
重い瞼をこじあける。カーテンの隙間からは陽が射し込んでいた。
時計を確認すれば、8時23分。いつもなら朝ご飯も済ませている時刻だ。
なんとなく頭が重い。
透子はのろのろと起き上がりながら、ゆっくりと息を吐いた。
昨夜は寝るのが遅かったかと記憶を手繰る。ホットミルクがおいしかったことは覚えているものの、いつ寝たのか記憶が曖昧だ。
川村はもう朝食を済ませただろうか。そう思いながらスマホを確認すると、
『おはよう。仕事が入ったから出掛けるよ、冷蔵庫にサンドイッチが入ってるからよかったら食べて。申し訳ないけどパンケーキはまた今度ね』
と連絡が入っていた。
パンケーキ。また今度。
そんな話をしたような気もする。
リビングに行き、なんとなくテレビをつける。
ひとりで居た時は、朝バイトに行くまでの時間はスマホでニュースを拾いながらパンをかじることもあったけれど、川村と暮らしてからはそれも行儀が悪いだろうと控えている。代わりに、川村が見るともなしにつける朝の情報番組を見る習慣ができた。
今朝も見慣れた女性キャスターが、流行のスイーツを紹介している。
川村は料理が好きなのか、ここに住むようになってから透子が料理をしたことはない。いつも彼が手早く食事の支度をし、仕事に出る時にも夕食まできちんと作ってから出掛けるから出番がないのだ。
しかも彼は、千彰の対極ともいえるほどにきちんとしていた。
物を出しっぱなしにしておくこともなければ、使った食器はすかさず洗う。
部屋の要所要所に置いてあるコロコロクリーナーや、ウェットティッシュを見るだけでも彼がとても綺麗好きなのだろうとは思っていたものの、水滴ひとつないシンクを見ると、お茶をいれるのすらも少し緊張してしまう。
電気ポットでお湯を湧かした透子は、最近すっかり透子用になったライム色のマグカップにティーバッグを泳がせて紅茶を準備する。
ソファーに座って、彼の作った玉子サンドにかぶりついた。
テレビからはアラートが鳴る。ニュース速報らしい。
『速報:臨港モノレールでシステム障害。全線で運転見合わせ。システムトラブルの模様』
臨港モノレール。高校生の時に、千彰に「社会科見学だ」などと称して船が展示されている博物館に行った時だったか。あの時に乗ったのが、確か臨港モノレールだ。
時刻は8時40分。通勤客が被害を被る時間だなと思いながら、玉子サンドを咀嚼する。
黒胡椒がきいているそれは、ぼんやりした頭と体を起こすのには調度よさそうだ。
透子は熱すぎる紅茶に氷を足しに立つと、再びソファーに腰を下ろした。
今日は川村は休みと言っていたはずだ。
こう言ってはなんだけれど、今現在重要人物、ないしは命を狙われているであろう透子を放り出して出掛けるなど、どれほど急な案件なのか。
これも囮で、私がどう動くか観察してる、とか?
思考に苦笑して口をつけた紅茶は、やけに薄くて味気なかった。
再びテレビからはアラートが響く。
『速報:臨港モノレール4編成すべて停止できずに駅を通過。警察が確認急ぐ』
先ほどまでにこやかにアイスクリームを紹介していた女性キャスターが、「速報にも流れていますが」と真面目な顔で口を開いた。
胸の中がざわりとする。
モノレールが停止できず、駅を通過。
川村が呼ばれたのはこれだろうか。
無意識にスマホを手にして逡巡する。
制御。最大出力。ちりばめられたアリスの世界の住人。千彰の家で見せられたコードが過った。
『ちーちゃん、今日暇~お茶でもしようよ』
メッセージを送信する。
テレビでは再び速報が流れた。
『速報:臨港モノレールが暴走。依然停止できず。テロの可能性含め捜査。警視庁』
透子が紅茶を流し込むように飲んだその時、スマホが着信を告げた。
「ハイ、透子~、グッモーニン!」
「ちーちゃん、……えと、おはよ」
この通話も間違いなく盗聴されている。透子が言葉を選んでいると「なによ? 寝起き? 暇なんでしょ」と千彰が訝るように尋ねた。
「うん、そうなの」
「ケーキ食べ行きましょ。おいしいケーキしこたま食べましょ」
ケーキをしこたま。
やはり、これはそういうことなんだろう。
「うん、いいよ。ゲーム、するよね?」
念のため確認するように尋ねると、「当然」と返る。
「わりと近くにいるの。すぐ迎えに行くわね」
能天気な声を残して、通話はぷつりと切れた。
千彰が『偶然』この近くにいたわけがない。こちらに向かっていたのだろう。
透子はどこかから見られていることを意識しながら、出掛ける準備に取りかかった。
千彰の車がマンションの下にやってくるまで、それから10分もかからなかった。
車に乗るや、車道側に別の車が横付けされる。透子の持ち物はノートパソコン以外はすべてその隣の車へと移された。
おそらくはGPSの辻褄合わせ──持ち主を置いてけぼりにして、電源を落としたスマホは優雅なティータイムへと旅出った。
