File.12 うさぎはここにはいないヒト

「怪我の具合は?」
「んー……どうだろ。鬼ごっこはしたくないかも」
なにをさせるつもりなのかと向かいの男を窺うように見るも、ホットケーキの蜂蜜とバニラエッセンスとの香りに警戒はすぐにほどけ、幸福感に浸ってしまう。
出会った頃。なにを出されてもろくに口にしなかった中学生と高校生の狭間で放り出された子どもに「お子様にはやっぱりこれだろう」なんて言って出してくれたのが最初だったか。絵本から出てきたようなふっくらふわふわなビジュアルと甘い香りに目を瞠っていたら、フォークに刺して差し出された。押し込まれるようにして口にしたそれが、なんだかもう悔しくなるくらい懐かしいおいしさで。おずおずとフォークを受け取り、自発的に食べ始めたら「お子様め」って頭を撫でてくれた。安堵の透け見える苦笑に、少なくともこの人は本当に自分を心配してくれているのだと飲み込めた。
以来、千彰の作るホットケーキは透子にとっては特別な好物となった。
当の千彰はといえば、甘いものは食事にならないと言って、透子の皿にあるようなものとは違うごく薄く焼いたパンケーキにあれやこれやと添えるのが常だ。今日も向かいの皿にはコーンとほうれん草を炒めたものやプチトマト、焼いた大きくて分厚いベーコン、ベイクドポテトが鎮座していて、パンケーキのほうが添え物のように見える。ブルーベリーとプチトマトが添えられただけの透子の皿とは対照的に、随分とボリューミーなプレートになっている。
一緒にいただきますをしたはずなのに、あっという間に平らげた千彰が頬杖をついてこちらを見るともなしに見てくる様もまた、いつもの食卓の光景だった。
珈琲の入ったマグカップを置いて、ふと指先が伸びてくる。探るように、労るように触れるのは、今はもう湿布すらしていない手首だ。
「眠れてるか?」
「まあ、それなりに。さっき車の中でもいっぱい寝たし」
靴屋からの移動中は盗聴器や諸々が近くにないことに気が緩んだのか、それともかつての習慣か。シルフィーが走り出した途端に訪れた眠気に任せ、早々に意識を手放した。そう長い時間ではなかったが、お陰で頭はすっきりとしていた。
「いっぱいってほどの時間じゃないがな。手首は? かなり痛むか?」
「マグカップを持つのはまだちょっとだけ痛い、かな。何もしてなければもうそんなに気にならないよ。……支障がありそう?」
「いや、今日はそういうんじゃない、はずだ」
「なにそれ」
最後の一切れを惜しむように口に運ぶ。お腹はちゃんと膨れているのに、なくなってしまったことが惜しい。丁寧に咀嚼して飲み込むと、察したように「また今度な」と笑いながら手首に触れていた指先がさらりと髪を撫でて離れていく。
「今度って。年末以来一度も会ってないよ」
秋もそろそろ終わりに差し掛かっている。元々マメに会っていたわけでもないし、連絡が途切れることもよくあることではあったが、今回は随分と間があいた。気軽に今度なんて言わないで欲しいと視線に載せると「あら、ヤダ。アタシに会えなくてそんなに寂しかったのかしら?」などと茶化す。それでもなお無言の圧を送り続けると、返されたのは根負けしたような苦笑だった。
「便りがないのはよい便りってな。そろそろ親離れしたらどうだ?」
「ちーちゃんはお父さんじゃないでしょ」
「ママって呼んでもいいわよ?」
「もぉっ、そういうんじゃなくて」
「わかったわかった」
千彰が透子のしていること──させていることを好ましく思っていないのは知っている。距離をとり、”透子”としての生活を確立させたいと考えている。同時に、彼が脱兎としての自分を手放せないこともわかっていた。
ハッキングは犯罪だ。データを盗み出したり、改ざんしたり、人のパソコンに侵入して勝手にファイルを置いてきたりプログラムを仕込んだり。たとえ相手にセキュリティホールを指摘するようなものだって、頼まれてもいないのに勝手に人の家に上がり込んで、お宅の防犯設備では泥棒に入られてしまいますよ、と説教をするような行いでしかない。
それでも千彰の求めるままに己の能力を使うのは、恩人であり理解者である彼の役にたてるのが嬉しいからだ。もっとも、単純に自身がそうした作業に没頭するのが嫌いじゃないというのもあるだけれど。
これまでもそれをしたからと言って危ない目にも怖い目にもあったことはない。システムへの侵入を相手に覚られ追跡をされるようなことがあっても尻尾を掴むどころか毛先にも触れさせないほどにするりと逃げおおせてきた。痕跡を敢えて残す時にはウサギの目印を。紛うことなく同一犯とわかるように。それがいつからか”脱兎”と呼ばれるようになった所以ゆえんだ。
「未然に防げなかったのはこちらの落ち度だ」
伏し目がちに透子の左手首に視線を落とした千彰が、「悪かったな」と謝罪を口にした。
転落した時のことはただただ混乱の中で、実は断片的にしか覚えていない。痛みと衝撃と、目前に迫った電車と。状況の把握も出来ないままに死ぬと思ったあの瞬間。強い力で抱き上げられた刹那、ゴォという大きな音と風圧に晒されたところまでは覚えている。
記憶を辿れば震えそうになって、きゅっと奥歯を噛みしめてからニコリと笑顔を作った。
「助けてくれたのってちーちゃん……じゃないよね。もしかしてお当番さん復活してるの?」
最近は自宅内での監視や携帯のGPSでのチェックに留まっているのかと思っていたが、かつてのように誰かしらが付いて警護してくれていたのか。そうだとしたら、川村が気付きそうなものだが、そういえば今回のことが起きるまでは川村の監視も緩んでいたんだったと思い直す。もしかしたら、入れ替わるようにして守られていたのかもしれない。
「さて、片付けるか」
質問などなかったかのように、立ち上がった千彰がさっと食器を重ねた。否定されないというのは、そういうコトなんだろう。
「手伝うよ」
釣られたように腰を浮かせると、「温存しておいてくれ。後でこき使うからな」と大仰に肩を叩かれた。
「えぇ~」
慣れた手つきで軽く流した食器を次々に食洗機へと入れていく。そうしてスイッチを押すと、コップを手に戻ってきた。
「お水?」
「薬。まだ残ってるだろう」
「……持ってきてないよ」
今朝慌ただしく出掛けていった川村は、「きちんと薬は飲むんだよ」と透子に言い含めていくのは忘れなかった。忘れていったフリをしたら後が怖そうだ。そう思ってバックに入れては出たけれど、あれもこれも全部靴屋に置いてきてしまった。正真正銘ここには”持ってきていない”。
「大丈夫よ。はい♡」
グラスの隣には、どこから取り出したのか白い錠剤が並べられている。処方されていた薬だ。これだけちゃんと抜いてきたのか、それとも実は靴屋に置いてきたと思っている荷物もここに持ち込まれているのか。確かめてみる気も起きないけれど、とりあえず飲まなくてはいけない状況になったことは理解できる。
「ちーちゃん……」
「なあに?」
「もう大丈夫だよ、うん、ほら、腫れてないし、痛いって言ったってそんなには」
うんうんと明るく頷きながら、「で? 今日は何をすればいいの?」と目を逸らす。
「透子ちゃん」
「……」
「透子」
「……。大丈夫だよ、そんなに痛くないし」
「そういうのは完全に炎症が治まってから言う台詞だ」
「治ってないの承知で呼んだってことは急ぎなんでしょ? だから、ほら」
「わかった」
千彰が大きく息を吐いたのを了承と思ったのもつかの間、「選ばせてやろう」とさながら悪役のごとく引き上げられた口の端に、なぜか背中がゾクリとした。
「注射と薬、どっちがいい?」
「ど、どっちもヤダよ。だいたい注射って、ちーちゃんお医者さんじゃないじゃん」
「出来ないと思うか?」
出来るのかもしれない。と思わされてしまう。いやいや、それにしたって願い下げだ。注射も薬同様ろくな思い出がないが、薬と違って痛みがある分タチが悪い。
「どうする?」
「どうもこうも」
「よし、注射と薬両方だな」
「薬! 飲む! 飲みます!」
川村にも半ば強引に飲まされていたし、飲めないわけでもない。慌てて口に放り込んだ錠剤をたくさんの水で流し込むと、「いい子だ」と大きな掌が髪をくしゃりとかき混ぜた。

