鬼斬丸という頸木がなくなった今、あの異形の力を檻に留めておくものはない。
だから急ぐべきなのだ、と男は主張した。
最初に狙われるのは、玉依姫と守護者のみ。
自信ありげにそう断言し、あれらを消し去ったら、そのままあのカミも結界で鎮めてしまえばいい、と事も無げに言う。
鬼斬丸のすぐ近くで、膨大な力の影響に晒され続けたそれを、そうたやすく制御などできるはずもない。
なのに男は、簡単なことですよ、と笑った。
あれに、本来贄になるべきモノがいたことを教えてやるだけでいい。それだけのことです、と。
典薬寮に身を置けば、その程度の情報を得ることは容易かった。
それはある意味間違いではない。間違いではないが、すべてでもない。
「裏切るんですか?」
「穏やかじゃないねぇ。でも裏切るも何も、僕はただの同僚だと思うんだが?」
「では、玉依姫の仲間、ということですか?」
「……」
白か黒。それしかないような男だ。
自分のように、灰色を濃く、薄くさせて生きている者など理解できないのだろう。
沈黙をどう受け取ったのか、男は侮蔑の色を浮かべて言った。
「あなたほどの人が、なんであんな異形に肩入れを?」
「言っておくけど、僕は別に玉依姫の仲間ってわけじゃあない」
嫌われているしね、とまでは口にしなかった。
「ならば、昨夜は何をしにあのような場所に行かれたのですか?」
「覗き見とは趣味が悪いなぁ。ご機嫌伺いだよ。せっかくの玉依姫の代替わり、しかも相手はまだ子供だ。これを機に、付け入る隙でもできれば、典薬寮の意向に添うってもんだろう?」
「付け入る? 手懐けたところで、異形は異形。人の姿で人の世界に身を置く分、カミよりもよほど質が悪い。我々人間に害なす前に、一刻も早く消すべきだ。上層部の意向に沿っているのは、むしろ私ではないですか?」
上層部は、まだ態度を決めかねていた。
だからこそ、この男の動きが黙認されている。
本当に彼らを抹殺できるならそれでもいいが、失敗した時には知らぬ存ぜぬを通す為だ。
公式な動きでなければ、なんとでも言い訳がたつ。それだけのこと。
もっとも穏健派はそれをよしとせず、協力関係を結びたいと思っている。
協力といえば聞こえはいいが、結局のところ彼らの力を典薬寮の為に利用したい、というだけのことだ。
いずれにしても渦巻いているのは、綺麗とは言い難い思惑ばかりだった。
「もうすぐ準備は整います。彼らの作り上げたシステムに、彼ら自身が捕らわれ滅ぶ。人外には似合いの結末でしょう」
「そんなにうまくいくかねぇ」
「あなたが邪魔さえしなければ。私の計画は完璧です」
「邪魔なんてとんでもない。で、その完璧な計画に、村人二名の犠牲も含まれているのかな?」
「あれはっ」
気色ばんで言いかけた男は、繕うように笑った。
「大事を成すには、多少の犠牲もやむをえません。あれらを抹殺することで、多くの人間の安寧が約束される。これは、諾々と生け贄を捧げ続けたこの村の流儀に則ったやり方ではないですか」
「安寧ねぇ。でも、これ以上犠牲が増え続けるようなら、それこそ典薬寮が介入せざるを得ない。その時、処断されるのは、むしろ君のほうなんじゃない?」
男はギリと歯を噛みしめた。
「なぜわからないかな。待っていてください、芦屋さん。もうすぐ私の正しさが証明される。上層部が決めかねているのは、それができないと思っているからでしょう?」
「しがない一職員の僕に、上の思惑なんて想像もできないね」
世界の終わりを招くという鬼斬丸。
それを封印どころか、消失させることができる存在がいるなどと誰が思っただろう。
いつまでも封印の贄を差し出さずにいた玉依姫を、青臭い感傷に引きずられるだけの子供だと思っていた。
たった一人の命で、世界が救われるならそれでいいじゃないか、と。
それを許せずに、あがき続けた彼らが成したものは大きい。
けれど、大きいからこそ、反動がくる。
おそらく、目の前の男のようなことを考える者はこれからも出てくる。
ならば今、彼らはこの男の存在を逆手にとって、典薬寮に証明しなくてはならない。
国は手出しできず、またする必要もないのだということを。
自信なさげに、己を引き留めた当代玉依姫の姿を思い出す。彼女にそれができるだろうか。
傍観者でいつづけてもよかったはずなのに、少し近くに居過ぎたのかもしれない。
「ま、勝てば官軍。正義なんてそんなもんだ」
「いいえ。正しいから勝つんです」
人間代表のような顔で微笑む男のほうが、そこらのカミよりもよほど薄気味悪く見えた。