カノジョの婚活 01

「は? もう一回言ってくれ」

 裸でベッドボードに寄りかかる男は煙を吐き出し半笑いでそんなことを言う。まあそうだろう。切るか切られるように仕向けることはあっても、相手から切られたことなんてこれまで一度だってなかったはずだ。

「別れようって言いました。今日でオシマイ。今までありがとうございました」

 同時進行の女が何人いるのか考えるのも馬鹿らしい相手だ。そもそも付き合ってすらいないのに、こうしてわざわざ別れを切り出す必要があるのかなんて思わなくもないけれど、これはけじめだ。私のための。

「へえ、きみが今更そんな手で来るとは思わなかったな」

 そう言って面白がるように目を細めた男には気をひくための手管にしか響かなかったみたいだけど。だから私は気づかないフリで、鏡の中の自分だけを見る。
 リビングを仕切るパーテーションの脇に置かれた姿見に映るのも、これが最後。

 この部屋に初めて連れてこられたのは、こんな関係になって二ヶ月ほど経った頃だったか。冷蔵庫と電子レンジが辛うじて生活感をつなぎ止めている1LDKの主役はクイーンサイズのベッドだった。片付いているというよりもただ物が少ないだけのようにも思えるそこは、寛ぐとか生活をする場というよりも、ただ寝に帰る場所にしか見えなかった。
 それでも、それまでは手近なホテルでコトを済ませて解散だったことを思えば、プライベートエリアに立ち入ることを許されたという事実が少しだけ嬉しかった。同時に、ここに来るのを許されるのはいったい何人くらいいるんだろうと考えかけて、内心ひそかに苦笑したのを覚えている。

 あれから一年。週一で訪れることもあれば、ひと月丸々連絡が来ないなんてこともあった割に、よくここまで続いたものだ。

 淡いグレーのカーテン。その向こうは夜の只中だ。終電はとっくに行ってしまったし、始発を待つには長すぎる。週末の夜遊び客を目当てにしたタクシーがつかまればまだよし。最悪、駅前のファミレスで夜明かしするのが妥当だろうか。気温も下がりきった真冬の深夜。刺すほどの外気であろうことは想像の範囲だけれど、それにしたって今日はさすがにここに泊まる気にはなれない。彼にしたっていつものごとく私を送る気はさらさらないだろう。だったらノコノコと部屋についてきたりせずに済ませばよかったのだろうけれど、終わりを思い立ったのがほんの先ほどなのだから仕方ない。

 寝乱れた痕跡がないことを確かめるように、鏡に映る己の姿に上から下まで視線を走らせる。橙色の間接照明に映し出される影は、私をひどくくたびれて見せた。

──ひどい顔……って元々こんなもんか

 思わず笑いを漏らすと、煙草の火を消し、軽く眉を寄せた蜂蜜色と鏡面越しに目があった。時には蕩けそうに甘い色を宿す大好きな色。そして、いつだって目の前の私を映してはいない。彼が本当に見ているのなんて、もうずっとたったひとりだけだ。

「本気か?」
「はい」

 唯一になりたがらない。それだけがルールだった。恋人の真似事をしても、それはどこまでも真似事で、それをオアソビとして愉しめる女だけが彼の隣に居ることを許される。
 今ならまだ、私はルールを破らずにこのゲームを降りられる。だから、振り向いて綺麗に微笑んで見せた。

「私、婚活するんです」

 満月よろしく見開かれた蜂蜜色が、少しだけ小気味よかった。

◇  ◇  ◇    ◇  ◇  ◇

 正直、二度目なんてないだろうと思った。彼とは、そういう出逢いだった。

 会社からは少し離れた、初めて行ったバーでのこと。
 私をダシに飲み会を抜け出した彼らは、テーブルで乾杯するや否やあっという間にふたりの世界に突入した。同期と後輩とがいつの間にそんな関係になっていたのかと鼻白んだものの、交わされる会話はまだ時折ぎこちなく、そういう関係へのボーダーラインに居るようだ。そんな二人の関係を深める微妙なタイミングならば尚更店に入る前に解散と言ってくれればよかったのに、私を言い訳の材料にした罪悪感があったのか、それともふたりきりという状態に自信がなかったのか。なんにしてもグラスを傾け始めてからは蚊帳の外に置かれたままひどく居心地の悪い気分を味わいながら、時折思い出したようにふられる話に相づちを打っていた。
 仕事を持ち帰っていることにするか、それとも終電を言い訳にするか。一杯目のグラスが空になったタイミングでそっと腕時計を確かめる。そうして、なにげなくカウンターに視線をやった途端、いつの間にか座っていた男に気付きひゅっと息を呑んだ。
 間接照明の下。蒼い灯りに染まる白銀の髪。スーツの上着はクロークに預けているのだろう。少しだけネクタイを緩めたワイシャツ姿の男は、隣に来いと言わんばかりに己の隣の椅子を指先でトントンと軽く叩き、悪戯げに片目を閉じた。

