水晶森の咎人 第2章  甘くて苦い想い出 5

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なかなか減らない菓子を前にフィラがお腹をさすり始めた頃、ソルは森のはずれで馬の背に揺られていた。散々甘い匂いを吸い込んで辟易していた胸焼けも、清涼な空気を幾度も吸い込むうちにようやく肺の中まで洗われた心地になった。
森を抜けて少し行けば開けた視界に農地が広がる。芽吹き始めた作物の雑草取りに余念のない農夫達が点在する畑の只中。隣国の紋章が刻まれた見張り台がささやかに存在を主張していた。木造のハシゴを二十段ばかり上るほどの高さしかない、人が二、三人立てばもう窮屈になりそうな程度のそれは、何も知らない者が見れば農民が作物泥棒を見張るために建てたものにしか見えないだろう。
かつて凶作に見舞われたシュリーフトは隣国テッサに交渉を持ちかけ、領土の一部と引き替えに国民全員が何冬か越せるほどの益を得たのだという。その時に、国境が変更され、この見張り台が作られた。しかし、その見張り台に人影はなく、農民たちは周辺でのんびりと畑仕事に精を出している。領土と引き替えにというのは名目で、ほぼ無償で援助を引き出したらしいという噂話も耳にしたが、兵士どころか見張りに立つ者ひとり見られないこの見張り台の様子を鑑みれば、噂は本当のことなのかもしれない。
当時はそんな伝聞を聞くだけで苛々とした心地になったソルも、今はただ、なぜもっと早くにこの地を訪れなかったのだろうかと苦い思いを抱えるばかりだ。
生きていると知っていたなら何を置いても駆けつけたし、連絡ひとつ出来ないほどの窮地にあったのなら、持てる力の全てを駆使してでもきっと助け出したのに。
あの日、ヴァンリンドゥに居たソルのもとまでやってきた伝令の使役は目の前で金色の光になって昇化した。遮断がされた様子もなければ、魔力が足りなくなったのでもない。あれは──主が事切れた時の消失だ。術者が生きている可能性は今度こそ万に一つもなくなった。その現実に、ギリと奥歯を噛みしめる。胸が塞ぎ息苦しさを覚えた己の胸に掌をあて、そのまま衣を握りしめる。吐き出す息にうめき声まで混じりそうで、そのまま息を詰めてしまう。これでは本当に子どもと代わらない。どれほど悔やもうとも、もう取り返しはつかないのだ。
水晶森の魔女は、今度こそ本当に喪われた。
七年前──なぜ、駆けつけてみなかったんだろうか。置いていかれて恨む子どもじみた気持ちを持て余したままに死の報に触れ、打ちひしがれていた。あの時に動いていれば、もしかしたら今でも彼女は生きていたかもしれないのに。
今度のそれは伝聞などではない。己が目にした現実だ。駆けつけたところで彼女は生きてはいないだろう。それなのに諦めた心のどこかであるいはという思いを抱くことをやめられない自身の幼さを嗤いそうになる。
それでも。あの日、死んだと知らされた彼女が生きていたのなら、可能性はゼロではないかもしれないという思いも捨てきれない。確かめたい。その激情に突き動かされてここまで来てしまったけれど。
馬が不服そうに首を振り鼻を鳴らした。手綱を握る手にいつの間にか力が入り、中途半端に引いていたようだった。
「っと、悪い悪い」
宥めるように声を掛けた青年は手綱を緩めると、馬の腹を蹴って駆け出すように促した。

