File.11 うさぎはしごとをえらべない

 なんで今この時なのかと歯がみする。最優先事項は”うさぎ”であり”瀬谷透子”のはずだ。そのように段取りをつけ、上にも報告してあった。それなのに、ここぞというタイミングで横槍が入るなどどうかしている。
 フィクションの世界ならば違法行為を連発してでも華麗に犯罪者を逮捕するなどの活躍をみせる公安も、蓋を開ければ宮仕えの縦社会でしかない。己があの大きな縦繋がりから独立し、特定の組織や犯行について自身の裁量だけで動くことが許されれば、まどろっこしい根回しも雑務もしないで済むのにと思うことはある。実際他部署よりも自由がきくのは確かだが、所詮枠組の中の話しに過ぎない。もっとも、新人の頃ならばいざ知らず、よくも悪くも警察という組織について身に染みている今となっては、上の横暴とも思える言動にもそうそう噛みつく気も起きなければ、青臭い夢想などもしなくなる。面倒な繋がりや規律があるからこそ許される違法捜査であり、もみ消しや目こぼしでもあるのだ。そういう恩恵に預かることと煩わしさとを天秤にかけた時メリットがある方を選べば、下される命令に承諾する以外の選択肢などない。
 
 それにしても、だ。これまでにも自身の取り組む案件に支障をきたすことはあったが、今回はその最たるものといえる。そうでなくとも彼女の警護とも監視とも呼べる時間を二十四時間体制で確保すべく上に掛け合い、相応の労を尽くして他の案件からはずれる了承だってとった。それをも覆されて狩り出されるというからには、更に上層の意思が働いたか、急を要す事件が起きたということに他ならない。
 
 ”ちーちゃん”と呼ばれる男に、経歴上あやしいところはない。これまで直接会って話しを聞くこともかなわなかったのは単に彼が海外に居たからであり、仕事がらみだという渡航にも不審な点は見られず海を越えてまでどうこうする必要性を感じられなかったからだ。それなのになぜか引っかかる。それは透子に対しても同じだった。彼女の言動に不審なところがあるわけではない。ふとした時に違和感を覚えることはあれど、犯罪を疑うほどのものではない。だからもうこれは勘の範疇でしかなかった。一度は対象から完全にはずす判断はしたものの、彼女が何者かに命を狙われた以上、的外れでもないはずだ。
 瀬谷千彰が帰国したら速やかに把握できるよう手配しておいたはずが、なぜか連絡系統のミスが重なり、気付いたのは透子に連絡が入ってからだった。そんな初動こそ後手に回ったものの、彼女のスマートフォンはもちろん、スマートフォンを放置して買い物に出掛けることもある透子の性質を考慮して、鞄や靴にもGPSや盗聴機器の類いを仕込み、千彰たちを尾行する人員を手配し、万全の態勢で今日を迎えた。あとは彼女を迎えに来るという千彰に接触して、透子の恋人として挨拶をし、あわよくば食事でも共にして経歴だけではわからない情報を探るつもりでいたのに、急な呼び出しに段取りが狂った。
 予定外となったのはそれだけではない。マンションまで迎えに来た東の車。その助手席のシートを念入りにアルコール除菌で拭き上げてから乗り込み、走り出した車内で彼女に仕掛けた機器の調子を確認し始めたのを狙い澄ましたようなタイミングで、透子のスマホにメッセージが届いた。
 
