File.10 うさぎはうさぎになりにいく

『急ぎで耳にお入れしたいことが』

東から報告のコールが鳴ったのは、透子が風呂に入り始めてすぐのことだった。
夕飯を済ませ、シャワーの使い方などを一通り教えてから「手伝おうか」と軽口を叩けば真っ赤な顔でぶんぶんと頭を振った彼女に浴室から追い出された。
線路に落ちた時の捻挫や打撲については炎症がひいていない為、湯船にゆっくり浸かるなど到底推奨できないが、さすがにまだ出てくることもないだろう。浴室に続く廊下のドアに視線をやったままソファーに腰掛けて通話ボタンを押した。

東に透子の家族について改めて洗い直すように命じたのは昼過ぎのこと。彼女の口から兄の存在を知ってすぐのことだった。
それにしても、透子の兄の名がかつて失踪した自身の兄と同じ”秀隆”だというのは驚いた。同時に、実は彼女は”川村”の正体を知っていて、家族の情報をもおさえているのだという遠回しな揺さぶりかと内心身構えた。しかし、試しにこちらの情報を提供してみても彼女はただ労り慰めようとするばかりで、裏があるなど、ましてや駆け引きを仕掛けてきているようにも見えなかった。
遠慮がちに伸ばされた指先の感触。あんな風に頭を撫でられるなど、子どもの時以来ではないだろうか。拙く感じるほどの気遣いには裏も下心も感じられず、疑いを向けたこちらのほうが気まずく感じた。
とはいえ、事実として彼女の公的な経歴──戸籍などに”兄”は存在しない。ならば、彼女が兄だという男はいったい何者なのか。
戸籍に存在しない”兄”自体は世間でもそう珍しいものではないだろう。余所の女に産ませたとか、結婚前の関係に起因するだとか、養子縁組までせずとも他人の子を預かって育てるケースだってあるだろう。その子どもが外聞を憚られるような存在だったせいで、従兄である瀬谷千彰が知らないというのも充分にあり得る話だ。問題は、いないのかもしれないですね、などと苦笑した彼女の諦めの良さだ。両親の死が十年も前だということを加味して考えても、良好な関係を築いていたらしい唯一の肉親が存在しているかもしれないとなれば、あんな風にあっさりと認めることは出来ないのではないか。
例えば。もしも彼女の兄こそがウサギだとしたら。彼女がそれを庇っているとしたら。浮かんだ仮定はすぐに打ち消した。隠したいならあんな風に語ることすらしないはずだ。
ならば彼女の言うとおり兄が空想の産物だったとして。十代の少女にとって衝撃的すぎる出来事により精神に支障をきたしそんな存在を夢想したとしても、今でも夢に見て、「おにいちゃん」などと呼びかけてしまうほどに記憶に刻まれるものなのか。精神医学はあいにく守備範囲の外だが、彼女が兄を語る様を見ていても、その存在は確かな血肉をもっているようにしか思えなかった。そもそも写真が存在するのなら、兄ではないとしてもその男が存在していたのは動かしがたい事実だ。
兄はいたが、もう二度と会うことは叶わないのだと知っているとしたらどうだろう。実際、「会いたいです」と答えた瞳には確かに切実さがあった。存在はしていたが探しても見つかるはずがないから、居なかったかもしれないとあっさり切り捨てて見せたというなら納得がいく。
いずれにしても、瀬谷千彰にも裏を取りたい。彼女のあの口ぶりなら、彼がその写真を所持しているか、なくとも見たことはあるはずだ。線路の転落についての捜査だと言って手を回せば難しい話ではないだろう。
とにかくひとつひとつ可能性を潰しながら、事実をたぐり寄せていくしかない。

「早かったな。何がわかった?」
『あ、すいません、先ほどの件はまだ……。それより防犯カメラの件で』
東は彼女が転落した駅の名を告げると、興奮を滲ませながら、あの日の映像に加工の痕跡があるのだと矢継ぎ早に語った。
『ほんの何秒かずつくらい切り取られてます。そこに見られてマズイ人間が映ってたんじゃないすかね』
