「春休み中にどっか行こうよ」
卒業式を終えた午後。制服姿そのままで学校の最寄り駅のビルでのランチ。
受験生らしく遊びに行くこともせずに過ごしていたのと、バレンタインの後からこのビルが全館改装していたこともあって、ここに寄り道するのも久しぶりだ。
家族と来た時ならいざしらず、いつもなら友達とはファーストフードかフードコートでの食事がせいぜいだけれど、今日は卒業という特別感も手伝って新しくテナント入りしたカフェでのランチとなった。
いわゆる北欧風の店内は厚い木の一枚板を使った大きなテーブルがフロアの中央に鎮座しており、その周囲を4人掛けのボックス席が囲む。けして広くもない店内を大きな窓から柔らかに差し込む陽射しが開放的な雰囲気へと転じさせていた。
中学生が制服で入るには少しだけ躊躇してしまうお店。けれどショーウィンドウのパスタと、椅子や壁紙に配されたパステルグリーンに誘われて、もう今日で中学生ではなくなるという晴れがましさを携えて足を踏み入れた。
注文したランチセットは、サーモンのレモンクリームパスタも、ハナが頼んだベーコントマトパスタも最高においしくて、このお店は当たりだったと頷き合った。
「残念。部活なんだよね」
「部活!? 春休みに?」
中学の三年間は、ひたすら部活の日々だった。
トレーニングをして0.01秒でもタイムを短縮できることに繋がれば嬉しかったし、頭を真っ白にしてゴールへと駆けていくのは他では味わえない気持ちよさだ。
秋に部活を引退して以降は気が済むまで走り込むなんてことは出来なかったけれど、合格が決まってからはまた部活に顔を出していた。受験でなまってしまった脚を存分に使い倒すのは心地よく、下級生たちと一緒にこれでもかと走った。
「
マッキー──3年間陸上部の顧問だった牧野先生は、三年時の担任でもあった。スポーツ推薦枠で行ける高校がいくつもあると推してくれてはいたけれど、緑園高校に行きたいという意向を伝えると「がんばれ」と背中を押してくれた。
無事合格して部活に復帰した後、見学兼指導に来た高校の陸上部のコーチを紹介してくれて、春休みから部活に参加するという話が決まったのだ。
「そっかぁ……せっかくの春休みだからイトと遊ぼうと思ってたのに」
唇を尖らせたハナが、カラカラと音をたてながらアイスティーのストローをまわす。倣うように私もオレンジジュースのストローをなんとなくまわしてみた。
「ごめんね。でもほら、ハナは森くんとデートで忙しいんじゃない?」
「忙しいってほどではないけど。あのね、ポンターランド行ってくるからお土産買ってくる」
「ポンター!? いいなあ……。ふふ、今度は正真正銘カップルだね」
「それな!」
目を合わせて笑い合う。去年の春。受験生になったらあまり遊びに行けなくなるからと親にせがんで、ハナとふたりでポンターランドに遊びに行った。お兄ちゃんがお目付役として車を出してくれたけど「社会人が中学生と一緒になって遊べるほど体力があると思うな」と言って、園内ではハナとふたりで暗くなるまで遊び回った。
髪が男の子みたいに短くてデニムをはいていた私と、膝上のフレアスカートをはいた可愛らしい雰囲気のハナと。対照的なのもあったんだろうけれど「お子様カップルだ」などとなぜか微笑ましい目で見られたりした。
「あれはあれで面白かったけど、どうせなら今度はイトとダブルデートで行きたいなぁ」
「あはは、私に彼氏ができたらね」
「うわぁ、全然その気ないでしょ」
「そりゃ、やっと部活が解禁してそれどころじゃ……」
テーブルの隅に置いたスマートフォンがフルフルと振動して着信を告げる。お兄ちゃんからのメッセージだ。
「ごめん、ハナ。お兄ちゃんが車で下に来てるみたい。荷物持って帰ってくれるって言うからちょっと預けてくるよ」
「一緒に行く? ここで待ってればいい?」
デザートまで食べ終わっているとはいえ、ドリンクはまだ半分ほど残っている。急いで飲んでもらうほどのことでもない。「ここに居て貰っていい? 下の駐車場のところにいるみたいだから、預けてすぐ戻ってくるよ」と足元のバスケットに置いていた荷物を手にしながら答える。
「りょ~。いってら」
ひらりと手を振ったハナに頷いて、店を後にした。
荷物はそう多くない。ただ、部活の後輩たちがくれた花束を持ち歩くのは心配だったし、最後のホームルームで配られた卒業アルバムが大きくてかさばる。
式の後、お父さんたちに預けてくればよかったとちょっとだけ後悔していたから、お兄ちゃんからの連絡は嬉しかった。