『もうすぐ着くから仕度しておいて♡』、と。
 
 当初の予定時刻からは一時間以上も早い。語尾のハートになんとなく神経を逆撫でされた心地を覚えながら、尾行班に予定前倒しの指示を飛ばした。
「泊まりの予定でしたよね」
 そろりと切り出すように口にした東に視線をやれば、前方を見据えながらも「一応彼氏としては気になりませんか?」などと宣う。
 彼氏とは名ばかりだと知る部下に改めてされる質問だとも思えない。「何が言いたい?」と問う声は思いのほか低く響いた。
「いえ、友達すらいなさそうな彼女が唯一親しげに呼ぶ男なんて俺でも気になりますからね。”彼氏”となれば尚更なんじゃないかと思いまして」
「気にはなるな。本当に”うさぎ”との接点はないのか。なぜ、命を狙われたのか」
 なぜ経歴に傷ひとつなく、事故や事件に巻き込まれた記録もない一般人に銃創痕があるのか。なぜ居たはずの兄が存在しないのか。
 瀬谷千彰とはそれらの答えをすべて持っている人物なのではないか。だとすれば、彼との接触は情報を得る為の紛れもない好機だ。

「たぶん泊まりになると思います。電話でそう言ってたので」
 千彰と会うことを告げられた日、三人で夕飯でも一緒にどうかな、と切り出すと彼女はどこか困ったような顔でそう答えた。
「ちーちゃん、マイペースで時間も予定も全然わからなくて。私もいつも連れて行かれるまま着いていくだけで……あ、会えるのは嬉しいからいいんですけどね」
 フォローするようにそう付け加えた彼女に、「僕とじゃ嬉しくない?」なんて訊いてみたのはつい口から滑り出てしまっただけで他意はなかった。が、はからずも見ることができた、もちろん嬉しいですよ、と頬を赤らめて答える姿はなかなかに可愛かった。
「千彰さんのうちに泊まるの?」
「さあ? どうでしょう……ちーちゃんの気分次第なんですよねえ。温泉に行くとか言って突然旅館に連れて行かれたこともあるし」
「旅館? それって、……部屋も一緒なの?」
「はい」
 後ろめたさなど欠片もなく頷く様に男女の仲を疑うのはおかしいのではという気にさせられたが、いい年をした男女が旅館でひとつ部屋に枕を並べるなど客観的に考えても仲がいいにもほどがあるだろう。
 同時に好都合だとも考えた。一人で居る限りは黙っていれば何も明かされずとも、気を許す相手と会話をすればボロが出る可能性がでてくる。時間が長ければ長いほど、その確率があがる。食事だけしてさらりと別れて帰ってこられるよりも、泊まりで過ごしてきてくれた方が得られる情報は多くなるはずだ。
 ひとつ懸念があるとすれば、彼女の命を狙った者が千彰かそれに繋がる者である可能性を捨てきれないという点だ。盗聴やGPSについてはアプリや機器を見つけられてしまうリスクよりも彼女らを見失うリスクを優先して多めに仕掛けた。駅の防犯カメラの映像が細工されたことも鑑みれば、デジタル上では犯人の方が上手な可能性も高い。ゆえに、尾行の人員も常の倍配置して、それらの機器が機能を失った場合でも何者かが──千彰自身が彼女に手をかけるようなことでもあれば、すぐに踏み込んで阻止できるよう算段した。