食後にひと息ついた頃。
「ラブレターだ」
そう言って差し出されたA4の紙の束は1センチを越えていそうな厚みがある。紙面を埋めているのはプログラムコードだ。
「ラブレターって……」
視線を走らせて息が詰まった。
「これ……どこにあったの?」
「ってことはお前には読めるんだな──”アリス”か?」
もう一度紙面に視線を落とす。確かに読める。読めるから、わかる。これではたぶんまともに動かない気がする。
「ただ、これちょっとおかしい。間違いというか……」
抜けがあると思う。もしくは順番をいじられているか、ところどころ支離滅裂だ。
「間違い?」
「間違いっていうか」
「”アリス”ではなく単なるデタラメという可能性は?」
「それはない。……これ、なに?」
「だから、ラブレター、もしくは挑戦状?」
「誰から?」
「……」
「誰への? ──脱兎?」
ナイショ、と唇の前に人差し指をたてた千彰は、口元だけで笑っている。いくら訊いても教えてくれない時の目だ。
「もぉ……。これ、これで全部なの? ちょっとよく見てみるよ」
「ありがと♡ ケーキならしこたま用意してあるわよ」
”脱兎”の作業をする時には、なぜだか異様に甘い物が食べたくなる。作業前には箱一杯に並んでいたカットケーキが、気付くとなくなっているなどザラだ。頭脳労働には甘い物が必須だからと言い聞かせてはみるけれど、味も覚えていないような食べ方で、計算してみるのも恐ろしいカロリーを摂取してしまったことに、机に頭を打ち付けたいような心地になることもあった。
「そ、そんなに食べないよ、これくらいなら」

