第4章 キツネの尾 2

昨日は怒濤の忙しさだった。
正確に言えば、昨日──母の日までの三日間が、だ。
様々な花が並ぶ中、ほとんどの客は迷わずにカーネーションを買っていった。

小さな子どもがお小遣いを握りしめてきた時は、足りない金額が百円以内ならおまけしてあげていい。
『蒼い森』にはそんなルールがある。
実際ちらほらとそんなお客様もいたけれど、嬉しそうに、大切そうにカーネーションを抱えて帰る姿は、昼休憩をとるのもままならないほどの忙しさの中で、貴重な癒やしだった。
 
土日は、凪は来ない。
わかっていても、もう習慣のように、花を包む合間には広場に彼の姿を探していた。
 
凪が最後にこの店を訪れたのは、十日ほど前──あの名刺を渡した日だ。
あれ以来、広場でパフォーマンスをする姿も見なくなった。
 
これまでも、一週間くらいは姿を見ない日はあった。
 
けれど。
 
──こんなところでお遊戯をしていていい人じゃないのに
 
綾華が言っていたように、彼は彼の世界に戻っていったということだろうか。
 
客足が途絶えたまま、時刻は午後八時。閉店時間だ。
 
咲良は、街灯に照らされた広場に視線を投げてから、まだ店頭に置いてあった花桶を店内へと運び入れていく。
 
紫陽花の鉢植えも、早くも見頃を迎えているものも多い。
もう少ししたら、彼のパフォーマンスに小振りの紫陽花が似合う季節だ。
そんなことを考えかけた咲良は、苦く笑って、店のシャッターを少しだけ下ろす。
 
レジ台には、あの日、凪がくれた水族館のチケットを置いていた。
 
『言葉で人を化かしてきた俺には、ちょうどいい気がして』
 
夜桜の下で、凪はそう言っていた。
そんな言葉と裏腹に、彼の言葉はいつも優しくて誠実だった。
 
(彼もまた『言葉』で傷ついた人だろうか)
 
凪とは、連絡先を交換していない。
接点は、彼がパフォーマンスをしに現れるか、花を買いに来るかしかない。
 
もう一度、ちゃんと彼の話を聞いてみたい。
だから、もしまた会えたなら── 一緒に水族館に行きたいと伝えたい。
咲良は心の中で、静かにそう決めていた。
 
 
カシャンと小さな金属音が響き、咲良は吸い寄せられるように視線を投げた。
少しだけ下ろしていた店のシャッターをくぐり、男が入ってきた。
あの、スーツ姿の男だった。
 
閉店作業をしていても、ごく稀に客が入ってくることはあった。
どうしても急ぎで必要なのだと、申し訳なさそうに頭を下げる客に、花束を作ったことは今までにもあった。
でも、男はこれまでのそういう客たちとは違い、「お待たせしました」と笑みを浮かべた。
その薄気味の悪さに、咲良の背筋がひやりとする。
 
男は今日も着崩れひとつないきちんとした身なりだ。
 
「もっと早く来るつもりだったんですが」
 
女上司に言いつけられた仕事がいかに面倒だったか、訊かれてもいない言い訳を並べた男は、まるで待ち合わせに遅刻してきたような口振りで「お待たせしてすみません」と微笑んだ。
 
咲良は緊張しながらホワイトボードを手にする。閉店だと断るのは危ないだろうか。花を選べば、いつものように帰ってくれるだろうか。
伝える言葉を選ぶ咲良には気にも留めず、男は口を開いた。

「ああ、水族館ですか。いいですね、いつ行きましょうか」
 
レジ台の上に置いたチケットに視線を落とした男は、「あなたは土日が休みというわけではないですよね。大丈夫、俺が有給をとれば済む話ですよ」と勝手に話を進めていく。
咲良は書きかけた言葉を消して、違うと否定しようとした。その手首を掴まれて、喉の奥で音にならない悲鳴が漏れた。
振り払おうとして、ますます強く握りこまれ痛みを覚える。
 
「いいんですよ、恥ずかしがらないで」
 
男はこちらを凝視したままだ。
必死で押しのけようとした反対の手も掴まえられて、間近に顔を寄せた男が囁く。
 
「最初に買った時のマーガレット。俺ちゃんと花言葉を調べたんだ。『心に秘めた愛』なんて奥ゆかしい告白、嬉しかったよ」
 
どうにか手を振りほどこうとする咲良の様子などお構いなしに、話が進んでいく。
 
「俺もあなたにあわせてずっと秘めてたんだ。でも……」
 
そろそろいいだろう? 耳元で囁かれて、ぞわりと嫌悪感が走る。
 
「あなたって、本当にいいですよね」
 
手首が放され、男の腕が腰にまわされかけたところで咲良が精一杯突き飛ばした。勢いで、咲良の方が転んでしまう。
逃げなければ。
頭の中はそれでいっぱいなのに、足がうまく動かない。立ち上がって駆け出すことができない。
咲良はレジ裏に積んであったプランターや資材を手当たり次第、男に投げつける。
そんな様子に、男は楽しそうに目を細めた。

「声がないって本当にいいですね。絶対に嫌なこと言わないし」
 
その言葉が、凶器のように突き刺さる。
喉の奥が焼けるように熱くなった。言い返してやりたい。ふざけるなと叩きつけてやりたい。それなのに、喉から溢れるのは息とも音ともつかないものばかりだ。
 
這うように移動して、震える足を宥めながら立ち上がる。
出口を目指そうとした途端、腕を握りしめるように強く掴まれた。その痛みに顔を歪ませながら、シャッターの向こうを通り過ぎる人たちに、助けてと声にならない声をあげる。 
男は「可愛いな」と囁いて、咲良の腰を強く抱き寄せた。

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