カノジョの婚活 3

「……ある、じ?」

 彼の声以外、全部の音が消えた気がした。
 ドクン、ドクン、と心臓が自身の存在を主張するように体の内から痛いほどに響く。
 はくりと唇を動かして。けれども音にはならないままに、呼吸するのも忘れていたことに気付いて冷えた空気を吸い込む。
 鶴丸は隣の女の子に何かを囁くと、目の前まで歩み寄ってくる。戸惑うように組んだ腕をはずした彼女は、彼の二歩ほど後ろに佇んでそっと成り行きを見守っていた。

「あるじ……主だろう?」

 疑問形の態を取りながらも、声音は確信に満ちていた。私の返事を待つこともなく伸びてきた手が私の手を引き寄せてキュッと包みこむ。その温かさを感じるだけで体温が上がり、目の前がくらりと揺れた気がした。

「つる、まる?」
「あぁ……あぁ、……会いたかった、主」

 弧を描いて細められた瞳に宿るのは、安堵だろうか。
 胸いっぱいにいろんな感情が溢れかえり、何かを考えて話すということが出来ない。鶴丸も同様なのか、私の手をとったまま二の句が継げずにいる。
 どれほどそうしていただろう。固まったままの私たちを見かねたのか、鶴丸の後ろでそっと成り行きを見守っていた彼女が、遠慮がちにダッフルコートの袖をひいて名を呼んだ。
 鶴丸国永にはかすりもしないそれが、今生の彼の名前らしい。

「ここだと寒いし、あるじさんとお店にでも入れば? 私は今日はもう帰ってもいいし」

 ね? と鶴丸を見上げて小首を傾げる様はとても可愛かった。顔立ちだけなら女子高生にも見えるけれど、落ち着いた柔らかな雰囲気は女子大生くらいにも見える。 
 恋人、だろうか。腕を組んでいたくらいだから友達という可能性は低いだろう。妹というのもありそうだけれど、どうだろう。
 ふたりの関係はともかくとしても、彼女からすればその女は誰だ!? という状況に違いない。それなのに、黒目がちの瞳には困惑も疑念もなく、ただ心配そうに彼を見上げている。

「あ、あぁ、そうだな、店に、……いや、待て、帰らなくたってきみも一緒に行けばいいだろ」
「一緒にって……だってやっと会えたんでしょう? だったらふたりきりのほうがいいんじゃない?」

『やっと逢えた』

 それだけで、この彼女が私のことを多少は知っているのだということがわかる。むしろ今この三人の中で、一番事態の把握が出来ていないのは私なんじゃないだろうか。
 混乱した頭のまま、促されるままにすぐ近くのコーヒーチェーン店へと足を向けた。