ソルがここ数日通い詰めている目的の場所は、シュリーフトのはずれ、隣国との緩衝地帯にある小さな集落だった。
国と国の間は大抵緩衝地帯を挟む。多くの緩衝地帯はどこの国にも属せないような犯罪者も紛れ込む為、治安がいいとは言えない。ここもご多分に漏れず、この数日でスリ目的の者にぶつかられそうになったのはそろそろ片手の指を越える数になる。
舗装もされないままの大通りに面し、木造の宿屋や飲食店が軒を連ねるごく小さな村だ。常ならばさしたる賑わいを見せないこの集落も、年に一度この時期だけは方々から集まる商人たちでごった返す。馬番屋に馬を預けたソルは、人の流れを縫うようにしながら酒場を目指す。
天候が味方をすれば祈年祭まであと十日ほど。質素倹約をよしとするシュリーフトも、祈年祭の時期だけはあちこちからやってくる商人たちに広く門戸を開き、国民は日頃目にしたこともないような国外の珍しい品々に財布の紐を緩める。商売人たちはこの集落でその門戸が開かれる日を待ち構えるのだ。もちろんただ待ち構えるだけでなく、祭りの日までは周辺の似たような集落で様々な取引が行われる。この地でも、馬車の前に荷を広げたり、テントのような屋根を作って敷物を広げたりといかにも即席の出店が点在し既に祭りのような賑やかさだ。

「旦那。彼女にでもどうだい?」
足早に歩を進めるソルに、しわがれた声がかかった。見れば生成りの敷物の上には女の好みそうな装飾品がずらりと並んでいる。色とりどりの鉱石は繊細な細工の金具にはめられたもの、紐を通されただけの簡素なものなど様々だ。綺麗ではあるがいつもならば興味をひかれないはずのそれに足を止めたのは、店主のひと言だった。
「魔法国ヴァンリンドゥで手に入れた逸品だよ。どうだい?」
ソルの目線を捕らえた店の主は、素早く品物のひとつをつまみあげて掲げて見せた。
「この石にはなんと魔法が込められてるのさ。もっと近くで見てみるといい」
「へえ、あのヴァンリンドゥで? それは珍しいね」
感心したように頷きながら近づくと、商売になると踏んだらしい主は口髭で覆われた頬をにんまりと緩めた。手にしているのは瑠璃色の石が美しい銀細工の髪留めだ。月明かりに照らされた夜空のような色の石は確かにそれなりに上等な品にも見えたが、魔法の気配は微塵も感じられない。
「特別なルートで仕入れたのさ。、これを贈ればどんな女も兄さんにメロメロだよ。そういう魔法がかけてあるからね」
「メロメロ、ねぇ」
吹き出しそうになるのを堪えながら、店主が差し出したそれを手にする。注意深く観察してみても、やはりただの石だ。そもそも人の心を従わせる魔法は禁忌なのだから、この石にそんな力があれば大問題になる。
「綺麗な石だね」
「そうだろう? なんたって魔法石だからね。そこらの石とは訳が違うよ。どうだい、三百銀で」
「三百? それは高いな」
確かにいい品ではあるが、石の質で考えれば百銀くらいが妥当ではないだろうか。三百はさすがにぼったくりだろうと呆れた心地になりながら、やんわりと苦笑するに留めたソルは、ああ、これはフィラの瞳と同じ色だと思い至った。
「おいおい、高くはないだろう。なんたって魔法石だよ? どんな美女だって思いのままだ」
鷹揚に頷いて力説する商人の言葉をなかば聞き流しながら、菓子を前にした先程のフィラの様子が浮かぶ。
年頃の娘ならばそれなりに喜んでくれそうな物ではあるが、これを贈ってもあんな風に嬉しそうに目を輝かせてくれるだろうか。
彼女のあんなに緩んだ幸せそうな顔を見たのは初めてのことだった。
フィラはあまり笑わない。別に不機嫌そうだとか、気難しいとかそういった質ではなさそうだけれど、それにしても表情の変化が乏しい。自己申告に嘘がないなら、彼女は今年で十七才だ。その年頃の少女といえば、もう少し表情をくるくると変え、こちらがうんざりするほどにおしゃべりなものだと認識していたけれど、彼女はどうも違っていた。何か頼めば、出来はともかくとしても一生懸命取り組む。けれど、何も言いつけずに放っておけばいつまでもぼんやりと座って外を眺めていた。話しかけると返事はいつもワンテンポずれていて、まるでソルが自分ではなく誰か他の者にでも話しかけていると思っているような反応をしたのも一度や二度ではない。
ところがどうだろう。先ほどの菓子を前にしたフィラの様子ときたら、まるでお菓子の家に招待された幼子のようだった。目をきらきらさせて、様々な菓子の上で視線をいったりきたりさせながら、あっちもいいなこっちもいいな、と彼女の心の声が聞こえてくるような気さえした。あれだけ喜んでくれたなら、甘い匂いに辟易しながら作った甲斐があるというものだ。
かつて、菓子を作る度に同じように喜んでくれた笑顔が過ぎる。甘い物が好きでないソルが菓子作りを始めたのは、確かに『手段』だった。水晶森の魔女──アーシュコットの弟子で居続けるための。
アーシュは不遇なソルをかつて在った場所から連れ出し新たな居場所を与えてくれたものの、弟子をとるのは全く乗り気でなかった。そんな彼女の役に立つことをアピールする為に身につけたのが料理、中でも菓子作りだった。
彼女は菓子に目がなかった。しかし、魔法力や使える術の多さでは並ぶ者がいないとされた水晶森の魔女は、こと菓子作りに関して言えば壊滅的で、レシピを見ながら作ったものがどうしてここまで不思議な、いやもっと言えば得体の知れない味になるのか首を傾げるほどだった。だから、ソルは彼女が大好きで苦手なそれを練習した。少しでも己の存在が彼女に必要だと思ってもらえるように。なにより、自分の作った物で、彼女が喜んでくれることがただ嬉しかった。

