Alice.dat / File.09 うさぎはだんここうぎする

2019-06-04Alice.dat10489文字

「ねえ、透子さん。お兄さん、いたの?」
 そのひと言に、ハッとする。『瀬谷透子』に兄はいない。
 口の端こそ柔和に引き上げているけれど、いつもなら人懐こさを感じる双眸はこの好機を逃すものかと観察するような色を宿している。ここで、それはちーちゃんのことですなんてでまかせを言っても、たやすく綻びを見つけられてしまいそうだ。
 不安な夜に駆けつけてくれたから。嘘かもしれないけれど、ここしばらく連絡すらなかったのは関係の終わりではなくて仕事が忙しかったのだと申し訳なさそうに謝ってくれたから。そうして、いつかのささやかなやりとりを覚えていてくれたから。だからちょっと。ううん、かなり気持ちが緩んでいた。
 川村さんはきっと知っていて、敢えて訊いている。彼にしてみれば家族構成を調べるなんて他人のスマホに無断でアプリを仕込むよりも遥かに簡単だったはずだ。
「そういえば入院してた時も、朝起こした時に言ってたよね。お兄ちゃんって」
「そ、ソウデシタ、か?」
 覚えのないことを指摘され、ひやりとする。寝ぼけてお兄ちゃんに起こされているのと間違えたような気もするから、確かにそんなことも口にしたかもしれない。他に何か言っただろうかと考えても寝起きの悪さには自信がある。全然覚えていない。迂闊なことは言えないと考えるほど、返す言葉が出てこなくなる。
 川村さんは私の言い訳を待つこともなく、攻め手を緩めないとばかりに言を継いだ。
「あれ……じゃあ、君の言ってた『ちーちゃん』とは別に家族がいるってことになるのか」
 何が『なるのか』だ、なんてイラッとしてしまう。ああ、駄目だ。平常心平常心。ちーちゃんにだって時々言われる。『お前のその売られそうな喧嘩まで買いに行くって姿勢はどうにかしとけ』って。そもそも川村さんは喧嘩を売ってるわけじゃない。もしかしたら本当に知らないで訊いているのかもしれないし、知っていたとしても確認しようとしているだけだ。
「そうですね。正確には、いた、になるかもです」
「……お亡くなりになったのかな」
「わからないんです」
「わからない?」
「はい。ちーちゃんはいないって言ってました」
「ごめん。よくわからないな。君にはお兄さんがいるんだろう? それを従兄が知らなかったってこと?」
 川村さんは眉間に皺を寄せて、こいつ何を言っているんだという表情かおをしている。でも、それでいい。だって、絶対にわかるはずない。どこにも記録はないから確かめようもない。けれど、嘘はない。だから、私が嘘をついているかどれほど観察したって見つけようがないはずだ。
 私はちーちゃんに言われていた『バレそうになったらこれで乗り切れ』なアドバイスを頭の中でさらいながら「実は両親の事故以来、それより前の記憶が曖昧で。……事故のショックでおかしくなっちゃったのかも」と笑ってみせた。ひとりで空想の中にいる兄の存在を信じる頭のおかしい子だと思われたとしても、背に腹は代えられない。これで今後川村さんが何を言ってきても、誤魔化す口実に使えるはずだ。
 見極めるように向けられる眼差しを、どうだとばかりにまっすぐに受け止めて見つめ返す。
「ちーちゃんは、私の家族は両親だけだったって言ってました。だから、いないのかもしれないですね」
「……でも、いたんだろう?」
 こくりと頷くと、彼はゆるゆると息を吐き、ひとつ瞬いた。
「そう。何歳違い?」
「一回り上です」
「結構離れてるんだね」
「そうですね」
「君が生まれた時から、いたんだよね?」
 そりゃそうだ。『弟』や『妹』ならともかくとして、『兄』が途中から加わる家族だなんて、腹違いだとか養子だとかいろいろフクザツな話になりかねない。ああ、でもそういう想定での質問なのか。
「私が赤ん坊の時の写真にもちゃんと写ってましたよ」
 答えながら記憶を辿る。そもそも兄が最初はいなかったなんて考えたこともなかったから笑いそうになる。少なくとも突然家族が増えた覚えはないし、アルバムにだって写っている。正真正銘、兄は兄だ。
「透子さんが赤ちゃんの頃か……いいな、見てみたい。きっと可愛かったんだろうね」
