水晶森の咎人 第1章 偽りの願い2

オリジナル, 水晶森の咎人

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 久方ぶりに訪れたこの家の掃除も、昨日から黙々と取り組んだお陰で一通り終わってしまった。大概食事を摂るべきだと頭の片隅で考えつつも、何か食べたいかといえばやはりそんな気分にもならない。だから、内容など少しも頭に入ってこない状態なのを自覚しつつ、手持ち無沙汰なこの時間を潰す為に本を手にしていた。
 窓辺に腰を下ろす。壁の前は本棚が占拠し、あとは木の机と椅子があるだけのこの部屋は、彼のものではない。けれど、この大きな出窓に腰掛けて本を読むのが、彼は昔から大好きだった。
 机の上で頬杖をつきながら「ここは貴方の部屋じゃないでしょう?」と声を尖らせる相手も、今はいない。それを寂しいと感じるのも今更な気がして、ソルはただため息を落とした。
 ふと空気がさざめく気配を感じ、ページを繰る手を止める。視線は綴られた文字に落とされてはいたものの、意識は絶えず窓の外へと向いていたからそれに気付くのは容易かった。
 開け放たれた窓から外を窺っていると、眼下に広がる森の奥から蹄の音が近づいてくる。
(使者が来た……わけないか。昨日遣いを出したばかりだ)
  どう見積もってもあれが国元に届くのは今日あたりだろう。そこから手配を始めたとしても、返答には十日、もしかしたらそれ以上かかるかもしれない。魔法を忌み嫌うシュリーフトという国は、魔法を生業とする者たちの国ヴァンリンドゥにとって一筋縄ではいかない相手といえた。先に手を打ってから出立すればよかったと後悔すれども先に立たず、必要な段取りすら考えられないほどに動転していたと自覚したのは、こちらに着く間際になってからだった。しかし、ここからはそうはいかない。慎重に慎重を重ねなければ、真実にはたどり着けないだろう。
 蹄の気配はみるみる近付き、前庭に葦毛の小馬が駆け込んできた。興奮したように、しきりに首を振ってはいななく馬は、それでももうどこかに駆けていく気配はなく、ただ地面を掘り返さんばかりに前足で土をかいている。
 荷を運んだり、乗馬の練習に使う種類の小馬だ。鞍を乗せたその背には小さな荷袋もついており、ほんの先ほどまで人を乗せていたように見える。
 それにしても、温厚なこの種の馬がこんなに感情を昂ぶらせているのは珍しい。乗馬の初心者向けであるこの馬から落ちるような阿呆がその背に跨がるとも思えないが、それでも興奮露わに駆けてきたのが気に掛かった。獣や野盗にでも襲われたのだろうか。それとも主が急病でそこらに転がっているのだろうか。
 彼は窓辺から身をおこすと、足早に階下へと向かった。
 外に出てみると、じっとこちらを見ている小馬と目が合った。まだ少し呼吸は荒いものの、先ほどよりは幾分落ち着きを取り戻した態だ。
 驚かせないように静かに近づいた彼は、アーモンド型の賢そうな瞳をのぞきこみ、その首筋に掌を滑らす。触れた毛並みは、汗ひとつかいていない。勢いよく駆けてはきたが、そう長い距離は走っていないようだ。
「君のご主人様はどこ?」
 たてがみをかきまぜるように撫でながら尋ねたところで答えるはずもなく、小馬は鼻息をひとつ強く吐くと素知らぬ顔で足下の草を食べ始めた。
 木々の向こうを注意深く探っても、追ってくる人の気配も、呼びかけている声もない。
 ふいにざっと風が渡り、梢が一斉に音をたてた。その音がざわりざわりと心を波立たせる。何かを急かされている心地になるこれは、いわゆる虫の知らせというやつだろうか。
 彼の人に『精霊に祝福された森』と言わしめたこの森がこんな気配を漂わせる時には、決まってろくなことがないのだ。
(ちょっと手いっぱいなんだけどな)
 げんなりと息を吐き、左手の指先を空中に滑らす。
 描く紋は、使い魔を呼び寄せる為のものだ。指先がたどる軌跡は光を放ちながら、風の紋章を型どる。
 描き終わると、それは一際明るく輝き、砂のようにさらさらと地面に崩れ落ち、獣の姿を描き出す。
 光が消え去ると、彼の足下には白い大型犬が三頭現れた。耳をぴんと立て、真っ黒な双眸をひたむきに主に向ける彼らは、ただじっと指示を待つ。
 その前に跪いた男は、犬たちと目線を合わせると彼らの額に人差し指をあて、【鏡】を意味する魔法文字をそれぞれに書くと「行け」と短く発した。
 主の命に弾かれたように身を翻した犬たちは、馬が現れた木立からは大きくはずれることもなく、それでもめいめいの方向に駆け出した。
 白い尾が森の中に消えていくのを見送ってから、彼は静かに息を吐き出すと直立して目を閉じた。頬を撫でる風も、梢の葉音すらも意識から追い出して、己の使い魔たちに心を澄ますと、彼らの眸に映るものが、そのまま彼の頭の中に映し出された。
 下草や小枝を軽やかに蹴って木立の間を駆ける。ややして、一頭の眸がそれを捉えた。
 小川の近くの木々が開けた場所で、肩で息する少女が大樹に背を預けて座り込んでいた。その両手で握りしめた棒きれを、前方に向けて構えている。少し離れた先では、男が三人、剣を彼女に向けていた。
  少女の年の頃は十四、五歳といったところか。攫われてきたのだろうか、その手首はしっかりと縛られていた。小さな手に握られた棒は剣を相手にするにはあまりに心もとなく、彼女の怯えを表すように小刻みに震えている。それでも瑠璃色の瞳は涙に潤むこともなく、男たちを睨み付けていた。
 少女の腰までありそうな長い髪は乱れ、ところどころに落ち葉が絡んでいる。頬は泥にまみれてはいたが、幼さの残る横顔がなかなかに理知的で、将来が楽しみだと思える程度には整っていた。
 なるほど、人買いや野盗には格好の獲物だろう。
 対する男たちは、脅すでなく宥めるでなく、少女ひとりを相手にするには不自然なほど慎重に、じわじわと彼女との距離を詰めようとしていた。構えた剣は揃いのもので、なんの飾りもない簡素なものではあったが、強度は申し分のないことが見て取れる上等な輝きを放っている。
 大の男が少女を取り囲む蛮行の割には、身綺麗な風采と相俟って野盗と呼ぶにも違和感が残る。
 なんにしても、事態はまったく飲み込めないが、急を要する状態であることだけは間違いなかった。
「肉体労働は僕向きじゃないんだよねぇ」
 ぼやきながらも眸との同調を解いた彼は、犬たちに『守っときな』と命じて駆け出した。
 
 
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