「暑い……」
この村に来てから、2度目の夏だ。
着ている麻の着物は所々擦り切れて、少女が着るには少々小さくなってはきたが、居候の身の上で新しい着物をねだれるはずもない。けれども今は、その丈や裄の短さが有り難く思えた。
畑の手伝いを終えて、いつものように古びた社にやって来たみおは、己の顔を手で仰ぎながら泉の近くの大きな岩に寄りかかって腰を下ろす。
背に伝わる岩の冷たさは心地よかったが、炎天下のなか丘を上がってくる間に吹き出た汗はぽたりぽたりと地面に落ちる。木立のなかの水辺とくれば畑などより遙かに涼しいけれど、それでも止まらない汗を袖で拭ったみおは、再び「暑い」と口にした。
「暑いの寒いのと、人の子はほんにうるさい。夏が暑くなくてどうする」
突然目の前に童男が涌いて出た。深い水底のように青い瞳をこちらに向ける姿に驚くこともなく、みおは「だって暑いものは暑いんだもん」と唇を尖らせる。
彼に出会ったのは、去年の夏。村に来てすぐの頃だった。
両親を亡くしたみおは、生まれ育った村を離れ、母方の縁を頼ってこの村に来た。親類である子のない夫婦は、みおの醜い姿に眉を顰めながらも身を寄せることを許してくれた。
少女は顔立ちだけいえば、けして醜女ではない。目はくりりと丸く愛嬌があったし、ふっくらとした薄紅色の唇は童を抜け出しつつある娘らしい愛らしさがあった。けれど、右目の周り、顔の半分を覆うほどの大きな紫のアザが蝶の姿で張り付いていた。
人々はそのアザを薄気味がって『鬼子の印』とひそやかに、けれど少女の耳にも入るほどの無遠慮さで囁きあっていた。
『本当は鬼の子に違いない』
『いつか妖が迎えにくる印だ』
心ない言葉に傷ついて泣くたびに、抱き締めて頭を撫でてくれた両親はもういない。
まだひとりで生きていくことが出来ない以上、誰かの庇護の下に入るしかないのだということは幼心にも理解はできた。醜いアザはどうしようもないが、少しでも役にたたなくては、いつ夫婦の気が変わり追い出されるか知れない。
(役にたたなくちゃ)
その一心で、村に着いて早々手伝いを申し出たみおは、水汲みを言いつかった。
小さな村のたったひとつの井戸は、前年に枯れてしまったのだという。田畑には川から水路をひいているが、日常使う水は川か社の泉で汲むと教えられたみおは、家にほど近い川を避け、小さな丘の上にある社を訪れた。
今は神主もいないという社は、鳥居と小さなお堂があるだけの小じんまりとしたもので、朽ちかけた縁がいかにも落ちぶれた風情だ。参る人の姿もないそこは、ただうるさいほどに鳴き立てる蝉の声が響いていた。
その小さな社の奥。泉のそばに、彼がいた。
左隣に腰を下ろした童男の手を取り、そっと握って引き寄せ、己の頬にあてがう。
「冷たくて気持ちいい」と笑えば、彼の口からはただ呆れたような溜息だけがこぼれた。
袖の中にのぞく虹色の鱗を見つめるみおに、「そこまで暑いなら、泉にでもつかればよい」と言いながら童はやんわりと少女の手をほどいた。
「確かに暑いけど、底なしの泉なんておっかなくて入れないよ」
「ならば、村の子らと川の浅瀬で遊べばよい」
「川は、嫌い」
「嫌い、か。みおはいつ見てもひとりでおるの。川でなくとも、皆と遊んでいるところを見たことがない」
「……? いつも見てるの?」
童とは2日とあけず会ってはいるが、それはみおがここにやって来るからだ。ここ以外では姿を見たことなどなかったから、てっきり彼はここ以外には出歩けないものだと思っていたみおは、意外な気持ちでその横顔を見つめた。
「た、たまたまじゃ! 我が村を散歩していたらたまたまよく見かけるのじゃ」
「ここ以外で会ったことないよ?」
「見えないようにしておるのじゃ!」
「なんで? 見かけたなら声をかけてくれればいいのに」
「考えてもみよ。おまえが我と話をしているのを見られても、村の者には我の姿は見えぬ。気味悪く思われようが」
どういうワケか、童の姿はみおにしか見えない。
見えてよかったと心から思う。1年を経て、いまだ村に親しく話す者もいない少女にとって、この童は本当に貴重な話し相手なのだ。
「そんなの……話しかけてくれていいのに」
「だからそれではお前が気味悪く──」
「もう、気味悪がられてるよ」
胸が痛む筈の台詞を、からりと笑って伝えられた。
痛まないわけではない。けれどもうそんな痛みにはすっかり慣れてしまうほどに、物心ついた時からずっと周囲が自分を見る目は忌み子に向けるそれだった。
「ほら、私、鬼の子だから」
「ふん。そういえば、村の者もそのようなことを言っておったの。おまえのどこが鬼子だというのじゃ」
「違うの?」
「おまえごときが鬼子なものか。人間ふぜいが図々しい」
「だって」
「なんじゃ?」
「これは、このアザは鬼の印でしょう?」
「その蝶のことか? そんなものが鬼子の印だなど、聞いたこともないわ」
「本当に? だったら。……だったらなんで父さまと母さまだけ連れて行かれたの? 一緒に流されたのに、私だけ……なんで川の神様は、私だけ連れて行かなかったの?」