お兄ちゃんとは歳が離れているせいか、ケンカひとつしたことがない。お父さんやお母さんよりも少し過保護で、ポンターランドに行った時だってお父さんたちはハナとならふたりで行ってもいいよと言ってくれたのに、なにかあるといけないからと付いてきてくれたのだ。
友達の家の兄妹よりは、少し、いやかなり仲がいいほうだと思う。
そういえば、卒業祝いをくれると言っていたっけ。何が欲しいか考えておけと言われたけれど、どうしようかな。
そんなことを考えながら、エレベーターのボタンを押す。
土曜日ということもありフロアはそれなりの人出だけれど、開いた扉の向こうには誰も乗っていなかった。
中の鏡に自身の姿が映る。
胸元の蒼いリボン。入学したばかりの頃は、綺麗に結べなくて何度も結び直したりしたけれど、今首の下に留まるのは可愛らしい蝶々だ。緑高の制服はネクタイだから、それもまた最初は上手に結べなくて苦労するかもしれないなどと思いながら、1階のボタンを押す。
閉まりそうなドアの向こうでお年寄りが何かを言いかけたように口を開いたから、急いで『開』ボタンを押した。
「ありがとうね」
「何階ですか」
「2階を……ありがとう。卒業式だったの?」
真っ白な髪がいっそ上品に見えるおばあさんは、抱え持った証書の筒に視線を落として微笑んだ。
「はい」
「そう、おめでとう」
「ありがとうございます」
会話を続けるべきなのかな。けれど何を話したらいいかもわからない。なんとなくソワソワした心地でいると、軽い浮遊感と共にピンポーンと到着を知らせる音と共に扉が開いた。
『2階、婦人服飾品、
自動音声のアナウンスを聞きながら、降りていくおばあさんに軽く会釈して『閉』ボタンを押す。
スマホに視線を落とすと、時刻は14:53。遅くとも18時までには帰ってくるように言われていたから、移動時間を考えてもまだ2時間以上ある。
このあとはビルの中の雑貨店や洋服を見てまわることになっている。高校では給食がなくなるから、新しいお弁当箱も選びたい。
ポーンと音をたてて、わずかな浮遊感の後に扉が開く。足を踏み出し、スマホから視線をあげて躊躇する。見覚えのあるお店がひとつもなく、改装前とはがらりと雰囲気が変わっていた。
先ほどここに来た時も通ったはずだったけれど、ハナとのおしゃべりに夢中で周りの様子などあまり見ていなかった。
「すご……」
さすが丸々1ヶ月以上全館休業にしていただけのことはある。お店のラインナップもすっかり変わっているようで、幾度も訪れたはずの場所なのに、自分が居る位置を見失ってしまった。
きょろりと周囲を見回して見ても、トイレやエレベーター、エスカレーターの場所を示す案内があるばかりで、駐車場へと続く出口が見当たらない。
いったん外にでてみたほうが早そう。そう思い、目に付いた出口へと向かって、外の様子に目を剥いた。
雪が降っている。
通り過ぎる人たちは傘をさし、店内へと入ってくる客達は入り口でバサバサと傘についた雪を落として傘袋へと己のそれをつっこんでいる。
「えー……お兄ちゃん車に傘積んでるかな」
ほんのさっきまで気持ちよく晴れ、最高の卒業式日和だったねと笑いあったのに。
ハナは傘を持っているだろうか。最悪、帰りにお兄ちゃんにもう一度迎えに来て貰ってハナを送って貰うのもいいかもしれない。
卒業式に雪が降るのは初めてのことでもない。一昨年の先輩たちの時も同じように雪が降った。
それにしたって、天気予報も降水確率はゼロパーセントだと告げていたはずだから、随分と急変したものだ。
ため息をついて、出口に向かい、位置を把握するために周囲を見遣る。
「……?」
北口側でも南口側にしろ、ひと目見れば場所がわかる。そう思ったのに。
駅ビルの改装に合わせて、このあたりも一気に建て替えなどが進んだんだろうか。そんな工事をしていた覚えもないけれど、知っている店がひとつも見当たらない。
少なくともいつもの駐車場へと続く出口ではなさそうだと、別の出口へと向かうが、そこもただ暗い空から白いものが降りそそぐばかりの見たことのない町並みだった。
不安になって、スマートフォンに視線を落とす。画面に変化はない。困惑しながら兄にどこにいるかとメッセージを送るが、すぐにエラーになってしまった。
ならばとメッセージアプリではなく、電話をかけてみる。
プ、プ、プ、プ……と何回かの電子音のあと、ツー、ツーと不通を知らせる音が響く。試しにハナにも自宅にもかけてみたが、やはり同様にどこにも繋がることはなかった。