「……間違いないのか?」
『はい。……そのぉ、実はですね、あそこに元カノに似た子が映ってまして。映像のその子をついつい追ってたんですよ。そしたら一瞬消えて少しですがワープしてまして。で、念のため、彼女の周辺を歩いていた人の流れも全部、改札を出て行くまで、それから乗り換えのホームに向かうまで追ってみたんですけどね。いくつかの映像で同じ事象が確認できました』
ワープ、などと随分非現実的な言葉が出てきたものだ。しかし、例えば駅のホームを歩く人間の動きを追う映像の途中を切り取ってつなぎ合わせれば、ホームにいたはずの人間が突然改札を出るところまで移動したように見えることもあるだろう。映像に付随する時刻のカウントと、不自然に見えない程度の速度調整。人がワープするなどという粗雑な工作の割に、存外綿密な加工も施されているらしい。
転落発生の報で駆けつけた警察は、事故か事件かを確認すべく真っ先に駅の防犯カメラを押さえたはずだ。それまでの僅かな間に複数のカメラ映像に対して工作するなど神業に等しい。となると、押収後に加工が施された可能性が高い。
警察内部みうちがあやしいということか」
『そこまではなんとも。まあウサギが既に内部 うちのシステムにも好き勝手にアクセスしているとしたら、内部犯行の線は消えますね』
「捜査関連に外部に繋がるオンラインシステムは使ってないはずだろう」
『まあそういう取り決めですけどね』
ルールが遵守されていないケースはあると暗に告げながら、それも現在確認中ですと続く。
「外部から干渉出来たなら、全部を消去してしまうほうが手っ取り早いが……いや、ウサギならやりかねないな」
これまでもサーバーなどに侵入しては、わざとらしく己の侵入の痕跡を残したり、後からそれを仄めかして存在を誇示してきたウサギのことだ。敢えて映像に手を加え、それに気付くかを試すような真似をしたという線も捨てきれない。何より、警察内部に犯罪者やそれに加担するような者がいるなど考えたくないというのが本音だった。しかし、見過ごせることでもない以上、それもまた疑い、調べる必要がある。
一連がウサギの仕業だとすれば、やはり透子自身がウサギだということは有り得なくなる。同時に、ウサギがわざわざそんな風に関わってきたのだとしたら、それこそがあの転落は事故ではなかったという確定的な根拠になる。ただ、東の話では彼女を助けた者──目撃情報からサラリーマン風の男だということはわかっているが、映像では確認が出来ず、偶然なのか、もしくはそれも加工が施されているせいなのかは引き続き分析中とのことだった。
川村は防犯カメラを押収した者や映像解析した者、保管物を管理していたすべての者のリストアップを指示して、再びドアへと視線をやった。
そもそも透子とはシャワーの終わりを待つような間柄ではない。これまでの経験則で女性の入浴時間を考えればまだ猶予はあるはずだが、彼女の場合はどうだろうか。
少しばかり強引に絡めた舌に、慌てふためき息を詰めていた感触が思い起こされる。翻弄され流されかけて、自身のあげた甘い声に驚いた彼女が手首の痛みに蹲ることがなければ、川村も流されていたかもしれない。
『それから対象のアルバイト先ですが』
「あ、ああ」
『……? 大丈夫ですか?』
「続けてくれ」
『彼女が進学しないというのを聞いて、社員にならないかと声を掛けたようです』
飲食店の人手不足はどこも深刻だ。そんな中、既存のアルバイトは勤務態度なども把握出来ており、恰好の求人対象と言える。垣間見た店での彼女の様子を鑑みれば、社員にと望まれるのも至極自然のことに思われた。けれど、彼女は今も変わらずアルバイトのままだ。
「断った、か」
『ええ、休みたい時に休みたいから社員にはなりたくないと答えたそうです』
怠惰な理由だな、と鼻を鳴らせば、今日も早朝から忙殺されている受話器の向こうから乾いた笑いが返った。