 仕度を終えたのだろう。彼女が玄関を出て施錠をする音がする。エレベーターの到着音、衣擦れと足早に歩く気配。そして。
『いやぁん、久しぶり~。相変わらずおブスなんだからもぉ』
 響いた声に、一瞬まったく関係のない声を拾ってしまったのかと固まる。
 間違いようもないほどに低音の男性的な響きを裏切る口調で『はい、乗って』、『早く行きましょ』と続く。
「瀬谷千彰、だよな?」
『オーケー?』『ん。じゃ出発しましょ』と仕掛けた機器が次々に声を拾い上げていく。
 彼について調べた時にも、そんな情報はひとつも上がってはいなかったはずだ。先日の電話は東からの報告を聞くに留め、自身で音声確認まではしていなかった。驚く川村とは対照的に、東は「そうですね、同じ声だと思います」と涼しい顔をしている。セクシャリティーが関係しないであろう案件とはいえ、得られた情報はすべてあげるべきだ。初歩の初歩だろうと苛立ちながらも機器からの声に耳を傾ける。
 それにしても彼女が泊まりで過ごすことになんの問題もないような顔でいたのは、つまりはこういうコトだからだろうか。仲のいい姉妹なら、あるいは従姉妹同士ならば、女子会だのガールズトークだなどといって、泊まりで過ごすこともあるだろう。いや、温泉についてはまさか一緒には入らなかっただろうなと確認はしておきたいところだが。
 GPSの動きに視線を落とせば、彼女の乗る車はこちらとは真逆へと進んでいく。尾行する予定だった者たちも同じ情報を共有しているはずだ。ほどなく追いつくだろうが、それまではこちらでも動きを追っておかねばならない。
『刑事さんに聞いたわよ。男と同棲なんてやるじゃない。イイ男なの?』
『けい、え、どういう……』
 なるほど管轄課は正しく任務を遂行しているらしい。職務権限を駆使し、裏から手を回して彼女への事情聴取は最低限に抑えたが、事件そのものの担当はこちらで預かることはしていない。あくまでも”一般人”がホームから転落した事件、あるいは事故。ホームから突き落とされた殺人未遂なのか、偶発的に起きた出来事に分類されるべきものなのかは捜査中だ。彼女が恨みを買うようなことはなかったか。実質保護者代わりの千彰の元に署員が出向くのは当然の流れといえる。
 しかし、いくら保護者相手とはいえ被害者が男の元に身を寄せているなどという情報を漏らしたのだとすればそちらにも再度確認と指導が必要かも知れない。
『あー、こないだ来たのよ。あんたが線路に落ちて怪我したとか、事件の可能性もあるとか。もぉ、心配したわよ。そういう時はすぐに連絡しなさいって言ったでしょう?』
『でも、ほら、ちーちゃんに連絡しても来られないし』
『アハ、そうよねえ。ま、元気そうで安心したわ。で?』
 安心したわ、じゃないだろう。能天気に笑っているようだが、ともすれば透子は死んでいたのだ。彼女はもう成人女性だ。保護者の責任を問うつもりはないが、家族のいない透子にとって唯一頼りにしている男がこれかと舌打ちのひとつもしたくなるというものだ。
『で? って?』
『だから。恋人。一緒に住んでるんでしょ? 詳しく聞かせなさいよ』
 声こそ野太いが、完全に女友達のノリだ。そもそも彼女が千彰のことを”ちーちゃん”と呼んでいるのも、この性質がそうさせているのだろうか。
『詳しくって……』
 好奇心むき出しの相手に押され気味で困っているのか、言葉の先が続かない。
『イイ男なの?』
『いいって、……うん、そうだね。かっこいい、と思う』
 彼女はあまり好意を口にしない。感謝や謝罪は適切に折り目正しく口にするが、こんな言葉は、促して、強請って、ようやく言ってくれる確率がおよそ三分の一。言われずとも、どうにか誤魔化そうとする表情が可愛くてついつい追い詰めてみることはあれど、改めて第三者に向けて自身の評価を言葉
かたち
にしているのを耳にするのは面映ゆいものだ。
『ふぅん。で? その男のせいで寝不足なわけ? やだわ、あのネンネがちょっと目を離した隙にどんどんオトナの階段を昇ってるのね』
『オトナって……? ……し、してないよ! き、キスしただけで、そ、ソウイウコトは別に』
『はあ? 恋人と一緒に住んでてしてないとか、相手の男、不能なんじゃないの?』
 クっと息を詰める気配は顔を向けなくともわかる。東が吹き出すのを堪えたのだろう。
『それは、わからないけど』
 わからない? わからないだと!?