そんな希望的観測は、今回も見事に裏切られた。
「やっぱり、そういうことだよね」と小さく呟いた時には、カーテンの向こうは真っ暗闇。PCの片隅の時刻は、日付が変わったことを告げていた。そして、ケーキが詰められていたはずの箱は、空っぽになっていた。

◇   ◇   ◇

見事にまかれたとすべきか、不幸な偶然が重なったとの見方が正しいのか。
見失った透子と瀬谷千彰の所在は、存外すぐに発覚した。なんのことはない。千彰の運転する車で、千彰のマンションへと帰宅していたのだ。
防犯カメラの映像にあっさりとひっかかり、行方をくらませようとしていたわけでもないことが知れる。けれど、透子に仕掛けたGPSも盗聴器もすべて綺麗に置き去っている。
買い物に立ち寄る。店員のミスにより、スマートフォンが濡れ、馴染みの店なのか荷物を預けてそのまま店を後にする。
まったく有り得ないことではないかもしれないが、下着からなにから新しいものを購入して着替え、元の持ち物すべてを店に預けていくのはやはり不自然に感じる。
ではそのまま姿を完全にくらますのかといえば、あっさりと見つかる場所へ帰宅する。
食事ランチをしてからの帰宅にしては時間の辻褄が合わないことを除けば、白とも黒とも断定できない。
それに加えて登庁してみれば呼び出された内容にはまったく緊急性もなく、孫娘の自慢と遠回しな見合いの打診。くだらないにもほどがある。
久しぶりの自身のデスクを念入りに拭き上げて、どかりと椅子に腰をおろすと、部下の肩が小さくはねる。『このくらいで動揺するな』と舌打ちしたくなるのを堪え、自身こそ落ち着けとそっと深呼吸をする。
振り回されている。
下着の試着をしている時も、「どう? あらいいんじゃない?」などと明らかに着ている様を見ている声がしていた。名目上、恋人である自分ですら、まだそんな姿は見ていないのに、だ。彼女も彼女だ。驚いたように「ちーちゃん!」と窘める声音は響いたものの、それ以上の拒絶はしていなかった。
しかも、不能とはどういうことだ。
いやいや、そういうことではなく。問題はいっとき見失ったことと、それ以降のふたりのやりとりが一切把握できていないことだ。
ふたりが女同士のようなやりとりをしていたことなど不毛……不能……。
バンっ!と机を叩くと、周囲の数人の肩がまたはねて、「なにか?」と恐る恐る尋ねてくる。
「……すまん。決済が必要なものは全部だせ。当面こちらに来る予定はないからな」
今できること、すべきことへと意識を向け直し、夜まで黙々と雑務をこなした。

日付が変わってしばらくした頃。彼女からメッセージアプリへと連絡が入った。
連絡ひとつ出来なかった詫びと、スマートフォンが壊れてしまったこと、明日の昼までには帰るという連絡が綴られ、おやすみなさいと結ばれていた。

◇   ◇   ◇

「彼氏におやすみなさいの連絡?」
顔をあげると、シャワーを済ませた千彰がにやにやとこちらを見ていた。
よくわからないプログラミングデータは、結論として飛び飛びで完全なものではない、ということだけがわかった。綴りそのものがおかしい場所を訂正していっても綺麗に繋がらない。散々眺め、並び替えてみた、それが結論だった。
準備されていたお風呂に向かえば、大好きだったいちごみるくの入浴剤の香り。
お風呂をあがるとお気に入りの着心地のよい部屋着が準備されていて、濡れてしまったスマートフォンの代わりと新しい機種が差し出された。至れり尽くせりというのはこういうことをいうんだろうな、と疲れた頭で考えながら、やきもきしているであろう川村へとメッセージを送信した。おやすみなさい、と結んだのは、もうあれこれとこまかいやり取りはしたくなかったからだ。早々に返信を知らせる着信音が鳴ったけれど、今日はもう見たくない。
「彼氏……うーん、彼氏って言う? だってきっとそういうんじゃないもん」
千彰の返事も待たずにソファーに背を預けると、大きな掌が髪を撫で「お、ちゃんと乾いてるな。えらいえらい」などとカラカラ笑う。そのまま向かった冷蔵庫からペットボトルのお茶を出すと、コップに注いで透子の前に置いた。千彰はといえば、ボトルに口を付け、豪快に喉を鳴らした。
「お姫様はややこしいわねぇ」
「は?」
透子の隣に腰を下ろして、肩を抱いてくる。他人ならば馴れ馴れしいに図々しいを二乗したこんな行いも、この男ならばすんなり受け入れられた。
風呂上がりだというのに、千彰が好んで纏うライザンダーがかすかに香る。

