File.08 うさぎはうっかりなつかしむ

 鍵を預かり、あずまを引き連れて彼女の部屋を訪れたのは彼女の退院前日──昨日の昼のことだ。
 改めて室内に不審なものを隠していないかなどを探すだけならば鍵など預からずともどうとでもなったが、彼女には着替えを含めて身の回りのものが必要だ。検査結果に異常がなければすぐに退院になることは医師に確認してあったが、病院に運び込まれていた当時に身につけていたものは擦り切れたり血に汚れたりしている上、犯人の痕跡がある可能性も考慮して警察で押収しており、このままでは退院時に着るものすらない状態だ。
 着替えなどは普通ならば家族に頼んで持ってきて貰うところだろうが、唯一の親族である”ちーちゃん”こと瀬谷千彰は何度か帰国している形跡はあるが今は海の向こうらしい。当の透子は慣れたもので「ちーちゃんが連絡つかないのは割といつものことなので」とけろりとしていた。そして交友関係が希薄な彼女には、頼れるほどの友人もいなかった。
 こうなると、その役目は表面上恋人である川村の役目だ。ついでにそれを口実に鍵を借りることが出来れば今度は非正規とはいえ透子公認の家宅捜索が出来る。それも踏まえて鍵を貸して欲しいと申し出ると彼女は困惑したように眉を下げた。
「やっぱり嫌だよね。サイズを教えてくれたらそれに合わせて買ってくるよ。病院の売店だけじゃ退院する時に着る物までは揃わないだろうし。取り急ぎは下着とパジャマと羽織るものがあればいいかな?」
 衣服のサイズなどだいたい見当がつくし、鍵などなければないでどうとでもなるが、敢えてそう言ってひいて見せると「サイズ……」と呟いた透子は、思った以上にあっさりと鍵を差し出した。細身に見えるが言いたくないようなサイズなんだろうかと不思議に思ったが、鍵を渡して貰えるならばそれにこしたことはない。
 正直なところ、透子の部屋に入ることはもうないだろうと思っていた。恋人関係は自然消滅。彼女の狭い行動範囲を考えれば、顔を合わせることもまずないだろうし、うっかり逢ってしまったところで彼女は他人のフリですれ違って、関係の終わりをひとり納得する気がした。また、そうでなかったとしてもどうとでもあしらえる、そう思っていた。
「ホント、なんというか……シンプルな部屋ですね。最初に来た時はどこに仕掛けるかかなり迷いましたよ」
 川村が透子に接触する前にこの部屋に盗聴器を仕掛けに来たのは、東ともう一人の部下だった。盗聴器はボタン電池ほどの小さなものではあるが、こう物が少ないと見つからないように設置するのはなかなか骨が折れそうだ。
「まあ、そうだな。あまり物を欲しがらないし、買ってるのも見なかった」
 一緒に歩いていて、ふと彼女の目が和むことがあった。その視線の先には、犬が散歩していたり、小さな花が咲いていたり、野良猫がごろりと寛いでいたり。雑貨屋であれば、マグカップや小物入れ、アクセサリーがあることもあったから、いわゆる女が好むような可愛い物は嫌いではないのだろう。けれど、それらを買うことも強請ることも一度もなかった。
「なんつうか、あれですね。セーフハウスに似てますよね」
 東の発言に改めて部屋を見渡す。
「ふっ、俺も最初に同じ事を思った」
 ここしばらく来ることもなかったが、初めてここを訪れた時と違うのはベッドの上からこちらを見ている亀のぬいぐるみがあることくらいのもので、相変わらず二十代女性の一人暮らしにしては殺風景だ。
「亀吉……いや、亀太郎だったか」
 ひとりごちてベッドの上の亀に手を伸ばす。肌触りがいいのだと言って抱き締めていた。確かにすべらかなそれは、触り心地がいい。
 あの日、このぬいぐるみに唇を寄せていた姿が脳裏を過ぎる。無邪気な行いは微笑ましかったけれど、なんとなく面白くなかった。
