水晶森の咎人 第1章 偽りの願い1

少女は馬の背に揺られていた。もっともその形相は『揺られている』と表現できるような呑気さはなく、緊張を張り付かせて強張っていた。何しろ細い手首は麻縄でしっかりと縛られているのだ。いざというときに体のバランスをとることすらままならない。
 幸い彼女が騎乗している馬は体高がさして高くもなく、のんびりと道なりに進む背から振り落とされる心配はないようにも思えた。それでも、ひとりで馬に乗るのが初めてな彼女にとって、気が抜けないことに変わりはない。

『腹を蹴れば進む。止まりたくなれば手綱をひけばいい』

 そんな簡素な説明しか与えられなかった彼女に出来るのは、ただ手綱を握りしめつつ、前屈みの姿勢で鞍に掴まっているしかない。
 少女の行く道の両側には、遠く畑が広がっている。
 春の息吹を言祝ぐような風が渡る中、確かな実りを求める農民たちは黙々と土を耕していた。そんな彼らも、馬上の少女には思わず手を止めて無遠慮な視線を投げた。
 朝焼けが失せたばかりのこんな時間に馬が行くのは珍しくもないが、仕立ての良さそうな薄紅色の衣服を纏う少女が、従者ひとり連れることない姿は自然目をひく。背筋をのばして馬に揺られていれば、少し幼さの残る横顔も理知的に見えたかもしれない。けれど実際は、長い胡桃色の髪を体の左右にだらしなく垂らし、馬にしがみつかんばかりの態で、ただただ不格好なばかりだった。
 滑稽な姿を面白そうに眺めていた眼差しも、その手首が縛られているのに気付くとさっと逸らされ、もう二度と彼女に向けられることはなかった。
 そんな周囲の様子に気付くだけのゆとりは欠片もないままに、瑠璃色の瞳は馬の耳の間に見える前方を見据え続ける。
 やがて畑が途切れ、林の入り口に差し掛かった頃、微かに時告げの鐘の音が届いた。
 創造神たるマサルサスに祈りを捧げる時刻を知らせる厳かな音に、皆は今頃石畳に額づいて、今を生きる喜びを感謝しているだろう。
 シュリーフトの民ならば、誰もが当たり前にグリアン教の信徒だ。そして少女もまた、シュリーフトで育った者だった。
 グリアン教の聖典は説く。
 闇に閉ざされた世界に、唯一神たるマサルサス降り立つ。神は空に太陽を灯し、月を浮かべ、星をまいた。大地を敷き、緑を育み、生き物たちを創造した。最後に人間を創り、彼らを導く王を遣わした、と。
 朝に夕に跪いて祈りを捧げ、王を称えるのは信徒にとって当然の行為だが、少女は馬を止めるどころか、頭を垂れることすらなかった。

『父なるマサルサスが、お前の道を定めるだろう』

 城門を出て、東の空を見遣った男は最後に「神のご加護を」と口にするや馬の尻を打った。
(ご加護を、だって。笑っちゃうわ)
 馬の背に居ることにもだいぶ慣れた少女は、今朝方のことを思い出し口元に薄く笑みをはいた。
(神さまなんているわけないじゃない。もしも神さまが居るなら……)
 それとも居るからこそ、こんなことになったのだろうか。
 物思いに耽りかけた少女は、馬が足を止めたことで我に返った。
「どうしたの?」
 手綱をひいた覚えはない。
 馬は呼びかけに答えるように強く鼻息をはくと、道ばたの草を食み始めた。
「そうよね。あなたも疲れたわよね」
 出発した時にはまだ薄暗かったはずの周囲は、暖かな陽に照らされている。明るい木漏れ日に映し出される世界は、お伽話のように遠く懐かしく憧れ続けた風景だった。
 草の匂い。遮るものなく広がる空。小さな窓に切り取られた彼女の世界には、どちらも焦がれるばかりのものだった。今ここに己の身があることが、とても不思議な気がする。
