← 中編
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「最近、増えたね」
壊れた賽銭箱の前で熱心に手を合わせた村人が、鳥居をくぐって行くのを岩陰から見送った少女はようやく口を開いた。
みおがこの村で迎える、3度目の夏が来た。相も変わらず社に通う少女の言葉に、泉の辺に座って足だけ水に浸していた童は「そうじゃの」と村人が去った方をちらと見遣る。
「日頃からああして信心しておれば、我にも今少し力が宿ったものを」
璃卯は己の足の動きが作り出す波紋に、視線を落としたままだ。
「信心しておればって、神様みたいなこと言うね」
「おまえ……」
こちらを見つめてふたつほど瞬きした彼は、「我をなんだと思っていたのじゃ?」と眉をひそめた。その顔を凝視しながら考える。
いつも泉の近くにいて、時々は村を散歩している気ままな存在。優しいことはあまり言ってくれないけれど思いやりがあって、冷たい手はいつだってみおを温め てくれる。そして、出逢った時と少しも変わらないその姿は、自分とは決定的に違う時間を生きている証だ。それにしたって、まさか神様だなんて、これまで考 えてもみなかったことだ。
「本当に、神様なの?」
「知らぬまま、ノコノコとここに通っていたのか。我が人喰いでなかったのを、せいぜい有り難く思うのだな」
ため息をつく璃卯の気配を感じながら、(神様かぁ……)とみおも内心こっそりため息を落とす。
そうでなくとも遠い存在が、ますます遠のいたような心地になりながら「璃卯がそんなことしないってことは、知ってるもん」と唇を尖らせた。
ふて腐れたように言うみおに、璃卯は口を開きかけて、結局なにも言わずにそのままごろりと体を横たえた。泉に足を入れたまま、草の上に横になる存在が神様というのは、どうも実感がわかない。
「ねぇ。みんながお社をちゃんと拝んでたら、どうなったの?」
「村の者らが今少し信心深ければ、井戸は枯れなかったろう。先代の神が隠れたのは、村の衆がここを奉り捨てたからじゃ」
「だったら、もしもみんなが毎日ちゃんと拝んでたら、今でもここには前の神様がいて、璃卯はここに来なかったってこと?」
「無論。先代の神がおれば、我は天帝に呼ばれなかったからの」
みんなが信心深くなくてよかった、とこっそり思う。村人がこの社を放って置くようになったからこそ、みおは璃卯と出逢えたのだ。
「信じる者が減り奉り捨てられれば、加護する力は減る一方じゃ。力が減れば己の身をすり減らし、やがては消える。社の主とはそういうものじゃ」
「璃卯も? みんながちゃんと拝んでいないと、璃卯も消えちゃう?」
「消える。今、この社と深く結びついておるのは我じゃからの。もっとも、この身がすり減るより先に、社が朽ち落ちて、道連れになる方が先やも知れぬがの」
「そんな……」
そういえばあの雪の日も、璃卯はそんなことを言っていた。
『我がここからいなくなるのは、消えてなくなる時くらいじゃ』
『おまえが生きてるうちは平気じゃろ。この社を壊してなくすことでもない限り、そんなことも起こらぬわ』
「祈りは力になる。力が増えれば、この地と我との結びつきも強まり、井戸を涌かせるくらい造作もないんだがの」
璃卯が消えてしまう。考えただけで、体が震えそうになる。みおが生きているうちは平気だと言ったって、本当に大丈夫かはわからない。璃卯がいなくなってしまったら、ひとりぼっちになってしまう。
(──違う)
ひとりぼっちになってしまうからじゃない。ただ、彼が消えてしまうのが嫌なのだ。
「聞いておるのか?」
立ち尽くすみおを不審に思ったのか、璃卯が身を起こした。水底のように深い青がじっとこちらを見ているのに気付き、うん、と頷いた。
「もっと早く教えてくれてたら、私も来るたび祈ったのに」
ここにはもう数え切れないほど通ったけれど、考えてみれば社に手を合わせたことは1度もない。たったひとりの祈りなんてささやかかもしれないけれど、それでも、今までそうしてこなかったことが口惜しい。
「みおはよいのじゃ」
「なんで? 私だって」
「祈るかたちはどうでもよいのじゃ。たとえ社に足を運ばずとも、ただ心に我を置き、思う心があればそれでよい」
言いながら、璃卯は再びその身を地面に横たえた。そんな彼の顔を覗き込むように、少女は白銀の髪の傍らに跪く。