『川村さんは自分が好きじゃなくても、相手は自分を見てないと気が済まないタイプです?』
 透子はそう評したが、そうでもない。同じ空間に居ても、自分は好きなことをしていたいし相手が同じように好きに過ごしていたところで気にはならない。だからあの衝動はおそらくは”川村”として、口説いてもなかなか靡かない女にほんの少し痺れをきらしただけだ。
『その仮定はおかしいよね。僕は君が好きなんだから』
 こんなにわかりやすく口説いているのにと改めて言葉にすれば、なぜか『川村さんが、ですよね?』と返った。
『私は、あなたが好きです』
 あれが初めてだった。彼女が自身の想いをまっすぐ言葉にしてくれたのは。
 皮肉にも、ようやくそんな言葉を引き出した直後から他の案件に時間を取られ、透子をこれ以上監視する必要はないだろうという決定に傾いていったのだが。
 ひどい男だ。必要だからそうしただけのことではあるが、客観的に考えてつくづく情がない。己の行いを醒めた目で振り返りながら、ポケットから取り出した手袋をはめて、簡易検査機をオンにする。盗聴器など何かしらの電波を発しているものがないかを確認する為の機材だ。仕掛けていたものはすべて回収済みだが、念のため確認しておくにこしたことはない。
 盗聴器などの多くはその機器そのものに録音するタイプのものと、単純に周波数さえあわせれば一定圏内であれば受信装置で聴けるもの、どこかしらにデータを送信するタイプのものなど様々だ。浮気などを疑って家族が設置する場合には録音タイプのものが多いし、家主に知らせずに第三者が設置する機器は圧倒的に後者ふたつのタイプが多い。そして、事件性が高いのも大抵後者だ。
 チェック用の機器は簡易的なもので、稼働中の電子レンジなどの近くであれば誤作動をすることもあるが、それにしても手の中で明滅する反応は随分と強い。
 こちらで設置した盗聴器などは数が厳格に管理されているのだから、回収漏れはない。それならばこの反応はなんなのか。
 無言で検知器を掲げて見せると、部下の表情がぎくりと固まる。
 この部屋に入ってからの会話を思い起こす。聞かれてマズい内容はあるにはあったが、東はこちらに狗塚と呼びかけることはしていないし、核心に触れるようなことは何も話していないことを頭の中で再確認する。川村が「東」と呼んでいたのがネックと言えばネックだが、東自身は透子への接触はしていないし、彼の経歴もまた狗塚同様警察内のデータ上、内部の人間すらもアクセスできるような場所にはなく、すぐに警察官だと知られることもないはずだ。
 問題は検知器が反応しているこれが、いつから設置されていたのかということだ。もしも、こちらが透子に接触するよりも以前、この部屋に盗聴器を仕掛けた時に既に設置されていたのだとしたら。そしてそれがウサギに連なる相手だったとすれば、警戒して透子への接触などしてこなかったに違いない。
 一度玄関に戻りブレーカーを落とす。この家の電気から電源をとるタイプのものなら、これで機材の動きが止まるはずだ。そうしてもう一度検知器を翳せば、先ほどよりも弱いが反応が消えていない。どうやら複数設置されているらしい。
『こちらで機材を設置する前に検知器でのチェックはしたな?』
 壁に寄りかかり、画面をたてて覗き見も出来ないような位置にスマホを掲げて東にメッセージを送る。機材設置前にそういったものがないかをチェックするのは基本動作だし、そうであればこれらが設置された期間をかなり絞って考えることが出来る。しかし、返ってきたメッセージは。
『しませんでした。すみません』
 舌を打ちたい苛立ちを抑え込み、「なあ。まさかと思って調べたらこの部屋盗聴器があるみたいだ。検知機が反応してる。今回の件、彼女はストーカーか何かに命を狙われたのかも知れない」と恋人を案じる声音で告げる。
「僕たちの手には余る可能性も高い。警察に連絡案件だな」
