command 4 審神者に秘密で寝てください。

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「すまん!」

 道場の引き戸を引いて入って来たふたりの姿を認め、潔く頭を下げる。両手を前につき、額を床につけて待てば、耳に届いたのは加州の「勘弁してよ」という心底嫌気がさしたと言わんばかりの声。次いで「驚きにもほどがあるぜ、旦那」と言う薬研の声だった。
「部屋中あんたの神気まみれでさあ、隠れてるのかと思って探しちゃったくらいだよ」
 目の前にふたりが座した気配に、そろりと顔を上げて背筋を伸ばせば、両者似たり寄ったりの苦りきった顔つきだ。
 それはそうだろう。今日、主は政府の施設での仕事だと言って本丸のゲートから出掛けて行った。対して、非番だった俺は、万屋辺りを散歩してくると言い置いて出掛けていた。それなのに、あの子は鶴丸国永と情を交わしたとしか言いようのない神気を纏って帰還したのだ。
 寸前に主の出迎えを頼むと言われた時点で察しのいい薬研のこと、何かあると思ってはいただろうが、まさかこれほどのこととは思わなかったに違いない。もう少しくらいは説明しておこうとしたものの、思いのほか早く帰って来た彼女を認め急いで初期刀を呼びに走った。
 加州にしてみれば風呂に行こうとしていたところを掴まえられ、とにかく主の元へと行ってくれと拝み倒されたのだから、何がなにやらという状態だったはずだ。
 それでもそこは古参と初期刀。見事な連携で事態を察し、無事彼女を誰にも会わせることなく部屋へと押し込めてくれた。
「その……主はどうだった? ちゃんとメシを食えていたか?」
「食べてたよ。顔色が悪いってのも真に受けて、お粥か何かを食べさせられると思ってたみたいだけどね。天麩羅から何からいつも通りに完食してた」
 苛々とした口調で告げる加州に、薬研が吹き出して「つくづく素直なお人だな」と肩を揺する。確かに、部屋に強制直行させられるほどに具合が悪そうに見える病人に天麩羅を饗するのは少々無理がある。そこを疑わないのは、彼女の素直な気性ゆえのことだろう。
「そういうところがかわいいんだからいいんだよ」
「あの茶も薬湯だと思い込んでたことだしな。ま、どの程度効くか試したこともないが、ぐっすり眠れば明日には誤魔化せる程度には馴染むなり、発散されるなりするんじゃねえか」
「そうだな。疲れてるだろうからこのままゆっくり休めば……いい、な」
 疲れさせたのはお前だろうと言わんばかりの視線が向けられ、自然言葉も尻すぼみになる。やり過ごすようにかたちばかりの笑みを浮かべると、二振は呆れを滲ませ息を吐いた。
「っていうかさあ。なんなの? 出迎えも何も一緒に帰ってくればよくない?
心配するくらいなら自分で傍に付いてればいいじゃん。ろくに状況もわからずに引っ張り込まれるこっちの身にもなれって話だよ。お陰で海老を丸呑みだよ」
「海老?」
 何があったのか赤い顔をした加州は不機嫌そうに「それはいいんだよ!」とタンッと床を叩いた。
「そもそもあんたらがヤることヤったってこっちは今更驚かないんだよ!」
「まあそうだな。主が片恋を拗らせ気味だったのはこの本丸の懸念材料だったしな。旦那も元々憎からず思ってたんだ。とっとと公表した方が今後のためじゃないか」
「…………は? 待ってくれ。じゃあ、主が俺を想ってくれていたと知っていたのか?」
「うわ……それ本気で言ってる? まさか気付いてないフリしてたんじゃなくて、気付いてなかったの?」
 動揺する俺を前に、加州が虫でも見るような視線を投げてくる。
 いや、そんなはずはないよなという願いを込めて薬研を見れば、こっちは哀れむような眼差しだ。
「あー、まぁそう気を落とすこともねえだろ。目出度いことには変わりないさ。とっとと祝言でもなんでも……」
「それは出来ない」
 薬研の言う通り、すぐにでも公表してしまいたい。彼女は俺のものだと声を大にして言いたい。が、しかし、そもそも根本的に問題がある。
「あの子は俺と寝たことを知らないんだ」
「「 はあっっ!? 」」
「詳しいことはまだ言えない。だが主は俺とそうなったことは知らないし、知らせることも出来ない。だから、今回のこれはまだ誰にも知られるわけにもいかないんだ。なによりあの子自身に」
「ちょ、待ってよ。それってどういう……」
「すまん」
 再び頭を下げた瞬間、肩を勢いよく蹴り飛ばされた。
 背と頭とを床にしたたかに打ち付けながらも見上げれば、自室から呼び寄せたのか加州清光(ほんたい)を手にワナワナと躯を震わす初期刀が柄に手をかけている。
「ふざけんなっ! 知らないってなんだよっ!! 主はずっとあんたが好きで……それを! 何をどうしたらそんなことになるんだよっ」
「寝ている間に手込めにした、ってことでもないんだろう?」
 加州を制すように腕を伸ばした薬研は、冷静に、けれど探るような視線をひたと向けてくる。怜悧な眼差しも回答いかんでは容易く殺気に変わるのだろう。それはひとえに彼女を慮ってのことだ。わかっている。わかっていてなお、話せることなどほとんどないのだ。
 逆の立場で考えれば、腕の一本や二本斬り落とされても文句の言える状況じゃない。だからただ、頭を下げるしかなかった。
「無理強いはしていない。手前勝手なのは重々承知だが、今はそれ以上のことは言えない」
「ヤることやっといて、ちぃとばかり説得力に欠ける言い分だとは思うが。ひとつ訊いていいか?」
「──ああ」
「今日大将と旦那が出掛けたのは、政府の施設で間違いないな?」
「……そうだ」
「大将の同行なしに、ましてや本丸の外のゲートを使うことが許される、か」
「……」
「わかった。大将が長く想いを寄せていたのに免じて、ここは静観してやる。加州の旦那も。今、鶴の旦那に怪我させたんじゃ、明日起き抜け早々大将が肝を冷やすぜ?」
 薬研にポンと肩を叩いて宥められ、憤懣やるかたないといった様子の初期刀もしぶしぶ柄から手を離した。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「……主?」
 障子の向こうは淡くあかりが灯っていた。

『効き過ぎるほどには盛っちゃあいないが、念のため一度様子も見といてくれねえか』

 そんな薬研の言葉に後押しされて来てみたものの、暗くはない部屋に少しだけ躊躇しながら呼び掛けてみる。
 気配はある。障子一枚隔てた向こうに、確かに己の神気がたちこめていた。その事実に言いようのない幸福感を覚え、思わず口元が緩みそうになる。
「主、起きてるか?」
 薬研と夜番を代わることになってな、了承を貰いにきた。そんな言い訳を用意しながら、もう一度声を掛けてみる。