「だったら……だったら私はいつもとっても想っているよ?」
想いを込めて囁くと、一瞬目を瞠った璃卯は少し困ったように笑んで、「そうか」と寝そべったまま少女の肩に零れる黒髪にさらりと触れた。
璃卯は、時々こんな表情をする。だから、いつも結局それ以上のことが言えないのだ。
それでも、こんな言葉なら困らせずに済むだろうか。
「すごく、想ってるよ」
「そうか」
「すごくすごく……」
「わかった、わかった。拝まずとも、ここに通うのはおまえくらいだったからの。どれ、試しに願い事を言うてみよ」
寝そべったままグンと伸びをした璃卯は、ころりと体を反転させると少女から身を離すようにして体を起こした。後ろ手に地面についた手に体重を預けるようにして、首だけ巡らせた神様はそう言って軽く口の端を引き上げた。
「叶えてくれるの?」
「聞くだけ聞いてやろう」
穏やかな声音に、とくんと鼓動が跳ねる。聞いて欲しいことなら、ある。
大好き、とただ伝えたい。璃卯が人でなくとも、同じ時間を生きられなくても、それでも傍にいたい。
乾く唇をそっと舐めて、みおは恐る恐る口にした。
「聞いたら、叶えてくれなくちゃいけないんだよ」
「ならば──……ならば聞かずにおこう」
一度仰向いて空を見遣った神様は、喉で笑って再び己の足が作り出す波紋に視線を落とした。
少女の胸に灯った希望は、瞬く間に消え去る。けれど、そこに残ったのは安堵だ。もしも伝えたら、彼はもう二度と姿を見せてくれなくなるような気がするからだ。
震えそうになる声を抑え、「そんな神様ってない」と目一杯ふくれて見せれば、「なんでもかんでも叶うものか。我らの身がもたぬわ」と璃卯は肩を竦めて答えた。
「いいよ」
聞いてくれなくていい。伝えられなくたっていい。ただこんな時間が続くのならば、それでいい。
「なんにも叶えてくれなくていいから、だから、きっとずっとここに居てね?」
「消えない限りは、どこにも行きようがないからの」
「約束だよ?」
「おまえが嫁に行き、子を産んで、その子供の子供も、ずっと我が見ていてやる」
ああ、まただ、と思う。彼はことあるごとに、こんなことを口にする。それはまるで、想い続けることすら許されないと言われているようで、胸をぎゅっと掴まれた心地になる。
みおは泣きそうになるのを堪えて、無理に笑った。その笑顔が、どれほど痛々しく映るかなど考える余裕があるはずもない。
「だったら、私が嫁に行かなかったら? 貰い手がいなかったら、それでもずっといてくれる?」
「貰い手がいなければ、その時は、我が」
「……」
「我が、相手を探してやろう」
「そこは……そこは貰ってやろう、じゃないの?」
「貰って、欲しいのか?」
いつもより低く、真剣な声が響く。息を呑んで璃卯を見れば、彼の眼差しは変わらず水面に向けられていた。
喉に張り付いた声を押し出そうと口を開いた瞬間「冗談じゃ」と笑み含んだ声で言われ、みおはただ黙るしかない。
いつだって、想っているのは私ばかりだ。きっと璃卯は、ある日突然私がいなくなったって、いつも通りの平気な顔でここいるのだろう。少し前までは、そう考えていた。
けれど鱗を与えられ、名前を教えられてからは、もしかしたら、と思うようになった。呼びかければ応えてくれる璃卯が、時に手を繋いだり、頭を撫でたり、 ささやかでも優しいふれあいを許してくれる彼が、本当は少しだけ、ほんの欠片程度くらいは、自分を想ってくれているのではないか、と。
それでも口にできない理由があるとしたら、それはふたりに決定的な違いがあるからだ。
「我は、人ではないからの」
「……うん。大丈夫。ちゃんとわかってるよ」
気持ちを切り替えるようにひとつ深呼吸したみおは「繋いでいい?」と問いながら彼の手を指した。
「水汲みくらい、手なぞ繋がなくとも平気であろう?」
彼の言うとおり、最近は水への恐怖心が和らいだのか、川で水汲みをすることも増えた。あの鱗を飲んだおかげで、もしも落ちても璃卯を呼べばいいのだと、安心できるせいかもしれない。だから今は、その為に繋ぎたいんじゃない。
「水汲みじゃないよ。ちょっと水に入ってみようと思って」
「ほぉ、どういう風の吹き回しじゃ?」
「だって」
(そう言わなければ、手を繋ぐ理由がないから。って言ったら、また困った顔をする?)