「ハハ、どうでしょう……」
「アルバムとか写真は家にあるんだろう?」
 しまった。写真だなんて迂闊なことを言えば、見せてと言われるに決まっていた。
 さて、どうしよう。
「写真はうちには……、ああ、ちーちゃんちにあったような……」
 ないんだけどね。写真も何も、どこにもない。
 とにかくここは凌ぎきって、いよいよとなったらちーちゃん頼みにしようと曖昧に答えた。
「そうか。今度見せて欲しいな」
「そのうち……機会があれば……」
「お兄さんの名前はなんていうの?」
秀隆ひでたかです」
 答えた途端、川村さんの目がすっと鋭くなった気がした。
「ひでたか?」
 え、え、なにか変なこと言ったかな。名前を答えただけだから何も問題はないはずだ。後ろめたいからってビクビクしたら絶対怪しまれる。落ち着け落ち着けと心の内で言い聞かせながら、マグカップに口をつけた。
「……字はわかる?」
「優秀の秀に、えーと、陸と同じ辺で右に久しいに生まれるって……」
「『りゅう』とか『たかし』とか読むこんな字?」
 宙に滑らす指を動きを追って、それが伝わっているのだとわかって頷いた。
「秀隆、さんっていうんだ?」
「はい」
 川村さんは顎を指先で摘まむようにしながら何事か考え込んだかと思うと、おもむろに「会いたい、よね」と訊いてきた。
「そりゃっ……それはもちろん、会いたいです」
 会いたい。すごく会いたい。お兄ちゃんだけじゃない。お父さんにもお母さんにも。会えるならば今すぐ会いたい。でも、この世界を隅から隅まで探し回っても、叶えられる人なんていないのだ。
「いつまで『居た』か覚えてる?」
「ずっと……ずっと居ました。中学の……」
 卒業式間近のあの日。あの日だって私がちゃんと家に帰れば、夜にはみんなで揃ってご飯を食べたはずだ。
「すみません。私にはずっと居たとしか……」
「探さなかったの?」
 当然であろう疑問に、私はふるふると首を振った。
「いないって、言われたから」
「探してみようか」
「え?」
「人捜しは専門外だけどね。幸い仕事上そういうツテもある」
 もっと本当のことを見極めるようにいっぱい質問されるとか、記憶が曖昧なあたりについてつっこまれるだろうと考えていたから、彼の申し出は想定外だった。
「でも……」
 彼がどれほど優秀だろうと、有益なツテをもっていようとも見つかるはずはない。探すなんて無駄でしかない。
「いないのに……」
「……いないの?」
「っ、います。いるけど……」
「……。僕にもね、兄がいたんだ」
「いた、って」
 訊くのを躊躇していると、コーヒーを口にしてからふっと懐かしむように切なく笑んで「もういない。いや、『いる』のかもしれないけど」と謎かけのように言葉を続けた。
「僕が小学生の時に行方不明になってね。両親も手を尽くして探したし、当然警察にも捜索願を出したけれどとうとう見つからなかったよ」
 少し疲れたように伏し目がちになった彼は、再びマグカップに口をつけた。悲しいとか悔しいとかでもなく、ただただ感情が透けない表情だ。
「そう、なんですか」
 行方不明。それは例えば事故だったり誘拐だったり、時には家出の場合もあるだろう。残された家族はただただ探して、推測してみるしかできない。
 私はどういう扱いになったんだろう。誘拐か家出か、事件か事故か。
 みんなは私を探しただろうか。そうしてお父さんもお母さんも、お兄ちゃんも、私のことを「娘がいた」「妹がいた」と過去形で語るんだろうか。
 失ったのはどちらだろう。日常から切り離された私か、それとも残された家族の方なのか。わからない。わかるのはただ、今は会えないという事実だけだ。
 口を噤んだ川村さんを前にどうしたらいいかわからなくて、でもどうにか何かしてあげたくておずおずと手を伸ばし、彼の頭を撫でた。
「どこかで、生きてます。きっと……きっとお兄さんも会いたいって思ってますよ」
 慰めにもならないであろう言葉を連ねて、掌で彼の柔らかな髪を混ぜる。そういえば彼の髪に触れたのは、これが初めてかもしれない。こんな時なのに、さらさらと指の間を滑る感触が心地よいなどと思ってしまう。
「もう会えないんだとしても、それなりに元気にしてますよ」 
