
部屋の中にはコーヒーの香りが漂う。
インスタントもおいしいけれど、やっぱりちゃんと淹れた方が香りがたつので、というのは透子の談。コーヒーチェーン店でバイトをする彼女らしい言葉だ。
もっとも、当の彼女はブラックで飲むわけではなく、砂糖もミルクもたっぷりといれる派だから、それほど拘りはないのだと笑っていた。
ペーパーフィルターにお湯をかけて湿らせ、その後にコーヒーを蒸らしてから淹れる
こまかな手順を指を折って説明してくれたから、時間のある時にはコーヒーを丁寧に淹れるようになった。
「おはようございます」
まだ眠そうな目で、彼女がリビングにやってきた。
デニムに薄手の長袖シャツに着替えてはいるものの、まだまだ眠そうな顔だ。
彼女は朝に弱い。
こうして起きてはくるけれど、最初の三十分ほどはいつもの快活さはなりを潜め、どこかふわふわとした雰囲気が漂う。
その無防備な姿が可愛くて、そっと喉の奥で笑った川村は「おはよう。カフェオレでも飲む?」と声をかけた。
「おねがいします」
ぽすんとソファに腰を下ろした彼女が、小さくあくびをするのを横目に甘いカフェオレを作る。
「透子さん、先に手首に薬塗ろうか。包帯、まき直したほうがよさそうだし」
冷たい牛乳をそそいで猫舌仕様にしたカフェオレを渡すと、彼女はこくりと頷いた。
彼女が駅のホームから転落した時の捻挫は、日常生活で困らない程度には癒えてきている。
代わりに昨日加わった手首の包帯が、白く痛々しい。
隣に腰を下ろして、寝ている間にずれてしまった包帯をほどいていく。
ガーゼの下ではたっぷりの軟膏でもカバーしきれなかった水ぶくれが、少しつぶれていて、見るからに痛そうだ。
川村は知らず眉間に皺を寄せた。
低音火傷は気づきにくい。ゲームに熱中していたのなら、尚更だろう。それにしても、ここまでになるほどならば、途中違和感くらいはあっただろうに。
そう指摘すると、透子はしおしおと眉を下げた。
「ちーちゃんにも叱られました」
そう言われて、叱った男にも引っかかりを覚える。
一緒にゲームをしていたのだから、後から叱る以前に気づくべきだろう。
透子は今回のこれが初めてではないと言っていた。ならば尚更気をつけてやるべきだ。
『どれだけ程度の低い男と付き合ってるのよ』
いつかの軽薄な声音が蘇る。
ならば自分は保護者としてどうなのかと、わずかばかり思う。
それでも透子の懐きっぷりをみていれば、彼女にとってあの男は信頼に値する男なのだろう。
「千彰さんでなくても叱るよ。もう少し気をつけて」
「はーい」
「昨日は楽しかった?」
「昨日?」
まだ寝ぼけ気味だろうか。彼女がこてりと首を傾げる。
「ゲームだけでなく、カフェに行ったり、ビュッフェに行ったりしたんだろう?」
「ああ……そうビュッフェ! オムレツがふわっふわだったんですよ。すごいおいしくて。あと、ローストビーフがやわらかくて感動しました!」
「いいね、ローストビーフ。今度うちでも作ろうか」
「作れるんですか?」
「案外簡単だよ。昨日の今日ではなんだから、今度ね」
やったーと無邪気に喜ぶ様につられて、川村の口角もあがる。
「ローストビーフ結構並んでて。また食べたいって思ってたから嬉しいです」
「ビュッフェは混んでたの?」
「そこまででもなかったんですけど、オムレツとローストビーフは大人気だったから」
「なるほどね。……透子さん、人混みとか、大丈夫?」
彼女が駅のホームから転落して、あるいは突き落とされて、まだ三週間と経っていない。
その後電車に乗るような機会がない彼女に、どの程度のトラウマが残ったかはまだ未知数だ。
「大丈夫、というと?」
「混雑したホームから落ちたから、人混みが苦手になってないかなと思って」
「ああ、そういう……」
カップに視線を落とした彼女は、ふっと笑みを浮かべると「ちーちゃんも一緒だったので。大丈夫でしたよ」とカフェオレに口をつけた。
