そう仕向けたのは自分ではあったが、この女はこんなんで大丈夫なのかと煙草の煙を吐き出しながら思う。
婚約者と住むため。
それはあの家を出るにはひどく都合のいい免罪符だった。いい年をした成人男性である己がこれまで独立を許されなかったとか、出来ない事情があったわけでもない。現に別宅とも言えるマンションを二部屋持っていたし、そちらに泊まることもないではなかった。だからいつでもあの家を出ることは出来たはずで、ただ思い切れずにいるうちに時機を逸してしまったに過ぎない。ここにきて『婚約者と住むために家を出る』というのは、誰にも──彼女にも違和感を与えずに済む、もっともらしい理由だった。
とはいえ、かたちばかりのプロポーズにはいまだ了承を貰ったわけではなく、明確なそれが欲しいとも思っていない相手を『婚約者』と呼んでいいのかは甚だ疑問ではあるが、こうして同棲を開始してしまえば、もう取り消しがきかない段階へと踏み込んだも同然で、そのあたり、この女は正しく認識しているのだろうか。
窓硝子の向こう、長袖のシャツを干す婚約者はふと手を止めて空を仰ぐ。洗濯物など乾燥機で乾かせばいいのに「急ぎとか、必要な時にはそうします」と頷いていたもののあまり使う気はなさそうだ。
『婚約者』がこの部屋に引っ越してきたのは一昨日のこと。「結構溜まってるので」などと金曜日に有給をとった彼女は、土日で引っ越しの片付けまですべて終わらせると宣った。そもそも家電など生活に必要なものが揃っていた部屋に迎え入れた為、十に満たない段ボール箱を移動したに過ぎなかったそれは当初の宣言通り見事に片がついた。
日曜の昼下がり。今頃彼女も掃除や洗濯を終えて、義兄の、いや恋人の店に行く算段でもしているだろうか。
光忠はいくつかの飲食店を経営している。自身が店で腕を振るうことも多く、週末の昼は大抵カップルで賑わうカフェへと出勤していた。その店の──光忠特製のチーズケーキがお気に入りの彼女に連れられて何度となく足を運んだ。こうして『婚約者』との生活を開始すれば、幸せそうにあいつの作ったものを口にし、そっと視線を彷徨わせてたったひとりを追おうとする姿も目にする機会は格段に減る。それだけでも、『婚約者』との生活を始めることにはメリットがあるように思われた。
結婚をしたいと思ったことはない。必要がなかった。なにしろ、望む相手が手に入らないことは明白で、それならばもうどうでもいいことだった。
面倒が多そうだが、していた方が社会的に信用が高まり、鬱陶しい婚姻話や女の誘いを断りやすいという利点がある。加えて、それでいいのかと問うように向けられた隻眼にも答えを体現してやれた。いいことばかりじゃないか。そう思うのに、漏れたのはただ、白い煙と虚しさばかりだ。
たったひとりが欲しかった。彼女の唯一無二になりたかった。
前世でも今生でも指をくわえて見ていたわけではない。ただ、どう頑張ってみても何も覚えていないらしい彼女が再び心を傾けたのは結局あの男だった。運命論者を騙るつもりもないが、覆せないものというのはあるのだろう。
「──……ますか?」
いつのまに洗濯干しを終えたのか、ベランダにいたはずの女がソファの横でこちらを見つめていた。
「……んぁ? すまん、なんだ」
見下ろす瞳はきょとんとしてから、不思議そうに瞬きをひとつ。どこか困ったような笑みを浮かべた『婚約者』は「お昼ご飯。つ……国永さんはどうするのかと思って」と訊いてくる。
時計に視線をやれば十三時四十分。休日の昼にしてもやや遅い時刻だ。朝はコーヒーで済ませたから、言われてみれば空腹だと自覚する。
「外に食べに出るか」
このマンションでデリバリーできるのはピザくらいのものだ。周辺に飲食店はあるが、昨日もデパ地下のデリで済ませてしまったし、今日は車でどこかに食いに行くか。そう考えて灰皿に煙草を押しつけると、「いえ」と女は首を振った。