『軽蔑されて、二度と視界にすら入れて貰えないんじゃないかと……』

 『鶴丸さん』を相手にする行為は、彼女にとってひたすら後ろめたさを伴うものだ。ならば、今日の今日では気まずさのあまり返事も出来ずにいるのかもしれない。そう考えて再びいらえを待つ。
 ここに居るのは彼女が本心を晒して見せた『鶴丸さん』ではない。それでも。何も知らぬ顔をしなくてはいけなくとも、ただ顔が見たかった。
 障子の向こうは相変わらず返事どころか身じろぐ気配もない。痺れを切らして、開けるぜ、と声を掛けて障子を引けば、部屋の奥に敷かれた布団の上でうつ伏せて眠る姿が目に入る。胸の下に枕を入れて、本でも読んでいたのだろう。投げ出した両手のすぐ脇に、文庫本が一冊伏せられていた。
 こんな姿勢で眠ってしまって、後から腕が痛くなったりしないんだろうかと心配になりながら、足下に畳まれたままの薄掛けを引き上げ、静かにかけてやる。
 枕辺に座して見下ろせば、口を半開きにしてすやすやと寝息をたてる寝顔は平和そのものだった。
「なあ、俺だけが知らなかったようだぜ? ひどいじゃないか」
 頬をそうっと撫でながら、恨み言を口にする。

『大将が長く想いを寄せていたのに免じて、ここは静観してやる』

 そう言った薬研に、そんなに長かったのか? などと問いを投げてふたりがかりで背中に平手をお見舞いされた。
 数刻前に知らされたばかりの彼女の想いは、この本丸ではとうに皆の知るところだったようで、それが少しばかり面白くない。
「はは、違うな」
 やはり薬による眠りは深いらしく、彼女はまったく起きる気配がない。顔にかかった髪を撫でつけるように流してやりながら、ひどいのは、俺の方だ、と囁く。

 まだ顕現して間もなかった頃のこと。
 初めて任された近侍に、何をしたらいいのかもろくにわからず端末に向かう彼女の横で、手持ち無沙汰でキーを叩く指先を眺めている俺に一本の筆記具と紙が差し出された
「これで印をつけながら、上から数字を読み上げていって貰える?」
 戦績を分析したという書類と、やたら古ぼけて、表面に描かれていたであろう模様が所々剥げ落ちている筆記具だった。まじまじと見ていると、彼女は少し恥ずかしそうに「それ、お気に入りなの」と微笑んだ。
「随分使い込んでいるな」
「うん、見た目はすっかりボロボロになっちゃったけどね。手に馴染むっていうか、書きやすいし。もうなんか愛着涌いちゃって、使えるうちは使おうかなって」
 彼女の齢を考えれば、そこにはまだ何も宿るべくもない。それでも、長く大切に使われる筆記具が羨ましくもあり、また、そういう彼女がとても好ましく思えた。
 思えば、単に己を顕現した主としてではない好意を向けたのは、あれが最初だったかもしれない。
 主に大切に使われたい。共にありたい。それはきっと道具として当然の願いだ。
 彼女の傍らでその人となりに触れていきながら、いつしか皆と同じように大切にされることに物足りなさを覚え、他のモノよりも大切な存在でありたいと思うようになってさえも、主を独占したい付喪の本能だと言い聞かせた。
 やがて、名を呼ばれ、笑みを向けられるだけで鼓動が跳ね、他の者にかかりきりになる様を見れば面白くない気持ちになった。人の身を得たというだけで、こんなにも心はままらなくなるものかと驚きながらも、いよいよ言い訳のしようもなくなって、苦笑混じりにその感情が付喪神らしからぬものだと受け入れるしかなかった。
 彼女を、恋うていた。否。そんな可愛らしい感情ではなかった。もっと欲にまみれた劣情で、執着だった。それらを、訳知り顔で相談にのる年長者の顔の下に隠していたに過ぎない。

 昼間散々あえかな声をあげ、熱に浮かされたように促されるまま「好き」と紡いだ唇を、つと指先で辿る。薄く開いて、ゆるゆると寝息を漏らす薄桃色のそこは彼女の眠りの深さを知らせるばかりだ。
「きみが俺を慕ってくれているなんて、思ってみたこともなかったんだ」
 囁きながら、『絶対に有り得ないと思うことは、疑うことすら出来ないものでございます』と説いた管狐の姿を思い返す。
 あの管狐に今回の任務を知らされたのは、彼女がそれを言い渡されたのと同じ日の夜のことだった。

