「なんか、すっごく長くこの村にいた気がします」
陽射しを仰いだ珠紀は、両手を後ろ手に組んだまま振り向き真弘に微笑んだ。
両脇は畑の1本道。舗装されていないその道を、ふたりはゆっくり歩いていた。
「そうか? 俺は、あっという間だった気がすんなぁ」
珠紀がこの村に来てからの時間は、真弘がここで過ごしてきた時間に比べれば、遥かに短い。
けれど、そういう意味ではなく、真弘の一生を大きく変えた彼女との時間はあまりにも目まぐるしくて、気付けばこうして別れの時を迎えている。
「そうですね。確かに、あっという間だったような気もします」
「どっちだよ」
あっという間に前言を翻した発言に苦笑しながら、真弘はさげていた珠紀の鞄を肩に担ぎ直した。もっとも、大して荷物はないと言った珠紀の言葉どおり、それはさしたる重さでもなかった。
今日、珠紀は村を出て行く。元々彼女はこの村の人間ではないし、静紀が手を回して珠紀を呼び寄せたのは、鬼斬丸の封印の為だ。その鬼斬丸がなくなった今、珠紀がここに留まる理由がない。
出発を見送るべく宇賀谷家に集まった守護者を代表して、バス停までの道は真弘が送って行くことになった。
なったというよりも、他に譲らなかっただけではあるが。
考えてみれば、鬼斬丸を破壊して以降、こんな風にふたりきりで過ごすのはこれが初めだ。そして、最後になるのかもしれない。
「なんだかいろんなことがいっぱいあり過ぎて……」
「そうだなぁ。しっかし、おまえが玉依姫になれるとはなぁ」
秋の柔らかな陽射しを背にした彼女を、目を細めて見つめる。
初めて学校の屋上で逢った珠紀は、本当にごく普通の少女で、玉依姫として覚醒するのは難しいだろうと事前に聞かされていた真弘はその通りだと感じた。
それが今では見事覚醒を果たし、鬼斬丸を封印どころか破壊までしてのけた。
そして──こんなに大切な相手になってしまった。
「自分でもびっくりですよ……あ、カミサマっ」
真弘に預けた鞄のポケットから何かを取り出した珠紀は、しゃがみこんで白くて丸いカミに微笑みながら手を差し出した。
微笑む彼女の横顔を眺めながら、言い損ねたままの言葉を口にしようかと考えてみる。
『ここに残れ』
『俺の傍にいろ』
けれど口をついたのは「ちんたらしてるとバスが行っちまうぞ」という言葉だった。
「大丈夫ですよ。まだ余裕です」
カミの後ろ姿に手を振った珠紀は、腕時計を指して立ち上がると、真弘と並んで歩き出す。
この村の特殊さは、他を知らない真弘でも嫌というほどわかっていた。鬼斬丸がなくなったからといって、たくさんのカミを擁すこの村の体質は、一朝一夕で変わるものでもないだろう。
ましてや鬼斬丸がなくなった以上、村人の感情を押しとどめるものはない。玉依姫となった珠紀は、この村にいない方がいいのかもしれない。
そう思うからこそ、親元に戻るという珠紀を引き留めることが、真弘には出来なかった。
「そういえば、紅陵学院って文化祭はないんですか?」
「おまえが来る少し前に終わった」
「えぇっ!? そうなんですか……残念。あ、じゃあ体育祭は?」
「それは1学期だ」
「えー、じゃあ戻ってきてもテストがあるだけですかぁ」
「そうだなぁ。戻ってきてもテストが……は? 戻る?」
足を止めて訊いた真弘に、珠紀が不思議そうに、なんですか? と小首を傾げた。
「戻るって、なんだ?」
「なんだって……、え? 先輩、聞いてなかったんですか?」
驚いたようにそう言った珠紀は、記憶を辿るように遠い目をしながら、「そういえば、先輩あの時トイレに行っていたような……」などと呟く。
戻ってきてもテストがあるだけ。
それはつまり、珠紀はここに戻ってくるということだろうか。