「私は大丈夫です」
「大丈夫って、きみだって腹が減っただろう」
だから声を掛けてきたんだろうに、何が大丈夫だと言うのか。怪訝な眼差しを向けると、眉を下げて浮かべる笑みは、かたちばかりのふたりの関係そのままの上辺だけの愛想を載せているようにも見える。
「あ、はい。なので私は昼を作ろうかと。よかったら鶴さ、っと国永さんの分も作りますし、国永さんは食べに行ってらしてもいいですよ?」
今度はこちらがきょとんとする番だった。
頼んでもいないのに弁当を作ってきたり、セックスするために訪れた部屋で手料理を振る舞おうとした女はいた。こちらの財布やコネをあてにして高級な店に行きたがったり、予約がそうそう取れないような店での食事をねだる女も。甘えた声で媚びをうり、興をひこうと駆け引きに必死な姿ばかりを目にしてきたのだが、この女の様子ときたら昼休みに予定を尋ねる同僚のような気安さだ。手料理を断っても頼んでも、気にも留めずに「わかりました」とすんなり頷くのは明白だろう。そもそも、そんなところが気に入っていたのだけれど。
何度も重ねて呼び出せば増長する。だから二回目があったとしても面倒になる前に切ることを繰り返したなか、一年も続いたのはこの女のこういう淡泊とも言える振る舞い故だった。それでも、一応は『婚約者』という座に納まったというのに変わらない態度からして、根本的にこういう性質の女なのだろう。
「きみ、料理が出来るのか」
「出来るというか、人並みに自分が食べる物くらいは」
答えてすぐに何かを思い出したように目を泳がせ、「あ、なしっ。やっぱり鶴さんは外食をどうぞ」と早口で告げた言葉は、先ほどから何度も言い直していた『鶴さん』で紡がれた。国永さん、と呼ばれるよりはよほど自然で、自分にとってもしっくりくる。一年とはそういう時間だ。対してこちらが呼びかけるのは最初に女が名乗った『亀』でも『ひわ』でもなく、ましてや『嵯峨野花奈』などいったい誰だと感じるような名でもなく、「なあ」とか「きみ」で足りており、恐らくは今後もそれで充分だろう。
それにしても。「作る」と言ったくせに、狼狽えたように視線を泳がして外食を勧めてくる様は、困ったように愛想笑いを浮かべているよりよほどいい。素が透けているような姿に、つい揶揄いたい衝動に駆られる。
「いやいや、せっかくの婚約者の手料理だ。外食よりもずっといいに決まってるじゃないか」
愉快な気持ちを隠さず声音にのせれば、むぅと上目遣いにこちらを見上げてくる。その眼差しは、ベッドの上で泣きじゃくっていた姿を不思議と思い起こさせた。あの日、結局何があったかはわからないが、失恋したとか、手柄を横取りされたとか、せいぜいそんなところだろう。
「愉しそうデスネ」
「そりゃ婚約者殿の初めての手料理だからな」
殊更に初めての手料理を強調して言ってやれば、「後悔しますよ」と諦めたように息を吐いてキッチンへと向かう。「手伝うか? っていうか買い物に行かなくていいのか」と後に続こうとすると、「手伝いが必要なほどのものは作れませんし、あるもので済ませます。ホントにお腹に入ればまあいいかってものしか出来ませんからね」と念を押す。
「そりゃ愉しみだ」
にっこりと浮かべた笑みには、ただ深いため息だけが返った。
十五分もかからずに出されたパスタはベーコンと玉ねぎしか入っていない簡素なもので、スープの具も同じくベーコンと玉ねぎだった。パスタの盛り付けも男子学生がしたような有様で、光忠が見たら眉を顰めそうな状態だったが、見た目とは裏腹に麺のゆで加減も味付けも絶妙で、婚約者の意外な特技を知ることとなった。
手放しの称賛に口を尖らせて視線をはずしながら「誉めてもおかわりもありません」などと言う照れた横顔もまた初めて見る表情で、もっと見たいと褒め称えていたら「さすがにそこまで言われると嘘っぽいです」と眉を下げられた。