『ですね。我々がマークしてからは規則正しく出勤していましたが、以前は数日間、長い時には二ヶ月ほど休んだこともあるようです。今回の事故のように急なことはほとんどなく、大抵が事前申告がありその通りに出勤を再開していたようなので、怪我や病気の類いではなさそうですね』
「二ヶ月とは長いな。旅行か?」
『店長や同僚も尋ねたことがあるようですが、家の事情だとか曖昧に誤魔化されたようです。あの交友関係ですからね。深く突っ込んで訊けるほどの付き合いがある人間はなく、誰も知らないようでした』
「ウサギの出没時期と、それから瀬谷千彰の渡航歴。このふたつと彼女の勤怠実績の照会はとれそうか?」
『一応過去五年の勤務記録は残っているようなので、捜査事項照会の手配をしました』
「先方にはなんと?」
『線路への転落に事件性も疑われるので念のため、と』
「ならいい。あくまでも今回の転落が事件と事故との両方の可能性があるからだということは念押ししておけよ」
『もちろんです。刑事部にはすべてその態で指示がおりています』
彼女が犯罪者でない限り、あらぬ誤解を招いてごく当たり前の日常生活を奪われるべきではない。
『とりあえずそんなところですかね。高校時分のデータも入手しましたが、そちらは大したネタはなかったです』
瀬谷透子が捜査上に浮かんだ時、彼女が通信授業を主とするF高等学校出身だというのはすぐにわかった。。
F高等学校はウェブ上で自身の分身たるアバターを登校(ログイン)させ、インターネットを介して授業を受けるという、いわば最新式の通信高校だ。今ではいくつか同じシステムを採用している通信課程もあるが、当時はF高のみだった。一応年に数回対面授業──スクーリングもあるが、修学旅行すらもウェブ上で行うということで話題になり、開校当初はマスコミなどでも度々取り上げられていた。
卒業生にはゲームクリエイターやエンジニアも多く、彼女がF高出身だとわかった時点で彼女の同級生など含めウサギに関係しそうな人物はいないかなどひと通りの捜査をしていた。今回はその洗い直しも兼ねて、転落事故を理由に彼女自身の記録について学校側に開示請求をかけていたのだ。インターネット高校らしく、生徒間での会話も授業中の校内システムを介したものについては一定年数はログも残しているようだが、交友関係の希薄さは当時もさして変わりなかったようで、委員や係、成績など通り一遍のデータしか出てこなかったらしい。
『入試がすれすれでしたよ。社会なんて十三点でした』
「……満点が百でか?」
川村は幼少から成績がよかったのを自負している。だからたまに級友が赤点をとったなどと言って点数を口にしているのを聞けば、範囲のわかっているテストでどうしたらそんな点数になるのかと不思議に思えたほどだ。
入試となれば、きっちりと受験勉強をして臨むものだ。難易度や配点による差異はあれど、十三点など何をどうしたら取れるのだろうか。
『そうですね。まあ、さすがにそこまで酷いのは社会だけでしたよ。中学の内申もよかったですし』
取り急ぎの件を報告し終えたせいだろう。受話器越しに緊張感も緩んだのを感じ、川村は再度今後の指示だけ出して通話を切り上げた。
背もたれに寄りかかって上向きながら東の報告を反芻する。頭の中で整理しようとした途端、微かに空気が揺れた気がして腰をあげた。ノブを引いても廊下の突き当たり、脱衣所の扉は閉ざされたままだ。念のため、脱衣所のドア越しに様子を窺うと、「どうしよう」などと声がする。途方に暮れた声音に、形ばかりのノックをして返事も待たずに開けると、かろうじてショーツを穿き、黒い長袖シャツを身につけた透子が涙目で膝をついていた。報告に聞いた銃創も今なら見えるだろうかと過ったが、とりあえずは襟ぐりから覗く胸元から視線をはずす。
「ごめん、何かあったかと思って」
