第4章 キツネの尾 1

デスクに放り出した名刺が視界に入り、凪は深い溜め息を落とした。
手放したはずの過去は、こうもたやすく目の前に現れる。
 
綾華とはLynelリネルのヒット後、起業してすぐの頃からの付き合いだ。
コードを書く以外のことはろくに出来ない凪に代わり、請求書を整え、契約書の確認をし、寝食を忘れてパソコンに向かい続ける凪のスケジュール管理までしてくれた。
  
秘書のように付き従っていた彼女は、Lynelリネルの売却を最後まで反対していた一人だ。
 
利益だけを追求するなら、あのアプリにはまだまだその余地があることはわかっていた。
 
一家に一台のパソコンという時代から、一人一台の携帯電話、それもスマートフォンへと移行し、当たり前になって少しした頃。
 
画面の向こうに、自分の手で世界を構築してみたくなった。
大学に入ってすぐのことだ。
 
人と人を繋ぐ架け橋を作れると思っていた
それで誰かが救われる、そんな場所を自分が作れると信じていた。
 
好きに『言葉』を発信する。
その『言葉』を起因に、生活リズムや年齢、性別が違う誰でも、同じ『好き』を持ち寄ってコミュニケーションがとれるように。
それが最初のコンセプトだった。
 
繋がってもいい。繋がらなくてもいい。ただ、流れてくる誰かの言葉に、楽しい気持になったり、頑張れ!と思ったら応援のメッセージも送れる。
目指したのはそういうアプリだった。

実際Lynelリネルは大ヒットした。
企業もこぞってアカウントを作り、マーケティングにも利用ができると多くのアポイントが舞い込むようになった。
 
大学を辞めて、Lynelリネルに専念しようと思ったのは、そんな頃だった。
 
起業をして、Lynelリネルを中心に依頼された仕事をこなしていくと、見たこともなかった桁のお金が動き、凪の元に舞い込んだ。
人の役に立ち、それでこんなに儲かるなんて、と傲慢ともいえる振る舞いもしていたかもしれない。
 
流れが変わったのは、Lynelリネルが動き出して三年目あたりからだった。
SNSがいじめや犯罪の温床になっていると、社会問題となった。
実際、多くの人が楽しく交流している反面、無責任な誹謗中傷を繰り返すアカウント、炎上騒ぎが表面化し始め、規約やプログラムでは制御がきかなくなり始めていた。

凪のアカウントも、どう責任をとるのかというメッセージで埋め尽くされた。
 
ある程度は仕方ない。そう言い聞かせてみても、理不尽で度を超えたメッセージに法的な手続きを取り始めた頃、女子大生がLynelリネルで仲間を募った男たちに殺されたとセンセーショナルに報じられた。
 
世の中でSNS起因の炎上が日常化していき、凪の身近でも『言葉の刃』が現実となった。
情報開示請求をかけていたアカウントの持ち主が特定されたのだ。
 
凪の、幼馴染みの男性だった。
 
小、中学校と同じ時間を過ごした彼は、いつも凪にいろいろなことを教えてくれた。
同級生とも思えない大人びた雰囲気の彼は、凪にとって親友であり、尊敬の対象だった。
 
すごいな。がんばれよ。そう言って、起業当初からずっと応援してくれていた。
 
Lynelリネルの理念が揺らぎ始めた時も、愚痴を聞いて励ましてくれていたその彼が、裏アカウントで刃を振り上げていたことを知った時、凪の足下は大きく崩れた。
 
こんなことが、多くの人の身の上に起きている。痛みを実感として知った瞬間だった
 
ただ、Lynelリネルは成長しすぎていた。制御しようにも、ユーザーは数千万を越え、もう手に負えないほどの悪意を除去していくことは難しかった。
 
なにより、凪自身が、『言葉』というものを信じられなくなっていた。
それからすぐ、すべての権利を、少なくともLynelリネルを悪用しないと信じられる企業に売却することに決めた。
 
今はもう、Lynelリネルは凪のものではない。
でも、作ったのはお前だろうと怒りを向けられるとしたら、頭を下げるべきは自分だとも思っている。
 
決別したはずの過去は、いつまでも追いかけてくる。
綾華の名刺が、それを突きつけている気がした。
 
綾華は、咲良にどこまで話しただろうか。
 
咲良は花を差し出す時、まっすぐにこちらの目を見る。
相手の言葉にならない気持を汲むように、彼女の沈黙の奥にある言葉を手渡すように。 
けれど、名刺を差し出した彼女の指先は戸惑い、眉を下げて目をそらしたままだった。
 
彼女もLynelリネル──凪の作った言葉の世界の被害者なのだろうか。

安易に綾華を責めることもできない。
連絡をとりたいという留守電もメールもなにもかもを無視し続けたツケが、ここにきて目の前に突きつけられているだけだ。
 
あの頃、理想論ばかりを掲げながら、凪は本当には誰かと優しく繋がることの意味を、きっとわかってはいなかった。
ならば、今はどうだろうか。
 
日が落ちた窓の向こうは、夕暮れの名残すら消えていこうとしていた。
 
『明日は午前中に来ようと思って』
 
咲良に伝えた言葉も、嘘になってしまった。
 
約束を、したわけではない。でも言葉は、発した瞬間から重みを伴う。声でも、文字でも。
それが、優しさで繋がりたい相手ならばなおさら重い。

彼女の沈黙の奥にある言葉は、凪を責めただろうか。
確かめることもできずに、逃げているのは自分のほうだ。
 
窓硝子に映る自分の顔はどこまでも情けなくて、思わず笑いが漏れた。
 
こんな中途半端な状態で、咲良に会いにはいけない。
彼女の『言葉』をもう一度聞くために、逃げているわけにはいかなかった。
 
凪はスマホを手に取ると、名刺に書かれた数字を辿った。
 
誰かに手渡すはずだった彼岸花によく似た花──咲良が選んだグロリオサが、暗い窓硝子に赤く彩りを添えていた。

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