水晶森の咎人 幕間1  追憶の午後

← 第1章 偽りの願い3

「七年、ですな」
 白いものが混じり始めた顎髭をひと撫でした男は、眼下を見遣った。
「……そうだな。早いものだ」
 隣の男と同じようにバルコニーの下を行き交う人々を見ながら、彼もしみじみと呟くように答えた。
 庭では、半月後に控えた祈年祭の準備が行われている。
 祈年祭。それは新年から数えて四番目の月の最初の晴天の日に執り行われる。マサルサスの恩情を乞い、その年の豊穣を祈願する祭りだ。色とりどりの紐をつけた杖をついて歩くたびにその場が清められ、巣くった魔──不幸や病の因を消し去って、神の加護を国の隅々まで行き渡らせると伝えられていた。
 冬の間息を潜めていたこの国が息を吹き返し、春の巡りの歓喜に包まれる。この日ばかりは、普段は慎ましやかな生活を善とする国民たちも、仕事を休んで祭りに興じる。年寄りから、小さな子供たちまで、町中を練り歩き、最後にはこの日特別に開かれている城門をくぐって、このバルコニーの下に集い、王と共に神へ祈り、感謝を捧げるのだ。
「あの方もお好きでいらっしゃいましたね。祈年祭が」
「あれは賑やかなものが総じて好きだったからな」
 隣の男は、相変わらず穏やかな眼差しをバルコニーの下に向けていた。けれどその目に映るのは、今そこを行き交う者たちではなく、遠い昔に注がれているのだろう。
 人畜無害そうな笑みをたたえるこの男は、存外切れ者だ。前王にその才を見いだされ、王族の教育係を務めていたほどなのだ。しかし彼は7年前に『喪に服す』という宣言のもと、あっけなく一線から身を退いてしまった。
 その男が今、宰相として隣に立っている。
 困窮した家臣たちが揃って出向き、頼み込んだというのは耳に入っているが、実際に届いた報告としては病に伏した前宰相のたっての推挙だという。どちらが本当でも構わなかった。それだけの実力が、この男にはある。
 ここ数年、シュリーフトの情勢は内外共に安定しているとは言い難い。
 作物の輸出が主な産業であるこの国では、それ以外に突出した何かを持たない。それゆえ、凶作が二年続けば民たちの生活が脅かされるだけでは済まない事態に陥りかねないのだ。
 隣国では鉄の産出と加工に力を入れており、着々と軍事力を伸ばしている。それに靡いて付き従うべきだと主張する者と、神と王以外とには決して膝を折るべきではないと考える者たちの間で、城内の派閥闘争も悪化の途を辿っている。
 七年もの間、隠居を決め込んでいたこの男を、担ぎ出したくなるほどの不安を多くの者が抱えていたとしても、不思議ではない。
 そしてその男が、誰よりも期待していたのは己ではないということも、彼はわかりすぎるほどにわかっていた。

『兄上。楽園の花園とは、こんな美しさでしょうか』

 祈年祭の日。バルコニーの下に集う彩り豊かな紐が春の風に揺れる様を目にした少年が、そう言って瞳を輝かせていたのが思い出される。
 あれは、身分卑しい女を母に持つ彼が、初めて王族としてこのバルコニーに立つことを許された日だった。
 長じてからは課せられたしきたりや行事には顔をしかめ、可能ならば逃げ出す算段をしていた弟だったが、祈年祭だけはいつも率先して参加し、この城の誰よりも楽しんでいた。
 弟はけして勤勉ではなかった。やるべきことは最低限こなしていたから、怠惰ではなかったが、それでも必要以上に真面目に政務に打ち込むということもなかったように思う。
 それなのに、彼はいつも自然に人の輪の中心にいた。誰もが反発心を抱くことなく当たり前に従ってしまう。そうさせる術を自然と身につけていた。生まれながらの王の気質というものがあるのなら、それは彼が持っているようなものを言うのだろうと、反発心すら感じる余地もなく納得していた。
 そんな弟は、年が離れていたせいか長兄である自分をずいぶんと慕ってくれたから、可愛く愛おしく、そしてひどく疎まかった。
 いつか誰かが慣習を越えて、弟こそが跡継ぎにふさわしいと言い出すのが恐ろしかった。口にせずとも、誰もがそう思っているだろうと考えるだけで、体の中にどす黒い感情が泉のように湧き、満ち、外に溢れ出すのは時間の問題だったように思う。
 劣等感だと知っていた。朗らかに人の懐に入り込み、相手にそうと気取らせずに自分の意を通していく弟が、羨ましかった。もしもこれが他人ならば、頼もしい側近として寵愛しただろう。
 弟とて家臣のひとりにすぎないのだから、割り切って、頼もしい臣だと思っていればよかった。思って、いられればよかった。
 そう考えるには、彼はあまりに近過ぎたのだ。己と半分とはいえ同じ血が流れる者に、自身には与えられなかったものを見せつけられるのは苦しくてたまらなかった。