風呂上がりだからという以上に頬を赤らめた彼女は、はたと気付いたように手にした吹き出し口のなくなったドライヤーをおずおずと差し出した。何かの拍子に外れてしまったのだろう。
「ごめんなさい。その、落としちゃって……」
叱られるのを待つ子どものような上目遣いはなかなかに愛らしく、からかいたい衝動に駆られるが、それよりも涙目になっているのが気に掛かった。よもや、ドライヤーを壊したくらいで泣くこともないだろう。
「足の上に落とした……わけじゃなさそうだね。もしかして、手首が痛いとか?」
「あー、……いえ、それはダイジョウブ、デス」
視線を泳がしながらのそれに嘘が透けて、わかりやす過ぎるだろうと口角が上がる。
このドライヤーはコンパクトなものではないが、女性が重くて取り落とすという代物ではないごく一般的なものだ。しかし、痛めた左手で髪をかきまぜ梳くような動きは難しかっただろうし、ドライヤーを支え持つのは手首がもたなかったに違いない。
「貸して」
ドライヤーを取りあげて洗面台に置き、華奢な肩にかかったバスタオルを長い髪に被せる。まだ雫を落とす毛先は、ドライヤーの段階でもないだろう。わしゃわしゃとかき混ぜるように拭いていると「ちょ、川村さん、出来ます! 自分でやりますからっ」と立ち上がった。
「やっぱり一緒に入ればよかったかな。髪を洗うのも痛かっただろう」
「全然! 全く! 問題なかったです」
「とりあえずこっち」
返事を黙殺して、痛みがないはずの右手をとる。ついでに彼女に貸した自身のスウェットも掴んでリビングに行き、透子をソファーの前に座らせた。脱衣所にとって返し、ドライヤーと、洗濯籠の影に転がる吹き出し口、それから新しいタオルを手にして再びリビングに戻ると、彼女はだぼついたズボンを履き終えたところだった。
「座って」
ラグに座らせた彼女を跨ぐようにして、自身は背後のソファーに腰を下ろす。再び彼女の頭にタオルを被せ、風呂上がりの犬でも拭きあげるような粗雑さで長い髪をかき混ぜると抗議の声が上がった。
「わ、川村さん、できます、自分でやりますから」
聞こえぬふりでドライヤーを手にする頃には諦めたのか大人しくなり、透子はされるがままに髪を乾かされていた。
これまでプライベートでも、ましてや捜査上恋人の真似事をした女にすら、髪を乾かしてやるだなんてしたことがない。そもそも脱衣所から出てくる頃には、それなりに体裁を整えた姿で現れるか、そのままベッドにもつれこむばかりという状態だったのだから当然といえば当然のことだ。
子どものようにされるがままに髪をかき混ぜられる透子は気持ちよさそうで、とろりとした眼差しはそのままウトウトと寝入りそうなほどだ。
それにしても。自身がドライヤーに費やす三倍ほどの時間を経過してなお、少し色素の薄い茶色がかった髪はしっとりと生乾きのままだ。ドライヤーをカチリとオフにして、乾いているところとそうでないところを指先で梳きながら確かめていく。
「髪が長いって面倒なんだね」
「! すみません、お手間をおかけして……自分でやるので、本当に」
「ああ、違う違う。そういう意味で言ったんじゃないよ。乾かすだけで時間がかかるし、髪が長いといろいろ大変なんだろうと思っただけ」
「はあ、まあ……」
「透子さんはずっと伸ばしてるの?」
「短いこともありましたよ。っていうか、高校生くらいまではずっとショートでした。中学の時なんて友達と出掛けたらカップルに間違えられたこともあって、一緒に居た子に大笑いされたくらいです」
クスクスと肩を揺らす声音は楽しげだ。ああ、彼女もそんな風に一緒に出掛ける友人がいたのかと考えながら「透子さんが男の子に?」と口を挟むと「みんなにもよく性別不詳って言われました」などと返った。