 私の言葉はひどく無責任だ。人ひとりがいなくなって、それを警察が探しても見つからないなんて、普通ならろくでもないことがあったとしか考えられない。それでも、別の可能性があるんだってことを私は誰より知っている。だからといって、彼のお兄さんに当てはまるとは限らないし、それを証明することも出来ない。ならばやっぱり私の口にした言葉は、気休めにすらならないだろう。
「……ごめんなさい」
 私が言ったのは家族に伝えたかった言葉で、彼を慰める為に口にするべきではなかった。それに気付いて手を引っ込めると、「なんで君が謝るの」と今度は彼の手が伸びてきて、私の髪を柔らかに混ぜた。
「……うん、そうだね。兄はどこかで生きているかもしれない」
 自己嫌悪真っ只中の私を掬い上げるように、いつもの人懐こい目が少し身を屈めてこちらを覗き込んでくる。
「そんな顔しないで大丈夫。僕は……まあ子どもだったからね。ただ両親が」
 困ったように笑った川村さんは、そこで言葉をきった。
「……」
「ふっ、それなりにって」
 顔を上げると、探る気配はすっかりなくなった彼がクスリと笑った。
「なんですか」
「いや、それなりに元気でいるっていうのが、なんというかリアルだなって思っただけ」
「だってそれなりには元気に過ごせちゃうんですよ。寂しくても悲しくても。ずっと泣いてる方が難しいです」
 どれほど悲しいと思っても、日を追うごとにそれは薄まっていく。薄まるというよりも慣れてしまうだけなのかもしれないけれど。息の仕方すらもわからないほどの喪失感に途方に暮れていたはずが、段々おなかがすくことに気付いて、食べた物をおいしいと感じるようになって。そうしていつのまにかまた笑えるようになったことに気付いて更に悲しくなる。あんなに辛かったのに、ひとりになっても私は笑えてしまうんだな、と。
 もっとも、ひとりではなかったから笑えたのだと今ならわかる。ちーちゃんたちが私を日常に少しずつ引き戻してくれたから、私は生きている。
「うん、そうだね」
 柔らかな笑みを向けられて、ひどく居心地が悪くなる。誤魔化すように、だいぶ冷めてきたミントティーをこくりと飲み下す。
 いつの日か、彼が煎れてくれたこの味までも寂しく思い出すんだろう。そう思うと、爽やかなはずのミントの香りもほろ苦いものへと変わってしまった。
 
 
 ベッドがある。
 案内された部屋で真っ先に思ったのはそんなことだった。
 お茶を飲んで、兄の話を蒸し返されないことにホッとしながらひと息ついた後のこと。ざっと室内なかを案内するよと、ここがトイレ、ここが洗面所、とひとつひとつ川村さんに教えて貰いながら後ろを付いて歩いた。
 最初の印象通り、ひとりで住むには広い間取りだ。
 先に案内された彼の寝室もその隣のこの部屋もこざっぱりとしているし、廊下を挟んだ向かいのウォークインクローゼットにも服やらコートやらが掛けられていたのといくつかの収納ケースがあった程度だったから、物が多いせいで広い部屋を必要としているというわけでもないだろう。
 そして、彼の部屋にもベッドがあった。一人暮らしの自宅にベッドが二台。部屋の広さと相まって、誰かと住んでいたのか、それとも現在進行形なのかなどとつい勘ぐってしまう。
「あの、ここを使っていいんですか?」
「うん。自分の部屋があった方が落ち着くだろうから、ここを透子さんの部屋にしようかと思うんだ」
「それは……」
 彼の言うとおり、ひとりになれるスペースが確保されているというのは気分的に安心できる。でも、これからずっと一緒に住むというわけでもないのに、そこまでしてもらうのもなんだか申し訳ない。それに、このベッドの本来の住人が自分がここに住むことで一時的とはいえどこかに追いやられているのかもしれない。そう考えると、ますます落ち着かなさと申し訳なさが募る。
「私が、ここに寝ていいんですか?」
 彼の恋人のベッドかもしれない。
 どちらのベッドもシングルだからソウイウコトをするにはどうなんだろう。経験がないからよくわからないけれど、男女ならまだしも、男同士ともなればさすがに狭いんじゃないだろうか。
 ということは、彼氏じゃないのかな。でもだったらなんでベッドが二台?