「だって、暑いから」
「大丈夫じゃ。落ちたら助けてやる」
暗に、だから繋がなくても平気だろう、と言われた気がした少女は諦めて頷くと、泉の縁ににじり寄る。
(やっぱり、ちょっと怖いかも)
そろりと手を伸ばし、璃卯の白い袖をそっと掴む。恐る恐る両足を泉に浸せば、汗ばむ体が途端に涼やかになった。それでもやはり地につかない足先は心もとなく、みおは着物を掴む指先に力を込めた。
ふいにその手に、冷たい掌が重なる。そっと横顔を窺っても、深青色の瞳は変わらず水面に注がれていた。だからみおも揺れる水面に視線を戻しながら、その指先を絡めてみる。拒まれなかったことにホッとして、指先にきゅっと力を入れると同じように握り返された。
「そんなに強う握らずとも、離しはせぬ」
「だって……怖いんだよ」
璃卯がいてくれるのは心強くて、みおの心をいつだって温めてくれた。
けれど、と思う。想う心は育つほどに、怖さや不安や、時に痛みも生むものらしい。それでもやっぱり、好きなものは好きなのだから仕方ない。
ぱしゃと足で軽く水を蹴ってみる。広がる水紋の下は、底のない水が深く深く続いている。
(考えなければ、いいのかな)
目を閉じたみおは、ただ水の冷たさと、繋いだ指先だけを感じていた。
それから半月あまり。
雨期にろくに降らずに迎えた夏は、盛りの今となっても夕立すらない。
鳴き立てる蝉は相変わらずの姦しさだったが、いつもなら水を湛えて夏雲を映す田んぼは、申し訳程度の水たまりが点在するだけの有様になっていた。
みおの畑もせっせと水を撒いてはいたが、このままでは収穫に漕ぎ着けるのは去年の3分の1にも満たないであろうほどに作物が弱っている。それはみおの畑だけでなく、村のどこでも同じ様子だった。
夏はまだいい。実りがなくとも、山に入れば食べられる草も多く茂っているのだから、腹を満たすに事欠かない。問題は秋の実りだ。このままでは、村中の田 畑が枯れ果てかねない。そうなれば、微々たる蓄えなどすぐに底をつき、冬を越すことすらままならないだろう。
「我はしばらくここを離れる」
いつものように泉を訪れたみおに、璃卯は唐突にそう告げた。
「なんで!?」
「大きな声を出すな」
岩の向こうで社を拝んでいた女が、怪訝そうな視線をこちらに向けたが、みおがそれを見遣るよりも先に、女は連れていた幼子の手をひいて、そそくさと社を後にした。
「離れるってどういうこと?」
「我は天帝に会うてくる。この地に雨を降らせるよう、願いでる」
「願いでるって、そんなこと出来るの?」
「我らが人の地にいるのは、この地を鎮護する為じゃ。手に余るものは、時にその声を天帝に届ける。叶うかどうかは、天帝の御心しだいでわからぬがの」
ふと、璃卯が岩の向こうに視線を投げた。倣うようにみおもそちらを見ると、社の石段を数人の童達が駆けあがってきた。それにゆっくりと続く男女は、童らの両親だろうか。鳥居をくぐり、賽銭箱の前に立つと、揃って柏手を打った。
「父ちゃん、神様って居るの?」
「さぁ、いねえのかもしれないなぁ」
「ちょっとアンタ! こんなところで罰あたりなこと言うもんじゃないよ!」
赤子を背負った女が、男の頭を軽くはたく。
「痛ってえな、おい! 罰を当てるような神さんがいるなら、大歓迎ってもんだ。居るならとっくに雨も降ってるだろうよ」
「いいからせいぜい真面目に拝んどくんだよ。このままじゃ、こっちが干からびちゃうわよ」
「違いねえ」
もう1度柏手を打った家族は、揃って社を後にする。
黙って見ていたみおは「勝手ばっかり」とぽつりと言った。これまで村人たちは、朽ちていく社を省みることなく、ましてや拝む者などほとんどいなかったの だ。それが、日照りが続き、いよいよ川まで干上がりそうな今になって、ようやく皆は熱心に社に通い、拝むようになった。みおが神様だったなら、こんな勝手 な人たちをどうにかしてやろうだなんてきっと思わないだろう。