もう一度周囲を見渡してみる。見覚えのあるものが見当たらない上に、リースやツリーといったクリスマスのような飾り付けがされている。
怖い。と、そこで初めて思った。自分の記憶がどうかしてしまったんだろうか。つい先週、総合科目で認知症について習ったのを思い出す。わかっているはずの記憶を取り出せなくなることで、パニックを起こすこともあるという。お年寄りに限った話でもなく、若い人にそういうことが起きることもあるのだと聞いたが、今自分の身に起きているのはまさにそんな感じだった。
とりあえず、いったんハナの待つ店に戻ってみようか。そう思いエレベーターへと早足で乗り込む。先ほどまで居た最上階のレストラン街へのボタンを遅うとして手が止まった。
8階までしかない。さっきは14階に居たはずなのに。
そんな記憶すらもあやしいのかもしれないと思いながら8階のボタンを押し、震える指先を握り込んだ。
8階は、書店だった。7階と6階にある飲食店街もぐるぐると歩いてみたけれど、先ほどの店が見つからない。
泣き出しそうになりながら、エスカレーターでフロアのひとつずつを見て回っても、記憶にかするものがひとつもない。2階から繋がる駅への連絡通路すらも見つからなかった。
再び1階に戻っても事態は変わらず、繋がらないスマホを幾度も操作し続けた。
「お客様、どうかなさいましたか?」
制服を着た店員さんに声を掛けられ、そうかと思う。人に訊けばよかったのだ。
「あの、駐車場口がわからなくなってしまって」
「駐車場口はございませんが、提携している駐車場に近い出口ということでよろしいでしょうか」
「あ、じゃあ駅。駅への連絡通路は何階ですか?」
「駅、でございますか? バス停ではなく?」
「はい、駅、東方線の……」
「トウホウ線でございますね。よろしければそちらのインフォメーションセンターに近隣の案内図がございますので」
促されるまま、店員の後ろについてインフォメーションセンターに行くと、すぐに周辺地図をカウンターへと置いてくれた。
「一番近い駅ですとこちらでございますね」
ここから随分と離れている場所を指し示される。
一番近い駅もなにも、このビルが駅に直結している駅ビルのはずなのだ。
「そうじゃなくて、ここ、駅ビルですよね? 南雲田の駅ですよね?」
「ミナミクモダ駅でございますね? お調べしますので少々お待ちください」
調べるほどの話しじゃないはずなのだ。だってこのビルは南雲田の改札と繋がっているのだから。
鼓動が嫌な音をたてている。
さっきまでハナとランチを食べて、ポンターランドの話しをして、それから……。記憶はたどれているはずだ。そこに齟齬はない。
「お客様、大変申し訳ございません。ミナミクモダ駅というのはどちらの……」
「いえ、大丈夫、です。すみませんでした」
少しも大丈夫ではないけれど、ここにいてもラチがあかなそうなことだけはわかる。
わけがわからず泣きたくなる。けれど、こんな場所で泣いていたら、本当に迷子の子どもと変わらない。
意を決してもう一度外に出てみる。キンと冷えた空気に春の気配はなく、行き交う人はみんな真冬のコートを着ていた。
手にした証書の筒。後輩たちからもらった花束。卒業アルバム。ここにあるのだから、『今日の記憶』がどうこうしたはずはない。
ふと、通りの向こうに交番を見つけた。あそこならと小走りで外に飛び出す。
お兄ちゃんが来ているはずなのだ。合流できればどうにかなる。もしくは、ハナを探そう。そう思いながら、交番の外に張り出してある地図を辿る。
ひとつひとつ目印になりそうな建物の名前を探しても、そこには記憶にあるものがまったくなかった。
「どうかしましたか?」
若いお巡りさんが声をかけてきた。兄と同じくらいの歳だろうか。細い目のお巡りさんは、心配そうにこちらを見ている。
あの、と口を開いたら、泣き出してしまいそうだ。
迷子になるはずのない場所で、けれど今、自分は間違いなく迷子だった。どうしてこんなに知っているはずの場所で迷子になったのかもさっぱりわからないけれど、もしかしたらやっぱり記憶がおかしくなってしまって、わかっているはずの住所もなにもかも忘れてしまったんだろうか。いや、でもちゃんと住所も全部言える。名前もわかる。忘れたわけじゃない。
「寒いでしょう? とりあえず中に入りませんか?」
勧められるままにパイプ椅子に腰掛けると、お巡りさんも机越しの向かいに腰を下ろした。