(マサルサスのご加護、かぁ)
 溜息ともつかない息を吐き出しぼんやりしていると、それまで地面の草に夢中になっていたはずの馬がふいに首をもたげ、せわしく耳をそばだたせ始めた。
「……? どうかした?」
 しきりに周囲の様子を探っているらしい馬を驚かせないように、そっと呼びかけてみる。
 小鳥が鳴きかい、穏やかな風が吹き抜ける林の風景は相変わらずだ。
 馬は再び強く鼻息をはくと、道をそれて林の中へと足を踏み入れる。
「え? え? ちょっと待って。そっちは道じゃないわ」
 少女の動揺をよそに、馬はどんどん林の中へと進んでいく。平坦な道を行くのとは違う馬上は右に左に大きく揺れて、しかもその足取りはどんどん早まっていくのだから堪らない。
「待っ……ちょ、ねぇ! ──っ!!」
 ついに視界がひっくり返り、どさりと体に衝撃が響くと同時に、肩に痛みが走った。落馬した、と自覚したのは、二つ三つ息を吐いた後のこと。慌てて身を起こして蹄の音の行方を辿れば、お荷物を放り出した軽やかな尻尾が林の向こうに消えていった。
「うそでしょぉ」
 文字通りその身ひとつで取り残された少女は、情けない声をあげるしかなかった。
 しばし呆然とした瑠璃色の瞳は一度伏せられ、ゆうるりと開かれる。
 こうしていても仕方ない。そう思い、立ち上がりかけた少女は、顔を歪めて崩れるように座り込んだ。
 動かすと、肩がひどく痛む。その肩に手を添えようと腕を動かしかけて、縛られていることを思い出し、じっとその手首を見下ろした。痛みに堪えながら、もぞもぞと手首を動かしてみる。けれど、肌に食い込むほどにきつくはなくともしっかりと縛られた縄は緩むこともなく、荒い繊維が皮膚をこすってまた違った痛みを生み出す。思い切って歯をたててみたが、口の中に細かいカスが入るばかりで、縄が切れるどころか結び目が緩むことすらなかった。
(だめか……)
 縄を恨めしく見つめながら口元を拭った少女は、慎重に立ち上がって馬の去った方向を見遣った。
 今更あの馬を追いかけたところで、追いつきはしないだろう。それなら先程までの場所に戻って、道なりに進むほうがいいかもしれない。ならば、と周囲を見回した少女は、再び落胆の息を吐き出した。どこを見ても木々が立ち並ぶばかりで、己がどちらから来たかが既にわからない。
 ふと、微かに水音がした気がして、そちらに顔をめぐらせてみる。木漏れ日射す森が続くばかりだ。
 もう一度じっと耳を澄ませてみる。聞こえてくる微かなそれは、やはりせせらぎの音だった。
 引かれるように足を踏み出した少女が、草を踏みしめながらゆっくりと歩を進めると、緩やかな傾斜を下ったすぐ先に小川が見えた。
 痛みに耐えながらようやく水辺にたどり着いた少女は、腰を下ろして水面にそっと手を浸してみた。清涼な流れはとても冷たく、心地いい。
 ホッとした途端、喉が渇いていることに気付いた。水が飲みたい。眼前には、水底まで透けて見える水がたっぷりとある。しかし。
(水差し以外の水って、飲んでいいものなの?)
 小川を見つめながら、しばし考えてみる。
 彼女の知る飲み水といえば、食事の時に供される食器に入ったものか、部屋に常時置かれた水差しに入ったものだ。その水がどこで得られるものなのか、考えてみたこともなかった。
 ふいに水中に小さな銀色の光が走る。魚だった。水底の石の下から滑り出てきたらしいその鱗の輝きを見ながら、ごくりと唾を飲み込む。
(魚が泳いでるくらいだもの。少なくとも毒はない、よね?)