「いやいや、きみにこんな特技があったとはなァ」
「特技なんて……パスタとスープの具が一緒なんてバリエーションも何もあったものじゃないし」
「ふっ、確かにな」
この部屋では料理をする想定ではなかったが、以前押しかけてきたどこぞの女が置いていったフライパンや鍋はあるし、塩と胡椒、醤油だけは冷蔵庫に放り込んであった。しかし食材は買った覚えがないし、パスタにはうちになかったはずのバターや唐辛子も使われていた。引っ越してきてから買い物には行ったが食材を買っている素振りもなかったからどうするのかと思っていたのだが。
「きみ、あのベーコンやらパスタやらはいつの間に買ったんだ」
「買ったんじゃなくて、あっちの家……と、元の家から持ってきたんですよ。でも引っ越し前だからあんまりいろいろ買わないようにしてたので、大した物がなくてすみません」
「いやいや、本当に旨かったぜ?」
「お粗末様でした」
口を引き結んでそっぽを向くのもまた照れ隠しらしい。これが彼女ならば、そうでしょ?と少し得意げに微笑んで、もっと誉めてとぱたぱたと尻尾を振る子犬のような目で見上げてきたものだが、この婚約者はそういうタイプとは逆のようだ。
「あの……」
「うん?」
「家賃はいくら入れればいいですか?」
「は? 家賃?」
「はい。家賃とか生活費とか」
神妙な顔で頷く。
このマンションはかつて幾度か連れ込んでいた部屋とは違う場所だが、同様に自身の所有であることは伝えてあったはずだ。返事こそ保留にされてはいるが、プロポーズをしてきた相手に乞われて同棲しようと言うのに、家賃を払うつもりだなんて本当にこの女は大丈夫だろうか。詐欺師の手にかかれば、相手が紐のように振る舞っても素直に養い始めるのではないかとすら思えてきて軽く頭痛を覚える。
「家賃はいらない。もちろん光熱費もな。通帳もカードも渡してあるだろう? 必要な金は全部あそこから使ってくれて構わない」
ここに引っ越してくる為の費用や必要なものがあれば使うようにと言って、カードと通帳を渡してあったのだが、今のところは使った形跡はない。業者任せの引っ越しパックでも使うかと思ったが、ほぼ自力でやってしまい出番がなかったらしい。
「えっ……出納帳をつけて提出しましょうか」
冗談ではなさそうな声音に、いっそ笑いが漏れた。彼女にとってもこれは結婚に向けた甘い同棲の時間ではなく、親の見合いから逃れる為の同居に他ならないのだろうが、それにしてもこう真面目だと損をすることも多いに違いない。こんな男に引っかかっているあたり、充分ハズレくじをひかせている自覚もあるから、せめて金銭的な面では不自由させたくない。
「普通そこは家計簿って言わないか? まあいいさ。きみに任せるし好きに使ってくれ。あまり場所を取る物を買う時は相談してくれると助かるが、基本的にきみが必要だと判断したものは買っていい。任せる」
「お小遣いというか鶴……国永さんもここから使うんですよね?」
「なあ。きみ、鶴と呼ぶほうがいいならそれでもいいぜ? 公的な場でうまくやってくれれば後は好きにしていい」
「あー……すみません。なるべく呼び慣れた方がいいかなって思って。そのうちどうにかなると思うので、スルーしててください」
「わかった。で、なんだ、ああ小遣い。俺は俺で他に収入ががあるからそっちを好きに使う。気にしなくていい。だから、きみの小遣いもここから使っていいぜ?」
「いえいえ! 私は私でお給料はあるので」
「そっちを使い出すときみは家に必要なものまで自分で出しちまうんじゃないか?」
家賃も光熱費もこちら持ちとなれば、律儀な婚約者は他の生活費を自分の給料から出して、ともすればカードを使うことすらしないかもしれない。うぅと唸る様に「わかった、線引きしようじゃないか」と提案する。