髪の短い透子を想像してみる。今の彼女は女性的なまろみには少々欠けるが、細い肩や華奢な体躯は男性と間違えようはずもない。しかし、中学生となるとどうだろう。一緒にいた少女たちに並ぶと服装次第では中性的な雰囲気になり、少年のようにも見えたかもしれない。
「それはそれで可愛かったんだろうね」
「……そういう方が好きですか?」
質問の意味がわかりかねて、彼女の顔を覗き込む。
「その、男の子みたいな…、いえ、なんでもないです! 」
「中性的な人が好みかってこと?」
「あ、髪、そう髪型! その、短い方が好きとか、川村さんはどうなのかなって」
どこか狼狽えたような様に本当はもっと違う質問だったのではと思いつつも、とりとめのない雑談を敢えて混ぜっかえすこともないかと「似合ってればどちらでもいいんじゃないかな」と毒にも薬にもならない答えを返す。
「そうですか」
「僕は透子さんがショートカットでもきっと一目惚れしたと思うけど、長いのも似合ってるしとても可愛いよ?」
照れて頬を赤らめるかと思った彼女はどこかがっかりしたように「ありがとうございます」と小さく息を吐いた。この答えはどうやらお気に召さなかったらしい。
「切りたいの? 髪」
「いえ、……髪を伸ばしたら女の子らしく可愛く見えるかなって下心いっぱいで伸ばし始めたから、結果はどっちでも変わらなかったよなぁって」
変わらなかった、というそれは過去形だ。
「……好きな人のために伸ばした、とか?」
「うーん、そう、ですね。まあとっくに失恋してるんですけど、せっかく我慢して伸ばしたから切るのが惜しくなっちゃって」
ショートカットの彼女がその男の為に髪を伸ばし始めたのはいつのことだろうか。
「それは、いつ?」
「……高校の終わり頃、かな」
「同級生?」
「いえ、全然。……全然、知らない人でしたよ」
「もしかしてそれが透子さんの一目惚れした相手ってことかな」
初めて彼女を食事に誘った日。「一目惚れをしたことがありそうな口ぶりだね」という言葉に曖昧な笑みで応えていたが、本当にそんな相手がいたことに少なからず驚いた。
「一目惚れ……うーん、そうですね。一目惚れというか”特別な恩人”ですかね」
「お付き合い、してたの?」
「まさか。私の勝手な片想いでしたよ。でも”特別”なんです」
一方的な片想いとなれば捜査には関係してこない話だ。
しかし、ふふ、と愉しげに笑みこぼす様が悪戯げな少女めいて愛らしい。恋人を前に、他の男を思い出して浮かべる笑顔のほうが可愛いだなんて面白いはずがない。
懐かしむような彼女の思考を中断するように、再びドライヤーをオンにして、少し強めに髪をかき混ぜてやる。
「わ、もういいですよ、このくらいで充分です」
「駄目。もうちょっと。……ちゃんと乾かさないと風邪薬も飲む羽目に……」
言いかけてはたと気付く。塗る鎮痛消炎剤もあったが、食後に飲む鎮痛剤もあったはずだ。昼食後も夕食後も、彼女がそれを飲んでいた様子がない。
「透子さん、薬飲んだ?」
ドライヤーを切って、髪を整えてやりながら上から覗き込むと「忘れてました」と気まずそうに目を逸らす。その素振りがなんとなく引っかかる。
「忘れてた? 本当に?」
「本当ですよ」
「そう」
「……」
「……」
「……なんですか」
沈黙にあっという間に耐えられなくなった彼女の瞬きの数が増え、嘘が透ける。
処方されていた薬は鎮痛剤だけではなく、抗生剤もあったはずだ。勝手な判断で飲まなくていいはずがないし、痛みが出ているのだから早急に飲むべきだ。
キッチンに向かい、グラスに水を注いで戻ると、何を言われるか察しているらしい彼女はむぅと唇を尖らせていた。
「薬。だしといで」
「……」
「透子さん」
「……」
無言の抵抗に腰をあげたのは川村だった。リビングの隅に置かれたままのビニール袋から薬袋を取り出す。白い紙の袋の口は薬局で渡されたまま、綺麗に折られていた。
朝昼夕。食後。二錠。三回。
朝夕。食後。一錠。二回。