 ぐるぐると考えを巡らせていると「僕の部屋で一緒に寝てくれるなら歓迎するよ?」などととんでもないことをさらりと宣う。
「そ、そういうんでなくて。その、ベッドが。川村さんのカレっ、あ、えと恋人ので、だからふたつあるのかなって」
「ああ……。なるほど、僕の部屋にもベッドがあるのに、ここにもあるからってことか」
「はい」
「同棲していた相手がいたのかって?」
「どこかに行って貰ってるのなら、申し訳ないです」
 上目遣いに窺いながら言い募ると、「どこかにって」と呟いた男の目に剣呑な色が浮かぶ。ふうん、と唸るような声と共に部屋の入り口に立つ透子に迫ってくる。急に雰囲気が変わった理由がわからないものの、気圧されて足を引く。そのままじわじわと追い詰められ、とうとう背中が壁に当たった。
 咄嗟に逃げなくてはと視線を動かした途端、ゆったりと首の両横あたりに彼の手が伸びてきた。
「かわむら、さん?」
 壁ドンだ、と他人事のように心の中で呟く。でも、壁ドンといえば少女漫画に出てくるようなときめくシチュエーションであって、こんな風に獲物みたいに追い詰められるものではないはずだ。
「君は、僕の、なんだかわかってる?」
 にっこりと迫力のある笑みを浮かべた男は、やけにゆっくりと言葉をきって問いかけてくる。いつもなら見上げる位置にある人懐こい目は、身を屈め、正面から視線を合わせてくる。
 キミハ。ボクノ。ナニカ。
 咀嚼するように頭の中で繰り返してから、正解を探る。一応の目的があった上でとはいえ、この関係に名をつけるならもうトモダチではないだろう。たぶん。
「こ、恋人、とか?」
 恐る恐る答えると、深々とため息をつかれた。正解ではなかったらしい。仮初めでも『恋人』ではないのかと落胆を覚えつつ、代替の答えを差し出した。
「友達でしたか。すみません、わた……」
「恋人だよ」
 被せてきた言葉に、なんだ最初ので合ってたんじゃないですか、とは言えない。言わせないだけの威圧感が、川村さんにはあった。
「透子さんは僕の恋人。そう思っていたのは僕だけだったのかな?」
「いえ……そんなことは、ない、ような」
「じゃあ僕は透子さんという人がいながら同棲相手がいて、それを追い出して君を自宅に連れ込むような男だと思われてるわけだ」
 はっきり言ってしまうと、確かにそれは随分な男だ。人間性を疑う。
 それでも、思うか思わないかと問われれば、彼は必要ならばそれも厭わないんじゃないかと思っている。
 透子の知る川村──というよりはあの宗教施設にいた『糸井』にはそういう印象を抱いていた。よく言えば冷静、悪く言えば冷たくて、相手の衣服を乱しながら口づける時でさえも欲情も熱情も感じられなかった。
 糸井と川村が同一人物だという証拠は何もない。けれど、姿形も声も、ちょっとした立ち居振る舞いも、頭の中ではすべてがイコールで結ばれていた。先ほどお茶を飲んでいた時の発言を信じるならば、川村には行方不明になった兄がいるらしいから、実は糸井が生き別れた兄、などと考えることも出来そうだ。しかし、糸井と別人だったとしても、告白した相手の自宅やスマホに盗聴器や盗撮機を仕掛けている時点で一般的な恋人像どころか人間性どうこうの話でもないだろう。
 もっとも、虎の尾を踏んでしまったらしいとしかいえないこの状況で、はい、思ってますと頷いて見せるほどの度量はさすがにない。
 無言のまま、どうにかここから逃げ出せないものかと算段していると、頬にするりと彼の大きな掌が滑る。ひぇと上げそうになった声は、すんでのところで飲み込んだ
「驚いた。君の中で、僕は随分と不実な男のようだ」
「そ、あ、いえ……えと」
 怒らせてしまったらしい相手を前に、袋小路に追い詰められた小動物のように捕食者から逃れる術を探す。
「まあそうだよね。ここしばらくは連絡だってろくに出来なかったし、クライアントとはいえ女性と歩いているところも何度か見られていたわけだし?」
「あー……ハハ……」
「ねえ、僕が好きなのは君だよ。透子さんだけだ」
 科白に反して甘い空気などまったくない。だから、私の心臓も早鐘を打ってはいるけれど、それは恋に浮かれたものではなく、さながら警鐘のように耳元に響く。