 確かに未経験であろう女に偽装でそこまではと自制はしたが、そのせいで随分と不名誉な誤解を生んだものだ。
『まだ若いのに不能なんてお気の毒ねえ』
 既に彼の中では決定事項なのか、息を吐いた千彰の声音は心底気遣うもので、東の肩がますますぷるぷると震え、とうとう小さく呻きだした。
「だ・れ・が・不能だと!?」
 あらぬ疑いを向けられて反論してやろうにも、こちらの声は届くはずもない。いや、届いてはまずいのだが。
『そっ……んなんじゃないと思う。単に私が川村さんの範疇じゃないんじゃないかな……』
 透子の沈んだ声音に「はあ?」と思わず声をあげてしまう。
 取り繕うのは得意だ。これが目の前で交わされている会話ならば、当たり前の恋人の顔で、「透子さんにまだ通じていなかったなんて」とがっかりした顔を見せることもしたかもしれない。だいたい”範疇じゃない女”を恋人にしているなんてどんな男だ。遊んで捨てるでなく、食事をするだけの友人関係もあり得るだろうが、唇を重ね、危険からの保護的な意味合いが強いとはいえ一緒に住んでなお、彼女はこの関係を”恋人”だと認識していなかったということか。それとも、健全な男女が仮にも付き合って半年以上、とうとう一緒に住んで手も出していないというのがあまりに不自然だっただろうか。
 これまでも想い人の顔で情報を引き出すくらいのことはしたし、必要とあらば寝たこともある。こんな風に時間ばかりかけて、手を出さないままに一度はフェイドアウトした相手と一緒に住むなどかなりイレギュラーだ。
 彼女がいっそ犯罪者だったなら、もっと手っ取り早く進めたかもしれない。しかし、関係者と接点があるかもしれない程度、ともすればまったくの一般人という可能性を捨てきれない相手となれば、さすがに気がひける。男性経験のなさそうな彼女を、仮初めの男が抱いてしまうのはいかがなものかと敢えてそういう関係にまでは踏み込まずにいたが、付き合っているとすら思って貰えないくらいならいっそ暴いてしまえばよかっただろうか。
 半分涙目になりながら笑いを抑え込もうと息を詰めている部下しかいないこの状況では、溜め息しかでない。
『あらそう、じゃあアタシでもいけるかしら』
 なんだ。不能の次はそっちの趣味と疑われているのか。投げやりな気持ちになりつつ耳を傾けてみても、透子は黙り込むばかりだ。これは本格的に不能だと思われているんだろうか。
『やだ。本気にしないでも大丈夫よ。可愛い妹分の恋人に手を出すはずないでしょ?』
『うん』
 そこは『私の男に手を出すな』くらい言って……欲しいのか。つい自問する。いや待て。そもそも俺が千彰おとこと付き合う可能性があると思われているのか?
 同性と付き合ったことがあるかないかといえば、ある。熱のないキスをそれらしく装い、尻を撫でられ、股間を押しつけられながら、幾度となく一線を越えようと口説かれたこともある。だがすべて職務上のことであり、プライベートとなれば断固お断りだ。人の嗜好をとやかく言うつもりはないが、自身でいえば心が女だとか、体も人工物で女に仕立てただとか、そういうのもひっくるめて願い下げだ。
「そういや敬語じゃないっすね」
 苛々とした思考を、ふいに東が遮った。目尻を拭いながらの言葉に、改めて気付く。
 誰と話す時も彼女はいつもですます調だ。唯一”妹”のフリをした時はこんな風に話していたが、咄嗟に”兄”を名乗っている状況を理解し、すんなりと調子を合わせてきた切り替えの早さに感心していた。
 従兄に『うん』と答える響きはやわらかく、幼さすら滲ませる声音は本当に気を許している証なのだろう。演技ではなく、本当に気を許した相手にはちゃんとこんな風に打ち解けて話すのだということを初めて知った。半年以上もかけてようやくわかったのは、対象と仮初めの関係すらまともに築けていなかったという自身の至らなさのようだ。
 ふいに着信を告げてスマートフォンが震えた。尾行班が無事千彰の車に追いついたらしい。本当ならば自分でこのまま千彰たちのやりとりに耳を傾けながら追跡をしたいところだが、そろそろ呼び出された庁舎に到着するのだからそうもいかない。
 追跡や連携の指示をだし、見失うことのないよう二重三重の網を手配して、通話を切り上げた。
その網にひとつもかかることなく、対象を見失ったと連絡を受けたのは午後になってからのことだった。

