水晶森の咎人 第1章 偽りの願い3

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 少女の前に現れたのは、白く大きな犬だった。音もなく駆けてきたその犬は、彼女を庇うように立ち、男たちに身構えている。
「野犬……か?」
 ひょろりとした男が誰に問うでなく呟くように言うと、猫背の男は剣を薙いで「シッ! どきなっ!」と犬を追い払おうとする。
 白い犬は少しも狼狽えることなく、男たちを見据えていた。相手の出方を見るような冷静な態度は、どこか動物らしからぬ所作だ。
 そこにもう2頭、同じような犬が駆けてきて、やはり彼女を庇うように男たちの前に立った。
「フィランゼア様、これはあなたのお仲間ですか?」
「──っ!」
 名を呼ばれたことに、一瞬息が止まるほどに驚いた少女は、リーダーの男を凝視する。
「さすがはあの方の娘だと、誉めてさしあげるべきでしょうか?」
 先ほどとは少し口調を改めた男は、慇懃無礼に言い放つ。
 哀しくて胸が重苦しいほど塞いだ心地になるのに、涙がこぼれることはない。貶められることにも、蔑んだ眼差しにもすっかり慣れた少女にとって、この痛みは今更過ぎるものだった。そんな視線すら、向けられるだけまだマシだ。少なくとも、今自分は確かにここに居るのだと、確信することができるのだから。
「邪法使いめっ!」
 ふいに、猫背の男が剣を振りあげて斬りかかってくる。
 犬はそれをいなすようにかわし、男の短い足下をすくうように白い体躯を当てて転ばせる。
 やはり犬たちはフィラを庇ってくれているようだった。
(なんで……?)
 なんの力もありはしない。誰も取り合ってはくれなかったけれど、人を害す力も、己を守る力も、特別なものなどなにひとつ持ってはいない。だから風を起こすどころか、こんな風に守ってくれるものたちを呼び寄せるなんてことも出来るはずがないのだ。
 けれども今、確かに犬たちは守ってくれようとしている。
 犬と格闘する男たちの姿を不思議な心地で見つめた少女は、そういえばと思い出す。
(この隙に逃げなくちゃ)
 考えて足に力を入れようとするのに、震えるばかりでうまくいかない。
 犬を相手に剣を振る男たちが、時折忌々しげな視線をこちらに投げてくる。早く逃げ出さなくては殺される。そう思って再び足に力をこめようとした瞬間、「あーあー」という緊張感の欠片もない声が響いた。
「ずいぶんひどい騒ぎだね」
 声と共に現れた青年は、黒く短い前髪をかきあげて「面倒くさいなぁ」とひとりごちた。
 年の頃は二十代前半といったところか。彼の身につけた衣服は、ズボンは足のラインのわかる細身のものだったが、上衣はゆったりとした袖で、裾もワンピースと呼べるほどに長めだ。鮮やかな夏の空を思わせる青い染めは美しく、その型といい色といい、シュリーフトの衣装とは全く異なっていた。
「なんだてめえは!?」
 いきりたつ男を意にも介さない様子で、青年は少女の傍まで歩み寄ると、ひょいと軽い仕草で片膝をついた。
 青年は、剣も何も持たない丸腰だ。それでも、怯えきった少女にとって、敵とも味方ともつかない相手が間近にいることは、それだけで十分に脅威だった。もうこれ以上は後退れないと知りながら、彼から少しでも身を離そうと、よりいっそう背後の木に背中を押しつけた。
「大丈夫? ……じゃなさそうだね」
 伸びてきた手に身を竦ませてぎゅっと目を瞑ると、どこにも触れられることはなく、ただ「なにもしないよ」と苦笑混じりの声がした。窺うように目を開くと、黒い瞳が人なつこく細められている。
 青年の背後では、相変わらず男たちが犬を相手に剣を振り回している。いつ斬りかかられても不思議のない状況だ。
「うわ、痛そうだね」
 なのに青年は相変わらず背後の騒ぎなど気付かないような態で、少女の縛られた手首に視線を落とすと顔をしかめた。
 男たちから必死で逃げている間に擦れたのだろう。手首には血が滲み、ところどころ皮膚が破けていた。
 彼は自身の左手を口元に持っていくと、揃えた中指と人差し指を唇にあてて、何か小さく呟く。その指先を縄の上に滑らすと、縄ははらりと地面に落ちた。
「──!?」
 小さく息を飲んで目を瞠る。先ほど歯をたてても切ることが出来なかった戒めを、まるで魔法のように解いた青年をまじまじと見つめた。
 そう、まるで魔法のようだ。