 川村さんが私を好きだなんて未だに半信半疑、ううん、半分以上疑いで、残りは信じているというよりもそうだったらいいという希望にすぎない。その希望に縋って、傍に居られるあいだはその幸運を享受しようと、ほんの少し開き直っているだけ。彼の傍らにいるべき人はきっと他にいる。
 それにしても顔が近い。せめてもう少し離れてくれないと、息がかかりそうな距離とはまさにこのことだ。
「前から思ってたんだ。僕がいくら好きだと伝えても、君には少しも届いてる気がしない」
 しゃがんでくぐったら逃げられるだろうか。そんなことを考えていたら、ふいに顎をとられ息が詰まった。キスだ、と。認識した途端、ぬるりと温かいものが口腔へと押し入ってくる。
「──っ!?」
 それが舌だとわかったところで、どうにもならない。侵入者は驚いて縮こまった舌を捕まえようと追い回し、時折戯れのように上顎の柔い部分や歯列をなぞる。
「……っ、むぅっ、……ぅっ」
 抗議の声を上げようにもそんな隙もない。せめて押し出そうとした途端甘く絡め取られて、背筋にぞわぞわとした感覚が走った。壁に押しつけられていたはずの手はいつの間にか腰を抱き寄せ、顎にあったはずのそれも後頭部をしっかりと固定している。その間にも、くちゅりくちゅりとやけに生々しい音をたてて、彼の舌が好き勝手に口内を這い回る。
 待ってマッテ。いや、ちょっと、ホント待って。
 心の中で連呼したところで、目の前の男に届く気配は一ミリもない。
 体中を走るぞわぞわと総毛立つ感覚と、呼吸すらもままならない状況にクラクラしてくる。かき回されているのは口内なのに、頭の中をどうにかされているんじゃないかと思えるほどに、ぞわぞわが思考を浸食していく。
「ふ……っ、ぅ……」
 唇を柔く噛まれてちろりと舐められた隙に息継ぎしようとしたのに、すぐにまた深く侵入してくる。徐々に膝の力が抜けていく。抱き支える彼の腕がなければ、へたりこんでしまいそうなほどだ。
 ふいに服の中に忍び込んだ指先が、するりと脇腹を撫でる。
「んぁ……っ」
 駆け上った快感と自身の声の甘さに驚いて、咄嗟に彼の胸を強く押す。その瞬間手首に激痛が走り、ぐぅと呻いた。
 思わず両手を使ってしまったけれど、左手首は酷い捻挫で、飲み物を入れたカップ程度の負荷ですらも痛みを訴える。その手で力一杯押したのだから、相手がびくともしなくても、こちらのダメージは甚大だ。
 異変に気付いた川村さんの拘束が緩み、そのまま床に蹲る。
 あまりの痛みに目尻には涙が滲み、呻きながら手首を抱え込む。
「ごめんっ」
 慌てて片膝を着いた川村に恨めしげな視線を送れば、先ほどまでの獰猛さは消え失せ、叱られた犬のように眉を下げて、痛む手首に触っていいものかどうしようかと迷うようにおろおろと宙で手を動かしていた。
 なかば八つ当たりのように、なにもかもが川村さんのせいだと、無言のまま涙目で訴える。
 先ほどまでの行為のせいで、体は酸素の供給を訴える。でも喘ぐように呼吸するそれだけでも手首に響くようで、息を吸っては詰め、吐いては呻くを繰り返すような有様だ。
「僕が悪かった」
 ちょっとごめんね、と重ねて謝罪した彼の両手が伸びてきて、そのまま軽々と横抱きに抱え上げられる。背中と膝裏とを支える腕の力強さに、今度は何をされるのかと急いで身をよじろうとすると「危ないから動かない」と低い声で制されて固まった。
 慎重な動きでリビングのソファーへと下ろされた。痛む場所を庇うように押さえて慎重に呼吸を整えていると、彼はソファーに座ることなく、私の正面、ラグへと直接腰を下ろした。
 気遣うように見上げてくる眼差しに、先ほどまでの剣呑さは欠片もない。それでも、彼が手を伸ばしてくると無意識にびくりと体が震えた。
「もうしないから。手首を見せて」
 掌を差し出して、私の動きを待ってくれているのはわかるけれど、躊躇してしまう。
 まさかあんなコトをされるなんて思わなかった。知識としてそういうキスがあることくらい知ってはいたけれど、なんというかもうとんでもなかった。
 怖くて、苦しくて、なのに気持ちいい。本当にもうなんてことをしてくれるんだ。言ってやりたいのに言葉が出ない。
 黙って掌を見下ろしていると「まいったな……。本当にもう何もしないよ」と苦笑を浮かべた。
