なんの事情もわからないままに家に置く。そんなことをしている場合ではないはずなのだ。
 けれど、己の師に弟子入りしたいという少女を事情もわからぬまま放り出すのは、雨の中、捨てられた子猫の前を通り過ぎるような罪悪感があった。もっとも親身になろうにも当の少女が自身の身の上を語りもしないのだから、本当のことを話して終わりにしてもいいはずだ。けれど、ソルはどうしてもそれを口にする気にはなれなかった。
「ねぇフィラ。君、本当に魔法使いになりたいの?」
「……おかしいですか?」
「うん。だって君、シュリーフトの子でしょ? マサルサスを信じてないの?」
 自身が既に魔法力を手にしているとでもいうならいざ知らず、魔法を邪教と習うシュリーフトで育った少女が、なんで魔法使いになど憧れたのだろうか。それとも、そもそも彼女はシュリーフトの民ではないのだろうか。
「信じてません。なんでそんなことを訊くんですか?」
 いつも自信なさげに話すフィラが、珍しく少し尖らせた声音できっぱりと言い切った。
 そんな変化に気づかぬふりで、ソルはスプーンを手にしたままもう片方の手で頬杖をつきながら答える。
「そりゃ、興味があるからさ。シュリーフト出身で、マサルサスを信じてない奴なんてあんまり聞かないからね」
「信じてません。信じてたら、きっと今こんなところにいません」
(こんなところ、ねぇ……)
 少女の声に滲むのは怒りだろうか。それとも悲しみだろうか。わからない。ただ、彼女が何かひどく傷ついているのを感じ取ったソルは「そう」とだけ答えた。
「そんなに……おかしいですか?」
「なにが? 君がマサルサスを信じていないこと? それとも、魔法使いになりたいってこと?」
「両方、です」
「そうだねぇ。まぁ珍しいけど、変ではないと思うよ。僕の国にはシュリーフト出身の魔法使いだっていないわけじゃないからね」
「え?」
「君の国では、魔法を使えば追放されるんだろう?」
「……はい」
「つまりそういうこと」
 フィラは何かを考え込むように、食事の手を止めてしまう。その表情は思い詰めたように、暗く沈んでいた。
 彼女のことを知りたいと思ってはいるけれど、追いつめたいわけではない。ソルは話題を変えようと、そういえばさぁ、と殊更軽い調子で尋ねた。
「君、留守番したことはあるの?」
「留守番は、ない、ですけど……そのくらいできます!」
「本当?」
「大丈夫です」
「留守番なんだから外には出ないこと。いい?」
「はい」
「誰か来ても、ドアを開けちゃだめだよ?」
「はい」
「それから……」
「あの……私、そこまで子供じゃありません」
 不服そうなその顔が既に子供っぽいのだという自覚は、おそらくないのだろう。
 笑いを堪えたソルは、そうだね、と同意を示しながら胡桃色のやわらかな髪をテーブル越しにひと撫でした。
 家の周囲には、簡単な惑いの魔法をかけておいた。ソルの許しがない者が無理に立ち入ろうとすれば、迷子のようにここにはたどり着けないはずだった。誰に対しても開かれておくべき場所というのを信条にしていた魔女には怒られそうだが、現状の把握すら出来ていない今、これは仕方のないことだ。
「僕が帰ってきたら、その髪ちゃんと揃えようね」
「あ……」
 どうやらうさぎの尻尾に成り果てた自身の髪を忘れていたらしい少女は、己の後ろ髪に手を伸ばすと、小さく頷いた。
「そういえば君の『切り落とした』っていう髪、どうしたの?」
「……捨てました」
「そう。だったらそれ、もらっていい?」
 軽やかに尋ねると、少女は「なんでですか?」と訝しむような目でこちらを見つめてくる。
「ふふ、ナイショ。駄目?」
「……いい、ですけど」
 内容を聞かずに頷くなと伝えたのはついさっきだというのに、またしても彼女はわからないままに了承してしまう。
「うん。じゃあ僕は食事が済んだら、それを持って出掛けてくるね」
 胡乱げな眼差しの少女にそれ以上は説明することもなく、ソルはパンを頬張った。

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