タクシーのシートに身を滑り込ませると、警察署のパイプ椅子とは違う柔らかな感触に咲良は少しホッとする。
凪が短く目的地を告げると、車は夜の街を走り出した。
メーター近くの時計表示は一時二十三分。
いつもならとうに寝ているはずの時間なのに、少しも眠くはなくて目が冴えていた。
そっと隣を窺い見れば、凪は静かに車窓の外を見つめていた。
咲良はシートに深く身を預け、ゆっくりと息を吐く。
巻き込んでしまって申し訳ありません。
ケガをさせてしまってすみません。
こんなに遅くまでごめんなさい。
いくつもの謝罪の言葉が浮かんでは消える。
けれど、今の咲良には、それを伝えるための手段がなかった。
咲良の胸にやり場のない暗さが広がり、目を伏せる。
そっと手を下ろした瞬間、小さく息を呑んで固まった。
指先が、凪の指先と重なった。
横顔を窺えば、彼は変わらず車窓の流れに目をやっている。
咲良は恐る恐るその温かな指先をそっと握ってみた。
なんでそんなことをしたのか、よくわからない。
ただ、その温度に触れていると、胸の奥に残ったざらつきが、少しずつやわらいでいく気がした。
同時に、ひどく失礼なことをしているような罪悪感が芽生え、咲良はすぐに指先から力を抜き、手を放そうとした。
その時。
凪の手が、そっと咲良の手を包んだ。
ハッとして凪を見れば、彼は相変わらず車窓の外に目を向けている。
ただ、そこには、どこか張りつめた静けさがあった。
その沈黙を壊すのが怖くて、咲良も何も言わず、ただ指先の熱だけを感じていた。
「ゆっくり、休んで」
マンションの下にタクシーを待たせ、部屋の前まで送ってくれた凪は、抑えた声音で囁いた。
マンションの廊下はシンと静まり、人の気配も感じられない。
鞄の中から鍵を取り出したのを見届けて背を向けた彼のシャツに、咲良は思わず手を伸ばした。
驚いた顔で振り向いた凪に、咲良もすぐにシャツから手を放して、咄嗟に万歳してしまう。
心臓が、鳴っている。
離れたくない。
それだけは咲良も理解できた。
止まった空気が動き出すように、凪が笑った。
口元に手をあて、あまりに楽しそうに笑うから、咲良はおずおずと手をおろして、つい拗ねたような視線を向けてしまった。
「ごめんね。咲良さんがあんまり可愛いことするから」
その声音があまりに優しく響いて、咲良はいたたまれない心地になる。
咲良に、彼を部屋に招くほどの勇気はなかった。
ただもう少しだけ傍にいたい。傍に、いてほしい。
言葉にできず、伝える術もない咲良は、誤魔化すように笑って首を振った。
「咲良さん、お腹すいてませんか? よかったらファミレスとかどうですか?」
遠慮がちに差し出された言葉に、咲良はすぐに頷いた。
「よかった。あ、でも上着はとってきた方がいいですよ。さすがにこの時間じゃ、少し冷えるでしょう?」
促されて、鍵を回す。ドアをくぐりかけた咲良が振り返ると、凪は「待ってるから。大丈夫ですよ」と微笑んだ。
部屋に入った咲良は、壁に掛けていたカーディガンを手にする。
目に留まったテーブルの上のノートとペンも鞄に押し込んで、急いで玄関へと引き返した。
ファミレスの店内は、こんな時間だというのにそこそこ客が入っていた。
目を丸くして客席を見る咲良に「こういう時間に来るのは初めてですか?」と凪が注文タブレットを差し出す。
こくりと頷くと、「そっか……俺は仕事が行き詰まると時々来るんです」と笑ってメニュー表に視線を落とした。
店内は温かな灯に包まれ、さざめくような人の声が聞こえる。
咲良はようやく日常に帰ってきたような心地で、肩の力が脱けていく。
けれど、向かいに座る凪の頬は腫れ、赤みを帯びていた。