「手首の状態を確認して、消炎剤を塗ろう。様子次第ではもう一度病院に行かないと」
 ね? と小首を傾げるようにして促してくる川村さんは、いつも通りの彼だ。
 もう大丈夫。そう思うのに、彼の唇が視界に入り、どくりと心臓が跳ねる。釣られるように顔も熱くなって、とてもじゃないけど視線を合わせることも出来ない。
「透子さん?」
「……」
「本当にごめん。同棲相手がいるみたいに言われて、つい腹が立って」
「……」
「ベッドが二台あったのは、現場が近かったりどうしてもの時に同僚を泊めることがあるせいだよ。布団よりいろいろラクだから……、ちゃんとすぐそう言えばよかったね」
「……」
「透子さん?」
 そっと伸びてきた指が膝の上の両手に触れる。拒まれないのを確かめるように遠慮がちに触れ、ゆっくりと覆うように手の甲を包んだ。そのまま左手を取ると、そっと圧を掛けながら慎重に動かす。痛みそうな気配に身を強ばらせると、すぐにそれ以上動かすこともなく、手は膝の上へと戻されてそろりとひと撫でされた。
 優しい労るような動きに泣きたい気持ちになる。
 嘘のくせにあんなキスをして、と。嘘のくせにこんな気遣うように触れてどういうつもりだ、と。全部丸ごと投げつけたい衝動に駆られる。
「もしも……」
 脱兎のことがなかったら、それでも私に触れましたか。
 溢れかけた塊を喉の奥に押しとどめる。
 確かめるまでもない。彼の想いがないとわかっていて、それでも、少しでも近くに居たかったから受け入れたことだ。開き直ったつもりだったのに、それが今どうしようもなく苦しい。彼の傍にいることは、水の中で上手に息が継げない苦しさと心許なさに似ている。泳ぐのをやめて底に足をついてしまいたくとも、プールと違ってここには底がない。始めてしまった今となっては、沈んでしまうか、どこかにたどり着くかしかない。
「もしも、なに?」
「いえ……。一緒に住んでも、その、ああいうのはナシで」
「ああいうのって?」
 窺うように見れば、先ほどまでの反省はどこへやら。悪戯げに弧を描いた眼差しが、ちゃんと言ってくれないと、と先を促す。
「キスとか、そういうの、です」
 恥ずかしさを堪えて口にする。さあ言った。これで満足だろうと視線を上げると、よく出来ました、と言わんばかりに細めた目で「それは無理だな」と即答された。
「は?」
「恋人を前にして触れないなんて、僕には無理だ」
 すかさず右手を引き寄せた彼は、私の指先に唇で触れる。急いで引っ込めながら「さ、さっきもうしないって言いました」と抗議の声を上げた。
「唇でなくても駄目なのか。……まあさっきみたいに怯えられるのも本意じゃないからね」
 ふむと考えるように視線を落とした彼に、今度こそ了承を貰えると思いきや。
「君にことわりなくそういうことはしない。それでいいよね」
 わかってない。絶対ちっともわかってない。晴れやかな笑みは、どう見たって強引に押し切ってしまえばいいと思っている風にしか見えない。
「ことわっても駄目です、許可しないです」
「させるよ。大丈夫。君がその気になるように頑張るから」
「なりませんっ」
 川村さんは片目を閉じると、「とりあえず薬を塗ろう」と立ち上がった。
「そしたら昼ご飯を作るから。飲み薬は食後の方がいいだろうし」

 結局彼のペースで事が運ばれ、しかも作ってくれたカルボナーラがびっくりするくらいおいしかった。アレンジは得意じゃないからレシピ通りに作っただけだよ、と言っていたけれど、レシピ通りだろうとなんだろうと手際よく、そしておいしく作れるならそれはすごいことだ。手首が完治しなくとも早急に同居を解消しないと、心だけでなく、胃袋まで掴まれてしまいそうだ。
 一緒に出されたミネストローネも絶品だ。トマトの酸味に、玉ねぎや人参の甘さが程良く溶け合って、濃厚なカルボナーラとも相性がぴったりだと思う。思うけど。先に出来上がっていたはずのミネストローネがやけに熱々なのはどうしてだろう。
 ふうふうと一生懸命スープを冷ましている向かいで、「ケガが利き手だったら食べさせてあげたのに」などと言った彼は、さも楽しそうに口の端を引き上げた。

Posted by 此花 朔