「きみの嗜好品、趣味に使うものはここから出してもいいし、きみの給与からでもいい。それ以外は必ずここから使うこと。迷った時は相談してくれてもかまわんが、使い込んでなくなるなんてことさえなければここに振り込まれる金は好きに遣っても文句は言わない。貯蓄は貯蓄で別にしてるから大丈夫だ」
「はあ」
「なんなら一筆書くか」
「まさか」
「はは、冗談だ。ついでに何かしておきたい決め事はあるかい? これから一緒に住むんだ。これだけは譲れないとかそういうのがあれば言っておくといい」
「あの。ひとつお願いしてみてもいいですか」
姿勢を正しながらも、どこか遠慮がちに切り出され、何を言われるのかと身構える。しかし、出てきたのは「煙草、換気扇の下で吸ってくれると嬉しいとか、その、言ってもいいですか」などというものだった。「きみ、煙草苦手だったのか?」と問えば、気まずそうに小さく頷かれる。
これまで幾度となく目の前で吸っていたし、嫌そうな素振りをされたことは一度もない。ベッドで吸いながら口づけたことだってある。そのくらい言えばよかったのにと指摘すると、再び眉を下げて苦笑した。
「いい大人が自分の嗜好で嫌な顔なんてしないですよ。でもその、一応自宅ということになると出来ればお願いできるかなぁ、と」
ならば煙草の臭いがするこの部屋そのものが嫌ではないのか。空気清浄機は置いてあるし、壁紙は消臭も意識したものを選んである。定期的に業者を入れて清掃しているからそう酷くはないはずだが、喫煙者の自分にはわからない。
同棲を提案するにあたって、事前にこの部屋には招待していた。その時だって、いつものように喫煙していたが、嫌そうな素振りひとつなかった。
そこまでして自分と結婚したいのだろうか。考えかけてすぐに打ち消す。もしそうならば、二つ返事で求婚を了承したに違いない。未だ保留にされている以上、結婚の為に何もかもを我慢しようとしているとかそういうことでもないはずだ。
「……きみ、いつもそうなのか?」
『偽装結婚ならするつもりはないんです』
プロポーズした場でそう言った彼女は『私は随分長くそれらしいフリをして過ごしてたことがあります。だから、それがどんなに虚しいことかよく知ってます。もう何かを偽装して過ごすのはまっぴらです』とも言っていたはずだ。
けれど。
「そう、とは?」
水を向けたから口にしたのだろう不満は、訊かれなければ口にすることもなかっただろう。大人とはそういうものだと言ってしまえばそれまでだが、どこか釈然としない。
「……いや。それで? 俺がそれを嫌だと言ったらどうなる?」
「どうもなりませんよ? なら仕方ないなって思います。これまでもそうだったじゃないですか。絶対駄目ってほどの話しじゃないので」
何を言われているのかわからないという顔で、卑下した様子もへりくだった眼差しでもない。ただただ、それが当然だろうという顔つきに、自分の方がおかしなことを言っている気にさせられる。
「無理ならホント大丈夫です。今まで通りってことで」
「いや……いや、いい。わかった。気をつける。煙草を吸う時は換気扇の下か、外か……とにかく気をつける。ってなんでそんな驚いた顔をするんだ」
「や、なんかこう……まさか了承して貰えるとは思わなかったので」
『少なくともちゃんと相手と向き合う、そのくらいの関係は築きたい。結婚するなら、そのたった一人を大切にしたいし、大切にされたいんです』
プロポーズの後のあの言葉もまた、まごうことなき『婚約者』の本心だろう。
上辺をなぞるような関係でどこまでのものが築けるのか。正直わからないが、目の前の女とそれなりの関係を築くことで、手に入らないものに今度こそ見切りをつけたいと切に願っているのは正真正銘本心だった。
「そのくらいするさ。愛しい婚約者殿の願いだしな」
喉の奥で笑って言えば、返ったのはただどこか困ったような笑みだけだった。