「放っておけばいいのに」
「それが我の役割じゃ。だいたい、放っておけば、おまえの畑も干からびるぞ?」
「それは……困るけど」
このままでは確かに村の全部が干上がって、遠からず皆で飢えることになる。それはわかるけれど、やはりどことも知れぬ場所に彼が行ってしまうのは嫌だった。
「天帝ってどこにいるの? 遠い?」
「その泉に底がないと申したのを覚えておるか?」
「うん」
「そこは龍脈。辿った先は、天つ彼方の天帝がおわす国に繋がっておる」
言われて、まじまじと水面を見つめる。泉は相変わらず豊かな水を湛えており、村が日照りで乾いているなど、ここに居ると忘れそうになるほどに変わりのない風情だ。
(ここが、龍脈……)
龍脈とは龍が通る道だと聞いたことがある。それなら璃卯は、龍の神様なのだろうか。
「なんじゃ?」
ふと、彼の掌──紫の蝶が目に映った。少し前まではみおの顔に張り付いていたそれは、璃卯の掌が当然の住処という顔で彼に寄り添っている。
「いいなぁ」
蝶はいつでも彼の傍にある。龍脈を辿り、天帝の許に行く時ですら一緒に行くことができるのだ。
「私も蝶だったら、璃卯と一緒に天帝のところに行けるのに」
そう言って黙り込んだみおに、眉を寄せた璃卯が歩み寄って来る。彼は手を伸べると、みおの柔らかな頬に両手を添えた。鼓動を踊らす少女の心中など知らぬ顔の童は、温度のない指先でみおの頬をつまむと、軽く左右に引っ張った。
「い、いひゃい」
「ふ、面白い顔じゃの」
満足げに笑った彼は、すべやかな頬をひと撫でしてその手を離すと「蝶では、こんなことも出来ぬであろ」などと言って鼻を鳴らした。
「半月もあれば戻る。それまでせいぜい泉に落ちぬように気をつけよ」
「落ちたら、助けに来てくれる?」
「落ちるなと申しておるのじゃ。おまえが溺れ死ぬ前に辿り着くほどの力を使えば、もう当分は天帝の許に行くことすら叶わぬ。よいな? 泉には近づかずにおれよ?」
「うん」
「……。落ちたら迷わず呼ぶのじゃぞ?」
「大丈夫。落ちないように気をつけるから」
みおの答えに頷いた『神様』は「ではの」と背を向け、泉に歩み寄る。
「え!? 今行くの?」
「今行ってはならぬか?」
肩越しに振り返る璃卯は、訝るように目をすがめた。その後ろ髪を束ねるのは、みおがいつか贈った浅葱色の結い紐だ。
「う、ううん」
「行ってくる」
「うん」
地面に踏み出すのと同じような軽やかさで、水面に踏み出して行こうとした璃卯の袖を、つい掴んでひいた。
半月などすぐだ。そう自分に言い聞かせてみるのに、どことも知れない彼方に璃卯が行ってしまうのが不安で仕方ないのだ。
「なんじゃ?」
思わず掴んでしまった袖を離して視線を泳がし、言い訳を見つけられなかったみおは「ごめん、なんでもない」と俯いた。
「すぐに戻る」
「うん」
顔をあげてもう一度璃卯の顔を見たら、泣いてしまいそうな気がする。そんなことで泣けば、呆れられてしまうかもしれない。
顔をあげられずにいるみおを、涼やかな匂いがそっと包んだ。
抱きしめられている。
そう気づいたのと、頭に手を添えられて、彼の肩口にきゅっと押しつけられたのとは同時だった。
「ほんの半月じゃ」
璃卯の声が、衣ごしに直接響いた。状況を認識したみおの心臓が、全速力で駆けだす。
「では、行ってくる」
身を離した璃卯は柔らかに微笑うと、音もたてずに水に飛び込んだ。虹色の鱗の輝きはすぐに水底へと沈んでいき、残されたのは耳元に響く拍動と蝉の声ばかりだった。
***
「この役立たずが!」
怒声と共に響いたメキという嫌な音に、みおはビクリと肩を揺すった。
璃卯が去って7日が過ぎた。照りつける陽射しは容赦なく、川は細く辿々しい流れへと姿を変えている。それでも、泉はいつも通りに水を湛えていた。