降りやまぬ雨は、あの日みおの村の川を溢れさせ、その濁流は多くの家を押し流した。
流された者は皆命を落としたが、少女だけは木の梢に帯がひっかかり流されることなく生き延びた。そうして難を逃れた村人は『やはり』と気味悪そうに言ったのだ。『鬼子は殺しても死なぬようだ』と。
鼻の奥がツンとする。喉の奥にせりあがってくる熱いものを必死で堪えながら絞り出した問いに、けれど童は答えなかった。
こんなことを訊かれても困るだろう。鬼の子の印でないと妖である童が言ってくれるなら、きっと間違いないのだ。自分はちゃんと人の子だ。それがわかっただけよかった。
そんな風に俯いたまま必死で己を宥めていると、そっと頭が撫でられた。
「そのようなこと、知るわけなかろう」
優しく撫でる感触に反して、童の台詞はひどく素っ気ない。
「みおはまだ寿命があったのじゃろ。そうでなければ、水神の気まぐれじゃ」
「気まぐれ?」
神様とはいえ、そんないい加減なもので人の命は左右されるのだろうか。気まぐれで、父も母も命を奪われたのだろうか。
納得がいかず顔をあげると、瞳に溜まっていた涙が零れたがそんなものには構う気にもなれなかった。
「気まぐれで父さまも母さまも死んだの? 村の人もいっぱい死んで、全部ぜんぶ流されて、そんなのってない!」
「……。みお、夏は暑いの」
「今はそんな話をしてるんじゃないよっ!」
「夏は暑い。冬は寒い。日が照れば渇き、雨が降れば潤う。それだけのことじゃ」
「そんなのわからないよっ!」
涙の余韻に震える声で、何が言いたいのかと童を見ても、その表情からは何も読み取ることが出来ない。
藍色の目はちらとみおを見た後、梢の向こうの空へと投げられた。
「おまえは夏が暑いと言った。では涼やかな夏がいいか?」
「そりゃ……」
夏が涼しければ快適に決まっている。そう思いかけて、でも、と考える。冷たい夏は作物を育てない。雨が降りすぎるのと同じく、それは人を悲しませるだろう。
「匙加減は気まぐれでの。まあそれもまた理の内なのだろうが」
「……」
「天帝は人の子らだけの為に物事を司っているわけではない。その声を聞く道筋は残してはあるが、結局万象は理の中にある。人の生き死にも同じことじゃ」
「ぜんぶ……全部決まってたことだから仕方ないってこと?」
てんていというのはきっととても偉い神様で、彼の気まぐれひとつで季節すら決まる。そういうことだろうか。
今、彼が伝えてくれていることは、きっと物事の本質的な話で、とても大切なことなのだろうということは漠然と感じる。けれど、やはりみおには童の言わんとすることがよくわからなかった。
自分が『人の子』だからわからないのか、それとも学がないからわからないのかはわからないけれど、ただそう答えたみおに向けられる眼差しが、少し哀しそうで、なのに慈愛に満ちていることだけはわかった。
同時に、目の前の存在は姿こそ自分とそう年の変わらない少年だが、やはりひどく隔たれた存在なのだということを感じて、とても寂しくなった。
「川が溢れたのは理の内じゃ。けれどみおが生きているのはきっと、父御と母御が守ったのじゃ。愛おしいそなたの命だけでもと願うたから、水神がおまえに情けをかけたのじゃ」
「本当?」
「……知らん。でも、きっとそうじゃ。そう思っておけばよい」
「うん」
今度は素直に頷いた。
「私がこんなだから、神様も連れていくのがヤだったんだって、ずっと思ってた」
「こんな、とは、そのアザのことか?」
こくりと頷けば、「人とはほんに不可思議なことを考える」と眉間に皺を寄せた童は、みおのアザを掌でそっと包んだ。
「これがなくなればよいのか?」
「え?」
「このアザがなくなれば、おまえは……」
「……?」
頬に感じるひんやりとした感触が徐々に熱を帯びていくのに気付き、少女は不思議な心地でその掌に自身の手を重ねて窺うように童を見つめる。
そこには、尊大さもやんちゃさもない、ただ真剣な眼差しがあった。
みおの胸は、なぜかせわしく動きだす。駆けった後のようなその鼓動の意味もわからないまま、少女はただ添えられた熱を感じていた。
ふいに熱が離れ、童の掌に重ねていた手の所在を考える間もなく、みおはそれに気づいて目を瞠る。
真っ白だった彼の掌に、蝶のアザがあった。
「──っ、それっ!?」
「面白い形をしておるものを。我は前々からこれが気に入っておった。人の世では疎ましいもののようじゃからな」
呆然としながらも、両手で己の顔を撫でてみる。なめらかな感触はいつも通りで、アザの有無などわかるはずもない。それでも、彼の掌の蝶は、ほんの先ほどまでここに留まっていたものだというのは、すとんと心に落ちて理解できた。
幾度も己の顔を撫で回す少女の頬をからかうようにひと撫でした童はひょいと身を離して岩に飛び乗り、「これは今日から我のものだ」と自身の掌を目の前にかざし、得意げに宣言した。