 人払いしてまで何事かを話していた後、夕餉の席に現れた彼女は心ここにあらずといった様子で、ひどく気に掛かった。だから、あれが帰りしなに「食後にお庭の散歩などいかがでございますか」と誘ってきたのを二つ返事で了承したのだ。
 夕餉が済めば、道場に足を運ぶか夜回りの担当以外庭に出てくる男士はそうそういない。それでも、前を行くこんのすけは橋を渡り、耳目のない池向こうの更に奥、もうひとつの太鼓橋までこちらを振り返ることもなく歩き続けた。
 池を照らす小さな灯りひとつでは鯉の影すらわからぬほどの薄闇の中、軽い音をたてて朱塗りの欄干に飛び乗ったこんのすけは「単刀直入に申し上げます」と口を開いた。
「近々、審神者様とまぐわって頂きたいのでございます」
 あまりの内容に虚を突かれ、来た時よりも明らかにぽってりと腹を膨らませた管狐をまじまじと見る。その視線をどう受け取ったのか、ふぁさりと尻尾を一振したこんのすけは「聞いてらっしゃいますか」などと間の抜けた質問を口にした。
「あー……すまん。何か聞き違えたような気がする。悪いがもう一度言ってくれるか」
「審神者様とまぐわって頂きたいと申し上げました。性行して、審神者様に神気を注いでくださいませ」
「おいおい、冗談にしたってタチが悪いにもほどが……」
「審神者様には既にご了承を頂いております」
 感情の感じられない黒い目をこちらに向けたまま「そもそも審神者様にはこれに否やを唱える権利はございません」と冷たく言い切った。
 つまりは了承とは名ばかりで、神とのまぐわいを一方的に言い渡したのだろう。目の前の式に腹立たしさを覚え、はっと息を吐くように笑ってやる。
「そういうのは了承とは言わないんじゃないか?」
「いいえ。審神者様は始めは否やを唱えられましたが、このこんのすけ、誠心誠意言葉を尽くし、鶴丸国永様がお相手ならと了承を頂きましてございます」
「彼女が……俺なら、と?」
 掠れた声が唇から漏れる。他の誰でもなく、この俺とならと彼女が言ってくれたのだろうか。
 じわじわと胸が熱くなる。何を思ってそう言ってくれたのかはわからないが、四十を超えるこの本丸の刀剣男士の中で俺とまぐわってもいいと、彼女が本当に了承したんだろうか。
 考えるだけで、周囲にはらはらと薄紅の花弁が舞い散った。
「あのぅ……非常に申し上げにくいことにはございますが、審神者様は『鶴丸国永』様ならばとおっしゃっただけにございまして」
「だから俺だろう?」
「いえ、その……審神者様はこの本丸の刀剣男士様はお嫌だそうです」
 薄紅が灰色の砂塵と化して消え去るのを感じながらも、そんなうまい話があるはずもなかったと内心盛大にため息を落とす。
 そうだった。彼女が道具ごときに心を寄せてくれるはずなどない。ましてや、誰もを平等に扱うこの本丸の中で、たった一振を選ぶはずがなかった。
「審神者様には他の本丸、または政府にてお預かりしております刀剣男士様とまぐわって頂くこととなります。……表向きは」
「おいおい、まさか俺に他所の鶴丸国永のフリをして彼女とまぐわえなどと言うつもりじゃないだろうな」
 呆れた視線を、管狐はえたりとばかりに耳を伏せ、目を細めて頷いた。
「さすがは鶴丸国永様。話が早くて助かります。ことは審神者様のお命に関わること。まずは聞いてくださりませ。今回の任務は霊力の枯渇の可能性が高い審神者様を選別した上でくだされたものにございます」
「彼女の霊力が枯渇する、と」
「恐らくはそう遠からぬ未来に霊力が尽き、あの方は審神者を降りることになる。そうなれば、この本丸は解体となります」
「……道理だな」
 刀剣男士の顕現を支え、本丸を本丸たらしめているのは審神者の霊力があればこそ。それが万が一にも枯れることがあれば、本丸解体は当然の流れだ。
 そして、そこで彼女と俺たちとの縁は切れる。始まりが時の政府主導によって成った主従の関係は、存外薄氷の上に成り立つほどに脆いものなのかもしれない。それでも、狭い本丸から放たれ、現世に戻って人の生を過ごすならば、彼女にとってはそう悪いことでもないはずだ。己の感情など無視すれば、冷静にそう考えることが出来た。
「それでは困るのでございます」
「泉とて水脈が尽きれば枯れる。困ると言って止められるものでもないだろうに」
「だからこそ、まぐわって頂きたいのでございます。神気を注ぎ、霊力などではなく神気そのものを身の内に飼い慣らすことが出来るようにして頂きたいのです」
「はは、人ではない身に創り変えてしまえってことかい。上に立つ者はいつの世も傲慢な輩が多いことだな。手駒として引き込んでしまえば、生殺与奪も何もかもを手に入れ、それこそ神にでもなったような気になっているんじゃないか?」
「……」
「──断る。彼女が審神者を降りたなら、あとは人の子としての生を全うさせてやればいい」
「全うも何も、生きられないのでございます。これは審神者様にはお伝えしていないことですが、霊力の枯渇が原因で審神者を降りた方の三年生存率は、僅か七パーセントにございます」
「ぱーせんと?」
「百人居て七人しか生きられないほどの確率。五年生存率で言えば、零」
「おいおい、さすがにそれは」
 人の子は元々霊力などなくとも生きていくのが普通だ。それがなくなったくらいで、三年や五年しか生きられないなんてことがあるだろうか。
 文字通り、狐につままれた心地で黒くつぶらな瞳を凝視する。相変わらず表情の読めない管狐は「嘘ではございません」と言い切った。
「幾振もの刀剣男士を顕現し、それを支え続けるほどに霊力を消費し続けるということは、文字通りその身、その命を削っての行いということにございます」
「……」
「こんのすけは、あの方の稲荷寿司が大好きにございます。生まれてこのかた、あれほどのものを食べたことはございませんでした」
 この期に及んで稲荷寿司の話なぞを始めた管狐を苛々と睨め付ける。けれども、小さな狐は少しも怯む様子も見せない。無表情に見えたその目に強い意志の色を浮かべ「それは、ここで、あの方の隣で食べればこそにございます」とまっすぐに訴えてきた。
 なるほど、少なくともここに居るのは政府の手先として対峙するものではなく、共に彼女の身を案じるものらしい。それがわかっただけでも、僅かながら張り詰めた何かが緩むように思えた。
「ふはっ、そうきたか。きみは存外素直じゃないな。わかった。話しを聞こう。だがそもそも他の本丸の俺だと言ったところであの子が気付かないわけないだろう。俺は彼女が顕現したんだぜ」
「同様のこと、これまで他の本丸で数名の例がございますが一目で見抜いた審神者様はおられません」
「そんな馬鹿な話しがあるものか。仮に一目で気付かずとも、己の霊力で繋がる刀剣男士とまぐわってまで気付かない審神者などいるはずないだろう」
 同じ刀剣がひしめく演錬場でさえ、多くの審神者が自身の刀剣を紛うことなく呼び寄せる。ましてや、常以上に密接に触れ合うというのに、気付かないわけがない。
「私どもも始めはそう思いました。例え見た目でわからずとも、それほど密に接すれば気付かぬ筈はないだろう、と。そうだとしても、そこは刀剣男士様がうまく言いくるめてくださればと思っておりました」
 つまりは、バレた時にはうまくやってくれという丸投げの策だ。いい加減にもほどがあるそれを、よくぞ引き受けた刀剣がいたものだと半ば感心しながら耳を傾ける。
「ところが、審神者様の誰も気付かれないのでございます」
「政府で何かしているんじゃないのか。呪詛だの妖しげな薬だの。きみたち、そういうの得意だろう」
「人聞きの悪い……。仮にも神気の受け渡しをして頂く為の御身に、呪詛など妨げになりそうなものは何も。ただ、もちろん私どもも審神者様にはよくよく言い含めてお連れします。霊力の波動がとても似ている男士様です、と」
「それだけ、か?」
「はい。ある筈がないという思い込みに目隠しされてしまうのですよ。絶対に有り得ないと思うことは、疑うことすら出来ないものでございます。ほんの少し、欠片でもありそうだとお考えになられればお気づきになられるでしょう。けれども、見た目がどこまでも同一な相手を前に疑える審神者様は本当に稀にございます。その稀なものも、お相手の刀剣男士様の不用意な言動があればこそ。こちらの審神者様ほどに拗らせていれば、まず気付くことはないでしょう」
「拗らせる?」
「いえ、そこはあまりお気になさらず。ちなみに、お断り頂いても結構にございます。その時にはまた別の策を検討致します」
 現世に帰したところでそうは生きない稀少な審神者を、政府が手放す筈はない。是が非でも彼女に神気を注ぎ、霊力の枯渇を防ぐことを最優先にするに違いない。そして、神気を注ぐという目的が明確な以上、どんな策を用いようとも彼女にとってろくでもないものであることは間違いない。
「なんで俺に声が掛かった?」
「最初に申し上げました通り、審神者様が鶴丸国永様を御指名なさったからでございますよ」
 なぜ彼女が『鶴丸国永』を選んだのかはわからない。
 いっそこの本丸にいない刀種という選択肢もあったろうに、それでもこの鶴丸を選んだというのなら、もうそれでいいような気がした。
「──わかった。引き受けようじゃないか」
「ありがとうございます。では、誓約を頂きとうございます。何があろうとも、己が身を審神者様に明かさぬと、今この場で御誓約くださいませ」
 緩んだ筈の空気が固まったことに、こんのすけも感じただろう。にも関わらず、かの狐はふぁさりふぁさりと尾を振って、ただこちらの返答を待っている。
「おいおい、誓約と言ったか?」
「さようにございます」
「口を慎め、管狐。主が望むならいざ知らず、狐ごときに差し出す誓約など、この鶴丸国永、持ち合わせてはいないなあ」
「……。先程申し上げました通り、コトが露見するのはお相手の刀剣男士様の不用意な言動があればこそ。一手でも間違えれば審神者様は間違いなく御役目を降りる方を選ばれるでしょう。降りるだけならまだしも、こんのすけは、いざという時のあの方の思い切りのよさが恐ろしゅうございます。審神者様のことを思えばこそ、わたくしめもここはひくわけにはまいりません」

