第三話 ひそやかに願うとき

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「……いないの?」
 
この村で迎える2度目の冬。
早朝から降り出した雪が、村の景色をすっぽり白く包む中、桶を抱えて白い息を弾ませながら社に来たみおは、童の姿を探しながら声をかけてみる。
 
「ねえ? いないの?」
 
シンと静まる泉のふちには、鳥の羽ばたく音すらしない。ただ音もなく、降る雪が泉へと消えていくばかりだ。
 
「ねえったら!」
 
みおは童の名前を知らない。初めて会った時に拒まれて以来、彼の名を問うたことはなかった。
知りたいと思わないでもなかったが、童はいつだって泉のほとりに居たし、会っている間はふたりきりだったから、名前を知らなくとも不便はなかった。
けれど今、みおは猛烈に後悔していた。
 
(なんで名前をちゃんと訊かなかったんだろう)
 
この静寂の中に、呼びかける名がない。
不安に鼓動が早くなる。どこかに行ってしまったのだろうか。もう会えないのではないのか。
次々浮かぶ不安に、みおの目が潤みだす。
 
「出てきてったらっ!」
「うるさい! ここに居るわ」
 
頭上から、不機嫌な声が落ちてくる。
木の上にいたらしい童が音もなく降り立つのと、桶を放り出したみおがその首筋に腕をまわして抱きつくのとは同時のことだった。
 
「なっ、何事じゃ!?」
「……った」
「なんじゃ?」
「いなくなったかと、思った」
「……昼寝を、してただけじゃ」
 
抱きついて嗚咽を漏らすみおは、その背後に童の腕が回りかけたことに気づかない。空をさまよった手は、結局彼女に触れることすらなく降りてしまった。
 
「……っ、……」
「いつまでそうしておる? たいがい離れよ」
 
声に促されておずおずと身を離す。すると、腰に手をあてて、不機嫌そうな顔をした童がこちらを見ていた。
 
「泣くことはなかろうが」
「だ、だって……い、いなくなっ、なっちゃったかって」
「我がここからいなくなるのは、消えてなくなる時くらいじゃ」
 
消えてなくなる。
その衝撃的な言葉に、みおの涙も引っ込んだ。
 
「消えて……なくなる?」
「おまえが生きてるうちは平気じゃろ。この社を壊してなくすことでもない限り、そんなことも起こらぬわ」
 
だから泣くことなどないのだと、みおの頭を軽く撫でた童を見つめる。
出逢った時は少し上だった童の視線が、今は真正面だ。
童は、みおが生きているうちは消えないと言った。ならばどれだけ生きるのだろうか。どれだけ、生きてきたのだろうか。
訊いてみたいと思ったが、そんなことを訊いてどう思われるか心配だったし、何より人との違いを──己との違いを、今耳にしたくはなかった。
 
「だって……名前を知らないから」
「名前?」
「私は名前を知らないから、呼ぶことも出来ないし」
「好きに呼べばよい」
 
興味なさそうに視線を逸らした童は、放り出された桶を拾いに行くと、押しつけるように少女に渡す。
 
「そんなの。そういうのは『名前』って言わないよ」
「なるほど。『真名』か」
「まな? それがあなたの名前?」
 
女の子の名前にも聞こえるその響きに小首を傾げて尋ねると、童は唇の端を引き上げた。
 
「違う。真名のことかと言っておる。おまえの言う名前じゃな」
「真名……」
「そんなもの、天帝と……つがう手合いの者ならその相手が知っていればよいものじゃ」
 
天帝にはなれないけれど、つがう相手にはなれるのだろうか。そうしたら、名前を教えて貰えるのだろうか。過ぎった考えに、すぐに心の中で首を振る。それは、人である自分には到底無理なことだ。
みおはぎゅっと桶を抱きしめて「なんだ、つまらない」と殊更明るく笑って言うと、泉のほとりに膝をついた。
 
