「立派ですねぇ」
手にしたそれを見せてやると、目を丸くした彼女は感心したように呟いた。
日中の焦げ付くような陽射しが山の向こうになりをひそめてなお、じっとしているだけでもじとりと汗が滲む。それでも、遠慮がちに時折空気を揺らす風だけは辛うじて涼しさを孕み始めていた。
「光忠が今日獲れた中でいいものを厳選したらしい」
「きゅうり自体もそうですけど……手がこんでるというか」
今日はもう全員が帰還していて、この門を誰かがくぐるということもない。そうでなくとも閉ざしているのが基本のここを開け放っているのは、
門前にしゃがみこんだ彼女は、俺から受け取った精霊馬を外に向けて地面に置くと、改めてまじまじと見入った。
初めての時にはきゅうりに四つ足に見立てた竹ひごをさしただけだったそれも、今年は竹ひごの首、首の先にはきゅうりを切って作った頭。その頭には小さな葉で耳を顕し、尻にはとうもろこしのヒゲの尾まで得て随分と馬らしい姿になった。
「国永さんが作ったんですか?」
「いいや、秋田たちだ。何頭か作って、一番出来がよかったものを寄こしたらしい」
「ふふ、そうなんですね。後でお礼を言わなくちゃ」
「そうしてやってくれ。きっと喜ぶ」
「はい」
ちょんと精霊馬の鼻先を人差し指でつついた彼女のつむじを見下ろす。肩までしかなかった髪もすっかり伸び、こうして彼女がしゃがみこめば地面についてしまいそうなほどだ。さらりと滑るように顔の横に垂れた黒髪を耳にかけた彼女は、ため息ともつかない息をゆるゆると吐き出した。
そろそろ広間には全員が揃い、夕餉の膳が並び始めていることだろう。主である彼女が戻るのを待ちかねているはずの面々も、今日はけして彼女を呼びには来ない。ただそっと、主が来るのを待つばかりだ。
ふと落ちた沈黙を塗り込めるように、物悲しいヒグラシの声が響く。
「きみ、腹の虫が鳴いてないか」
「な、鳴いてないですよっ」
慌てて否定する彼女の隣に片膝をつく。
精霊馬の近くに置いたひとつかみほどの束のおがらに、マッチで火を付けると小さな炎は徐々に大きくなり、顔にその熱を伝えてくる。
「来て、くれるかな」
そっと横顔を窺えば、薄闇に落ち始めた中、橙色に照らされた唇はほんのり弧を描いている。その柔らかな表情に、四年前の、硬く唇を引き結んだ悲痛な顔が重なって見える気がした。
来ているのかいないのか。それは誰にもわからない。でも、今日からの四日間は居るように振る舞う。それがこの本丸での、暗黙の了解だった。
「……来るさ。他ならぬ、きみが待っているんだからな」
答えてやればこちらを見ることのない瞳に切なさが揺れる。彼女の心は、もう今はたったひとりに占められていることだろう。普段はどの刀にも分け隔てなく心を砕かねばならない彼女が、この四日間だけはただ特別だった彼の刀だけを想うことを許される。この本丸で喪われた唯一の刀──一振目の鶴丸国永のことを。
公な決まり事ではないものの、大抵どこの本丸も同じ刀剣男士を複数顕現したりはしない。鍛刀などで重複してしまった刀剣は、万が一に備えて大事に保管だけはしておく。この本丸もご多分に漏れず、彼女が審神者になって二年を経ても同じ刀剣男士二振が同時に在ることはなかった。
だから、二振目の俺が顕現してしまったのは本当に偶然が重なった、ある種の事故だった。
俺がこの本丸に来たのは、どこかからの遠征先で拾われてのことだったらしい。一振目の鶴丸国永から数日遅れてやって来た俺は、その後、三年間、顕現されることはなかった。
刀剣は仕舞い込んだままでは錆が浮く。それを防ぐ為に、顕現はせずとも保管されている刀剣は定期的に審神者が手入れを施す。その日、たまたま彼女の懐に一枚だけ札が残っていた、とか。その札が、襟元を直した瞬間に懐から落ちてしまったとか。よりによって、刀身の上に落ちたそれに、彼女が触れて力が加わってしまった、とか。そうして俺が顕現した。
俺が刀のままで過ごした三年のうちに、顕現され様々な経験を積んでいた一振目は固定で近侍を務めるに至っていた。主はその近侍に、うっかりにもほどがあると大層怒られたらしいが、かといって二振目の俺が疎外されることもなく、ごく当たり前に本丸の一員として扱われた。
その一振目が折れたのは、まだ空気が冷たく張り詰めた梅の蕾も固い時分のことだった。
眠ること、話すこと、食べること。ともすれば息をすることすら忘れてしまったのではないかという様子だった主がどうにか表面上は日常生活を送れるようになったのは夏の入り口へと差し掛かっていた頃。
痩せこけて、それでも戻り始めた食欲で、八つ時のすももを食べ終えた主は、見るともなしに開け放った障子の向こうへと視線をやっていた。庭には細い白糸のような雨が不思議なほどに音もなく降り注いでいた。
「もう今日の執務は仕舞いにしたらどうだ」
「国永さんがそんなこと言うなんて、珍しいですね」