 思い返せば、こんのすけは彼女の想いを知っていたのだろう。それを拗らせ、自身が想われるはずがないと強く思い込んでいたことも。だからこそ、ああまで頑なに、役目と誓約とは引き替えだと迫ったに違いない。

 初めての逢瀬の日。
 けして己が彼女の刀剣とは明かさないという誓約をたてながらも、彼女は気付くだろうと高を括っていた。
 こんのすけに促されるまま、『鶴丸国永』(ほんたい)は隣室に置いてきた。
 身につけていた何もかもを外し、用意されていた服に袖を通せば、普段の着物とも、護衛の時に着るスーツとも違うもので、彼女がいつか手にしていた雑誌にこんな服装が載っていたような気もする。これはあの子の好みに寄せたものなのか、政府が選んだものなのか。
 もっとも、いくら目先を誤魔化したところで、根本的に刀剣男士の存在を支えているのは主の霊力だ。気付かれないはずがない。
 なんでここにいるの、と。
 困惑と共に差し出されるであろう問いかけに、幾つも言い訳を用意してきた。
 すぐに見破られるだろうと思いながら、あわよくばという期待も捨てきれず今日の日を迎えてしまった。
 人の身を得てから、人外の類とならば戯れに寝たことはある。色街にわざわざ足を運ばずとも、そういう機会は得られるものだ。人の子の真似事でしかない行為とはいえ肉の身で得られる快楽には変わりなく、それなりに愉しくはあったが、ある時、相手の顔が彼女に重なって見えてからはパタリとやめてしまった。
 そんな戯れが人の子の常識と違いはしないかと、あの子の育った時代の恋人同士がする営みについてあれやこれやと調べた情報。成果はポケットに忍ばせてある。
 こんどーむ、というそれは男の吐き出す精が胎内に進入するのを阻む道具だとかで、万屋で当然のように売っていたことに驚いた。
 任務の主旨を考えれば、彼女の内に吐精するのが一番効率的な神気の受け渡しとなる。しかし、吐精──中出しという行為は彼女の時代では、夫婦や婚姻を約したまぐわいでもない限り、女人を思いやらない男がするものらしい。
 この矛盾する事実を前に、俺は頭を抱えた。男慣れしていない彼女に、思いやりのない性交をするのは本意ではない。しかし、十分な神気を注ぐならば触れるよりも、口を吸うよりも、直接精を注いでやるのがいいに決まっている。
 散々悩んだ挙げ句、生娘の可能性が高い彼女の為に、こんどーむをつける練習をしてきた。なんというか……実践する可能性の低い練習は、なかなかに虚しいものだったが、中出しで注ぐ神気は恐らくは本丸中に彼女の行為を知らしめるに他ならず、それもまたあの子を守る為と言い聞かせれば我慢も出来た。
 指定された部屋の番号を三回ほど確認した後、人の身で初めて出陣した時ですら感じなかった緊張感に苛まれている己に苦笑がもれる。
 このドアの向こうに彼女がいる。しかも、他所の本丸の俺とまぐわう為に、だ。
 応えがないのを訝しく思いながら部屋に足を踏み入れた途端、ソファで寛いでいたらしい彼女は飛び上がるように立ち上がった。
「すまん。驚いた、よな? ノックはしたんだが……これを持っていたから開けて入ってきた」
 カードキーをかざし見せても、ひと言もなく凝視してくる様に、「……どうかしたかい?」と乾いた口内からどうにか声を押し出すと、「あ、いえ、えと。初めまして。今日はよろしくお願いします」と彼女は深々と頭を下げた。
『初めまして』
 確かにそう言った。主に己の物だと認識されないことを寂しく思うと同時に、本当に気付いていないのだろうかという疑いも捨てきれない。
「鶴丸国永だ。ま、名乗るまでもないだろうがな」
 まじまじとこちらを見る濃茶の瞳を黙って見つめ返すとすぐに逸らされ、全身で緊張を顕しながらもどう振る舞っていいのかわからないというのが見て取れた。
「とりあえず座らないか」
 ソファへと促すように腰に手を添えた途端、過剰にびくりと反応されて、慌てて手を引っ込める。謝罪を口にしながらも、己よりも遥かに緊張している相手を前にしていると、逆に落ち着いてくるものらしい。自然気持ちに余裕も生まれてきた。
「なに、とって喰ったりしないから安心してくれ。……いや、ある意味喰うのか?」
 思わず自問すると、ようやく彼女が小さく笑った。本丸でも時折目にする、控えめな笑顔。
 ああ、これから本当にこの子を抱くのか。早くなる鼓動を感じながら、ソファの反対端に座り彼女を窺う。
 いくらそういうつもりで来ているとはいえ、ここにいるのは遊び女ではない。惚れた女だ。身を固くするこの子に軽口でも叩いて気持ちをほぐしてやりたい反面、やたらとしゃべってぼろが出てはいけないと思うと口も重くなる。
 それにしても、この張り詰めた空気ときたらどうだろう。どう贔屓目に見たって、任務と割り切っているようにも、受け入れているようにも見えない。かろうじてここに留まっているという風情だ。
 あの管狐にどう丸め込まれたか知らないが、思慮深いように見えて案外ぼんやりしているところも多い娘だ。過去にもこんのすけが持ち込んだ案件で結構な目に遭っているのだから、人払いと言われようと誰かひとりは置いた方がいいと控え目に進言したことはあったが間違いだった。これからは、人払いと言われたら即俺を呼ぶことを了承させようと心に決める。
 そんな心中を彼女が気付くはずもなく。ようやくこちらを見た眼差しは、すぐに逸らされ、訝しげに眉を寄せた。
「どうした?」
 ばれたのか、とひやりとする。
 これで彼女を抱くことが出来ないという落胆と、抱かなくて済むという安堵とかない交ぜになりながら、俯きがちの顔を覗き込む。
「ない……」
「ん?」
「あぁ、金の鎖がないのか……」
「鎖がどうかしたか?」
 向けられた眼差しがとろりとゆるみ、違和感を覚えた。緊張感はみるみる和らぎ、肩の力も抜けていく。
 こんな彼女を見たことがある。本丸の酒宴の席でだ。
 主でも呑めそうな甘い酒を見繕い、あれやこれやと周りが勧めた結果、随分と可愛らしい酔っ払いが出来上がったのは、去年のことだったか。体を起こして置くことも覚束ず、周りの男士にしなだれかかる姿が腹立たしくて、翌日二日酔いに苦しむこの子に説教をしたことがあった。
 無防備なその姿を己だけに晒したならば、あんな風に怒ることもなかったろうに。
 それにしても、酔いがまわるにしてはあまりに急だし、そもそも酒の匂いはしなかったはずなんだが。
「きみ……酒か何か飲んだのか?」
「いえ、お酒じゃなくてクスリを」
「クスリ……具合は?」
「いえいえ、そういうんじゃなくて。これからその、そういうコトをするので、こんのすけが飲んどくといいよ、って」
 なるほど心に作用する薬らしい。
 そういえば、管狐も多少酩酊状態だったとしても気にせずに契ってしまえと随分と乱暴なことを言っていた。
「気分は悪くないか?」
「だいじょぶ。きんちょーしないようにってだけのクスリだそうです」
 ごくりと生唾を飲む。
 拙い口調に少し潤んだ瞳で、無防備な視線を向けてくる姿がひどく愛らしい。
 サイドテーブルに置いてあった彼女のであろう飲みかけのペットボトルを手渡すと、こくこくと飲み干した。少し溢して口の端から垂れた水を、指先で拭うさまも色めいて見える。
 この子を抱く。それが一気に現実味を帯びたような気がした。
「なあ、本当にいいのか。その……」
「すみません。にんむだからって、わたしみたいのの、あいて……」
 態勢を保つことすら難しいとでもいうように、肢体が頼りなく揺れる。ともすればソファーから滑り落ちるんじゃないかというほどに危なっかしくて。
 いや、違う。ただ、触れたいんだ、きみに。
 もっともらしいあれこれ全てに白旗をあげて、そっと抱き寄せた。
「きみが嫌でなければいいんだ」
「……いやとは、いっちゃいけないの。でも、つるまるさんとならいっかなぁっていうのは、ほんとう」
 選択権のない彼女が哀れだと思う。他所の鶴丸ならいいなんて、それもきっと本心とは違うだろう。それでも、おとなしく身を預けてくるぬくもりがこんなにも愛おしい。
 拒むでなく身を委ねてくる背を、ゆっくりと撫でてやる。
 ここで抱かなければこの子の命に関わる。それは随分と態のいい言い訳だった。大義名分といってもいい。
 欲に塗れた綺麗事なんだとしても、今は彼女が欲しかった。
「クスリが効いてるんだろうな、これは」
「ふふ、そうかも」
 無防備な笑顔を向けられて、戒めていたなにかがするりと溶けていく。
 やんわりと唇が塞ぐ。目を閉じることもしない彼女は、不思議そうにこちらを見たあとふにゃりと笑う。そのまま伸びてきた手が、何かを確かめるように俺の頬を撫でる。熱を持ち始めた手に掌を重ねてやると、薄紅色の唇が「つるまるさん……」と拙く紡いだ。
「鶴丸さん、か。きみはいつも鶴丸国永をそう呼ぶのか?」
 違うだろう? きみはいつも俺をそんな風には呼ばないはずだ。
「ん? んー、つるまる?」
 よくできました、というように頭を撫でてやると、彼女は陽だまりの猫のように気持ちよさそうに目を細める。
「だったら鶴丸と呼べばいい」
「ここにいるのわぁ……つるまる、さん……」
 酩酊状態で、それでも頑なに違うのだと言われるのが面白くなかった。お前は違う、と。本当ならその権利を持たないモノだと言われているような気がして、心のどこかがじくりと痛む。
 会ったこともないどこかの鶴丸国永なら触れられて、この子の俺が触れていけない道理などないはずだ。
 だから。目を覗きこんで、言い聞かせるように繰り返した。
「ここにいる間は、俺がきみの鶴丸国永だ。きみだけの。そうだな?」
「うん……」
 もう何かを考えるのを放り出して、彼女を横抱きに抱き上げた。理由も言い訳も、何かを連ねたってやることはひとつだ。
 そのままベッドに横たえて、男を知らぬ肌に仮初めの所有の証を幾つも咲かせていった。