 両手ですくいかけて、縛られたままでは椀の役目も果たせない掌に気付く。仕方なく痛む肩に注意をはらいながら地に這って、直接水面に口をつけた。
 動物のようだ、と思う。こんな水の飲み方は、人ですらない。でもそういえば自分はとっくにまっとうな人間ではないのだから、こんな姿が似合っているのかも知れない、とも思う。自嘲めいたことを考えていても、喉をすべる冷たい感触はただただ心地よく彼女の渇きを癒していく。自覚するよりもずっと喉が渇いていたらしい。
 思うさま水を飲んだ彼女が顔をあげると、服は汚れ、髪まで濡れてしまったことにようやく気付いて苦笑した。そんなことにも構わず、こんな格好で水を飲むなんて、つくづく獣のようだ。それでも水はおいしかったし、己の渇きは満たされた。だからいいのだと言い聞かせながら、俯きがちにかたちばかり微笑んでみると、もうなんだか本当にどうでもいいことのように思えた。
 身を起こして座り直したものの、そこから立ち上がる気力もない。
(どうしよう……)
 考えようとしても、疲労のせいか何かを考えることを頭が放棄し始めていた。こんなに体を動かしたのは、いったいいつ以来だろうか。
 なにげなく空を見上げれば、白い雲がゆっくりと風に運ばれていくところだ。のどかな空を瞳に映しぼんやりとしていると、少し離れた先の茂みが音を立てて、男たちが歩いてくるのが見えた。
 離れた、と言っても男たちの顔は十分に見える距離だ。
 異様に目つきの鋭いがっしりとした体型の男と、ひょろりと背の高い気の弱そうな男、猫背でどこか小動物を思わせる顔つきの男の3人で、それぞれに馬を引いている。先ほどまで彼女の相棒だった葦毛のそれよりもずっと大きくて、艶々した栗毛の立派な体躯の馬たちだ。
 茂みや木の幹が邪魔をしているのか、それとも彼女が座り込んでいるせいか、彼らはこちらに気付いていないようだった。
(道を訊いてみようかしら)
 思いついてはみたが、果たして口を聞いてくれるだろうかと逡巡してしまう。
 そんな彼女の耳に、男たちの会話が聞こえてきた。
「寄り道していて大丈夫なんでしょうか?」
「馬に水を飲ませるくらいなら、どうせすぐ追いつく。当分は分かれ道も何もないからな」
「旦那しか相手の顔は知らねえんだ。頼みますぜ?」
 目つきの鋭い男がリーダーのようで、他のふたりの口調はへりくだっていた。
「世間知らずな十六の小娘だ。身構えるほどの相手じゃない」
「十六、ねぇ。これからますます娘盛りじゃねえか。そのまま殺すにゃ惜しいねぇ」
 猫背の男が下卑た嗤いを浮かべるのを目にして、言葉の意味はよくわからないままに、少女の背筋にぞくりとしたものが走った。彼女自身が話題の主と同じ年齢だからだろうか。それとも男の醸し出す雰囲気に生理的に嫌悪を覚えたのか。なんとなく身を縮ませながら、そっと様子を窺い続ける。
「おい。妙な気を起こすなよ? 余計な時間をかけるつもりはない」
「へいへい。わかってますよ」
「そもそもそう簡単に殺れるんですか? 邪法に堕ちた娘と聞きましたよ?」
「ハッ、臆病風に吹かれたんならとっとと帰りな。ひとり減りゃあ、それだけこっちの取り分が増えるってもんだ」
「それもそうだ」
 笑い合う男たちの横で、馬たちは水面に首を垂れて水を飲み始めた。
「ご、ご冗談を。やめませんともっ」
「娘ひとり殺るだけで、一年は遊んで暮らせるんだ。こんなおいしい話に乗らない手はねぇからな」
 相変わらずこちらに気付く様子もない彼らを窺いながら、少女は次第に歯の根が合わなくなってくる己を感じ、必死で奥歯を噛みしめた。
 怖い、と思うそれは直感的なもので確信はない。ただ、『十六の小娘』で『邪法に堕ちた』などと噂される者がそうはいるとも思えない。
 不吉な予感に怖くて怖くてたまらなくなり、うろうろと視線を泳がせてみても、今更身を潜められるような場所もありはしないし、動くことで見つかってしまいそうな気もする。
 喉元でバクバクとする拍動を感じながら、少女は身じろぐことも出来ない。震えながら、男たちから目を離すことも出来ず息を殺してじっとその姿を追い続ける。
 水を飲み終わった馬たちが、首をもたげた。栗毛の鼻面がブフゥと息を吐くのを合図に、リーダー格の男が手綱を引いて馬を返し水辺を離れると、鐙に足をかけてその背に跨がる。従うように他のふたりも、馬の背に跨がった。
(このまま気付かないで──……)
 必死に祈る。けれど、祈りなどいつだってどこにも届かないのだ。
 なにげなく視線を走らせたリーダーの男と、まともに目が合った。
「──っ!」
 一瞬目を瞠った男は口の端を引き上げて「おい」と他のふたりに声を掛ける。
「マサルサスのお導きだ」
 リーダーの目線を辿るように、すぐに男たちもこちらに気が付いた。
 それまで立ち上がる気力もなかったはずの少女は、弾かれたように駆けだした。
「追えっ!」
(助けて──っ!)