かつて、千彰の恋人が「『夏の夜の夢』よね。あの男にぴったりだと思わない?」などと笑っていたのが思い出される。この部屋で、千彰と彼女と三人で過ごしたのは一年にも満たない時間だった。
「夢は終わって魔法はとけるのよ。お伽噺は、ないはずの夢なんだから」
透子にだけそう言い残し、綺麗に笑って、いなくなってしまった人。

「ないはずの夢……」
「……。夢じゃないデショ? アンタも王子様もちゃーんと『居る』じゃないの」
「『居ない』よ。ちーちゃんは知ってるんでしょ? 『川村』さんなんて居ないんでしょ? あれは『糸井』さん? それとも別のっ」
透子の唇を人差し指でトントンと叩く。先の言葉を飲むと、千彰は悪戯げに目を細めた。
「いーじゃないの。『川村』でも『糸井』でも。『山田』でも『佐藤』だっていいじゃない」
「よくないよっ、だって川村さんが警察の人だったら、私がアリスだって知られないほうがいいんでしょう?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
「なにそれ。……川村さんは警察の人なの? そうでないの?」
「どっちだと思う?」
むぅと膨れて、「それを! 訊いてるんでしょっ」と千彰の両頬をむにゅと摘まんで左右にひっぱると、降参降参と手をあげて、さも愉しそうに笑うからますます腹がたつ。「まあ待て。まだ確信が足りない」
「ちーちゃんはどっちの味方なの?」
「俺はいつでも可愛い女の子の味方だよ」
「……なにそれ。じゃあ、ちーちゃんは? ちーちゃんは、川村さんの敵? 味方?」
ゆるりと和むように笑った千彰は「敵にまわりたくはないわねぇ」と背もたれに首を預ける。ほんの少し考えるようにしてから、透子を正面から覗き込んだ。
「が、保障はしない。王子様の為なら俺とも敵対するか?」
「そんなの……私は、ち」
すかさず唇を掌で覆われた。
「ばあか、そこはそうだとでも言っとけ」
「……」
「いつでも自分のために動け」
「……」
「自分のためだけに動け。誰かの為に危ない橋を渡るな」
「……」
「モネ」
「……ここでそれは狡い」
「男はみんな狡いのよ。……覚えときなさい?」
自分の唇の前に人差し指をたてて片目を閉じる笑みが、いつかの彼女に重なる気がした。
「……」
「なんてな、橋に引き込んでるやつの台詞じゃないよなあ」
「引き込まれてるんじゃないよ。自分で、好きでやってるんだから」
「お姫様はけなげだねえ。そんなことだから利用されるんだぜ? 俺にも、あいつにも」
「『お姫様』じゃないよ。私は、登場人物ですらない」
『川村』についてとやかく言える資格などないのだ。『瀬谷透子』だって存在しない。
グラスのお茶を口に含み、ごくりと飲み込む。せり上がりそうになる感情ごと。
私は、ここに、居ない人。
「登場人物だろ。ここに居るんだから。……まっ、世界を越えてまで出会って恋に落ちるなんざ、それこそよほどお伽噺みたいだがな」
落ちていきそうな気分を引き上げるようにカラカラと笑った男は、乱暴なくらいに強く頭を撫でてくる。
「お伽噺なら、泡にでもなって消えちゃう方がいいのかも」
誰かに迷惑をかける前に。物語の辻褄を狂わせてしまうことがないように。
「そんなタマじゃねえだろ」
「……」
「さってと、寝るか。……車出すか?」
「だいじょぶだよ」
「よし。さあて、明日はお前の恋人に挨拶しなくちゃな」
「ちょ、ちーちゃん、あんまり挑発しないでよね」
立ち上がった千彰を追いかけるように腰をあげると、「ママがちゃんと見極めてあげるわ♡」などと軽口が返るばかりだった。

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