書かれているとおりに取り出してやると、薬、きらい、とぽつりと落ちた言葉は子どものようなそれだ。
「苦くないよ? ほら、カプセルと錠剤だし」
「ヤです」
ぷいとそっぽを向くのも可愛いけれど、押し問答をする気もない。
彼女の顎をとり、親指で唇を割り開く。彼女が事態についていけずに目を丸くしている隙に薬を押し込んで、己の口に水を含んだ。そのまま彼女の口を塞いで流し込んでやれば、キスの息継ぎもできない大きなお子様はジタジタともがきながらも嚥下する。
「もうしないって言っ──」
再び唇を塞ぎ、舌でまさぐって薬がないことを確かめてから身を離すと、涙目の彼女は息を継ぐようにはくはくと唇を動かす。
「はい、次。塗り薬」
取り出した薬はひったくられ、すっかり臍を曲げてしまったらしいお子様は口を引き結んだまま無言で手首に薬を塗り込んでいく。
「ごめん」
子どもじゃあるまいし、という本音を覆い隠して人好きのする笑みに申し訳なさを混ぜ込んで浮かべる。
「そ……」
言いかけた先を制すように、電子音が響いた。初めて聞くそれは、彼女の携帯からだろう。機種を変えたばかりだからか、その音が自身の着信音だとすぐにはわからなかったようでテーブルの上の川村の携帯に視線を落とした彼女は、ようやくはたと気付いたように自身の携帯の入った手提げを見遣る。まるで許可を求めるような視線を寄越す透子に苦笑して「早く取らないと切れちゃうよ」と促す。
これまで彼女の着信記録やメールの内容などは常に監視してきたが、メールといえばダイレクトメールやメルマガばかり。メッセージアプリを介した同僚とのシフト調整や交代のお願いなどはあったが、直接電話をしてくる者はほとんどなく、あっても急なシフト変更に代理を頼むようなものだけだった。バイト先の店長あたりだろうか。なんにしても帰宅後すぐに監視アプリを仕込んでおいてよかった。
彼女は画面を見つめ、誰だろうとでも言うように小首を傾げてから「はい」と応じた。途端、その瞳が明るく輝く。
「え、ちーちゃん!?」
すかさず東に、リアルタイムでの盗聴を指示するメッセージを送信した。

◇   ◇   ◇

久方ぶりの千彰からの電話は、帰国したから泊まりで遊びに来いというものだった。通話は盗聴されているとわかっていただろうに、こちらの状況などお構いなしで、一週間後に迎えに行くという。言いたいことだけまくしたてるように話し、とっとと切れてしまった端末を手に、川村と顔を見合わせてしばし固まった。
その川村はといえば『透子さんの大事な身内なんだから挨拶しないと』と意気込んでいたはずが、急な呼び出しで出掛けていった。舌打ちしそうな顔で慌ただしく玄関に向かいつつも、外ではくれぐれもひとりで行動しないようにね、と幼い子どもにでもするように言い含めることだけは忘れなかった。
千彰が迎えに来る十時にはまだ一時間ほどある。あちらの家には数日分の着替えなど透子が日常必要とするものは揃っているし、違う場所に連れて行かれるんだとしてもきっとどうにかしてくれているはずだから、手ぶらで大丈夫だろう。とりあえずテレビでも見ようかとリモコンを手にしたのを見計らったかのように、着信音が響いた。
エレベーターで一階に下り、エントランスカウンター常駐のコンシェルジュに会釈をする。顔をあげてガラス扉の向こうを見れば、ピンクのシャツを着た世に言うところのイケメンが胸の前で小さく手を振って微笑んでいた。
緩いウェーブの髪に色付き縁の眼鏡。ともすればちゃらくなりそうな身なりにも見えるが、美容師やアパレルの店長でも勤めていそうな男。彼を知らない者が見れば、そんな印象を持つに違いない。
「ずいぶん早かっ……」
「いやぁん、久しぶり~。相変わらずおブスなんだからもぉ」
小走りに駆け寄ると、伸びてきた腕にぎゅうぎゅうと抱き締められる。電話で話した時からそうだろうと思っていたけれど、やはり今回は『そう』らしい。それでも鼻腔をくすぐるのは、ライザンダー。嗅ぎ慣れた千彰の香りだ。