「は?」
「……お前、自分の勤めてる会社の業務を忘れたわけじゃないだろうな?」
 この部屋でのすべてが相手に筒抜けだったとしても、よもや警察が最初から彼女に目をつけていたなどと知られるわけにもいかないし、川村と東が警察関係者だと知られるわけにもいかない。
 幸い”川村啓士”の肩書きはセキュリティー関連も含めての防犯を取り扱っている会社に勤めていることになっている。この状況がどこかからモニターされているとしても、そう怪しまれるやり取りではないはずだ。
「あ、はい。わかりました。じゃあ、俺らはあんまり触らない方がいいですね」
「そうだな。普通なら盗聴くらいじゃ大した対応も期待出来ないが、今回の件もある。警察も腰を上げてくれるはずだ」
 聴かれているのを意識した言葉を続ける。
「取り急ぎ彼女の着替えは必要だからそれだけ持って行って、この件を彼女にも伝えないと」
 本来なら現場保存は重要だが、着替えを持ち出すことくらいは支障はないだろう。持ってきたバッグを開きながら備え付けのクローゼットの扉を開く。中には小さな引出箪笥が納められ、上着を中心とした服が何着か掛けられていた。どこに何が納められているかまではわからない。一番下の引出をひくと、下着がぎっしりと納められていた。下着姿を見るような仲ではないから初めて見るものばかりだが、彼女のイメージよりもカラフルだ。
 ウサギほどの大物ではなく猥褻目的のストーカーがここに出入りしているとしたら、下着なども荒らされるか持ち去られている可能性も考えられる。彼女にはそのあたりも確認してみる必要があるだろう。
「……気まずくないんすか」
 感心したように呟く部下の声を背に、「仕方ないだろう」と返して、順に詰め込んでいく。そうだ、仕方ない。なにしろ彼女には現状自分しかいないのだ。
「お前は見るなよ」
「み、見ませんよ」
 あるかもしれない指紋や証拠を損壊しない為にも、あちこち開けたり閉めたりして持っていくものを吟味している場合でもない。少なくとも彼女をこの部屋に帰すわけにいかないことは確かだろうから買い足すことを視野に入れても、今日の着替えや退院時に必要なものは揃えて持って行ってやらなくては。
 こんなことなら同行者は東ではなく女の部下にしておくべきだった。それならばこの季節に必要そうなものを、同性の目線で考えてくれたに違いないし、下着の選択だって任せられたのに。
 あれこれ黙々と鞄に詰め込みながら、密やかに先に立たない後悔をした。

◇   ◇   ◇

 退院の日。
 川村のマンションの自動ドアをくぐり、エントランスでコンシェルジュに挨拶をする間も物珍しそうにきょろきょろと視線を走らせていた彼女は、指紋認証を要する玄関ドアに「ほぇ」と奇妙な声を上げた。
「お邪魔します」
 玄関で丁寧に靴を揃える。置いてあった客用スリッパを履いてそろりと足を踏み出す姿は、小動物が初めて連れてこられた場所で歩を進めるような動きでいっそ微笑ましくはあるが、玄関に置いてあった除菌スプレーを吹きかけてから室内に入って欲しいと気が気ではない。なんならそのままバスルームに直行し、シャワーを浴びて全部の衣服を着替えて欲しいし自分自身もそうしたい。が、それが一般的ではないということくらいは自覚しているので黙っておく。彼女がここに居る間はずっとこうかと思うと少々気は重いが、仕事の一貫だと思えば耐えられないほどのことでもない。
 以前はここまでの綺麗好きだったわけでもなかったはずが、掃除や入浴がストレス解消に繋がっているのを通り越して、いつの間にかそれが出来ない時にはひどくストレスを感じるようになった。居住空間が整って、自身も清潔であること自体悪いことではないと思う反面、少しエスカレートしているのは自覚していた。もっとも、仕事に支障がない以上、それをどうこうしようと思っているわけでもないのだが。