平和な空気の中で、その様はなおさら痛々しく映る。
咲良は部屋からとってきたノートにペンを走らせた。
《ごめんなさい》
「なにが、ですか? 咲良さん、悪いことなんて、ひとつもしてないでしょう?」
《巻き込んでしまって、ケガまでさせてしまって、すみません》
「……俺だって。もっと早く行けなくてごめん」
凪の視線の先、咲良の左手首が赤くなっていた。あの男が強く掴んだ跡だ。
──なんでこの人は、こんなに優しいんだろう
咲良は手首を隠すように右手で覆って、自身の胸に引き寄せた。
そうして、もうひとつ伝えるべき言葉を思い出し、急いでペンをとった。
《助けてくれて、ありがとうございました》
「どういたしまして。……さて、何食べましょうか?」
何かを食べるような気にはならない。そう思ったのに、夕飯もとっていなかった咲良の胃は、おいしそうなメニューを見ただけで空腹を訴えた。
咲良が持ってきたノートは、フラワーアレンジのデザイン案を思いつくまま描いたものだった。
努力していてすごいと誉めてくれる凪に、咲良はアレンジは苦手なのだと眉を下げる。
「俺は絵が苦手なんです。……借りますね」
凪が何かを描きだす。
四つ足で、尻尾がある。
熊だろうか。
その割に尻尾が長い。
うさぎにしては耳が短いし、尖っているように見えなくもない。
咲良の眉間に、知らず皺が寄っていく。
「何に見えますか?」
《ねこですか》
「狐です」
答えを聞いて、咲良はクスクスと笑った。
猫でもギリギリどうだろうと迷ったけれど、その動物が狐だとは到底思えない出来映えだ。
けれど、愛嬌のある目をこちらに向けるその生き物──狐は愛らしかった。
「今更練習しようとは思わないけど、俺昔から絵が苦手で。まあ咲良さんを笑わせられたからいいか」
咲良は笑いをおさめて、ココアを口に含む。
「咲良さん、今少しも眠くないでしょう?」
頷いて店内の時計を見れば、既に三時をまわっていた。
「まだ体が臨戦態勢なままだからだと思うんです。今は痛くない場所もあとから痛みがきたりするから、そうしたら必ず医者に行ってくださいね」
真剣な眼差しの凪は、そう言うと深い溜め息を落として「もっと早く駆けつけたかったな」と呟いた。
咲良はすぐにかぶりをふって《来てくれて助かりました》と文字を綴る。
「怖かったよね」
労るような凪の声音に、咲良は今日の出来事を思い返してふるりと震えた。
けれど、怖かったよりもなによりも。
《怖かったけど、それより腹がたちました。言われたことも、全然かなわなかったことも》
少しだけ迷って、咲良は《声が出たらいいのにって思いました》を書き添えた。
今日、幾度も思った
自分勝手な言い分を並べる男に言い返したい。
助けてと声をあげたい。
けれど、咲良の喉は掠れた空気を吐き出すばかりで、応えることはなかった。
「……声、でないの?」
《お医者さんには、出るはずだって言われてます》
咲良は、凪になら伝えてもいい気がして、迷いながらもペンを走らせた。
元々は、実家である旅館の火事による火傷が原因だったこと。
友達との溝を感じたこと。
断片的にこれまでの出来事を綴っていく。
ふと、綴る言葉を迷って、ペン先を揺らす。
伝えて、いいんだろうか。
ネットの数々の記事を思い返した咲良は、それでも凪と話してみたくて、その先を──
軽く息を詰めた凪が、眉間に皺を寄せてその文字を追う。
幾度か繰り返すように文字を辿った目を閉じて、何かを言いかけた唇が小さく震えた。
「綾華に、どこまで聞きましたか?」
目を開いた凪は、まっすぐな眼差しを咲良にひたと向けた。


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