木漏れ日射す水面が輝いて見えないのは、その地の主が不在だからだろうか。それとも、ただみおがそれを寂しく思っているからだろうか。
その水辺に腰を下ろした少女は、膝を抱えて顔を伏せ、ただただ泉から現れるはずの気配に注意をはらう。時折泉に水を汲みに来る人の気配にも、顔をあげることなく待ち続ける彼女の耳にその不快な音が届いたのは、暑さも盛りの昼を過ぎて少しした頃だった。
「薪の足しにでもしてくれるわ!」
「そうじゃそうじゃ! なにが村の守り神じゃ!」
「神は神でも祟り神だっ」
慌てて立ち上がって見遣れば、数人の男たちが口々にそんなことを言いながら、賽銭箱や社の手すりに鉈や鋤を降り下ろしていた。
元々脆くなっていた木材だ。ミシッ、メキッと悲鳴のように音をたててたやすく壊されていく。
「だめっ!」
男たちのもとへと、弾かれたように駆け出す。
ここは大事な社だ。璃卯の一部だ。誰かに壊させるわけにはいかない。
「やめてっ」
現れた少女に、農具を手にした男たちが、胡乱げな目で振り向いた。
「ふん、鬼子か」
鼻を鳴らした男は、興味を失ったように社に向き戻ると、再び鉈を降り下ろそうとする。その男の袖に飛びついたみおは「壊さないでっ」と叫んだ。
「邪魔をするな。こんな社はぶち壊して、もっと徳の高い、立派な神様をお奉りするんだからな」
「なんでそんなっ」
「なんでだと? 祈っても祈っても雨粒ひとつ落とさん神なぞ、この村にはいらんからじゃっ」
別の男が答えながら、男の袖にしがみつくみおの肩を乱暴につかんで引き倒した。派手に転ばされた少女の肘や頬に、痛みが走る。それでも男たちを止めなければと、夢中で身を起こした、その時。
「何をしておるかっ!」
一喝する老人の声が響く。皆が動きを止めて、鳥居を見れば、杖をついた村長が肩で息をしながら上ってきたところだった。その後ろには、ここにいる男たちの妻らしき者たちが心配そうな顔で付き従っていた。
「社を壊すとは何事かっ」
整えるように深く息を吐いた長は、そう言って一同をねめつけた。
男たちの間から、チッと舌打ちが響き、互いに目配せするように視線を交わすと、先ほどみおを引き倒した男が前に進み出た。
「壊すんじゃねぇ。新しく建て直すんだ」
「ならば相応に手順がある。神主を呼んで、ここの神さんをどこかに移して、取り壊すのはそれから……」
「ここには居ねえべ」
「そうだ、ここに神なんかおるものか。そうでなければ川が干上がるほどに、雨が降らんはずがねえ」
「今のまんまじゃ乾いてくばかりだ。壊して、新しい神さんを奉ればいい」
そうだそうだと男たちが答える。彼らを窘めにきたはずの村長も、ついてきた女たちも、困惑したように視線を泳がせるばかりで、反論する様子もない。
溜まりかねたみおが「違うっ」と声を上げた。
「雨ならもうすぐ降る。璃……ここの神様が、今その準備をしているの。雨が降るようにお願いに行っているから、もうすぐ降るから」
必死に言えば、途端に不気味なものを見るような視線がこちらに集まった。
「出任せを言うな」
「託宣でもするのか?」
「鬼子が託宣なぞするものか」
「そもそもこんな化けもんが、ここに通っているせいで、神さんが逃げ出したんじゃないのか」
責めるような眼差しに気圧されながらも、ぐっと足を踏ん張ったみおは「降るよ」ともう一度口にした。
「ここを壊したら、雨は降らない。だから待って。壊さないで」
「誰が鬼子の言葉なぞ聞くものか。皆の衆、騙されるな。鬼子がここを壊すなと言うなら、きっと壊した方がよい」
「まぁ待て」
口々に好き勝手を言う皆を制して、とつとつと杖をつく村長が、みおの前に歩み出てきた。
「確か、みおといったか」
「はい」
「顔に張り付いとった蝶は、どうした?」
村長は、そう言ってじっとみおの双眸をのぞきこむ。