「わからなく……なってしまって」
自分でも驚くほどに、消え入りそうな声だった。それでも、ともしればしゃくりあげそうになるのを堪え、南雲田駅に行きたいのだと告げた。
怪訝そうに眉を寄せたお巡りさんは、高校生? いや、中学生かなと訊いてきたので、はいと頷き、学校名と今日が卒業式だったことを告げると、12月に卒業式はないでしょうと鼻白むように笑われた。
そんなことはない、卒業式で後輩に花束を貰ったのだと主張すると、とりあえず親御さんに連絡しようかと訊かれたので電話番号を伝えると、嘘を言うなと怒られた。
「あのねえ、どこかで動画でも撮ってるの? そういう悪戯も充分犯罪なんだよ? わかってる?」
苛々とした指先がタンと机を叩く。
そんなんじゃない、と口を開きかけた時、「こぉら、どうしたの? 裏まで声が響いてるよ」とのんびりとした口調の男性が現れた。
お巡りさんのように制服は着ていないけれど、交番の奥から出てきたということはやはりお巡りさんなんだろうか。
少しくたびれたグレーのスーツ姿で、ちらほらと白髪がまじった髪を撫でつけながらお巡りさんへと視線を向ける。
すかさずピッと背筋を伸ばして立ち上がったお巡りさんがあらましを説明するのを、スクリーン越しに見る景色のように感じながら途方にくれてただ見つめる。
「南雲田駅? ……ほぉ、ちょっと生徒手帳見せて貰っていいかな?」
「……」
「あ、ごめんね。僕も警察官だから大丈夫」
おずおずと胸ポケットの生徒手帳を差し出す。分厚い掌でそれを受け取った男性は、学生証と手帳の中とをひとつひとつ確かめるような早さでめくっていく。
「伊藤さん?」
「はい」
「自宅の住所を聞かせて貰える? あと生年月日ね」
少なくとも悪戯ではないとわかってくれたらしいことに安堵して答えると、手の中のそれと照会するように、うんうんと頷いてくれた。
「なるほどねえ……20XX年3月4日」
「はい」
「和暦はわかる?」
頷いて答えると、はいと生徒手帳が返された。
「あなたは今、自分がどこに居るのかよくわからない、迷子状態ってことでいいかな?」
「……はい」
「うん、だいたいわかった」
え? と怪訝そうな声をあげたのはお巡りさんだった。
「いや……うん、ちょっと待っててね」と男性はお巡りさんを引っ張って、交番奥のドアの向こうへと消えていく。
その間にもスマホでメッセージの送信や電話を試み続けてみたけれど、やはり先程と事態はひとつも変わりなかった。
ややして、お巡りさんだけが戻ってきた。
「あなたの言っていることが嘘ではないということがよくわかりました、ごめんね疑ったりして」
「いえ」
自分だってなにかひどくおかしなことになっているのはわかっている。人が訊けば尚更だろう。そう思えるくらいには少し冷静さが戻っていた。
「いやいやちょうどよかったよ。さっきの方は本庁の……あー、つまり警察官だから。あなたを送って行ってくれるって今車を取りにいったから」
「ホントですか?」
「うん、だからもう大丈夫だよ」
少しすると、交番の前に白い車が停まり、先ほどの男性がやってきた。
促されるままに立つと、お巡りさんは「お大事にね」と見送ってくれた。
お大事に、なんて。そんなに具合が悪そうに見えたんだろうか。
後部座席のドアを開けると、車特有の匂いがした。本当は少し苦手だけれど、今はそんなことも言っていられない。
「暖房つけたけど、寒いよね。とりあえずその毛布でも膝にかけといて」
「大丈夫です。ありがとうございます」
運転席のところには、テレビで見たことのあるような無線機がついている。少しタクシーにも似ているなと思っていると、車は滑るように走り出した。
バックミラー越しに目が合った。にこりと微笑まれてぎこちなく笑みを返す。
お兄ちゃんもハナも心配しているに違いない。特にハナにはすぐ戻るなんて言ってきてしまったのに、連絡もつかなくてどうしよう。あとで謝り倒さないと。
「不安だったよね。もう大丈夫だから」
「はい、ありがとうございます」
よくわからないけれど、警察の人が大丈夫だというならばきっと大丈夫なのだろう。
15才の私にとって、それはとてもまっとうで、当たり前の感覚だった。
『警察の人が大丈夫だというならばきっと大丈夫』
「それで……伊藤、モモネさん?」
「モネです。伊藤桃音です」
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