妻問い

 「それは、たぶん僕では治せません」
 耳に届いたのは、いつもの穏やかな声音。
 それまで心地よく吹き抜けていた風が、止まった気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 平家との戦に決着がついたのは、桜が咲くずっと前のこと。
 これで全部終わったんだ。
 そんな安堵に包まれた望美の心中とは裏腹に、周囲は目まぐるしく変わり続けた。
 白龍は応龍となり、京の守護者へと戻った。
 ヒノエは、戦は終わった後が肝要だと早々に熊野へ帰り、行方しれずの将臣を除くその他の面々は京へと戻ってきた。
 譲はこれからの成り行きを心配して皆に自分たちの知る義経の歴史を語り、それを参考に弁慶たちがうまくたちまわったらしく、九郎は鎌倉に戻ることなく源氏を離れ、リズヴァーンと共に山奥の庵で今後のことを考えるという。
 そうして数日前、もうこのまま一緒に京に残るのではないかと思っていた譲が帰って行った。
 京に戻ってすぐの頃は、元の世界に帰らないと決めた望美に本当にそれでいいのかと幾度となく訊ねた心配性の幼馴染みも、新緑に縁取られた光のもと、ただ「元気で」という言葉と少し寂しそうな笑顔だけを残して帰って行った。
 そして望美はといえば、景時の京屋敷で暮らしている。
 長く過ごしたはずのこの屋敷も、共に戦った仲間たちがいなくなってみればガランと広く、やるべきことを持たない望美にとってはなんとなく身の置き所に困る。
 戦をしていた頃は『源氏の神子』というある種の当事者だった望美も、平和な日々においてはなんの役にも立たないただの異世界からの来訪者に過ぎない。
「はぁ」
 麗らかな陽射しに照らされた庭を眺めながら、縁に腰掛けた望美は盛大なため息を落とした。
「弁慶さん、今日は来るって言ってたのになぁ」
 望美がこの世界に残ることに決めた原因にして根源の男は、源氏の軍師を辞して、一介の薬師の生活を始めた。
 実の所、新生活を始めるにあたり、一緒に住もうと言われるのではと期待していた望美だったが、そんな素振りはまったくなく、弁慶は診療に便利だからと河原の診療所に住み始めた。
 稀に彼が逢いに来たり、望美がなかば押し掛けるように手伝いに出向くから辛うじて顔を合わせることはできているものの、だからといって恋人らしい雰囲気などまるでない。
 あの告白が幻だったとまでは思わないけれど、弁慶があの時の言葉をなかったことにしたいのではと思い始める程度には、不安が芽生えていた。
 もしも弁慶が後悔しているなら、望美がここに残った選択は誤りだったということになる。
 彼が必要としないなら、たとえ傍にいたいと思っても、譲と共に自分の世界に帰るべきだった。
 普通に学校に行って友達と戯れたり、遊びに出かけたり、ただいまと家に帰る日常。
 ある日突然断ち切られた当たり前の日々よりも、弁慶の方が大切だからと決めたことだったはずなのに。
 もう会えない家族や友達の顔を思い浮かべながら、望美はまたひとつため息を零した。
 直接訊けばいい、と思う。
 でもそこで己の考えが杞憂でないと肯定されてしまえば、この世界に留まった意味が失われる。
 応龍は、選択は1度だけだと念を押した。
 それでもなお「帰らない」と答えたのは、望美自身に他ならない。
 いっそ思い切るべきではと思うし、もう少し様子をみようとも思う。
 巡る思考は答えを決めることを拒んで、曖昧な日々を甘んじて受け入れていた。
「……は、病気ではないかと思うの」
 ふと風にのって耳に届くのは、朔の声だ。
「望美さんが? どうかしたんですか?」
 ああ、やっときた。
 弁慶の声に耳を澄ませて、安堵の息を吐く。
「ここのところ食欲もないし、具合が悪そうに息をついたり、ぼんやりとしていることも多いし……」
 そんな心配をさせていたのかと苦笑した望美は、縁を降りると声のする方へと歩き出した。
 確かにここの所あまり食欲はなかった。
 譲が帰ってしまったことでいよいよ一人で過ごす時間も増え、ここ数日は特にあれこれと考え込んでしまうことが多かった。
 でも体調が悪いわけではないし、原因がはっきりしているのだから問題はないはずだ。
 朔に、心配をかけたことをあやまらなくてはと考えた望美の耳に、それは届いた。
「それは、たぶん僕では治せません」
 言い切る、言葉。
 一昨日も顔をあわせていた、薬師の見立てた所見。
 人の機微に敏い彼が、望美の様子にまったく気付いていなかったとは考えにくい。
 その弁慶がこんな風に言うのなら、思い悩んでいた不安は、やはり的中しているのかもしれない。
 望美は踵を返すと少しだけ足音を忍ばせ、邸で掃除に励む下女に出かけてくることを言い置くと、裏口から外へと出掛けた。
 