「はい、乗って」
横付けされたシルバーの車も見慣れたいつものそれ。違うのは、後部座席でなく助手席のドアが開かれたことだ。
いいの? と目線だけで問えば、なんのことかわからないとばかりに目を細めた千彰が「早く行きましょ」と語尾にハートでもついていそうな声音で言うから、なんとなく背筋が寒くなりぶるりと震えてしまう。その肩を抱き座るように促した彼は、自身もすぐに運転席の方へと回り込む。
のろのろとシートベルトを締めると、伸びてきた人差し指が玄関の呼び鈴でも押すようにムニと唇をおさえた。
「オーケー?」
押さえられたままの唇に、ひとつ頷く。
「ん。じゃ出発しましょ」
車は滑らかに走り出す。やりとりだけ聞けば、準備はオーケーかと尋ね、出発したようにしか感じないはずだ。でも違う。これは余計なことは言うなの合図だ。盗聴されていることはわかっているからもとよりそのつもりではあったけれど、千彰がそのままにしておくはずもない。何かしらの手はうってくれるに違いないと考えながら、背もたれに身を預ける。
「刑事さんに聞いたわよ。男と同棲なんてやるじゃない。イイ男なの?」
「けい、え、どういう……」
「あー、こないだ来たのよ。あんたが線路に落ちて怪我したとか、事件の可能性もあるとか。もぉ、心配したわよ。そういう時はすぐに連絡しなさいって言ったでしょう?」
「でも、ほら、ちーちゃんに連絡しても来られないし」
「アハ、そうよねえ。ま、元気そうで安心したわ。で?」
「で? って?」
「だから。恋人。一緒に住んでるんでしょ? 詳しく聞かせなさいよ」
「詳しくって……」
知っているくせに。とは言えない。言えないけれど、多分千彰は透子が把握しているよりももっと多くの情報を持っているに違いない。そのうえで、今日まで静観していたのだろうから、川村は害なす存在ではないのだろう。たぶん。
「イイ男なの?」
「いいって、……うん、そうだね。かっこいい、と思う」
「ふぅん。で? その男のせいで寝不足なわけ? やだわ、あのネンネがちょっと目を離した隙にどんどんオトナの階段を昇ってるのね」
「オトナって……? ……!! し、してないよ! キスしただけで、そ、ソウイウコトは別に」
「はあ? 恋人と一緒に住んでてしてないとか、相手の男、不能なんじゃないの?」
「それは、わからないけど」
「まだ若いのに不能なんてお気の毒ねえ」
「そっ……んなんじゃないと思う。単に私が川村さんの範疇じゃないんじゃないかな……」
本当は、初日に随分なキスをされたからもしかしたらもしかするかもとはちょっとは思った。でもこの一週間、川村は戯れめいたキスを繰り返すことはあっても、ご飯だ薬だと世話を焼くばかりでそんな雰囲気にはまったくならなかった。
「あらそう、じゃあアタシでもいけるかしら」
冗談めかした言葉は、まったくもって冗談として響かない。なにしろ川村の本命は”男”なのだ。もしかしたら女をつまみ食いすることもあるのかもしれないけれど、それはきっとこんなに色気のかけらもない胸の平らな女じゃないに違いない。
「……」
「やだ。本気にしないでも大丈夫よ。可愛い妹分の恋人に手を出すはずないでしょ?」
「うん」
そんな心配はしていない。ただ、川村からしたら千彰のほうがタイプかもしれないと思うと、胸の奥がチクチクと痛んだ。

「だ・れ・が・不能だと!?」
歯ぎしりする男の隣で、東が必死に笑いをかみ殺していたなど、透子が知るよしもない。
そして川村もまた、その日の午後、尾行をまき、盗聴器の類いもすべて取り去った室内で、後ろ手にドアを閉めた千彰が「さて、脱兎。仕事だ」と低く告げたのを知るよしもなかった。

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