生きることを放り出しそうな彼女を、随分と追い立てていたことは自覚していた。だからそう言われても仕方がないものの、ここ最近の彼女は少々無理が過ぎている。
日常生活を送れるようになったからと言って、それが快方へ向かっているとは限らないのだとその姿を間近で見続け、まざまざと感じていた。快方どころか、いよいよ追い詰められて、張り詰めきった糸のような彼女はなんの感情も見当たらない表情で、「国永さんたちは……死んだらどこに行くんですか」と呟いた。
死ぬわけでない、と思う。そもそもこの身は人ではないのだ。物は壊れ、消えていくだけだ。その先に何かがあるようには到底思えなかった。あるとしたら、分霊たるこの身が、再び本霊のもとへと還っていくことだろうか。それもまた、やはり人の子のいう死とは到底違うものであることは間違いないだろう。
「さてな。俺が……」
万が一のことでもあれば確かめてきてやろう、などという台詞をすんでのところで呑み込む。けれど彼女はその言いかけた言葉を問うこともなく、「なにも、残らなかったから」とぽつりと溢した。
「なにも、残らなくて……お葬式もしなかったから……」
一振目が折れたのは戦場でのことだった。部隊の構成、作戦、天候、思いも寄らなかった場所での敵襲。そのどれもが折り悪く重なり、更にまずいことには全員が折れかけて審神者に与えられた御守りの効力を使いきってしまっていた。急ぎ本丸に戻る途中、検非違使と出くわしてしまい、隊長として皆を逃がすことに注力した結果とのことだった。
顕現し、主従の繋がりを持つ彼女は、それが喪われたことを身をもって知ったらしい。部隊が戻るよりも早く、庭に裸足で駆け出した。そうして、戻ってきた彼らを出迎えたのだ。
満身創痍の彼らからその最期が語られた。後には鋼の欠片すら残らなかったという。
その後も近侍部屋は変わらず一振目の部屋として残され、俺は近侍代理となった。
「残って、いるじゃないか」
そんなにも鮮やかに、強く、魂に刻み込むほどに。
刻み混まれたそれに連れて行かれそうなきみを、縋るようにぎりぎりで留めているに過ぎない。
ぼんやりと庭へと注がれていた視線が、問うようにこちらへと向けられた。一振目が折れて以来、俺を見るだけでまるで傷つけられたとでも言わんばかりにきゅっと口を結ぶ彼女は、それを隠すように視線をはずしてばかりいた。だから、こんな風にじっと見つめられるのは、久方ぶりのことだった。
「きみが覚えている限り、消えないんだ」
心の中に居るなんていう言葉は陳腐だと思っていた。でも結局はそういうことだ。彼女の中で、一振目は喪われてなお、絶大な存在感を示している。数十振りといる刀剣男士が束になっても、少しもその悲しみを癒やしてやれないというのは、つまりはそういうことなのだろう。
慰めというよりは苛立ち紛れで口にした言葉に、彼女の瞳が揺れて、溢れて、零れ落ちた。
庭に降り注ぐ雨と同じように、声もたてずに涙を流す姿に、ひどく狼狽した。
不用意な言葉で、傷を抉ってしまっただろうか。一振目ならば、こんな時、どんな風に慰めるだろうか。そもそもここに居るのが国永でなく鶴丸だったなら、彼女はこんな風に泣かずに済んだろうに。
にじり寄るように彼女に近づいて、今にも壊れそうなその身を怖々抱き寄せる。一瞬だけ身を固くした華奢な肩は、腕の中におさまるとしゃくりあげて泣き始めた。
ああ、そうか。人の子は、悲しいとこうして泣くんだった。そんな当たり前のことを忘れてしまうほど、自分は一振目が折れたことに動揺していたらしい。彼女が泣かずにここまできていたことにも気付けなかったほどに。
「すまない……」
骨が浮くほどに痩せたその背をなぞるように幾度も幾度も撫でてやる。
一振目ならば、きっともっととっくにこうして彼女を泣かせてやることが出来ただろうに。
涙と一緒に溶け出して、そのまま消えてしまうのではないかと不安になりながら、ここに留めるように抱き締めていつまでもその背を撫で続けるうち、ぐったりと肢体から力が抜けていき、心臓を掴まれたように肝を冷やしたが泣き疲れて気を失うように眠ってしまっただけだとわかり、八百万の神に感謝したほどだ。
目を覚ました主は開口一番「新盆をしようと思うんです」と口にした。それは一振目をなくして、初めて彼女が自発的に何かをしたいと願ったことだった。
それが、もう四年前のこと。
四度目の迎え火が徐々に小さくなっていく。入れ替わるように、夕闇が濃くなっていく。この炎が消えたら、彼女と共に広間に行こう。いや、その前に、これに水をかけてから戻らないと、また長谷部あたりに口うるさく注意されてしまうかもしれない。そんなことを考えている眼前で、ふいに精霊馬の向こうの空気が陽炎のように揺らめいた。
はっと身構え、彼女の肩に手をかけかけた瞬間、それが誰かを覚った。
「よっ、久し振りだな! 俺が来て驚いた……みたいだな」
悪戯を成功させた童のように、してやったりと目を細めたそれは、一振目の鶴丸国永だった。