『いつかちゃんとしたのを食べてみたいなって思っていたんです』

先ほどの、懐かしむような、でもどこか苦いものを堪えるような少女の表情を思い起こす。
『エアティール』はヴァンリンドゥではごく一般的な菓子だ。本来はあんな風に甘い菓子ではなく、どちらかといえば大人が好む、甘さよりも塩気や香料のスパイシーさが際立つ。それをアーシュが好むように甘くアレンジしたのだ。
だからフィラがあれを口にして『エアティール』と言ったのには驚いた。違う菓子と勘違いしたのか、それともシュリーフトに伝わるまでに、多少レシピが変わって伝わったのか。
なんにしろ、彼女が余所の国の菓子をも口に出来る身分であるのは確かなようだ。けれど、そんな裕福な家の生まれである割にはずいぶんと痩せっぽっちで、持病でもあるのではないかと心配になるほど貧相だ。食が少し細めなこと以外はいたって普通の様子で何かの発作を起こす様子もないが、それにしても貧弱すぎる。
あの少女については腑に落ちないことばかりだ。得体がしれない、とまでは言わないが、フィラの様子は明らかにおかしかった。十日に満たないとはいえ、生活を共にすれば多少なりともこれまでの生育環境が見えてきそうなものだ。だというのに、わかったのは家事を自身でするような環境になかったことと、マサルサスに祈りを捧げたくなくなるような何かがあったということくらいだろうか。訊ねれば身構えてしまうだろうと自然な会話の中で探ろうとするのに、フィラはとにかく口数が少ない。時折独り言をこぼすことはあっても、互いの沈黙に気まずさを覚えることもないのかいつまでも黙っていられる。じっと座っているのも苦ではなさそうだし、仮に人形のふりでも命じたら、なんなくやってのけるかもしれない。淑やかとも単におとなしい性質というのとも違うように感じる彼女の言動。それに加えて、違和感を覚えるのは端々に感じられる幼さだ。時折浮かぶ頼りない表情は、置き去りにして捨てられた子どものようだ。揺れる瞳に泣き出すのだろうかとそっと窺っても、あふれ出すことはなく、波がひくように無表情の下へとそっとなりをひそめてしまう。

『このお菓子に、魔法がかけられているんですか?』

子供じみた問いを一笑に付したけれど、彼女からあの表情を引き出すことが出来たのだから確かに魔法のひとつなのかもしれない。人の心に直接作用するけれど禁忌ではないそれこそアーシュが好み、ソルに教えようとしたものではなかったか。