◇   ◇   ◇

 後ろ手にドアを閉めた千彰が「さて、脱兎。仕事だ」と低く告げたかと思うと、すぐに「とか言ったらちょっと悪の組織っぽい?」などと言いながら破顔する。
 ひくりと頬を引きつらせれば、「冗談、冗談。いやあ、ずっと盗聴されるとか久しぶりだったわ」と言うや靴を脱ぎ捨て、すたすたと廊下を進む。
「もぉ、ちーちゃん。靴! 揃えてよ」
 頬を膨らませ、千彰の革靴と買ってもらったばかりのピンヒールを揃えて並べてみる。

「これ……ちゃんと歩く自信ないんだけど」
 何軒かの店をまわった後、連れてこられたのは靴店だった。不相応な高級店だが、千彰と共に何度か訪れたことがある為、気後れはせずに済んだ。いつものように三階の個室に連れて行かれ、お茶を供されながらの靴選び。いつもならティーカップを手に千彰が店員とあれこ話しながら靴を履いたり鏡の前に立ったりするのを眺めるだけが常だが、今日セレクトしたピンヒールは透子のためのものだった。
 黒いヒールにはアンティークシルバー調の蔦がからみ、足首近くには控えめにバラの細工が施されている。眺める分には素敵だけれど、履いたら機敏に歩ける気がしない。どこまでも駆けていける脚をなくしてから、咄嗟に走ることができない靴は避けてきた。踵の低いパンプスですら滅多に履かないのに、ピンヒールはさすがにハードルが高過ぎるのではないだろうか。
「歩きにくいというか、立ってるのが精一杯というか……」
 この後、おそらくは尾行をまかねばならない。それを念頭に置いて抗議すると「お馬鹿ねえ」などと額を指先で弾かれた。
「それは歩くんでなくエスコートされる為のアイテムよ。あんたは私の腕に掴まって背筋伸ばしてればいいの」
「エスコートって……」
「はあ……もぉ、どれだけ程度の低い男と付き合ってるのよ。ま、成長してないあんたを見れば大した男じゃないことはわかるわ」
「ちょ、ちーちゃんっ」
 先ほどから川村が聞いているのをわかっていて、千彰は挑発的な物言いを繰り返す。そのたびに慌てる透子の反応ごと愉しんでいるようだ。ふふと悪戯げに笑いながら、腕を組み指先で己の顎を撫でた男は、まじまじと透子の頭から足先まで視線を滑らせた。
「履き心地は?」
「……視界が高くて変な感じ」
 鏡の前に立ってみても、不相応な靴ばかりが勝手に歩いて行ってしまいそうに浮いて見える。鏡越しに目を合わせた男に、無理そうだと無言で訴えかけてみても「背筋伸ばす!」とぴしりと背中を叩かれただけだった。
「しょうがない子ねぇ。せっかく綺麗な脚なんだからこういうのをビシっと履きこなして踏んづけてやればいいのよ」
 何を、あるいは誰をと訊く気も起きずに黙っていると、隣に立った千彰の掌が腰に添えられる。押し出されるままに歩き出せば、左右の脚が滑らかに動く。視界を変えるほどに高いヒールも、大きな掌に支えられるだけで大丈夫な気がしてしまう。この手は何かがあったら絶対に助けてくれる手だと知っている。だから、心許ないほどに細い踵でもすんなりと踏み出すことが出来た。
「ん、オーケー。痛いところもないわね?」
「うん」
「じゃ、それにしましょ。さて、じゃあ着替えてランチに行くわよ」
「着替えって……」
「ねんねの子守なんてごめんよ? そのお子様パンツもブラジャーも全部着替えて、見た目だけでもどうにかしなさいな」
「お子様ぱんつ……」
 誕生日にプレゼントを贈り損ねてしまったから。そんな名目とはいえ随分気前よくあれもこれもと買い揃えるものだとなかば他人事のようについて回っていたけれど、なるほどそういうことかと納得する。透子の持ち物にはどこに川村の仕掛けたものがあるのかわからない。ならば全部まるっと、ということだろう。
着せ替え人形よろしく店員のサポートのもと、化粧はもちろんのことなにから何まで着替え終わった途端。
「きゃっ」
 がちゃんと音をたて、店員の悲鳴があがる。
「申し訳ございませんっ」
 見ればテーブルに置かれた透子のスマートフォンが紅茶の水たまりに浸っていた。
「あら、水浸し。困ったわねぇ」
 少しも困っていなさそうな声音に、店員さんも全員グルなのだとわかって溜め息が零れる。さすがちーちゃん御用達のお店。普通のお店ではなかったらしい。
「ランチの予約があるからこの件は後ほどお電話するわ。店長も午後にはお見えでしょ?」
「はい。誠に申し訳ございません」
「いいわ、じゃあ悪いけどこの子の荷物も全部預かっておいてくれるかしら? そのスマホと一緒に取りに来るわ」
「畏まりました。本当に申し訳ございません」
 どこかで聞いているはずの川村が、目を剥いているのが見えるような気がした。
 その後はこれまた用意していたとしか思えないタイミングでハイヤーに乗り込み、駐車場でちーちゃんの愛車・シルフィーに乗り換えて今に至る。