「ごめん。知り合いがいて……抜けていいかな?」

 そう言って席を立ち、吸い寄せられるように彼の隣まで行けば、「何を飲む?」と初対面にもかかわらず、まるで旧知の仲のように微笑んだ。
 彼じゃないのに、それは紛れもなく彼の声だった。抑えた声音で震えそうな声を誤魔化しながらオーダーしたサザンカンフォートのソーダ割。彼はそのグラスに「お疲れ様だったな」と己のロックグラスを軽く合わせた。
 広くはない店内。ましてや、このカウンターから私たちの居たテーブルはほんの数メートルしか離れていない。話し相手もいない彼には、こちらの会話も筒抜けだったに違いない。どうやらあの気まずいメンバーから助け出してくれたらしい。
 グラスに視線を落としたまま、軽くステアして氷を泳がす。そうして緊張に乾く口内を潤すように冷たい炭酸を含みながら、横目でそっと彼の様子を窺う。どこからどう見ても『鶴丸国永』だ。そうして、今日の今日までどこか信じきれなかった前世の記憶らしきものは、私が現実逃避で生み出した妄想なんかでなく正真正銘前世でのことで間違いないのだと止めを刺されたような心地になる。なぜなら、この『鶴丸国永』がうちの本丸に居た彼ではないと一目でわかってしまったから。
 自慢にも役にも立たないけれど、生まれてこの方お化けだの幽霊だのの類は見たことがない。いわゆる霊感が少しもないゼロ感というやつなんだろう。その手の怖そうなモノは苦手だから、今後も一切お近づきになる予定も希望もないけれど。そんな霊力のレの字もないはずの私がこれだけ完璧な生き写しの姿を前にして、ああ、彼は他所の本丸の鶴丸国永だと確信できてしまうのはどうしてなんだろう。わからない。わかっているのは、今よりももっと未来で、いや、時間は逆行しないから、それは全然違う時間軸なのかもしれない。とにかく、私はかつてそこで審神者を務めていた。
 審神者になる前は何をしていたとか、家族がどうだったとか細かいことはあまり覚えてはいないけれど、私は本丸という現世から隔離された大きな屋敷の中で、刀剣男士というやけにイケメンな付喪神の皆さんと同居していた。最終的には六十三振を有した我が本丸の中で『鶴丸国永』というのはかなり遅くに顕現した刀だった。お陰でそれまでの経験上、彼が優しくしてくれるのも、臣下として、年長者として、尽くして労って庇護してくれるのも、私が『主』であるがゆえだというのはよくよくわかっていた。それなのに、恋をした。
 儚げな美人という形容がぴったりなのに、少年のような笑顔を浮かべたり、ひとたび戦場に出れば返り血で真っ赤に染まるのも厭わず、むしろそれを嬉々として受け入れるほどの戦闘狂なところも、いつもいつも驚きを探して退屈を嫌う性分の割に仕事を割り振ればそれはもう真面目に取り組むところも。私の体調を気遣ってくれるのも、仲間思いなところも。彼を彼たらしめる全部が大好きだった。
 もっとも、伝えるつもりもなかったし、かなうはずもない想いだったけれど。
 ──あの時間はどうして終わったんだっけ?
 とにかくこうして生まれ変わっているということは、私は死んだんだろう。病気だったのか、寿命だったのか。なんにしたって死ぬ時はきっと痛かったり苦しかったりしたんだろうから、思い出したくもない記憶だ。

「心ここにあらず、か。そんなにくたびれたかい?」

 喉の奥で笑う声に顔を向ければ、彼は苦笑を浮かべながらちらりと先程まで私が居たテーブル席を見遣る。倣うようにそちらを窺えば、同期は彼女の手に手を重ね、顔を寄せて何事か囁いている。後輩ちゃんの耳まで真っ赤なのは、けして明るくもないこの空間でも見て取れたものの、嫌がっているようにも見えない。

「うまくいったみたいだな」
「ですね。くたびれ損にはならなかったみたいでよかったです」

 軽く肩を竦めて笑って見せれば、彼もまた口の端を引き上げ、グラスに口をつけた。そうやって平静を装いながらも、心臓はやたらとその存在を主張して、ドクドクと早く大きく高鳴っている。そのせいで一気にアルコールがまわりそうな気がして追加でお水を頼んだ。
 前世風に言うならば、まさかこんな場所に顕現してるだなんて思うはずもない。目の前の彼が見たままにまごうことなき人間ならば、刀剣男士も人に転生するんだなぁとか。多くの鶴丸国永が同じように転生しているとしたら、此の世に同じ姿の彼がいったい何人存在するんだろう、とか。うちの鶴丸も、もしかして出逢えていないだけで、転生しているんじゃないか、とか。とっちらかった頭の中で、いろんなあれこれが駆け巡る。