「なんだい、にやけて。贈りたい女がいるんなら、こいつは掘り出し物だよ」
知らず口の端が緩んでいたらしい。店主の声に我に返ったソルは軽く咳払いをして、座ったままの男に視線を合わせるようにしゃがみ、実は、と少しだけ声をひそめた。
「僕も少々あちらの品物を扱うことがありましてね」
「あちら……てえと、魔法国の?」
ぎくり、と震えた肩にそっとほくそ笑む。この程度で動揺するあたり、ヴァンリンドゥうんぬんは商売人の軽口で、悪徳な詐欺というほどでもないのだろう。それにしたって魔法国の名を出してあまり滅多なことをされては困るのだ。
「ご存じです? 近頃あの国、この手の商品をひっそり厳しく取り締まり始めましてね。こないだも魔法国を騙った輩が……」
内緒話をするようにますます声を抑えて話すと、男はごくりと唾を飲み込み、神妙な顔で耳を傾ける。この様子なら、きっと大丈夫に違いない。
「ああ、でもこれは本物なんですよね。ヴァンリンドゥの! 本物の魔法……」
「に、兄ちゃん、そう大きな声をあげなくたって聞こえるさ」
「はは、すみません。同業の方だとわかって嬉しくなってしまって」
「あ、あぁ、ああ、そうだな、同業者たあ珍しい。まぁいいさ。兄ちゃんのだらしないにやけ顔に免じて、八十銀でどうだい?」
うろうろと視線を周囲にやりながらも商売を続けるあたり見上げた根性だ。
八十銀。この品物ならば手頃な価格だ。
彼女の瞳と同じ月夜の空色の石。これでまたあんな表情を見せてくれるだろうか。
「……六十銀」
「おいおい、同業のよしみで安くしてやろうってんだ。それはあんまりじゃないか」
げんなりと眉を下げた主に、何も言わずに微笑みかける。無言の応酬はほんの少しの間のこと。肩を竦めた男は軽く頭を振った。
「わかった七十銀でどうだい それ以上はまからない」
「いただきましょう」
最初の半分以下になったそれを受け取ったソルは、立ち上がると腰のポケットへと滑り込ませた。

