
明け始めた世界は蒼に染まっている。
もう何日も自宅に帰れていない。
なにもかも、うんざりだ。
フロアの誰もが死んだ目をして、モニタに向かい続ける。
望んだのはこんな日々だっただろうか。
後ろ手に掴む鉄柵は、ひやりと突き放すような冷たさだ。
拭き上げるビル風に煽られてよれたネクタイが揺れる。
コンクリの縁へと足をかけて見下ろす。
この高さなら、充分過ぎるだろう。
こんな時、靴は脱いで揃えておくんだったか。
考えかけて、笑いが漏れた。
どうでもいい。もうなにもかもどうでもいい。
それなのに──視界に広がる蒼い世界がやけに綺麗に見えた。
鉄柵から手を離す。
子どもの頃、公園のタイヤを飛び越えたように、コンクリを蹴って蒼い世界へと身を躍らせた。
「──っ!」
浮遊感に、びくりとして目が覚めた。
視界に入るのは、今となっては見慣れたコンクリがむき出しの天井。
シーリングファンが停滞した時間をかき混ぜるように回り続ける。
腕を伸ばして、掌を握り込み、再び開く。
確かな感触に安堵して、ゆるゆると息を吐いた。
「……うざ」
身を起こし、先ほどの浮遊感を振り払うように髪をかき上げる。
ふいに枕元のスマホが震えた。
表示された名称は『ウザカス』。出る必要のない相手だ。
メールで済ませろよ、と舌を打つ。
お使いひとつできない、役にも立たない輩だ。
連れて来いと言った相手を突き落とすだなんて、頭がおかしいとしか言い様がない。
信じていいのは、自分だけだ。──いや、あの子は信じてもいい。
お伽噺から助けてあげられるのは、ボクだけだ。
くつりと笑った男は「迎えにいかないとね」と呟いた。
◇ ◇ ◇
モノレールテロから四日が過ぎた。
二日間、表向きは休日、その実、透子を注視するという時間はすぐに過ぎた。
今日は出勤と称して、マンションを出てきた。
出勤先はもちろん庁舎ではなく『エスピークオーツ』、川村が勤務する会社だ。
透子は、あれ以来どこか様子がおかしい。
声を掛ければ話もするし、笑いもする。ただ、時々、心ここにあらずという様子でぼんやりとする。
あの時。テレビでの報道を見てからだ。
テロにより被害者が出たということに反応したのか、それとも妊婦の流産という報に引き摺られたかは定かでない。
ただ、そこが起点だったことはほぼ間違いない。
念のため今回の被害者である妊婦やその家族の交友関係を辿ってみたが、彼女との接点は見当たらなかった。
そのうえ、ここに来て透子は「そろそろ家に帰りたい」と言い出した。
ホームからの転落は、事件として捜査が続いている。防犯カメラの映像に何者かが干渉してきた以上、単なる事故であるはずもない。
しかも、彼女の自宅には誰が仕掛けたともしれない盗聴器や盗撮機が多数見つかった。
彼女が監視されていた。おそらくそれも確かだ。
危ない場所に帰したくない。
いたって真摯に見えるように言うと、彼女は視線を落として「引っ越せばいいですか?」とぽつりと質問をかえした。
「いっそここに引っ越してきたら?」
川村ならば当然とも思える提案は、首を振られて苦笑と共に流れていった。
なにがそこまで彼女を抉ったのか。
千彰ならわかるのだろうか。
そう考えるのは癪ではあったが、彼ならば透子が何を思っているか、なんなく正解にたどり着けるようにも思えた。
苛々と無機質なグレーの事務机を指で叩く。
なんにせよ、塞ぎがちな彼女をどうにかしてやりたい。
ふと、透子が嬉しそうに話していたホテルのビュッフェが過った。
検索すれば、落ち着いた雰囲気のレストランのホームページが画面に表示される。
収穫祭と称されたビュッフェ。
彼女がおいしかったと頬を綻ばせていたローストビーフを切り分けるシェフの動画が流れる。
ここに連れて行くか。それとも、家でローストビーフを作ってやるか。
考えながら、画面をスクロールしていく。
来週からは十一月のメニューへと刷新するらしい。
ライブキッチンはオムレツから、モンブランの生搾りへと変わるというのを読むともなしに読んで、ふと違和感を覚えた。
「これは……」
違和感、ではない。
それに気づいた狗塚は、サイトを丹念に見ていく。
■ランチタイムビュッフェ:11~14時半
ライブキッチン:ローストビーフ提供
■ティータイムビュッフェ:14時半~17時半
ライブキッチン:オムレツ提供
■ディナービュッフェ:17時半~21時半
ライブキッチン:ステーキ・天麩羅提供
透子は、オムレツとローストビーフを絶賛していた。
つまりは、両方に跨がる時間に滞在していたと考えるのが自然だ。
けれど。
狗塚は部下の報告をしたためた手帳を取り出し、ページをめくる。
報告は、14時頃に車で瀬谷千彰宅近隣の皮膚科へ受診。その後、ホテルビュッフェで16時40分まで滞在していたとのことだった。
千彰宅からあのホテルまでは車で移動しても二十分はかかるだろう。皮膚科ですぐに受診できたとしても、処置の時間を含めれば14時半にホテルで食事を開始するのは不可能だ。
(どういうことだ……。この時間で成立するはずがない)
「おい、東」
透子の様子をモニタで確認していた東が「はい」と席から立ち上がった。
「なんでしょうか」
近くまでやってきた男は、じっと指示を待つ。
言いかけて思いとどまり、口を掌で覆った。
不思議そうにこちらを見つめる東に、狗塚は「いや」と首を振る。
「……すまん。なんでもない」
「はぁ」
自席へと戻る背中を見送る。
──信じていいのは、誰だ?
透子に持たされた青いランチバッグが視界に入る。
手にするか迷って、結局机に置き去りにした。
「少し出てくる」
短く告げた狗塚は、そのまま部屋を後にした。