「おまえ、戻ってくんのかっ!?」
勢い込んで訊いた真弘に、珠紀は「ふふーん」ともったいぶるように笑った。
「だから先輩、今日は少し元気がなかったんですね? 戻ってきますよ。電話で説得しきれなかったんで、ちゃんと会って話して、ここに戻ってきます」
そういえば。
他の守護者の面々は、珠紀が帰ってしまうわりには素っ気ない見送りだったし、せめて村に遊びに来ればいいけどなぁ、と言った真弘に何か言いかけた慎司が寄ってたかって抑え込まれたり、これだけは譲らないと最後に珠紀をひとりで送っていくと言い張った真弘に、拓磨が吹き出したりと態度も妙だった。
真弘だけがわかっていないと、周囲はみんな知っていたのだ。知っていて、その言動を楽しんでいたに違いない。
「あいつら~っ! 珠紀、おまえもおまえだ。そういうことは真っ先に確実に俺様に言え!」
「そんなこと言っても……。なんでもう戻ってこないなんて思ったんですか? そんなわけないじゃないですか。私は玉依姫なんだし、それにその……」
先輩の女なんだし、とはにかみながら小さな声で言う珠紀に、顔が緩みそうになる。
真弘は急いで視線を逸らして、顔を引き締めながら「そうかそうか。そんっなに俺様の傍にいたいのか。だったら急いで戻ってくるんだな」と頷きながら歩き出した。
いつもの珠紀なら、少しむくれてつっかかってくるはずだった。なのに答えが返らない。
不思議に思った真弘が足を止めると、珠紀は少し困ったような顔をして立ち尽くしている。
「……戻って来ない方がいいですか?」
「は?」
「まさか先輩が、私が戻ってこないなんて考えてるとは思わなかったし、それなのに今までなんにも言わないし……」
「ばーか。んなわけあるか」
真弘は、なおも納得がいかないという表情の珠紀の手をとって歩き出した。
バス停はすぐそこだ。余裕があると珠紀は言ったけれど、それでももう時間は限られている。
「だって、先輩何も言わなかったじゃないですか」
顔を見ながらなんて、とても言えない。
だから温かな指先をきゅっと握りこんで、振り返らずに言う。
「本当は、今だって行かせたくないって思ってる」
「先輩……」
「この村はなんもないからなぁ。おまえが育ったとこみたいに遊ぶ場所がたくさんあるわけでもないし、女が好きそうな小洒落た店もないしよ」
「そんなのっ」
「まあ聞け。きっと他の土地よりカミがうようよいるし、玉依姫なんかやってたら、その力目当てに暴走したカミが襲ってくるとか、危ない目に遭うかもしんねーし」
「……」
「でも、絶対守ってやる。襲ってくる奴になんて指1本触れさせない。だから……」
黙ってしまった珠紀を振り返る。
「早く戻ってこい。俺はおまえが……」
好きだ。
大切だ。
いないと淋しい。
傍にいないと心配だ。
伝えたいことは多すぎて。
「……おまえがいないと、どうも調子が出ないからな」
「はい」
珠紀の笑顔に笑い返して、前方に視線を戻した真弘は、信じられないものを目にした。
バスが来ている。
「おいっ、なにが余裕あるだ。バス来てんじゃねーか!」
「えっ、あれ、なんで?」
「いいから走れ!」
珠紀の手をぐいと引いて走り出す。
別れの余韻もなにもあったものではないが、思っていた『別れ』ではないのだからそれでいい。
ロゴスを退け、鬼斬丸を壊した珠紀だ。きっと親の反対をねじ伏せて、必ずこの村に戻ってくるだろう。
だから自分は、この村に珠紀が戻ってきたら、その笑顔を必ず守ろう。
息を切らした珠紀をバスに乗せ、鞄を手渡す。
「家に着いたら電話します」
小さく手を振る珠紀に、おぉと返す。
「またな!」
真弘の声が合図だったように、扉を閉めたバスが走り出した。