◇  ◇  ◇    ◇  ◇  ◇

ソルがこの数日、集落に通い続けているのは、人捜しのためだった。人待ちと言ってもいい。
祈年祭は国の中枢、王の膝元の城下町にて行われる祭りだ。広く他国の商人にも門を開くとはいえ、誰かれ構わず入れるというわけでもない。商人の属する国と協会との公的な証明書があって初めて祭りの間、国の中心地での商売が許される。待っているのは、その証明書を偽造してくれる男だ。
もう数日待てば、ヴァンリンドゥから正式な書面が届くはずだ。
魔法力でしか干渉出来ない災厄、もしくは精霊についての異変を調査すること。これはヴァンリンドゥが国として掲げ、属する魔法使いに課している責務だ。ともすれば一国を滅ぼしかねない災厄を防ぐ労力を負う代わりに、ヴァンリンドゥはそういった事象に限り他国への干渉を許されている。そこまでの災厄ともなれば、被害は一国内では収まらないからだ。その為、魔法国が魔法使いに発行する証明書は、時にその国の中枢をも上回る強制力を有する。もちろん、相応の結果も責任も求められるのだけれど。
証明書があれば堂々と正面からシュリーフトへの入国が許され、自由に国内のいたるところを調査する権限を得ることが出来る。けれど、あの使役の消失を思い返せば、正面突破は得策には思えなかった。双方の国益を損ねるつもりはさらさらないし、魔法を邪法と呼び嫌悪を募らせるあの国に喧嘩を売るつもりもない。それでも、誰とも知れない敵に警戒されることなく潜入するには魔法国の使者としてではなく、祭りの喧噪のなか商人のひとりとして紛れ込むのが一番だろう。
酒場の入り口をくぐれば、日が傾いてすらいない時刻だというのに既に酔いが回って出来上がっている者もいるようだ。ジョッキを合わせ、グラスを傾け、顔馴染みの、または初対面の者たちが交流という名の情報交換に勤しむ。
商談の駆け引き、互いの流通ルートの探り合い、なかには魔法国の最長老がぎっくり腰で魔法も使えない状態らしいなどという噂話も飛び交う。ならばよく効く薬でも売り込みにいくかなどと笑い話に紛れてはいるが、話の内容は魔法国の最奥にあるものだ。改めて商人たちの情報の伝達能力に舌を巻く。それ以外にも、この数日通ってわかったことは、少し危ういシュリーフトの現状だった。ふぬけた王が女占い師の色香に夢中らしい、とか、一昨年女王陛下が死んだのは占い師が呪い殺した、はたまた実は王弟は暗殺されてその呪いなのではないか、など現王の求心力が弱まっていると感じる話が多い。そうして皆ため息混じりに口にするのだ。「あぁ、王弟のトリンク様が生きていたらよかったのに」と。
「トリンク様といえば、あのフィランゼア様も随分と大人びた可愛らしい方だったなあ」
「確かに大人びちゃあいたが快活な面もあった。城のテラスで柵の向こう見たさに子ウサギのようにぴょんぴょんと跳ねて……あれは大層可愛らしかったぜ」
「トリンク様に似て、年の割には随分と賢い姫君だったそうだな。生きてりゃどこかの国に嫁いで、いいパイプ役になっただろうに」
「八つで死んでしまうたあ、マサルサスも慈悲のないことをしなさる」
客たちの口の上るのは七年前の出来事だ。その日、マサルサスへと捧げる動物を狩るための猟に出た際の不慮の事故で王弟一家が揃って死んでしまった。さすがに王族の、しかも一家全員の死などという凶事だった為か詳細までは漏れ聞こえてくることはなかったが、王の片腕を嘱望され、対外的な交流で一目も二目も置かれていた王弟の死は商人の間でもかなりの衝撃だったようだ。確かに彼が生きていたならばシュリーフトは祈年祭以外にももっと広く商人たちに門戸を開き、商業的にも今よりは発展していた可能性も考えられる。
「王に不満を持つ奴らが何か企ててるって噂もあったっけな。前の宰相が戻されたのはその先触れらしいって話じゃないか」
「はは、だがあれだろ、あの占い師。先を見通す予言士らしいじゃないか。そんな女が隣にいれば、当面あの王も安泰なんじゃないか?」
未来を見通す魔法は存在しない。ただ情勢を正しく読む賢さがあるか、思う未来を引き寄せる力があるかのどちらかだ。噂の占い師はどちらだろうか。いずれにせよ、酒の席での単なる戯れ言だというのを差し引いて考えても、国内の情勢は推して知るべしかもしれない。
考えながら手にしたジョッキに口をつける。酸味の強い爽やかなはずの葡萄ジュース。なのに随分と苦く感じる。ここには聞きたくもない噂話も多すぎた。
「いっそトリンク様が生きて王様にでもなってくれてりゃあなぁ」
「ふはっ、あんまり滅多なことばっかり言って密偵の耳にでも入ってみろ。通行証を取り上げられるぜ?」
「そしたらあいつに頼むしかないな」
ふたつ向こうのテーブルでケラケラと笑い合う声が耳に入り、ソルはぴたりと動きを止めた。すかさずカウンターで葡萄酒をふたつ頼み、それを手に目当ての席へと向かう。
立ち飲みの丸テーブル。そこに肘をついて、ジョッキを傾ける二人の男の元へと割り込んだソルは、にっこりと人好きのする笑みを浮かべてた。
「なんだい。あんた、昨日もいたな」
さすがは商売人。人の顔をよく見ている。だからこそ油断ならない。
相手も同じように感じたのか、口元に笑みをはきつつも、目にはそこはかとなく警戒が見え隠れしている。その警戒を刺激しないでくぐり抜けるように、ソルは気弱そうに指先で頬をかきながら、「あ、これどうぞ。お近づきのしるしです」と手にしたジョッキをふたりに差し出した。
「随分景気がいいじゃねーか」
「景気がよくないからこそですよ。はいカンパーイ」
ソルがジョッキを掲げると、訝しげに眉を寄せつつも男たちはジョッキを合わせた。目の前で口をつけ、ごくごくと喉を鳴らして飲んでから、ソルはそろりと切り出した。
「『あいつ』もう来てるんですか? 僕もう大概待ちくたびれちゃって」
「へえ、あんた、あれ待ちだったか」
「はい、それで連日ここに通ってたんです。通行証がなくちゃ神様のお恵みにもありつけないでしょう?」
「通行証もなく祭りに?」
「あったんですけどね。護衛を雇う金をけちったら、商売道具ごと通行証を奪われてしまいまして。命と荷車一台は無事だったから、せめてヒト稼ぎくらいは、ねぇ」
「はっは。護衛代をケチったばっかりにずいぶん高くついたじゃねえか。腕ききが入り用なら紹介するぜ?」
「ありがとう。そっちはもう大丈夫。でもそいつらの給金の為にも祭りにはもぐりこまないと。来てるんですよね? あの男」
警戒心は酒に薄められ、ソルの口にした作り話は男たちの同情を買うには十分だったらしい。それでも、あまりおおっぴらに話すのも憚られるという程度の理性が働いていた商人は、落とした声音で彼の居所を口にした。
あの男に会う手順はいつもこうだ。ぐるぐると探し回っても、それがどれほど狭い町でも見つけ出すことが出来ない。それなのに、酒場に足を運べば噂をしている者が居て、ちゃんと必要としている人間に情報が届くようになっているのだ。だからといって噂を流している輩が仲間だというわけでもない。旅の一座や商人や、そうした者たちの持つ独自の情報網にだけ情報をのせる手段があるのかもしれない。いつか教えてほしいものだ。