少女は村人とほとんど関わりを持ってこなかったから、彼の人となりなどわからない。それでも、今この場で一番の発言権があるらしい老人が納得してくれれば、この社を壊さないでいてくれるのではないか。
「蝶は、ここの神様がとってくれました」
ざわと空気が震えた。
「嘘じゃ! 鬼がいるのじゃろう!」
「娘を喰って成り代わったのだろうがっ」
「黙らっしゃいっ」
怒声で男たちを制した村長は、再びみおに向き直ると、ふむとひとつ頷いた。
「なるほど、みお。おまえはここの神に、特別寵を受けている者らしい。ならば村の為に、神のもとへと嫁いではくれぬか?」
嫁ぐ。それが額面通りのものではないことなど、みおにだってわかる。
それはつまり──。
「人柱」
誰かの呟きが耳に届く。
「村の古い記録に、雨を乞う為の記録があっての。美しい年頃の娘を泉に捧げて、社の神の花嫁にするんじゃ。おまえさんほどの器量よしなら、社の神も満足するじゃろ」
「それで雨が降るなら、一石二鳥だな」
「鬼子は、あっちの世界へ返してしまえ」
いくつかあがる声の中に、みおの味方をしてくれるものなどひとつもない。誰もが、それは名案だと頷くばかりだ。
「そ、そんなことをしなくても、雨ならもうすぐ……」
震え出す体を自らで抱きしめるようにしながら言いかけた言葉は、「すぐに準備にとりかかろう」という誰かの声に消されてしまう。
ゆるく頭を振りながら、じりと後退ったみおは、踵を返して駆けだした。
「逃げたぞ!」
「捕まえろ!」
追ってきた声はすぐに迫った。足をもつれさせた細い体にいくつもの手が伸びてきて、容赦ない力が少女を地面に縫いつける。恐怖のあまり声もあげられないみおに、否と答えるのを許さない声が降ってきた。
「村の為じゃ。村の衆の為に、花嫁になっておくれ」
***
格子から差し込む月光が、うっすらと影を落とす。陽が昇れば、また地面は熱く照らされるのだろう。
少女は木枠の向こうに見える、満月を過ぎた月をぼんやりと見遣る。
連れて来られたのは、村長の家の離れの小屋だった。中央に囲炉裏があるだけの室内は清潔に整ってはいたが、これといった物が置いてあるでなくひどく殺風景だった。
がらんとした室内のその向こう、土間の引き戸の外には見張りが数名いるようで、なにごとかぼそぼそと話している気配はするが、もうその会話の内容に興味をひかれることもなかった。
夜が明けたら、みおは『神様』に捧げられるのだ。
「馬鹿みたい」
村人は、みおを神様に捧げるという。けれど、当の神様は見返りなどなくとも雨を降らせようと天つ彼方に出掛けているし、なにより彼自身が『花嫁』など望ん ではいないということを、少女は誰より知っているのだ。ならば己は、いったい何に、何の為に捧げられようとしているのか。
態のいい厄介払いではないか。そんなことの為に殺されてなんかやらない。そう思って、昨日捕まってから幾度も脱走を試みた少女は、腕も足も傷だらけだ。
先ほど女たちがやってきて、みおを綺麗に洗い上げていった。温んだ水がそれらの傷にひどく沁みたが、少女はただされるがままに汚れを拭われていた。
タライの水に浸かるよう促された時、璃卯を呼んでみようかと思った。彼はタライでは駄目だと言ったけれど、もしかしたらと考えたからだ。でも、出来なかった。
璃卯が、天帝に降雨を願った後ならばまだいい。けれど、もしもそれがまだ済んでいなかったとしたら。そして、みおの声に彼が応えて戻ってきてしまえば、雨を降らせることは叶わない。そうなれば、村人は迷わず社を壊すに違いないのだ。
『社を壊したくないのであろう?』
幾度も逃げだそうとするみおに夕餉を持ってきた村長は、ぽつりとそう言った。
『お前さんを花嫁に捧げれば、村の衆も少しは気が収まる。今すぐ社を壊すとは言わんだろうて』
社を壊しさえしなければ、きっともうあと数日のうちに雨が降る。必死の思いで老人に訴えたみおに向けられたのは、怪訝そうな眼差しだった。