「もういいわよ」
千彰が口を開く。
「服はいいの?」
千彰が服から下着から、すべてを変えさせたのは一昨日のことだ。
あれも盗聴を疑ってのことだと思っていた透子は、持ち物だけでいいのかと暗に尋ねた。
「馬鹿ねぇ。服や下着ならお馬鹿なあんたでも気づくでしょう? 一昨日のはほんの嫌がらせよ」
喉の奥で笑う運転手に、透子は溜め息しか出ない。
あの買い物が川村に対する『嫌がらせ』になったのかは甚だ疑問ではあるものの、今はそれどころではなかった。
「ちーちゃん、あのモノレールのニュースって」
「臨港モノレール、覚えてる?」
「うん。博物館行った時のだよね」
「ああ、そういえば行ったわね」
「止まらないってどういう状況?」
「あのモノレールは完全機械制御の運行。運転士なし。そのシステムが乗っ取られてる」
「乗っ取られてるって……外部ネットワークに繋がってるってこと?」
「外部ネットワークには繋がっていない」
そう言って千彰が差し出したのは、ホチキスでとめられた数枚の書類だ。
ふたつの円。外回りと内回りのモノレールはそれぞれ逆方向へと走る。三両二編成の車両は、ちょうど半周ほどの間隔で運行していた。
完全機械制御。外部ネットワークに繋がっていないとしても、メンテナンスに備えたバックドアがあっても不思議はない。
そんなことは運行会社もシステム会社もわかっているはずで、それらを含めて、制御不能になっているということだ。
かつてそのモノレールに乗った時の記憶を手繰る。
そんなに多くの乗客が居たわけでもない車内は、かなり静かだった覚えがある。
「何人くらい乗ってるの?」
「ざっと千人」
少なければいいというものでもないけれど、思いのほか人数が多く、透子は小さく息を呑んだ。
「ピークは越えていたものの、通勤時間だもの」
もう一度手元の路線図に視線を落とす。
円の中を複数のモノレールが走っているということは、遠心力で脱線したり、衝突する可能性もある。
資料には通常運行速度は時速60から70キロ。最大出力は時速120キロと明記されている。その隣には、『但し、時速100キロを越えると脱線リスクあり』と書き添えられていた。
「今、どのくらいの早さで走ってるの?」
「60から90の間で気まぐれに早くなったり遅くなったりを繰り返してるそうよ」
愉快犯。そう呼ぶにはやっていることがあまりに重大だ。
「それと、もうひとつ悪い報せがある。例のコードをオンラインで走らせた阿呆がいる」
「は?」と透子の肺の奥から低い声が漏れた。
「見せてくれたのは印刷したやつだったよね? もしかして元はデータできてたの?」
「らしいな」
「らしいなって……」
ならば元データに何か仕組まれていた可能性がある。
正しく並び替えた時に、初めて動き出す──罠。
千彰の横顔も、珍しく怒りが透けていた。
「データだったら、そっちを見せてくれたらよかったのに」
「そもそもコードでなく怪文書だと判断したから、ってのが言い分らしい」
「まあ……怪文書ではあるだろうけど」
怪文書扱いにした言い分も、わからないこともなかった。あのコードを読めるのは『アリス』くらいだろう。
それにしたって、得体のしれないコードをオンラインのパソコンで動かさない方がいいなんてことは、基本中の基本だ。
そんなことも理解できない相手に、ご丁寧に『模範解答』を渡してしまったのが悔しくて仕方がない。
「いっそ、並び替えない方がよかったかもね」
「ま、並び替えたから発動したのか、もともと時限のなにかが仕込まれていたかもわからないわね」
「いったんそのパソコンは確認できる? ログをたどりたい」
モノレールの件と結びつくのかは確信が持てない。けれども、思い起こせば、確かにあの書き方は、運行の制御である可能性は高そうだ。
急がば回れと自身に言い聞かせた透子に、千彰は「結論からいえばそれはもう出来ない」と軽く肩を竦めた。
「発生時刻は昨夜23時過ぎ。やばい挙動に動揺して、シャットダウンもできずに、電源を引っこ抜いた。ちなみにそのネットワークに繋がっていたパソコンはすべてやられてたらしい。立ち上がらない」
「馬鹿なの?」
「すぐに報告すればいいものを、一人で復旧を試みたらしい。そのうちアラートがあがって、ようやく部署全員の知るところとなった。報告があがったのが日付が変わってからだ」
それでも、ごく一部のネットワークがやられただけだと思われていた。
しかし、朝になってのモノレールの暴走。
制御や出力に関する記述があったことは千彰にも伝えてあったことだ。彼もすぐに関連を疑ったに違いない。
「ところでちーちゃん。いつものとこじゃないなら、これはいったいどこに向かってるの?」
千彰はとっておきのナイショ話でもするような笑みを浮かべると「懐かしの学び舎よ」と告げた。


