キスの日

校舎の窓から射し込む夕陽が、廊下をオレンジ色に照らしている。
いつもなら、部活動や委員会活動の生徒たちの声がそこここに響いている時間帯だが、明日から定期テストとあってはそれもなく、校舎はシンと静まり返っていた。
「つきあわせちゃってすみません」
「あー、まぁ気にすんな」
申し訳なさそうに肩をすくめる珠紀に、真弘は機嫌よく笑んで大股で歩く。
テスト1週間前から、授業が昼で終わりとなる。
それはいいとしても、学校の後に守護者一同が宇賀谷家に帰り、夕方までは勉強会という日々が続いていた。
受験を決めた真弘にしてみれば、勉強に時間を費やすのもやぶさかではない。
けれど、放課後を守護者全員と過ごすということは、必然的に珠紀とふたりきりの時間はなくなるということだ。
だから、明日のテストに必要なノートを学校に忘れてきたという珠紀の言葉は、ある意味絶好のチャンスだった。
廊下を曲がり階段を上り始めると、後をついてくる珠紀が「そういえば」と口を開いた。
「ん?」と足を止めて振り返ると、2段ほど下にいる彼女が「今日はキスの日なんだって清乃ちゃんが言ってました」とくすくすと笑いながら告げる。
「だから、それを口実になんとしても芦屋さんをその気にさせるって、授業中までヘンなお札を作ってて」
うまくいったのかな、と友達に思いを馳せる珠紀を見下ろすこのポジションはなんだかとても絶妙な気がした。
ほぼ真正面から見つめ合える身長差は、嫌いではないが真弘の理想とは少し違う。
例えば他の守護者の面々同様、珠紀を見下ろすことができる身長差は、いかにも惚れた女を守る男というヴィジュアルだ。
身長が高かろうが低かろうが、珠紀を守るポジションを誰にも譲る気はないが、やはり理想は理想として真弘の胸にあった。
それが今、実現している。
「……? どうかしましたか?」
立ち止まったまま見つめる真弘を不思議に思ったのだろう。
珠紀は小首を傾げて、真弘を見上げてくる。その目線が堪らない。
しかも今日は──キスの日なのだ。
「よし、わかった!」
「はい?」
真弘は珠紀の華奢な肩をそっと掴んで、顔を寄せていった。
ところが。

「ちょ、先輩、なんですか!?」
問いながらも、真弘の腕を掴んで必死に押しのけようとする彼女は、絶対にその意図を察してる。
にもかかわらず、想い人は断固拒否の態だ。
「なっ、珠紀、この手はなんだ、この手は!」
「先輩こそなんですか!?」
「おまえがキスの日だって言ったんだろうが。だったらしょうがねぇ。俺様に任せろっ」
「意味わかないんです! だいたい……っ!? きゃっ」
階段の途中にいるにも関わらず、後退ろうとしたのだろう。段差を踏み外した彼女の体がぐらりと傾ぐ。
咄嗟にその腕をひいて抱き込んだものの、真弘もバランスを崩して珠紀と一緒に落下した。
背中を打ち付けた衝撃に一瞬呼吸が詰まったが、珠紀はしっかりと腕の中に収まっている。
庇うことができたらしいことにホッとしながら、真弘はゆるゆると息を吐いた。
「先輩っ! 大丈夫ですか」
「おもい……どけ……」
腕の中で身を起こした珠紀は、真弘の鳩尾に掌をついていた。それが苦しくて呻くように言うと「失礼なっ」とふくれつつも真弘の隣にぺたりと座り込み、顔を覗き込んできた。
その頬に手を伸ばしながら「どこもなんともないな?」と念を押すと「はい。先輩が庇ってくれたので」とふわりと笑う。
あまりに無防備なその笑顔は、背中の痛みを吹き飛ばすほどに可愛くて、真弘は跳ねた鼓動を誤魔化すように目を逸らした。
「おぉ、真弘先輩様に感謝しろ! そして態度で示せ!」
尊大な台詞に自分で納得するように頷いていると、ぬくもりが唇を掠め、すぐに離れた。
「──っ!?」
「ありがとうございました」
「お……おぉ」
照れ笑いを浮かべながら立ち上がった珠紀と共に、真弘もまた立ち上がった。

緋欠片