勢いよく店のシャッターを開ければ、派手な金属音が響く。
『言葉を必要とする世界』に、咲良を強制的に引き込む音だ。
ガラス越しに陽が射し込み、店内の花々も目を覚ましたように輪郭が照らし出される
ほんの先ほどまで時間が止まっていたようだった店内の空気が、駅前を行き交う人の靴音にあわせて、ざわめきながら動き始めた。取り残されても、流れが止まることはない。
咲良は立っている場所を確かめるように爪先に力を入れる。
大きく吸い込んだ息を吐けば、もやもやとした迷いも朝の空気に溶けていった。
花屋の一日は、仕入れた花の水切りから始まる。
棘のあるものも多いし、水仕事なこともあって、ハンドクリームは欠かせない。
ブリキの花桶の冷たい持ち手に手を掛ける。この一年で花桶の重さにもすっかり慣れた。
綺麗とだけ思っていた花の名前も、いくつも覚えた。
ただ、咲良の喉は相変わらずそれを音にすることができないままだ。
静かなはずの店内で、時計の針の音だけがやけに大きく響く。
この静けさが心地いいのか、寂しいのか、もう分からない。
花桶の持ち手が、いつもより咲良の指先の熱を奪っていく。
穏やかな毎日を過ごしているはずなのに、ふと呼吸が浅くなる瞬間がある。
欲しかったのはこういう日々だったっけ?
咲良は問いから逃げるように、ガラスの向こうに視線を逃がした。
枝先の桜が、一輪咲いている。
足を止めた子どもたちの高い声が、春の空気に溶ける。あの空色の帽子は、近所の保育園の園児たちだ。
「せんせぇ! ほら! さいてる!!」
「かわいいね!」
はしゃいだ声が、重なり合って響く。
咲良は花桶を抱えながら、舞台の上を観ているような心地で子どもたちを見遣る。
はしゃぐ彼らと付き添う女性を、春の陽射しがやわらかに照らし出す。
音にあふれた、自分とはまるで違う世界だ。
「さくちゃん、水あげ、これもお願い」
店の奥から掛かった声に視線を向けると、美弥が大きな段ボールを軽く持ち上げて見せた。
彼女は咲良の伯母であり、この花屋『蒼い森』のオーナーだ。
普段、美弥は、夫の経営するイベント会社を手伝っている。会場装飾や展示会の花を担うことも多く、昼間は出掛けていることが多かった。
そのため、朝のひととき以外は、咲良がひとりで店を切り盛りしている。
母によく似た笑みを浮かべる美弥に、咲良は花桶を下ろして頷きを返した。
美弥は咲良が喋れなくなったことを真っ先に受け入れてくれた人でもあった。あの混乱と、言葉に溢れた日々のあと、美弥は咲良を抱き締めてくれた。
「話せなくても出来ることはいっぱいあるよ」
強く優しい暖かさで包んでくれた腕は、こうして働く場も与えてくれた。
医者は「声帯は完治しています。いつでも声は出せますよ」と言う。
けれど、咲良の声は喉の奥に硬く張り付いたままだ。
世間に溢れた無数の『言葉』。
好奇心、憶測、そして、無造作に放り投げられた画面の向こうに踊った言葉。
それらは、咲良の命を脅かしはしなかったけれど、『声』を奪った。
この店の静寂は、あの無数のノイズから自分を静かに守ってくれる場所だ。
ここでは、『声』がない咲良は、同じように声のない花に紛れていられる。
けれど、この静けさが、ふとした瞬間に狭く感じることがある。
ガラスケースに守られながら、少し足りない酸素を求めるように、外の世界のざわめきを見遣る。
自分もあの中にいたはずなのに。
暗い店内から出された花たちが、外気に触れたとたん目を覚ましたように活き活きとして見えた。
鼻先をくすぐるのはフリージアの甘い香り。まだ空気がキンと張り詰めた頃から店頭を彩っていた彼らは、そろそろ退場の季節だろう。
代わりに、広場の桜たちが駅前に彩りを添えるまであと少しだ。
その桜の木の下に、異質な静寂が佇んでいた。
──また来てる。
顔の上半分を覆う白い狐面。白いシャツに黒いスラックス。腰には白いふさふさとした尻尾が揺れている。
彼は一週間ほど前から、時折姿を見せるようになったパフォーマーだ。
パフォーマーと言っても、音楽をかけたり、声をあげたりはしない。
ただ静かに佇み、音もなく世界を描き出していく。
彼の手が、空を滑る。それだけで、何もない空中にガラスの箱が顕れた。
彼が口を開くことはない。
もしかして、彼も声がでないんだろうか。
ふいに、駅前の喧騒が遠のく。それなのに彼の指先がガラスの箱を叩く無音の衝撃音は、咲良の胸に確かに響いた。
それは彼の『声』だった。音のない声。
黙っているのに、息づいている。
自分の沈黙とは、まるで違う。
『声』でも『文字』でもない言葉がある。
少しだけ、世界が広がった気がした。
ふいに面の下の視線と合った気がして、咲良は小さく息を呑んだ。
さっと逸らして足下を見れば、今日のお徳用ブーケたちが空を仰いでいる。
連れ帰ってくれる人を待ちわびるような花弁は、春を含み始めた風に小さく揺れた。


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