「ちーちゃん、”脱兎”はお掃除屋さんじゃないんだけど」
 靴を揃え、ちーちゃんに続けば十畳ほどの部屋の中には書類が乱雑に積まれ、脱ぎ捨てた服が点在していた。透子自身の部屋はそこそこ人並み程度には片付けていたし、川村は綺麗好きなのか部屋の中はいつもきちんと整頓されていた。アルコールのウェットティッシュやハンディワイパーも部屋のそこかしこにあり、ちょっとした汚れもちょこちょこと掃除をするマメっぷりだ。しばらくそんな部屋に身を置いていたから、なおさら室内が惨状に映る。
「やあねえ、あんたの部屋はちゃあんと準備が整っているわよ?」
「……それ、まだやるの?」
「あら、お気に召さない? ……これはこれでよくないか?」
 ニヤリといつもの表情で笑った男は、「ま、その前にランチだな」とキッチンに向かう。キッチンも水回りも部屋の惨状とは対照的に綺麗に片付いていた。相変わらずひとりだと自炊などしないのだろう。
「で? お子様は何が食べたい?」
「もぉ、お子様お子様って……」
「ホットケーキか?」
「ホットケーキ!? やった! あの分厚いのがいい!」
 千彰のホットケーキは絶品だけれど、面倒だと言って最近では滅多に作ってくれなくなった。厚みがあるけれど、しゅわしゅわのスフレというわけでもなく、普通のホットケーキよりは軽やかでふんわりしている。童話にでてきそうなそれにバターと蜂蜜をのせて食べるとそれはそれは幸せな気持ちになれるのだ。久しぶりにあれが食べられるのならば、お子様呼ばわりも全部帳消しにしてパタパタと尻尾を振ってしまう。
クッと喉の奥で笑った千彰は透子の頭をひと撫ですると、「じゃあとりあえず着替えて、そこらを片付けといてくれ」と冷蔵庫に向き直った。
「って結局、私が片付けるんじゃん……」
 言いつけられた最初の仕事は、買って貰ったばかりの裾のレースが艶やかなワンピースを脱ぎ、家政婦よろしく部屋の片付けをすることから始まった。

 これがあのテロ事件の始まりだったなんて、微塵も感じないほどにただの平和な日常だった。

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