 短い廊下の突き当たりにある磨りガラスのドアを開けば、リビングにはレースのカーテン越しに柔らかな光が差し込んでいた。
 十五畳ほどのリビング、連なるキッチンは対面式のものだ。リビングを抜けた奥の廊下にはドアがふたつ並び、それぞれ八畳ほどの洋間がある。彼女には手前のひと部屋をあてがうつもりだ。更に奥の廊下の突き当たりは洗面所がありバスルームと続く。
 男のひとり暮らしにはかなり広い間取りだが、本庁に近いことと、セキュリティーがしっかりしていること、バスルームの広さが気に入って、狗塚が実質本宅としている部屋だ。
 川村名義で借りているワンルームマンションを含め、業務上拠点がわりに使っている部屋はあと幾つかある。しかし、それらを選択肢に入れてなお、何者かに命を狙われているかもしれない女を取り急ぎ匿い、監視下に置きながら生活するにはここが最適だった。万が一彼女がウサギに連なる者であれば先々ここには住めなくなるが、今もここには月に数回しか帰ってこないことを考えれば手放すことになっても惜しくはなかった。
「ピアノ、弾くんですか」
 部下に「このままじゃ生活感なさすぎですよ」と言われ、クッションを転がしてみたり、雑誌を置いてみたりと男の一人暮らしと言って無理のない雰囲気を演出したはずが、彼女の視線を真っ先に捉えたのはそんな生活にはどちらかといえば不釣り合いな電子ピアノだったらしい。
 やめるタイミングを逸したというだけの理由で中学までは習い続けていた。この仕事に就いてからバーのピアノ弾きとして潜入するのに役立ったこともあり、忘れない程度に今も時折鍵盤を叩いてる。
「たまにね。透子さんは? ピアノ弾いたりする?」
「いえ、私は……。小学校の時にちょっとだけ習ってたけど、もう忘れちゃいました」
「そっか。とりあえず座らない? 紅茶と珈琲と、ミントティーもあるけどなにがいい?」
 電気ポットをセットしながら、所在なさげに立つ彼女にお伺いをたてると軽く目を瞠った。
「たまに飲みたくなる、だよね?」
 昨日買い出しに寄ったスーパーで見つけたミントティー。ハーブティーやフレーバーティーは自分では好んで飲まない為、自宅に買い置くことはない。しかし、以前カフェでメニューに視線を落とした彼女が『ミントティーってたまに飲みたくなるんですよねぇ。でも買い物に行くと忘れてて、また飲みたくなった時に、あ、って思うんです』などと苦笑していた姿を思い出して、ついでにカゴへと放り込んだのだ。
 「川村さんのそういうトコ、狡い」と頬を染める様に軽く肩だけ竦めてみせて「で、何にする?」と重ねて問えば「じゃあミントティーでお願いします」と返った。
「了解」
「何か手伝いましょうか」
「だーめ。怪我人はおとなしくしていてくれないと。その為に一緒に住むんだから」
「はぁい」
 子どものような間延びした声を上げた彼女がキッチンカウンターのスツールへと腰を下ろした。
「そこでいいの? あっちのソファの方が寛げると思うけど」
 沸騰してカチリと音をたてて止まったポットに手をかける。ティーポットに湯を注ぎ、自分の分にとコーヒーをセットする。「ま、近くに居てくれた方が僕は嬉しいけど」などと恋人らしい軽口を叩くと、唇を尖らせた恋人は先ほどよりも更に赤くなった。こんな風に感情を明け透けなところは、この子の可愛いところだ。
 しかし、と思う。感情が明け透けだからと言って、嘘をついていないわけでもない。嘘は言いすぎだったとしても、瀬谷透子については腑に落ちないことが多い。一度は経歴と彼女の行動にウサギへの関与はないであろうと判断して監視の打ち切りを決めたが、今回の線路への転落、そして躰に残る銃創痕、重ねて部屋に仕掛けられていた監視機器のことを思えば早計な判断だったと悔やまれる。
『えぇ、怖い。本当ですか』