『儂らはの、怖いんじゃ。お前が言うことは本当かもしれない。社の神が雨が降るよう努めてくれているのかもしれん。だが、みお。お前の言うそれは、本当に神なのか?』
どれほど言葉を尽くしても、結局は信じて貰えないのだと悟った。
あとはもう、ただ黙って項垂れるしかなかった。
『社は守ってやろう。お前が嫁いだら、7日は誰にも触れさせん。どうじゃ?』
残酷な言葉は、ひどく優しい声音で紡がれた。
みおが命を捧げても、社の安全は7日しか守られない。それでも。
(それなら、璃卯が言っていた半月には足りる)
社を守ることができる。それだけが、今のみおの救いだった。
やがて、空が白み始めた。塒から起き出した鳥の囀りが空を渡る。いつもなら起き出して身支度を調え、畑仕事を始める頃だ。でも、もうそんな朝はやってこない。
「本当の花嫁になれるなら、よかったのにね」
枯れたと思った涙が、再びほとりとこぼれ落ちた。
泉までは、輿で運ばれた。花嫁行列をそれらしく仕立てる為か、花嫁が逃げ出さないようにする為か。いずれにしろ、みおは逃げる気はなかったし、逃げられるはずもなかった。
みおは生まれてこの方、袖を通すどころか見たこともないほどに上等な衣を身につけていた。真っ白なその衣装は、銀糸で様々な花の刺繍が施されている。輿を 運ぶ者たちのひそやかな囁きで、これが村長の孫娘の為に仕立てられたことや、本当ならばこの花嫁の役目を負うのも村長の血縁者なのだということも知った が、不思議と嘆きも怒りもわいてはこなかった。
(私が、璃卯を守る)
身につけた衣装の豪華さとは裏腹に、みおの右足には麻縄が巻かれ、その先には大きな石がくくりつけられていた。さながら罪人のようだ。それでも少女の胸にあったのは、己が大切な者を守ることができるという誇らしさだった。
輿は泉のほとりに静かに下ろされた。輿の後をついてきていた村人たちが、少女と泉とを取り囲むように並ぶと、村長が懐から恭しく巻紙を取り出し、泉の神へと雨乞いを始めた。これが終われば、みおは水に飛び込まなくてはならない。
足にくくられた石は、泉の傍に置かれた。その横に佇みながら、いつものように澄んだ水面を見下ろせば、決めたはずの心が揺らぐ。歯の根があわないほどに震え出すのを、ぐっと奥歯を噛みしめて堪えた。
泉に映る己は紅をひかれ、見たこともない女のようだ。美しい着物に身を包み、悲壮な眼差しをこちらに向けている。
後ろ髪を束ねるのは、浅葱色のあの結い紐だ。支度をする女たちが髪を整えてくれようとした時も、これだけは譲らなかった。
(璃卯……)
泉に沈めば、戻ってきた彼がきっと真っ先に見つけてくれるだろう。
何事かと驚くだろう。もう1度、あの別れの時のように抱きしめてくれるだろうか。
さらさらとした触り心地だった、白銀の髪を想う。この衣の刺繍糸なんかよりも、もっとずっと繊細な輝きをしていた。
繋いだ指先を思い描く。つれない言葉とは裏腹に、いつだって優しくしっかりと繋いでくれた。
たったひとり誰よりも大切な存在を守れるならば、もうそれだけできっといい。
「よいか? みお」
いつのまにか口上を終えたのだろう。村長の問う声に顔をあげると、泉に集まった村人たちがじっとこちらを見つめていた。
座り込んで念仏を唱えている老人や、なにが起こるのかわからないとばかりに指をしゃぶって首を傾げている幼子、ニヤニヤと笑う男や、哀れむような眼差し。それらを見回したみおは、彼がいつも腰掛けていた大岩を振り返った。
いつものように足を投げ出して座る璃卯が「馬子にも衣装じゃな」と笑ってくれたらいいのに。
こんなこと全部が、夢だったらよかったのに。
そっと瞼を閉じて、大切な姿を思い描いた。
(璃卯。水を通して声が届くなら、あなたの声も私に届く?)