 二度目の機会はすぐに訪れた。
 一度目の逢瀬の後、彼女はあからさまに俺を避けていた。最初こそ、もしやバレたのかと刀解も辞さない心持ちでいたものの、事務的な受け答えの端々にもそんな様子は見られず、ひたすら同じ姿をした俺と──いや、そもそも俺なんだが。相対するのが気まずいらしいというのが理解できた。理解は出来たが、日常の会話すらも取り上げられ、それどころか姿を見れば逃げられるというのは面白いはずもなく。あまりにあからさまな彼女の行動に、光坊には「あんまり厳しく叱ったら可哀想だよ」などと見当違いの誤解までされる始末だった。
 遠目に見るばかりになれば、思い出されるのはあの日の媚態。涙混じりの懇願。あえかな声に、柔らかく甘い肌。舌を這わせ、歯をたてるたびに吐息と共に紡がれた己の名前。
 知らなかった頃には到底戻れそうにないと思いながら、二度目の今日を指折り待ち構えていたのだ。
「よっ」
 刀や草摺を隣室で外し身軽になってはきたものの、用意してあった服に着替えることはしなかった。前回で、彼女は気付くことはないだろうと思ったし、言い逃れることもそう難しいことではなさそうだと半ば開き直った俺は、いっそいつものなりで驚かせてやろうと企んだからだ。結果は上々。ドアを開けて息を呑む彼女に、内心してやったりと思う。
「来ることがわかってて、そこまで驚くこともないだろうに」
 したり顔で微笑めば、「はは、そうですよね。あ、どうぞ」と部屋に招き入れてくれる。
 前回と同じ部屋だ。勝手知ったるなんとやら。躊躇いもなくベッドに腰掛ければ、彼女はソファへと腰を下ろした。
「今日は洋服じゃないんですね」
 固い声音に僅かに落胆を感じ、眉を上げて彼女に視線を投げる。ソファから遠慮がちにこちらを見る眼差しを掴まえながら「なんだ、きみはああいう方が好きか」と微笑むと、困ったように眉を寄せる。
「その、見慣れた服装だとなんかこう、ホントにうちの鶴丸がいるような気がしてしまいまして」
「そりゃあナリは同じだしなァ」
「ですよね」
 力なく笑うこの子には腹芸など出来るはずもなく、やはりこのナリでも気付かないのだと、わかっていたことを確認しつつ落胆を覚えた。
 前回はこんな風に話しているうちに、薬が効いてきたんだが、またあれを飲んだんだろうか。さりげなく視線を走らせても、ペットボトルがあるでなく、それらしい形跡は見当たらない。
 思案する耳に届いたのは、やけに大きなため息だった。
「はは。でっかいため息だな」
「──っ! すみません」
 俺にしてみれば楽しみで堪らなかったこの時も、彼女にしてみれば不承不承で引き受けた任務に過ぎない。こんなにすぐに二回目の命令が出て、さぞや迷惑に思っているに違いない。それでも、やらなければいけない以上、少しでも気持ちを和らげるくらいはしてやりたかった。
 指先で招くと、重い腰を上げてそろりそろりと近づいてくる。脅かさないように用心深く指先をとれば、暖かな部屋に居たとは思えないほどに冷たい手をしていた。
「手、冷たいな。……まあまだ緊張するわな」
 掴まえた指先を両手で包んでやりながら、乞うように口づける。唇でその冷たさを感じながら視線を上げると、一瞬目を瞠った彼女はようやく少し体の力を抜いたように見えた。
「もっと気楽に、いつも通りに話してくれていいんだぜ?」
「いつも通りと言っても……他の本丸の刀剣男士様にそんな」
 他の本丸、な。
 今度は、ちゅっと音をたてて指先に口づけてやる。急いで視線を逸らす恥じらう表情が可愛らしくて、つい悪戯心が首をもたげた。
「確かに俺はきみの本丸の刀じゃないがな。だが、きみの刀ともやらないようなことをした仲じゃないか」
 見る間に耳まで緋に染まる。それでも、本丸で顔を合わすのとは違い、逃げ出されることはない。
「ふはっ、きみは本当にかわいいなあ」
 すぐに組み伏せたい気もないではないが、もう少し、誰にも邪魔されないふたりだけのこの部屋で話をしたい気もした。
 彼女をベッドに座らせて、入れ替わりに立ち上がる。羽織をソファへと放り投げ、冷蔵庫へと向かう。
「何か飲むか?」
「じゃあ、お茶をお願いします」
 答える声はいつもの声音だ。少しは緊張もとけてきたんだろうか。
 冷えたお茶を差し出してから、すぐ隣に腰を下ろすと、ベッドのスプリングが沈んで互いの肩が軽く触れた。それでも、離れることなく座ったままでいる様子に安堵しながら、ペットボトルの蓋に手をかける横顔を窺った。
「なあ。なんで『鶴丸国永』を選んだ?」
 数十振りと居る刀剣男士の中で、なぜ『鶴丸国永』を選んだのか。
 本当は初めての時に訊いてみたいと思っていた。しかし、前回は薬の影響もあって、あれこれと話すことは難しそうに見えて断念した問いだ。
「え?」
「この御役目、相手を選んだのはきみだと聞いたんだが」
「はあ。そう、ですね。鶴丸さんには本当にご迷惑を……」
「迷惑なんぞ被ってはいないが、どうして『鶴丸国永』だったんだろう、とな」
 この容姿だろうか。それとも声だろうか。いったい何がお眼鏡に適っての選択だったのか。
 俺自身が気に入られたのではないということはわかっていた。なにしろ管狐の言を信じるならば、彼女は霊力の相性が一番いいはずの自身の本丸の刀剣男士を拒んだのだ。それでなお、『鶴丸国永』だった理由はなんなのか。
 なんと答えるのか。どんな顔で答えるのか。見逃すまいと下から覗き込むようにして窺えば、困ったようにふたつみっつと瞬きした彼女は、恥じらいに震えた声で「好き、だからです」と答えて、照れ臭そうに視線を落とした。
 不意打ちだった。
 言葉の意味を確かめる間もなく、薄紅の花弁が舞い散る。この身はこういう時に不便でならない。想定外の歓喜だけは、こうして隠し損ねて溢れてしまうのだから。
 驚きに飲まれ黙ったままでいると、彼女はなぜか安堵したように微笑んだ。それにまた、鼓動が跳ねる。
 落ち着け、落ち着け、と心の中で繰り返す。
「……はは、俺でない俺だとわかってはいても、そんな風にまっすぐ伝えられるのは悪い気はしないな。いや、驚いた驚いた」
 ペットボトルの蓋を取り落としそうになりながら、冷たい水を流し込んでも、鼓動は一向に収まらない。