 
 夕飯時まで戻らなかった望美は、朔にきつく叱られた。
 彼女にしては珍しい声を荒げた物言いに、それまでの心配の大きさが感じられて、望美は心からの謝罪を口にした。
「弁慶殿も探しに行ったはずなんだけれど……」
 行き会わなかったようね、と言う朔に曖昧に笑ってみせた望美は、これ以上心配をかけたくなくて、味のしない食事を一生懸命口に運んだ。
 しばらく朔と他愛のない話をした後、自室に帰った望美はふと庭に気配を感じて外に顔を出してみた。
「残念。夜這いに来て、当の姫君に最初に見つかっちまうとはね」
 そこにはヒノエが立っていた。熊野にいるはずの彼の来訪も、数日前に景時に聞かされていた為、さして驚きはなかった。
 ほんの数ヶ月会わなかっただけなのに、もう何年も会っていなかったほどの懐かしさを覚えるのは、あまりに毎日一緒にいたからだろうか。
「ふふ、景時さんならまだ帰ってないよ。用事があったんでしょ?」 
「姫君はなんでもお見通しだね」
 軽く肩をすくめたヒノエは、元気だったかい? と尋ねながら、縁のふちに腰を下ろした。
「うん、元気。ヒノエくんは? 熊野はもう大丈夫?」
「まあね。オレがこっちの様子を見に来られる程度には」
「そうなんだ。よかった」
 答えながら、望美もヒノエに並んで座る。
「もうそろそろ帰ってくるんじゃないかな、景時さん」
「景時に会いに来たのは本当だけど、お前に会うのも楽しみにしていたんだぜ?」
「ふふ、ありがとう」
「相変わらず攫っちまいたいくらい可愛いね。今からでも遅くないぜ? あんな奴やめて、オレにしときなよ」
 後悔はさせないぜ? といつもの自信に満ちた眼差しで笑う。
「そうしちゃおっかなぁ」
 幾度か膝をぶらぶらさせて、トンと縁から飛び降りて振り返ると、珍しく驚きが透けた顔でヒノエがこちらを見ている。
「なんてね」
 久しぶりに会ったせいだろうか。気が緩んで、声が弱気になってしまう。
 なにかを察したように、ヒノエは思い遣るような笑みを浮かべて口を開いた。
「知ってるかい? 頼朝は最初九郎を助ける交換条件として、白龍の神子を源氏につれてくるように言ったんだぜ?」
「え? そんなの初めて聞いたよ。弁慶さんも景時さんも、そんなことひと言も……」
 言われなかった。
 言われなかったけれど、そういえば屋敷をでることを禁止された時期があった。
 弁慶には念を押されたし、朔はずっと一緒にいた。
 少し不思議には思ったけれど、まだ治安が安定していないのだからと言われれば、そんなものかなと深く考えずにいた。
「それでどうやって断ったの? っていうか、なんで私?」
「鎌倉は代々仕えた家臣たちが支えているものじゃない。頼朝という勝者に尾を振る犬のような輩も多いんだよ。でもその犬どもにくれてやる恩賞には限りがある。その少ない恩賞で、それでも頼朝に戦いを挑もうとする気をそぐにはどうすればいいと思う?」
「絶対敵わないと思わせておく、とか? あれ、でもそれってどうすれば……」
「ご名答。そう、戦いを仕掛けるだけ無駄だって思わせておけばいいのさ。表向き朝廷は頼朝についているけど、それを面白くないと思っている公家も多いし、法皇だって風向き次第であてにならない。別の敵を用意して、一丸で向かわせるってのもあるけれど、そんな都合のいい存在は仕立て損ねたからね」
「それと私とどういう……あ、そうか、京の龍神の加護ってことか」
「ふうん。相変わらず綺麗なだけの花ではない、か」
 目を細めたヒノエは満足げに頷いた。
「なんだかんだ言いながら、京では龍神の加護を信じてる人間が多いからね」
「それで?」
「弁慶は頼朝の使者に、もう神子はいない、と言ったんだ」
「でも、私がこの世界にいるのを隠し通すのは難しいんじゃない?」
 望美の顔は、ある程度の兵たちには知られていた。
 京と鎌倉が離れているとはいえ、しらをきりとおすというのも難しいに違いない。
「その通り。だから、神子だった女はいるけれど、もう生娘でなくなったから神子の力は失われている。どうせ形だけでいいのなら、もっと信頼のおける奴を『龍神の神子』にしたほうが都合がいいんじゃないかってね」
「きむすめ……?」
「男を知った、ってこと」
 悪戯めいた瞳でこちらを見ているヒノエを見ながら、言われた意味を考える。
 男を知った、って?
 それって……それってそれって!!!
「まさか」
「ま、そういうことだよ」
「なんでそんな嘘っ!」
「さあ? ただ、オレですら考えたことを、あいつが考えていなかったはずはないんだ。『龍神の神子』をこの世界に引き留めるという意味を」
 『龍神の神子』が、この世界に留まる意味。
 源氏に勝利を授けた女神のように思われた人間が、戦の後も在り続けること。
 そのことに価値を見いだす者がいるなど思いもよらなかった望美は、ただ弁慶の傍にいたいという理由だけで京に残った。
 源氏の元軍師だった男──九郎の傍に在り続けた彼が、龍神の神子を手に入れたら周囲はどう思うだろうか。
 望美は顔をあわせても、ただ穏やかに笑うばかりだった弁慶を思い出す。
 彼が迂闊に動けなかった理由を知れば、自分の浅はかさがひたすら情けなかった。と同時に湧いてくるのは、なんで言ってくれなかったのかという怒りにも似た感情だ。
「もぉ! 弁慶さんってば!」
 彼はそういう人だった。
 結局いつも肝心なことは、なにひとつ言ってくれない。
 だから時空を超えて、追いかけて追いついて、ようやく捕まえたと思っていたのに。
「私ちょっと行ってくるっ!」
「えっ!? おい、望美っ」
 呼び止める声に応えることなく、望美は闇夜へ駆けだした。

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