──気にくわない。
真っ先にそう感じて、内心苦笑する。我ながら恋人のフリが板につきすぎだろうと考えながら「千彰さんのこと、信頼しているんだね」と微笑むと、透子はひどく意外なことを言われたように目を丸くした。
「……まあ、たしかにそうかもしれないですね」
本人の自覚はないらしい。
けれど、千彰に対しては口調からして違う彼女が、今誰よりも心を許しているのは、間違いなくあの男だ。
「……僕だったら?」
「え?」
口をついたのは、透子だけでなく自身にとっても意外な言葉だった。
同時に、恋人が言うならば、それはそれで真っ当な言葉だとも思う。
「僕でも、安心していられる?」
少しだけ落とした声音で囁くと、透子が面白いほどに動揺して視線を彷徨わせた。
「安心より……緊張します。ドキドキしちゃいます」
空気を変えるような明るい声で告げる彼女の手から、そっとマグカップを奪う。
「じゃあさ、今日はもっとドキドキすること、しようか?」
「そ、れは……」
何をされるのか身構える透子の手を握り込んで、彼女の腿の上に縫い止める。
仮初めとはいえ、恋人だ。今は一時的とはいえ一緒に住み、彼女の想いだって確認している。
ならばもう、その先を得てもいいんじゃないだろうか。
同時に思う。
所詮仮初めでしかないのに、と。
彼女の頬に口づけて「なんてね」と笑って見せる。
「朝ご飯にしようか」
ソファから腰をあげると、拗ねるかと思った彼女は、ですよねぇ……と呟いて薄く苦笑を浮かべた。
朝食の傍ら、テレビからはずっと昨日のモノレールテロの報道が流れ続けた。
ビュッフェに張り合ったわけでもないけれど、彼女が以前おいしいと喜んでいたキノコのオムレツをメインに、ベーコンを焼き、温野菜をたっぷり盛って、トーストを添えた。
おいしいです、と朝からよく食べる彼女は、二枚目のトーストにかじりついている。
モノレールテロは、結局のところ三月ウサギの犯行とは断定できないとのことで、いったん特別チームが編成された。
元々三月ウサギの捜査にあたっていた川村のチームは、そこに合流することなく、引き続き三月ウサギを追うこととなっている。
いつもなら裏方を担うはずの自身まで現場に集められたことに微かな引っかかりを感じながら、川村もコメンテーターの言葉を聞くともなしに聞きながら、オムレツを口に運ぶ。
今日は家でゆっくりしようか、それとも近所に買い物にでも行こうか、などと話す傍ら、ふいに落ちた沈黙に滑り込むように、その報はなされた。
『流産された妊婦さんの悔しさを思うと、もう本当に言葉もないですね』
透子が驚いたようにテレビに視線を向けた。
今回のテロ事件における死者はゼロ。それは覆らない。胎児は死者にカウントされない。
けれど、その身近な人間にとって、到底受け入れられることもない喪失だ。
犯人の卑劣さに改めて腸が煮えくりかえる。
それを飲み込むように、冷めたコーヒーを流し込んだ。
透子は息を詰めて、食い入るようにテレビを見ている。
その横顔は、蒼白にも見えた。
「透子さん?」
「あ、はい」
「大丈夫? もしかして知り合いが乗ってた?」
妊婦に心当たりでもいるのだろうか。そう感じるほどに、彼女の動揺は大きく見えた。
「知り合い……いえ、だいじょうぶ、です」
「あんまり大丈夫そうには見えないよ?」
「……大きなケガ人もでなかったって聞いてたから、だから……、ちょっとびっくりしてしまって」
流産の経験がある?
それはさすがに飛躍しすぎか。
そもそも、経歴にそれらしいものは見当たらなかったはずだ。
でも、銃創痕に関する治療の履歴も見当たらなかった。
ならば、けが人を出さない想定だった?
それでは犯人側の思考になってしまう。有り得ないはずだ、と内心首を振る。
川村は微笑と気遣いを貼り付けながら、透子の白い指先が小さく震えるのをそっと観察していた。