『兄上のお役に立ちたいのです』

 自身に向けられる嫌悪に、聡明な彼が気付いていなかったはずはない。それでも、長雨で秋の収穫は芳しくなく、民が飢え、冬を越せそうにないのが容易に予想がついたあの年、彼はそう言って王の前に進み出た。王弟とはいえ、担当の大臣を差し置いての少々出過ぎた発言だった。けれど異を唱える者がいなかったのは、彼がそれだけ、周囲に認められていたからだ。
 はたして、当時危うい均衡を保っていた隣国に交渉に赴いた弟は、驚くほど有利な条件で援助の約束を取り付けてきた。これで民が飢えずに済むという安堵の裏で、晴れがましい笑みで己の前に立つ彼を「よくやった」と労いながら、心底憎悪した。さすがだと誉めたたえる人々の言葉は、そのまま己が愚鈍さを嘲笑する声として耳に響いた。
 あの時に、限界を超えたのだ。
 消えてくれ、と。漠然とした劣等感は、あの時、初めて明確な切望へと姿を変えた。
 誰かに利己的な悪意を抱くだけでも、王にあるまじきことだ。神の声に耳を傾け、その声を民に届ける者として、そんな感情を抱えるなど許されるはずもない。その事実がまた、己の内を浸食し、より黒く染めあげられていくように感じた。
 その弟が死んでから七年になる。祈年祭を数日後に控えた、冷たい雨の日のことだった。傍らの男は、あの日まで教育係として弟に付き従っていた者だ。
 庭から喚声が響き、現実へと引き戻された王は眼下を見下ろす。
 新たな荷車が届いたらしく、人々がその荷車の周囲に集まっていた。積まれた多くの材木が、次々と無造作に下ろされていく。あれらを切りそろえ、ひとつひとつやすりをかけて、杖を仕立てるのだ。
 人々の中に混じり、笑いながら共に材木を下ろしていたいつかの弟の姿が過ぎる。
 幸運にも弟は死に、その家族も共に葬り去られた。自身の劣等感を常に刺激し続けた者は、永久に失われたのだ。
 けれど、その後に待っていたのは、思っていたような安堵だけではなく、喪失感と、引き返すことのかなわぬ道だった。それも、今度こそすべてが終わりを告げた。次の祈年祭は、久方ぶりに心晴れやかに神と向き合うことが出来るだろう。
「我が君。少々よろしいでしょうか?」
 衛兵により開かれた部屋の扉から、ひとりの女が現れた。恭しく頭を垂れた女は、この部屋に取り次ぎもなく出入りできる数少ない人間のひとりだ。
「お人払いを」
 あの日。
『弟君の命を奪ったのは、邪法使いです』
 そう告げて艶然と微笑んだ女は今、その願いが退けられることがないと知っている風にこちらを見ている。
「占い師風情が無礼であろう」
 宰相の言葉にも少しも動じることのない女は薄く笑むと、足下を隠すほどの長い衣服の裾をさばいて、腰を折り、形ばかりの礼をとって王の裁決を待つ。
「よい」
「王よ。なぜ──……」
「ジルテ。お前は下がれ」
 咎める男を視線で制し、ただ簡潔に命じた。

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