 それらしく振る舞い、平気な顔でやり過ごす、というのは審神者時代に習得したように思う。
 血にまみれて帰還する彼らを前に、震えそうな指先を誤魔化しながら手入れをすることも、戦績のことで政府の施設に呼び出しを受けることがあっても、本丸に戻れば凹む気分を押さえつけて、なんでもなかったよと笑って見せることも。うんざりする量の書類をこなし、決められた執務をこなし、誰にでも平等な善き主として在る。思い描く理想の審神者を体現するべく、いつだってどう振る舞うのが一番いいのか考えながら、本丸での毎日を過ごしていた。本当に善き主だったかはわからないけれど、覚えている限りみんなとの関係は良好だったんだから、あれはあれでよかったんだろう。
 特に苦労したのは自分の恋心を自覚して以降だ。審神者が刀剣男士と恋仲になるなんていう話は時折耳にはしたけれど、それはもう都市伝説級に遠い絵空事のように感じられたから、私はただただ自分の想いを隠すことに心を砕いた。
 鶴丸国永という刀は、うちの本丸ではよき兄貴分といったポジションに在った。顕現したのが比較的早かったのもあり、初期刀の山姥切と初鍛刀で顕現した薬研と連携して、徐々に増えていく刀たちの関係がうまくまわるように、仲裁したり調整したりと立ち回ってくれた。それは審神者たる私に対しても同じだった。善き主たる言動にくたびれきっても、綻ぶ前に気分転換だと散歩に連れ出し、差し入れだと言ってはお菓子をくれたりして。少しだけ甘えられる存在は、気付けば片想いの相手になっていた。お陰で癒やしだったはずの彼こそが、私をまっとうな審神者から引きずり下ろしかねない存在へと変わってしまったのだ。
 皆に平等な主。正しい主。まっとうに仕事をこなす審神者。そうでなければいけなかったのに、一振だけを特別視するなんてサイアクの事態だ。
 増し増しの心労を乗り越え、一日の執務を終えて離れに帰れば、ゆるりと解放された心地になった。離れには山姥切しか訪れない取り決めになっていたし、初期刀の彼には私が審神者として優れた部類ではないことなど最初からバレバレだったからそこまで取り繕う必要もない。寝そべってお菓子を食べたり、読んだ本を部屋のあちこちに積んだままの自室の中はそれなりにとっちらかってはいたけれど、山姥切は執務室で出来ることがなぜここで出来ないんだと呆れたようにため息をつきながらも、よく崩れた本の山を積み直したりしてくれた。
 山姥切も転生しているんだろうか。
 現実逃避をするようにそんなことを考えながら、今は高校三年生だという彼の向かいで、熱いコーヒーに息を吹きかけ口をつける。本当はお腹がすいていたけれど、サンドイッチを食べるという気分でも雰囲気でもない。
 大学二年生だという彼女は、鶴丸が覚えている限りの本丸の話を一通り聞いていたらしい。荒唐無稽とも思える話をよく信じたものだと感心していると、最初は驚きましたよ、と俯きがちに微笑んで、ココアのたっぷり入ったマグカップを両手で包む。

「人生には驚きがつきものさ。ま、主とこうして会えるとは、さすがの俺も思ってはいなかったがな」

 にかりと笑ったその顔は、私が知る鶴丸国永よりも少しだけ幼い。それなのに、やっぱり彼はまごうことなくあの鶴丸国永だった。
 他所の本丸の鶴丸が転生しているのだから、自分の本丸の刀剣男士が現れるのだってあり得ることだ。そんな事実すらうまく受け止めきれないまま、すするようにコーヒーを口にする。

「前世でも、今生でも、初恋の君だからな。……会えてよかった」

 噛みしめるように紡がれた言葉に、今度こそ思考が停止する。
 初恋の君。ダレガ? アエタ? ……私、が?

「ふはっ、そこまで意外だったかい」

 ストローで混ぜたグラスの中で、からりと氷が音をたてる。カフェラテの白と黒とを混ぜた彼は、「ま、そうだよなァ」と息を吐く。

「きみは俺のことなんざ眼中になかったしな。主に恋い焦がれていた刀は何振かいたんだぜ?」

 知らなかっただろ、と。悪戯げな笑みで告げられた言葉が頭の中でぐるぐるとまわる。
 初恋の君。
 眼中になかった。
 ソレハ イッタイ ダレノハナシナノ。

「う、そ……」
「嘘なもんか。お互いに抜け駆けは禁止だと協定は結んじゃいたが、そもそもきみのほうが俺たちをそういう風には見ちゃくれなかったからな。いっそ抜け駆けでもすればよかったと……なくしてから、折れるほど後悔した」

 後悔したと言いながらも、声音には悔恨なんて少しも感じられない。ただ懐かしむように、まるで子どもの頃のアルバムでも見るような目を向けられて息がつまる。彼の中で、それはもう想い出でしかないのだと、痛いほどにわかってしまった。
 前世のことだ。過去のこと。始まることもなく、始めようともしなかった。すべてはもう終わったことだ。言い聞かせるように心の中で繰り返すのに、うまく息が出来ない。
 ふと、バッグの中のスマホが音をたてた。画面の通知には、以前通販したお店からキャンペーンを知らせるDMが表示されている。

「あ、ごめ、ごめんね。仕事、仕事が……会社に戻らないと」

 言い訳にして立ち上がると、椅子が思いのほか大きな音をたてた。その音すらもいたたまれなくて、早くここから逃げ出してしまいたい。

「そうか。っと、待ってくれ」

 白いデイパックからノートを取り出し、シャーペンで走り書きして破りとると私の手の中に押しつけた。

「せっかく会えたんだ。これっきりというのも、な?」

 高校生らしからぬ笑みは、かつて本丸で見た顔だ。気分転換に万屋へと散歩がてら買い物に出掛け、また今度と日付をきらない約束をしたあの笑顔。今の今まで記憶の底に眠っていたはずの表情が、目の前の彼に鮮やかに重なる。あの時は、次が待ち遠しくて仕方なかったけれど、今はもう次に顔を合わせる自信がない。