 いやいや、そういう意味のはずはない。
 なにしろ、自分の本丸の鶴丸を──この俺を除外したのはきみだろう?
「で? 好きっていうのは見た目がかい?」
 うっかり声がひっくり返らないように平静を装う。それでも、鼓動は煩いほどに耳元で騒ぎたてていた。戦場ならば気を昂ぶらせるそれも、今はただ邪魔なばかりだ。
「見た目は、最初は怖かったんです」
「へえ」
「なんというか綺麗過ぎるし、目が笑ってるようで笑ってないっていうか……。初めて会った時は、こんな人間が主かって言われているような気がしました」
 肉の身を得て最初に思ったことは、はからずも筒抜けだったらしい。
 初めて主と対峙したあの時。呆けたようにこちらを見る人の子に、正直落胆した。人形遊びの相手をさせられるほどに幼くはなかったものの、自ら刀を振るうどころか采配をとることすら出来そうにない。これを主と仰ぐなら、戦場で己の本分を生かすなど到底叶わぬだろう、と。
 もちろん、それは杞憂だったとすぐに知れたわけだが。
 それにしても。天下五剣ほどではないからか、俺の見目は彼女の心には響かなかったらしい。ならば、いったい何をもって選ばれたのか。疑問はますます深まるばかりだ。
「ふぅん……。そうか、見た目じゃないのか」
「あ、今は見た目も好きですよ?」
 考えこむ俺に、違う違うというように軽く手を振った彼女は、軽く小首を傾げると言葉を選ぶようにぽつぽつと語り出す。
「ただ、……そうですねぇ。悪戯しては長谷部に追いかけられてたり、短刀くんたちと本気で隠れん坊や鬼ごっこをしてたり、あぁでも、おやつにワサビを仕込むのはちょっとやめて欲しいですけど」
「それだけ聞いていると、きみんとこの『鶴丸国永』は子どもみたいだなあ」
「そんなことないです。退屈嫌いのくせに、近侍になるとすごく真面目だし、戦術とか部隊編成なんかいろいろアドバイスしてくれてすごく頼りになるんです」
「ふぅん」
 彼女の語る『鶴丸国永』は、紛れもなく俺自身のことだった。数多いる『鶴丸国永』でも、政府が厳重に管理している本霊の『鶴丸国永』でもなく。
 これではまるで、彼女が好きなのは俺みたいじゃないか。
「戦に出るとすごく強くって、それでも仲間のこともちゃんと考えながら戦ってくれるからレベリングが必要なメンバーで出陣する時なんていつも助けられてます。それに……私が凹んでるといつもすぐに気付いてくれるんです」
 どこか誇らしげにこちらを見た彼女は「いつの間にか、好きになってました。……私、もうずっと鶴丸のことが好きだったんです」と目を細めた。
 待ってくれ、と思う。
 この子が、俺を、好き?
 信じられない心地で見つめると、彼女は切なそうにひとつ瞬いた。
 いったいいつからそんな風に想われていたのか。欠片も気付かないままに傍らにいた、間抜けな己を張り倒してやりたい衝動に駆られる。
「きみが凹んだ時にすぐ気付くって? こんなに肝心なことに気付けないなんざ役立たずもいいとこじゃないか」
「そんなこと……。これでもバレないように誰にも言わずに頑張ってたんですから、気付いてくれない方がいいんです」
 俺もきみが愛しいと。抱き締めたい衝動を掌に握り混む。
 この身を縛る誓約が、どうしようもなく忌々しい。
 ああ、やはり誓約なぞ差し出すんじゃなかった。あの管狐め、ただじゃなおかないとどれほど歯がみしようとも、今、告げることの叶わぬ状況は覆しようもない。
 だから。
 さらさらと素直に指の間を滑りぬける髪の感触を感じながら、かき混ぜるように撫でてやる。
「打ち明けてくれた礼にもならんが……実は、俺は俺の本丸の主が、主のことが好きなんだ」
 きみが、好きなんだ。
 言えない言葉を間接的に差し出す。
「好きっていうと、その、主を慕う主従関係的な?」
 届くはずもないそれに、意外そうに目を瞠った彼女は、思い直したように小首を傾げ、そんな問いを投げてくる。
「最初はそう思ってたんだがなァ……色恋的なやつだ。いや、もしかしたらもっとタチが悪いかもしれん。俺は主を誰にもやりたくない」
 きみを誰にも渡したくない。想いをこめた眼差しは、戸惑うように逸らされてしまった。
 彼女にしてみれば、余所の刀剣男士の色恋沙汰なぞ聞かされるのはそれこそ想定外だろう。それでも、言わずにはいられなかった。
 きみが俺を想っていただなんて、考えたこともなかった。だから。
「だから、驚いた。人の子が付喪神をそんな風に想うだなんて、俄には信じられんというか……そうか、きみは『鶴丸国永』が好きなのか」
 噛みしめるように、確かめるように紡ぐ言葉に、否定の声は上がらない。
 彼女が、俺を恋うている。
 にやけそうになる口元を引き締めながら、濃茶の瞳を遮る前髪を指先で払ってやると、「え、と。どうかしましたか」と狼狽えて逸らされるかと思った視線は何かを探すように俺に向けられたままだ。
 気付け、と願う。
 俺から明かすことは出来ない。でも、彼女が気付いてしまうなら、それは仕方のないことだ。
「いいや。きみこそどうかしたかい」
「鶴丸さんの目が綺麗だなって思って」
「きみんとこの俺と何か違うか?」
 あるはずのない間違い探しを唆す。
 ここにいるのが、きみの鶴丸国永だ。繰り返し念じてはみても、気付いて貰えないだろうということもどこかでわかっていた。だからこそ、彼女は明かしてくれたのだから。
「きっと同じだと思います、けど。好きになってからはこんな風に見つめたりなんて出来なくなっちゃって。いつもこっそり見てるばかりだったから、まっすぐ正面から見つめたのなんていつ以来だろうって感じです」
 あたたかな気持ちが胸を満たしていく。俺が彼女を見ていたように、彼女もまた俺を見ていてくれたのだ。
「きみはかわいいなぁ。……まぁ一等かわいいのは俺の主だがな」
 言葉遊びのように戯れる。後ですべてを明かした時に、今のやり取りを思い出せば、この子は熟れたトマトのようになるに違いない。それを揶揄するのはさぞや愉しいだろうと考えていると、少し沈んだ声音で「鶴丸さんが、うちの鶴丸ならよかった」などと言い出す。
「おいおい……」