声が、聞きたかった。もう一度、彼の「みお」と呼びかける声が聞きたかった。
「みお」
けれど聞こえてきたのは、しわがれた老人の、早くしろと急かす声だ。
怖くて怖くて堪らない。でも今この社を守れるのは──璃卯を守れるのは私だけだ。
(私が、璃卯を守るの)
そう考えると、わずかばかり心が凪ぐように感じた。
璃卯、璃卯。伝えたい言葉がある。あなたがいたから寂しくなかった。あなたがいてくれたから、私はひとりぼっちじゃなかった。
じりと、慣れぬ草履で足を踏み出す。
璃卯がいてくれたから、私の心は冷えきることなどなかった。
この次生まれるなら、人じゃないものがいい。想いを告げるのを躊躇わないで済むように。あなたの掌にもらわれた蝶のように、ずっと傍に寄り添っていられるような、そんなものに生まれてきたい。
(ううん、本当はなんでもいい。ただ、もう1度会えたらいいな)
最後の息を吸い込んで、彼に繋がる場所へと身を投げた。
──璃卯?
──みおかっ?
──うん
──いかがした!? 水に落ちたか!?
──大丈夫。水に……水に浸かっているだけ
──ひとりでか。珍しいの。村はそこまで暑いか。
──……うん。
──待っておれよ。これからようやく天帝に目通りじゃ。明日にはきっと戻れる。もうすぐ雨を降らせてやるほどにな。
──よかった。それなら間に合う。
──なんじゃ?
──ううん。……うん。待ってる。ずっとここで待ってるよ。
──もうすぐ帰る。もうすぐじゃ
──うん。璃卯、あのね……。
──なんじゃ?
──……。
──……みお?
──……だい……すき、よ
明くる日のこと。夜が明けても村に光が射すことはなく、頭上には真っ黒な厚い雲が蠢いていた。やがて鋭く走る稲光を合図にしたように、ザッと雨が降り出した。
始めは歓喜に沸いた村人たちも、いつまでたってもやまぬ雨に右往左往しだした。吹きすさぶ風は獣の吠え声のようで、増えて溢れた川は龍のごとくうねって地を這い、逃げまどう人々を次々に飲み込んだ。
夜が来て、朝が来て、再び夜が来ようともまだ嵐は収まらない。
かろうじて丘の上の社に逃げた者たちも、お堂の屋根をもひきはがしそうな勢いの雨風に、ただ身を寄せあって震えるしかなかった。
この社も、こんな風雨に曝されてはそうは保つまい。誰もがそんな風に思いながら身を縮ませていた、その時。薄ぼんやりと泉が光り出した。沈めた鬼子が仕返しにやってくるのではと、人々が固唾を飲んで見守るその先で、光はどんどん強くなる。
ややして泉の中央からゆっくりと幾重にも波紋が広がり、淡く光る紫の蝶が飛び立った。誰もが呆然とそれを見つめる中、頼りないはずのちっぽけな蝶は、強風にあおられることもなく天を目指して飛んでいく。
蝶の飛んでいったその先から雲は切れ、一筋の光が差す。それは嵐の終わりを告げる光だった。
濁流は村を押し流し、多くの人を飲み込んだ。けれど、なぜか人柱になった少女の住んでいた家とその畑は、嵐などなかったように彼女が生きていた頃そのままに綺麗に遺されていた。
生き残った村人は、古びた社をきれいに修繕すると、少女の為に小さな塚をたてた。
誰が参るでなくとも、その塚にはいつも、花の咲かぬ冬すらも花が一輪手向けられていたという。
「化けて……でてくるのではなかったか?」
呟きに答えるはずの少女は、もうどこにもいなかった。