「どこかで会ったか?」
「……いいえ。お名前をお伺いしても?」

 今更ナンパの常套句のようなことを口にするのがなんだかおかしくて、小さく笑って尋ねれば「名前が必要かい?」と返った。
 必要か必要じゃないかといえば、別に必要はない。ふたりで話す分には、呼び掛けたければ、ねえ、とか、あの、で十分だ。
 それでも訊いてみたのは、鶴丸国永と名乗るのか、それともまったく別の名前を口にするのかという好奇心に後押しされたに過ぎない。
 感情を読ませない、かといって機嫌を損ねているようにも見えない男に「必要ではないですね」と答えると、正解だと言わんばかりに深い笑みが浮かんだ。

「鶴」
「は?」

 その後ろに丸とか国永とかつきません? なんて疑問はぐっと呑み込む。

「名字としては珍しいかもしれんが、そこまで驚くようなことかい」
「や、ちょっと知り合いが……えと、鶴さんって言うんですか」
「ああ。苗字でも名前でもないがな」

 蜂蜜色の瞳に見え隠れする揶揄に、「はあ、ソウデスカ」と答えてグラスを傾ける。からかわれているのか、それとも戯れに助けてやった相手に名前など名乗れるかということなのか。真意まではわからないものの、正面から受け止める必要もなさそうだ。

「きみは?」
「私は、亀、ですかねぇ」
「ふはっ、そうきたか。俺は構わんがな。亀と呼んでいいのかい」

 頬杖のままグラスを空けた彼は「同じのを頼む」と再びロックを注文する。そう何杯も飲んではいないだろうが、それにしたって顔色ひとつ変わらないあたり随分酒に強そうだ。

「で? 亀は……」
「……ひわ、です」

 このまま、亀、亀と連呼されるのを想像するにつけ、それはあまりにマヌケに思えた。かといって、真名を名乗ってはいけなかったかつての時代ではないとはいえ、本名を教える必要もない。おあつらえ向きだと、審神者ネームを名乗ると「ひな?」と案の定の問いが返った。
 演錬でも、審神者の会議でも、名乗って一度で通じたことなどほとんどない。大抵、こんな風に訊き返された。

「ひ・わ。わをんの『わ』」
「ひわか。ふーん、ひわ、ね」

 口の中で転がすように呟いた男は、新しく置かれたグラスに手を伸ばす。
 ひわ、とその声で呼ばれたことなど一度もなかった。たまに『主』と呼ばれることはあっても、大抵は『きみ』だった。ああ、仕事で徹夜を続けた時にはこめかみをピクピクさせながら『主殿』と妙に畏まって呼んだ後に、私を荷物みたいに抱え上げて布団に放るように押し込まれたことはあったっけ。
 声に誘発されるように蘇った記憶にクスリと笑うと、彼は軽く眉を上げて「ん?」とこちらを覗きこむ。ゆるりと首を振って「いえ、なんでも」といつの間にか汗をかいたグラスの水滴に指を滑らせ、はたと我に返った。
 知り合いが居ると言って席を立ったのに、名を尋ね合うやり取りなんて明らかに不自然だ。同僚の目の前で初対面の男とこんな会話をしてしまうなんて、週明けのオフィスに退屈凌ぎの話題を提供する行為に他ならない。
 恐る恐るテーブル席を窺えば、互いの手を取りあった彼らは額を付けるようにして小さく笑い合っていた。

「あっちはそれどころじゃないと思うぜ?」

 無造作に置いていた手に、掌が重なる。そのまま指先を組み合うようにして取られた手の甲を、指先がそろりそろりとなぞる。たったそれだけの行為に、背筋が粟立つような錯覚を覚えた。そのまま彼の方へと引き寄せられた甲に、薄く冷たい唇が当てられる。

「といってもきみは気が気じゃないよなァ。……出るか?」

 欲を隠すことのない眼差しが、選択肢を放って寄こした。
 否と言えば、この男は惜しむ気持ちの一欠片も見せずにあっさりこの手を解放するに違いない。そう思った。
 初対面であっさり許せるほどにさばけていたわけでも、経験豊富ということでもなかった。それなのに、「そうですね」と笑みを返したのは、酒の勢いだったか、それとも前世の感傷に引き摺られたのか。今更どうこう考えてみる気にもならない。
 ただ、あの夜、叶うことのないままに終わった片恋が少しだけ報われた気持ちになったのは確かだし、一夜限りのいい想い出として終わるはずだった。
 それがまさか一年以上ものセフレ関係に繋がっていくことも、この遊び慣れた男が、たったひとりを一途に想い続けているということもまた、想像すらしないことだった。

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