 彼女の部屋から盗聴器の類いが見つかったと伝えた後の科白はどう見ても口先だけの反応だった。誰かに殺されるかもしれないと一度でも考えた人間が、自宅を盗聴されていたと聞かされてのリアクションでない。彼女のケガをしてない方の右手をとって労るように包むフリで脈を確かめたが、視線をほんの少し逸らしながら答える様とあわせても彼女は機器が設置されていたことを知っていたのではないかという疑念が浮かんだ。
 けれど。自分が監視されていることを知りながら、その空間で過ごし続ける。それは普通に考えればひどくストレスがかかる状況だ。彼女は休日にはあまり部屋から出ることなく、あの空間で過ごし続けた。知っていたなんてことがあるだろうか。それとも、それすらも何者かに強制されていたのだろうか。
『ケガが治るまでは不便もあるだろう? ちょうど少し仕事の方もゆとりが出来そうなんだ。とりあえずの避難と思って、僕の家に一緒に住んでほしい』
 頼む態で、その実決定事項を口にすれば、彼女の脈拍が大きく乱れた。
 銃創のことといい、この件といい、同居の間に確かめなければいけないことは随分と多い。

 ソファーに移動して、マグカップにミントティーを注いでやっても、猫舌の彼女はすぐにカップに口をつけることはない。
 もうすぐ昼にさしかかる。
 彼女の部屋に仕掛けられていたのは、盗聴器だけでなく監視カメラも発見された。データをどこかに送信するタイプのものだったが、その送信先までは現時点で判明してない。ストーカーならば設置しそうな風呂場やトイレには見当たらず、ベッドもその撮影場所からははずれていたとのことだった。目的もいつからなのかも、そして、彼女がホームから転落したことと関係があるかも不明とわからないことだらけだ。
 そんな状況だから気軽に外食に連れ出すというわけにもいかない。病院からの帰り道に寄ってもよかったが、彼女はまだ薬がきれれば打撲や捻挫の痛みも強く、なるべくゆっくりと静養するべきだ。
 冷蔵庫にある食材ですぐに出来そうな昼食と今夜のメニューを考えていると、あの、と声が掛かった。
「お仕事、本当に大丈夫なんですか? 私ならひとりでも平気なので、出掛けて貰っても問題ないですよ?」
 大人がゆうに三人は座れるソファーの端っこに浅く腰掛けて、透子は眉を寄せていた。ここしばらく仕事の忙しさを理由に顔を合わせるどころか、電話もトークアプリもご無沙汰だった。こちらから自然消滅を狙うまでもなく、彼女の方から愛想を尽かされても不思議がないくらい連絡を断っていたのだ。それが急にさも心配していたという顔で夜に現れたかと思うと、翌日には同居まで申し出たのだ。彼女にしてみれば未だ状況そのものを飲み込めていないかもしれない。
「ここ何ヶ月かは本当に忙しかったんだけどね。それも一区切りしたから、とりあえず三日間は休みの予定だよ。……ここしばらくろくに連絡も出来なくてごめん」
「あー……いえ。大丈夫です」
「君の方は? バイトの方は大丈夫?」
「……大丈夫、でもないんですけど。シフトが二週間ずつのサイクルなので、とりあえず今週いっぱいとその後の二週間、休みにして貰いました」
「そうか。まずはケガをちゃんと治そう。それに、警察の方も捜査してくれるんだろう?」
「はい。部屋にあんなのが仕掛けられてたくらいだから、やっぱり突き落とされた可能性が高いんじゃないかって。それも併せて調べてくれるみたいです」
「そうか。まあしばらくは外出もしないで。ここで過ごす分には安全だと思うし」
「え、と。川村さんが休みの間だけですよね?」
 自分のマグカップを手にして珈琲に口をつけると、彼女は確認するような目でこちらを見ている。しばらくここで一緒に住んで欲しいと言って連れてきたのに、意図が伝わっていなかったらしい。