「う、ん。またね」

 辛うじて声は震えなかったと思う。仕事に呼ばれた社会人の顔を、うまく貼り付けていられただろうか。それを客観的に考えられるほどのゆとりがない。
 邪魔をしないようにと気を遣ってくれたのだろう。控え目にしか会話に入ってこなかった彼女にも軽く会釈だけして、慌ただしくコートを羽織り店を後にする。
 どこに向かうとも考えることなく、とにかく早くここから遠ざかりたかった。
 残業なんてするんじゃなかった。もっと残業をするんでもよかった。あと十五分。十分でもいい。あの道を通る時間がずれていたなら、何も知らないままでいられたのに。
 早く早くと何かに急かされる心地で、ただ右、左と規則的に足を踏み出す。少しずつ息が上がり出す。吐き出す息が熱い。なのに、お腹の奥に重くこごってしまった何かは、吐き出されずに冷たく黒く濁っていくばかりだ。

『初恋の君だからな』
 
『きみは俺のことなんざ眼中になかったしな』

 ナンデ。ドウシテ。
 誰に何をぶつけたらいいのかわからない。行き場のない感情だけが、ぐるぐると体の中を巡り続ける。

 ふいに甲高い音がして感覚が引き戻された。慌てて足を止めたすぐ前を車が走り抜けていく。クラクションの音だったらしい。
 信号は赤く灯り、見慣れない看板ばかりが目に入った。闇雲に歩いて、本当に随分遠くまで来てしまったようだ。
 視線を巡らせれば、標識の横に表示された道路の名前には覚えがある。これを渡ってしまえば、駅からはますます遠ざかることだけは確かだ。

「帰らなくちゃ」

 ぽつりと口にしたのは、自分に言い聞かせる為だ。少しも落ち着いてはいない思考に、それでもしなければいけないことをすり込むように小さく音にしてみる。
 コップの水が際どく溢れそうなほどに、自分の感情がぎりぎりに揺れているのがわかった。だからといって、こんな場所でそれを溢れさせるわけにはいかない。
 息を吐き、横断歩道に背を向け、線路があるであろう方向へと歩き出す。タクシーが来れば乗ってしまえばいいし、どこか駅へとたどり着ければそれで帰れる。
 言い聞かせて歩き出した途端、目に入った。
 なんで、と思う。なんでこう『鶴丸国永』に会ってしまうんだろう。あっちもこっちも女連れで、続けて居合わせるなんて厄日でしかない。
 上着ごしにもわかる大きな胸を押しつけるようにして腕に掴まる女が、今日の彼のお相手なんだろう。
 彼もこちらに気付いたようで目が合ったのを、何かを探すフリで急いで逸らした。視線を外したまま、早くすれ違わなくちゃいけない。そう思うのに、ほんの一瞬彼の顔を見た途端、堰き止めた何かがほろりと解けてしまったような気がした。
 あ、ヤバイ……。
 喉の奥にせりあがるものを奥歯を噛みしめて留めようとしても、目からはいよいよ溢れ落ちてしまいそうだ。本当にサイアクだ。
 足早にすれ違おうとしたのに、強く腕を掴まれて咄嗟に顔をそちらに向ければ、瞳にたまっていたそれがぼろりと零れ落ちた。
 いつになく真剣な蜂蜜色は訝しむように細められ、眉間には深く皺が寄っている。

「なにがあった?」
 
 何をしてるの。せっかく他人の顔で通り過ぎようとしたのに台無しだ。ほら見ろ、隣の女が私のことを睨み付けてるじゃないの。
 そんな気持ちを押し殺して、離してください、と言ってやりたいのに口を開いたら嗚咽が漏れそうで唇は震えるばかりだ。