「この村にこれだけ雪が降るのも珍しい。こんな日くらい、川で汲んだらどうじゃ?」
「だって、雪で滑ったらどうするの?」
「泉とて同じじゃ」
「違うよ。全然違う」
「泉の方が深いのじゃぞ?」
「だって……ここならひとりじゃないもの」
 
ここに来れば童がいる。
村の中でも、シンとした家の中でも、たったひとりでいる時でも、本当にはひとりぼっちではない。みおにとっては、それがとても大切な支えだった。
 
「ここに来れば、ひとりじゃないから。だから、泉は怖くないよ」
 
冷えて感覚のなくなってきた両手を擦りあわせながら答えて笑うと、童はなんとも複雑そうな表情になった。
 
「おまえは相変わらずひとりでおるの。アザが消えたのに、なぜひとりで暮らすようにした? 人と交わるどころか、ますます離れていくばかりじゃ」
「それは……」
 
アザが消えたことで余計周囲との溝が深まったなどと、目の前の童に言えるはずもない。
なにかにつけて古びた社に通う少女の顔からアザが消えたことに、村人は一様に驚愕した。けれど、人々はそれを少女が社に通った御利益だとは考えなかった。
 
なにしろ社は、かつてこの村を襲った飢饉以来、奉り捨てられたような状態ですっかり落ちぶれていたし、参る者どころか神主すらいないのだ。まれに社を訪う村の年寄りが、誰もいない泉から大きな水音が聞こえたなどと言いたてたり、泉の近くで薪を拾っていた者が社の中から物音がするのを聞きつけたりで、この社は 化け物が住まうのではとまことしやかに囁かれていた。
そこにきて、少女のアザの消失だ。

『妖の仲間だ』

『鬼子の娘は喰われて、妖が成り代わったのではないか』

そんな憶測がまるで事実のように人々の口に上り、夏の終わり、少女はとうとう夫婦の家を出されてしまった。
表向きは、夫婦に子が出来たから。でもその実は、気味の悪いやっかい者として追い出されたにすぎない。
それでも、村を追い出されなくてよかったと、みおは胸をなで下ろした。
社の丘のすぐ近くの小屋をあてがわれたみおは、今はたったひとりで暮らしている。
 
「ひとりの方が、気楽なんだもの」
「そのようなことを……。人は人の世で、人と交わって生きていくものじゃ」
「……そのうちね」
 
童のため息の気配を感じながら、視線をはずしたまま微笑んだみおは、泉に桶を入れると水をすくいあげる。
指先に触れた水が、痛みを感じるほどに冷たい。桶を置き濡れた手を着物で拭いながら立ち上がり、指先に息を吹きかけてみたが、冷えきったそれがそう簡単にぬくもるはずもなかった。
ふと、目の前に歩み寄ってきた童がみおの両手をそっと包んだ。
みおの鼓動がとくんと跳ねる。
温度のない冷たい掌だ。それでも、それはなによりあたたかく感じる優しい手だった。
童はみおの手に布袋を押し込んで、その身を離した。
 
「見ているこっちが寒々しいわ。とっとと帰って、これでも食べながら火にあたれ。水が足りねば、今宵は雪で賄えばよい」
 
布袋の中には、栗や椎の実がいっぱいに詰まっていた。
 
「ありが……──くしゅっ」
「疾く帰れ。社に通う者が病で寝付きもすれば、ますますここの評判が悪くなるわ」
「でも」
 
もう少し一緒にいたいのだという言葉は、思いのほか心配そうな眼差しを前に、言い出せないまま飲み下した。
 
「……でも、なんじゃ?」
「ううん。ありがとう。またね」
「転ぶでないぞ」
「大丈夫」
 
桶を手に、布袋を懐に大事に抱いたみおは、踵を返して小走りで泉を後にした。

「今更これを返したところで……」
 
小さな背を見送って、掌の蝶に唇でふれる。
 
「……でもの先も、言ってみればよいのじゃ」
 
呟きは、ただ冷たい静寂へと溶けていった。

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