 驚愕の眼差しをウィンクひとつで流した青年は、「さてと」と立ち上がり、男たちに向き直った。
「これはいったいどういう騒ぎでしょうか?」
 耳に心地よいテノールが響く。
 誰がどう見ても、のんびり質問などしている状況ではない。なにしろ男3人が剣を振り回して大型犬と格闘し、少女は手首を戒められていたのだ。
 わざわざ近づいて来て渦中に飛び込む者がいたとしたら、それはよほど空気が読めないか、己に自信がある者だろう。
 青年はどちらだろうかと、男たちが動きを止めて値踏みするような視線を送る。
「兄ちゃん、この子の知り合いかい?」
「いいえ。名前も知りません。……そうだよ、君、名前は?」
 肩越しに振り返って尋ねる青年は、微笑んでいた。この状況であまりに自然なその笑みに、先ほどまでの自分を棚に上げた少女は、この青年は少しおかしい人なのではないかと疑い始めていた。
「なるほど。ならばこの場は見なかったことにして、立ち去って頂けませんか? 私たちも無駄な血を流したくはありませんので」
 リーダーの男は口調こそ穏やかだが、その目には明確な殺意をたたえて剣を構えた。
 他のふたりも、切っ先を青年に向け威圧している。
「確かに。僕も血を流すのは好みません」
 青年は頷いた。そうして足下にやってきた犬たちの頭を軽く撫でる。
 これで青年は去っていくだろう。誰だって命は惜しい。当然のことだ。誰もがそう思った。
 ところが。
「逃げたほうがいいですよ。あなた方が」と笑み含んだ声で言い放つ。
 途端、男たちが色めき立った。
「なに!?」
「もう一度言ってみろ」
 青年はさも面倒だと言わんばかりに息を吐き、「その耳は飾り? ケガをしたくなきゃ帰れって言ってるんだけど」と見下す声音で男たちを見回す。
「舐めるな、小僧!」
 猫背の男が剣を振りかざして、突進してくる。犬たちは迷いのない仕草で男に飛びかかった。ひょろりとした男は、及び腰ながらその加勢をしようと剣を振り回すが、軽やかな身のこなしの犬たちに切っ先が届くことはなかった。
 そんな喧騒を間に挟み、リーダーの男と青年とは動くことなく対峙する。
「この森を血で汚すことの罪深さを、まさか知らない?」
「罪……?」
「ここはすでに『魔女の前庭』。好き勝手をすれば、ただでは済まないよ?」
「今となってはそれも迷信でしょう? ただでは済まないというのなら、私はもう幾度死んでいることか」
 喉の奥で笑った男は、悪びれることなく答えた。つまりはこの男が、そういう行為を既に何度も行っているのだということが少女にも理解できた。
「へぇ、それは幸運だったね。──今までは」
 青年の発したそれは、ぞっとするほど冷たい響きだ。背後からでは表情も見えないが、リーダーの男が一瞬目を瞠って、じりと身をひくのが見える。
「忠告は、したからね。……【解】・【現】」
 区切るように発したそれは言葉というより、ごく短いフレーズの歌のようにも聞こえた。不思議な響きのその音の意味はわからないけれど、もっと聞いてみたくなるほどに心地よい響きだ。
「風の御遣いが名の下に命じる。汝、盟約に従いて清明なる翼をふるえ」
 青年の淀みない言葉に呼応するように、犬たちの背中が盛り上がり蠢く。まるでその皮膚の下に不気味な何かが息づいているようだ。
「ひっ! ば、、化け物っ!」
 ひょろりとした男が、背を向けて逃げ出した。
 その瞬間、犬たちの背にはサナギが羽化するごとく皮膚を破って、大きな翼が現れる。
 白い翼がひとつはためくと、嵐のような突風が木々を揺らした。
「じゃ、邪法使いだ!」
 猫背の男も尻餅をついたかと思うと、立ち上がり一目散に己の馬を目指して駆けだした。
 そんな仲間を忌々しげに見遣ったリーダーの男は、舌打ちひとつを残して身を翻す。
 その背を追うように低空を飛ぶ犬たちは「いいよ、戻りな」という青年の声に、くるりと空中回転すると彼の足下へと降り立った。
 青年が翼をたたんだ3頭の犬たちを撫でると、白い姿はその翼ごと砂のように崩れて消え、後には何も残らなかった。
「こわ、れ……ちゃった?」
 あまりの驚愕に漏れた問いに、青年はクスリと笑って再び少女の傍までやって来て跪く。
「壊れてないよ。帰っただけ。……ねえ、もうこれはいらないんじゃない?」
 温かな手が、木の棒を握りしめた傷だらけの指先に添えられる。
 人の温度が、ひどく懐かしかった。
 力を入れすぎて感覚がなくなるほどに白くなった指を1本1本ほどく青年のぬくもりが、全身にめぐるような錯覚を覚える。