「すみません。そしたら鶴丸さんは主さんに逢えなかったですもんね。でも、それなら私はきっと鶴丸を好きにならないで済んだから」
 好きにならないで済んだ。
 作り笑いで取り繕われても、後悔していると言わんばかりの科白は浮かれた頭を冷やすには十分だった。
 そもそも、彼女が俺を想ってくれていたなら最初から俺を指名すればよかったはずだ。けれど、望んだのは他所の鶴丸国永。
 俺を望まないこの子が欲しかったのは、身代わりの俺だろうか。
「その時は、俺のことを好きになってくれるってことにはならないのかい? 俺だって同じ鶴丸国永だろう」
「私はここでの鶴丸さんしか知らないから、絶対に好きにならないとは言い切れないけど……。こないだ、その、鶴丸さんと……してもらって。違うってわかってても、いい思い出になったような気がしてて。同じ鶴丸国永なら好きになることもあるんじゃないかって思っちゃうくらいドキドキしながら本丸に帰ってみたら……やっぱり違うんです」
 きっぱりと言い切られた言葉に、胸が震えた。何も知らずに肌を合わせて、鶴丸鶴丸と呼ぼうとも、彼女の俺はただ一振り。他の俺では代わりにならない。そう言われた気がした。
 分霊という同胞を数多持つ身にそれがどれほど甘美に響くのか、この子は知りもしないだろう。
 同時に、そこまで言い切りながら、どこか悲壮さが透け見える姿にようやく腑に落ちた。彼女は、諦めているのだ。何も告げずに想いを葬ってしまうつもりに違いない。きみの鶴丸国永が、こんなにもきみを欲しているのに。
「なあ、きみ告白すらしてないんだろう? そもそもきみの鶴丸がきみを好きだったらどうする?」
「ないですね。ないない」
「……主を恋う鶴丸国永を前に全否定か」
「え!? いえいえ、鶴丸さんは大丈夫ですよ。私は……告白してみるもなにも、もう嫌われちゃったんで」
 有り得ないことを口にされて、一瞬思考が止まってしまう。
 散々避けられたのはこちらの方だ。
 慣れない行為の後の体をそれとなく気遣おうとも、まともな会話も躱し、遠目に姿を見れば踵を返す。こうして目を合わすのは、それこそあの逢瀬以来じゃないかと密やかに反発心を抱く。
 それとも、もっと以前に俺は彼女に誤解されるような何かをしでかしたんだろうか。初めて顕現した時に考えたことを見透かされてしまったように。
「嫌われたって……確かめてみたのか?」
「そんなこと、できるわけないじゃないですか」
 ふるとひとつ首を振った彼女は、堪えるよう唇を噛む。
「何があった? ここまで話したんだ。全部話せば、少しはラクになるんじゃないか」
 嫌うはずがない。間違いなく誤解なのだ。俺ではない俺では真っ向から否定はしてやれないが、それでもどうにかすくい上げてやりたかった。
 しばしの沈黙のあと、ようやく告げられたそれは昨日の出来事だった。
「…………。……昨日、鶴丸が縁側でなにかを一生懸命作ってて」
「あぁ」
「竹とんぼを作ってたんです」
 昨日、畑の世話を終えた俺は、彼女の執務室がよく見える縁で以前短刀にねだられた竹とんぼを作っていた。
「最初は五虎くんたちを喜ばせようとして作ってたみたいなんですけど、やり始めたら楽しかったみたいで。どうしたら高く飛ぶのが作れるのかって幾つも幾つも作ってて。あんまり夢中で作ってるから私もついつい見入ってしまって」
 本当なら茶菓子でも携えて部屋を訪ねたいところだったが、ここ最近のことを鑑みれば気まずそうな顔をされるのは容易に想像がついた。ならば遠目にでもと、姿が見えそうな場所に居たに過ぎない。
 もっとも、つい作業に夢中になって彼女がこちらを見ていたことに気づけなかったのは完全に俺の落ち度なわけだが。
「そのうちようやく納得のいくものが作れたみたいで、もの凄く嬉しそうに飛ばしてたんです。それが本当によく出来ていて。屋根の上のもっと上まで飛んでって。凄かったんですよ」
 我ながら巧い具合に仕上がった竹とんぼは、前田たちを喜ばせるには充分で。
 空高く舞い上がり、落ちてきたそれを五虎が捕まえるに到り、ようやく縁に乗り出してこちらを見ている者がいることに気がついた。
 常ならば、休憩か、と声を掛けただろう。一緒に茶でも飲むかいと誘う好機でもあった。
 けれど。
 四つん這いの彼女に、昨夜ひとりで己を慰めながら夢想した痴態が重なり、気まずさがどっと押し寄せた。
 罪悪感に苛まれながら、無垢な視線から逃れようと「すまん。うるさかったな」とそそくさと背を向けて立ち去った。
 それが、こんな誤解を生むなんて、思いも寄らなかったんだ。
「普通に話しかけても貰えなくて……私も、どう話しかけたらいいのか、もう全然わからなくなっちゃった……」
 消え入りそうに弱々しい声音に堪らない気持ちになる。
 膝の上に抱き上げて、後ろ頭に手をまわしてやると、肩口に顔を埋めてしゃくりあげる。
「泣くことはないんだ。きみはなんにも悪くない……な?」
「……もぉ消えちゃいたい」
 本当にそのまま消えてしまうでのはないかと思えるほどに、頼りない呟きだった。
 手にしたままのペットボトルをそっと奪い、袖で隠すように抱き締める。声を殺して小さく震える肢体は、やがて俺の背中に手を回し、遠慮がちに縋ってくる。
 言ってやれれば、こんな風に泣かせなくて済む。だが、それは叶わぬことだ。だからただ、彼女を抱く腕に少しだけ力を込めた。
「……ここに居る間は俺がきみの鶴丸だ。このひと時だけは全て俺に預けて、嫌なことなど忘れちまえ。だからもう泣くな」
「あんまり優しいこと言わないでください」
「優しい、なァ。弱ったきみにつけこんでるだけかもしれないぜ?」
「そういう人は、きっとそんな風に言わないと思います」
「きみは人がよすぎるな。そういう奴ほど逃げ損ねるんだ」
「逃げようにも、どこに逃げればいいんだか。……なんて。嘘です。ホントに消えたいわけでも逃げたいわけでもないんです」
 大丈夫ですよ、と。ようやく顔をあげた彼女は涙に濡れたまま笑みを浮かべる。それが却って痛々しくて、唇を塞ぐ。
 明かして拭い去ることが出来ずとも、ほんの一時忘れさせてやることは出来る。
 少し塩辛い頬に舌を這わせて、再び唇を啄む。
 体を引き上げてやりながら、そのままベッドへと横たえた。