「まさか。君の安全が担保されるまではここにいてくれないと僕の気が休まらないよ」
「そ、え、だって、そんなのいったいいつになるか……」
「必要な物なら全部揃っていると思うんだけど。足りない物があれば君の家から持ってきてもいいし、買い足してもいい。バイト先への交通もそう悪くないと思うし、時間が合えば送り迎えも出来る。……なにより、君がここにいてくれれば会って話せる頻度は格段に上がる」
 駄目かな? と彼女の方に少し身をずらして、膝に載せられた手にそっと掌を載せる。頬を赤らめるさまに、まだ彼女の心は離れていなそうなことを再確認しながら、「せめて君がバイトを再開するまでの間はここにいてくれないか?」と重ねて言うと、あーとかうーとか意味のない声を上げた彼女が小さく頷いた。
「よかった。少なくとも明後日まではよほどのことがなければ一緒に過ごせるし、その後もなるべくここで過ごせるように努力するから。まずは君はケガを治すのを最優先して、ひたすらゆっくり過ごすこと。いいね?」
「はい……。川村さんは、お仕事大変ですね」
 ぽつりと言った彼女がマグカップに手を伸ばす。左手首の痛みが出てきたらしく、動きが少しだけぎこちない。朝に飲んだ薬がそろそろきれる頃なのかもしれない。じっと横顔を窺っていると、ふーふーといつものように念入りに冷ましてからカップに口をつける。白いカップの中を覗き込んだ彼女は、くんと匂いを確かめると再びカップを口に運んで小さく首を傾げた。
「どうかした? もしかしておいしくない?」
「あ、いえいえ。これもおいしいですよ。ミントティも紅茶みたいにメーカーとか種類によって味が違うんだろうなって思っただけです」
「これもってことは以前おいしいのを飲んだってことかな」
「そうですね。初めて飲んだ時のイメージが強くて」
 お茶を口にして少し寛いだ気持ちになってきたのか、彼女はソファーに深く座り直してそっと背もたれに体重を預けながら、再びマグカップを口に運んだ。
「ああ、そういうのってあるかもしれないね。初めて飲んだのはいつなのか覚えてるの?」
「はい。中学の時に……ふふ、庭でミントが大増殖してしまったことがあって」
 懐かしそうに、けれど当時のことを思い出したのかくすくすと小さく肩を揺らす。いつもよりも無防備で、ほんの少し幼く見える笑みだ。
「へえ、家で育ててたんだね」
「はい。母がそういうの好きだったんで。……知ってます? ミントって庭に直植えするとすっごい繁殖しちゃうんですよ。母はデザートとかの飾りに添える程度に使いたくて育ててたのにやたら増えて、隣のトマトのスペースとか苺のスペースにも浸食しちゃって」
「ああ、聞いたことがあるよ。直植えする時にもプランターごと植える。でもそれすらも越えて繁殖するくらい強いらしいね」
「そうなんです。庭にどんどん広がっちゃって。で、せっかくだからお茶とか二次利用しようって母が頑張ったんですけど」
 瀬谷透子の経歴を頭の中でさらいながら、それは大変そうだと相づちをうつ。
「そのせいでいっときミントゼリーとかミントティとかが延々続いたから、お兄ちゃんは歯磨き粉みたいで嫌だって言い出して」
「なるほど。君にはそれが思い出の味ってわけだ?」
「そうですね。確かに思い出の味です」
 彼女の幼少時からの記録に、戸建てに住んだ記録もなければ集合住宅の一階に住んだ経歴もない。今の話しぶりではベランダのプランターでもなさそうだし、親類の家の庭ってこともなさそうだ。それに一番不思議なのは、彼女は両親との三人家族のはずだ。それならば、今の話に兄が出てきたのはどういうことなのか。
「ねえ、透子さん。お兄さん、いたの?」
 それまでの笑みが一瞬で消え去った彼女の瞳がほのかに揺れた。

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