酒場で得た情報でさっそくその裏口から地下通路へと抜け、小さな部屋を訪ねる。壁の四方が本棚で埋め尽くされた、ほこり臭い狭い部屋だった。
四回。一回。三回。聞いた通りに赤い背表紙の本が並ぶ棚をノックすれば、カチリとカギのはずれる音がして、棚のひとつがギギっと音をたてて動いた。ごく初歩的な秘匿魔法だ。
棚をくぐり抜けると、くわえ煙草で椅子に腰掛けていた男は、こちらを見るなり嫌そうに顔をしかめた。
「魔法使いがなんの用だ」
男は金色の瞳を眇め、不快さを隠すこともなく煙草の煙を吐き出た。籠もった部屋の中に充満する臭いに鼻も喉も不快さを訴える。浅く息を吸いながら、ソルは小さな布袋を差し出した。
「金五百だ」
「千五百だ。知らずに来たのか?」
「前金だよ」
「前金だ? ふん、約束を違えないのが信条なんだがな」
暗に全額前払いを提示した男は、手にした煙草を灰皿に押しつけ、音もなく立ち上がった。ソルもけして身長が低い方ではないが、男はそれよりも更に目線が高い。威圧するように見下ろす男の視線を受け流すように、軽く肩を竦めて見せた。
「信条は見えないからね。そのかわり、急いでくれたら倍にはずむよ」
「どうだか」
「”約束を違えないのが信条だ”よ」
片目を閉じ、男の言葉をそっくり返してやれば、嫌そうに若草色の髪をかき上げて息を吐く。
「用心深い魔法使いだ」
「そう言うなよ。これが初めてってわけじゃないだろ」
「だからタチが悪いってんだよ」
舌打ちしつつも前金を受け取った男は、さっさと出ていけと言わんばかりにしっしと手を払うようにソルを追い出しながら「明後日のこの時間に来い」と短く告げた。
煙草臭い部屋を抜け出し外に出ると、やけに生ぬるい風が吹き抜けた。ソルの感覚そのものをぞわりと撫でるその風の感触は、穏やかに澄んだ青空にはおよそ似つかわしくない気配を孕む。
嫌な勘ほどよく当たるのだ。
ソルは早足で馬番屋に戻ると、素早く馬に跨がって一目散に森を目指した。
来た道を森へと駆け戻るうちに、風が運んでくる燻すような臭いに気付いた。やがて視界に入ってきたのは、水晶森からあがる火の手だった。

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