 薬研の盛った薬がよく効いているらしい彼女は、いくら髪を撫でようとも身じろぎすらしない。

『……もぉ消えちゃいたい』

 消え入りそうな呟きを思い返せば、胸が抉られた。

『一手でも間違えれば審神者様は間違いなく御役目を降りる方を選ばれるでしょう。降りるだけならまだしも、こんのすけは、いざという時のあの方の思い切りのよさが恐ろしゅうございます。審神者様のことを思えばこそ、わたくしめもここはひくわけにはまいりません』

 強い口調で言った管狐の読みは、当たっていたとも言えるし、はずれていたとも言える。
 少しでも彼女の逃げ道になればと三度目の約束を口にして部屋に残してきたのは、思い詰めた彼女が、すべてを明かす前に妙な選択に走りはしないかと危うさを覚えたからだ。こんのすけが恐れたのも、おそらくは同じものだろう。
 しかし、そもそも誓約さえなければあの場で憂慮すべてを拭い去ってやることも出来たのだ。
 未だ己の神気を纏い、規則正しく上下する背をそっと撫でる。
 帰りには転移門を操作する誘導の職員しかおらず、こんのすけに誓約を解かせることが適わなかったのが口惜しいが、彼女の想いがこちらに向いているとわかった以上、己の想いを隠しておく意味もない。彼女だって、けして片恋などではないのだと知れば、消えてしまいたいなどと言って泣くこともない。
 すべてがそれで丸く収まる。そう思えた。

 翌日。それがどれほど甘い考えだったが、想いを告げたその場で思い知る羽目になる。
 意を決した告白は、相手に色街を勧められるという最悪の結果で幕を閉じた。

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