 誰に向けることもできない願いを、悲鳴のように心に響かせる少女は、折りよく吹いた突風に男たちが一瞬目も開けられない状態になったことなど気付く余裕もない。
 手を縛られたままでは、バランスをとることすらままならない。それでも、どうにか前へ前へと足を踏み出す。よろけ、転がり、起き上がっては必死で走る少女のすぐ背後で、「逃げろ逃げろ」と揶揄する声が追いかけてくる。
 相手は騎馬だ。逃げられるはずもない。それでも捕まればどうなるかわかっている以上、止まるわけにはいかなかった。
 茂みに潜り、木の根に躓きながらも夢中で逃げた少女は、大きくつんのめって転び、ついに息も絶え絶えで倒れ伏した。わななく膝に力は入らず、どうにか上半身を起こして男たちを振り返りながら後退る。
「鬼ごっこはおしまいかい?」
 男たちは馬を降りると、獲物を追い込む獣の目でこちらに近づいてくる。
 呼吸困難になりそうなほどに喘ぐ少女の背はすぐに大きな木にぶつかり、後はもう身動きもできなくなった。
 リーダーの男が腰の剣を抜くと、続くように他のふたりも腰の柄に手を掛けた。少女はなかば無意識に、手に触れた木の棒を掴み、顔の前に構える。
「それで戦おうってのかい?」
 猫背の男は嗤いながら、「可愛いねぇ。なんなら相手をしてやるぜ?」と軽口を叩いて剣を抜くと、弄ぶように右に左に持ち変える。
 耳元で警鐘のように鼓動が響く。それが煩くて堪らない。
 わかっている。自分はあの男たちに殺されるのだろう。
 どこかでそれを受け入れながらも、認めたくない心がもがくように、なぜ、と問う。なぜ、自分がこんな目に遭っているのか。
 もう何年もの間、数える気にもならないほどに繰り返した問いを、心の中で今一度問う。それでもやはりいつもの通り、誰も応えてはくれないのだ。
 男たちの手にする刃が鈍く光る。
 イヤだと思う。同時に、これでやっと終わるのだと安堵する。生きたいのか、死にたいのか、もうそれすらよくわからなかった。
 自分の心すら見失った状況が情けなさ過ぎて、無意識に笑いが漏れる。緊迫した状況で笑む姿は、ひどく不気味に映ったのだろう。男たちに漂う空気が途端に張り詰めた。
「なにがおかしい?」
 なにがおかしいのだろうか。自問しても、もうよくわからない。
 ただ、肩が痛んだ。
 夢中で走った時には忘れていたその痛みが、感覚を支配していく。ドクドクと巡る血流と共に、体の中に痛みが駆け巡っているようだ。
「さっきの風もおまえの仕業か?」
 問われた意味もわからず、彼女は沈黙したまま男たちを見ていた。
 身じろぐこともできず、体の震えすら制御できない自分を相手に、警戒心を露わにする男たちの姿は滑稽だ。再び笑みを漏らすと男たちはますます警戒を深めたように、両手で剣を握り直し、切っ先をこちらに向けて構える。
 対処しきれないこの現状に、自分は少しおかしくなってしまったのかもしれない。そうでなければ、こんな場面で笑っていられるはずもない。どこか他人事のようにそんな事を思いながらも、彼女は男たちを凝視し続けた。
 わずかな時間だったろう。それでも少女にとってはずいぶん長いこと、男たちはじりじりと距離を詰めるものの斬りこんではこない。
 均衡を破るように、リーダーの男が大きく足を踏み出した。
 その時。それは文字通り、風のように現れた。

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