「どうした?」
「鶴さん、今日は私だって約束だったでしょぉ」
 
 甘い声がまとわりつくように響いて、何も言えないままに手を振りほどこうとすれば、ますます強く掴まれてそのまま抱き寄せられてしまう。
 後ろ頭を抑えられ、黒いチェスターコートに顔を押しつけられる。香るのは白檀──彼が愛用する香水だ。いつの間にか馴染みになったその香りを吸い込めば、どうしようもなく嗚咽が漏れてしまう。

「ちょっとっ」

 肩に細い手が掛かる。けれど、私が身じろぐよりも早く、耳元でペシリと音が響き、はたき落とされた。

「悪いな。今日は見ての通り急用だ」
「は? それはさすがにひどくない!?」

 えぇ、本当に。ごもっともです。
 内心同意を示すのは、相手の女に対してだ。誰が見たって聞いたって、悪いのは私でこの男だ。だから。

「……な、してっ」

 身を離そうともがけば、「おとなしくしてろ」と舌打ちひとつ。抱き込む腕の力が益々強まった。いっそ息が苦しくなりそうなほどだ。

「ひどい? はっ、冗談でも笑えないな。こういうのも承知の付き合いだったじゃないか」
「~~っ、泣いて気をひくとか最低」

 ご立腹な女の声には、先程から同意しかない。
 もう、本当にすみません。この男が離してさえくれれば、私は速攻退場しますんで。そんな気持ちで再びもがいて抵抗を試みるも、やっぱり腕はびくともしなかった。

「あぁ、ちょっと待て」
「なに」

 背を向けたのであろう女に呼び掛ける声を、胸越しに直に感じる。
 応えた女性の声には、僅かばかりの期待が透けていたのに。
 
「俺の連絡先、削除しといてくれ」

 パンっと。頭上で響いたのは女が彼を叩いた音だろう。とんだ修羅場状態だ。さぞや周囲の注目を集めているに違いない。
 女はそのまま立ち去ったようなのに、まわされた手は、力こそ緩んだものの巻き付いたままだ。小さな子供を宥めるように、ゆるゆると背中を撫でてくれる。もがけば今度こそ解放される気はしたけれど、時折しゃくりあげるようにひくりひくりと肩が震えてしまうのがおさまらない。
 もうなんだかぐったりと疲れ果てた頃、入れ違いに嗚咽はおさまり、呼吸が元に戻ってくる。これはもう化粧もひどいことになっているに違いない。だからといって、こんな態勢でいつまでもいるわけにもいかない。
 顔を上げるタイミングを完全に逸していると、密着した体がクスクスと笑って揺れた。

「なかなかに典型的な修羅場だったな」

 肩にかかった掌に促されて身を離せば、「ハンカチよりはこっち、だろ?」とポケットティッシュが差し出された。

「ありがとう、ございます」

 ああもう本当に。よりによって泣くなんて、大失態だ。叶うなら今すぐこの場から消え去りたい。穴があったら入りたいとはまさにこんな心境だろう。

「どうも本当にお邪魔しました」

 化粧崩れした顔を晒さぬように伏せたまま、深く頭を下げてくるりと背を向けた。
 それなのに。

「こらこらこら」

 歩き出そうとした腕を再びとられ、強引に向き直される。

「きみ、それで済むはずないだろう」

 ニヤリと口の端を引き上げた男は、「といって、そんな顔じゃあそこらの店ともいかないな」と己の顎をひと撫でしながら呟くように思案する。

「いえ、もう帰るんで」
「そんな状態で帰せるか」

 手首を掴まれ、連行するように歩き出す。散歩を嫌がる犬のように抵抗を試みても、長い脚は止まる気配がない。

「お邪魔したことは謝りますが、私たちもうそういうんじゃないじゃないですか」

 抗議の声を上げると、ぴたりと足が止まる。
 離してくれるのかと期待を込めて蜂蜜色を見上げれば、喜怒哀楽のどれも見つからない眼差しだ。意味がわからずに見返してはいても、手首は一向に解放される気配がない。

「今日はことごとく誰とも都合が合わなくてな。ようやく掴まえたのがあの女だったわけだが」
「……」
「責任、とってくれるよな?」

 有無を言わせぬ笑みを浮かべた男は、手首を引き寄せて口づけると、恋人のように指を絡めて繋ぎなおし、再び歩き始めた。