(ふれると、温かいんだ……)
 彼女は、知っていたはずのことを噛みしめるように、ただ感じていた。
「ありがとうは?」
「……?」
「これでも助けたつもりなんだけど。こう言うときはお礼を言うものじゃない?」
 恐怖の余韻にわななく唇で小さくありがとうと紡ぐ。それはうまく音にはならなかったけれど、青年は満足そうに目を細めた。
「僕はソル。ソルナス・クルーン。君は?」
 言われた意味がわからず、少女は小首を傾げる。
 もう久しく名前を必要としたこともされたこともなかったから、青年の言葉の意味が一瞬わからなかったのだ。
「……名前を訊いてるんだけど」
 彼が助けてくれたのは間違いない。それでも数瞬迷った少女は、目を伏せて「フィラ、です」と名乗った。
「うん、フィラね。じゃあさ、どこから来たの? さっきの奴らにさらわれてきた? それとも……いや、いいや」
 何かを言いかけてやめたソルは立ち上がって、手を差し伸べながら「立てる?」と問うた。
 恐る恐る体を動かす。先ほどまで両腕を縛られていたせいか、ひどく体が強張っていた。その上、何度も転んであちこちを打ち付けたせいか、肩だけでなく体中が痛む。それでもここに座り込んでいるわけにも行かず、フィラは意を決して立ち上がったが、猛烈な痛みに息を詰める羽目になった。
「うーん。辛そうだね。……ちょっとごめんね」
 彼はフィラの膝裏を片手ですくい上げると、横抱きにして抱き上げた。
「な──っ!」
「とりあえず、一緒においで。手当をしてあげるから」
 初めて逢った青年に抱き上げられて、はいそうですか、というわけにはいかない。「降ろして下さい」と痛みを堪えてもがけば「落とすよ?」と低い声が窘める。
 それは彼が男たちに向けた声と比べれば遥かに温和ではあったけれど、まだ恐怖の余韻を残す少女には十分な効果があった。
「あなたは、水晶森の魔女、ですか?」
「僕が女に見える?」
 からかうように笑いながら答えたソルに、少女はふるふると頭を振る。
 抱かれて歩くその振動すら肩に響いて痛かったけれど、話していると少し気が紛れるように思える。なにより、こうして誰かと話せるのがフィラは嬉しくてたまらなかった。
「ごめんなさい。そうじゃなくて」
「うん、わかってるよ。水晶森に用があるの?」
「……はい。ここから遠いんでしょうか?」
「君はシュリーフトの子じゃないの?」
 質問に、ギクリとする。それを知ったら、彼はフィラをシュリーフトに送ってしまうのではないかと思ったからだ。
 否定するのを待つこともなく、彼は少女がシュリーフトから来たのだと知っているような口ぶりで言葉を続ける。
「シュリーフトなら君みたいな子供だって知ってるよね? 幻水晶の森には近寄らない方がいい。魔女に食べられちゃうよ?」
「子供じゃないです。それに、魔女は人を食べたりしないでしょう?」
 唇を尖らせて答えるフィラがソルを見上げると、ひどく意外そうな目がこちらを見ていた。
 シュリーフトでは、魔法はマサルサスの守護の外にある邪教徒が使うものだと言われている。神に背き、魔に堕ちた邪悪な者が振るう力。それが魔法だと信じられているのだ。
 悪魔の力に、関わってはいけない。望んではいけない。使ってはならない。それは、マサルサスに信仰を捧げるグリアンの信徒にとって、当たり前のことだった。
 ソルは、魔法に否定的でない発言に驚いているのだろうということを、フィラはすぐに理解した。
「あなたも魔法使い、ですよね? あなたが水晶森の魔女……魔法使いですか?」
「僕は、違うよ」
「じゃあ……お弟子さん?」
 なぜかふと真剣な顔になったソルに、何か怒らせるようなことを言っただろうかとひやりとした心地になる。
 けれど、謝罪をするよりも早く「よくわかったね」と微笑まれ、少女は続きを口にした。
「だったら、魔女に、魔女さんに会わせて欲しいんです。私、魔女さんにお願いがあって」
「お願いねぇ。いったい何を願うつもり?」
「……」
「言えないんだったら」
「で、弟子になりたいの!」
「は……?」
 マサルサスは説く。
 汝、いついかなる時も誠実であれ、と。
 けれど今更、罪のひとつやふたつ加わったところで、己の未来に変わりはないだろうと少女はひっそり嘆息した。

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