記憶の欠片 終章

 それはどこか懐かしく、そして切ない光景だった。
 夕闇を照らす無数の蒼く儚い光。そのひとつひとつが、誰かの想いだということを、今の珠紀は知っている。
 玉依姫への恨みの言葉も、なぜ自分が死なねばならなかったのかという嘆きも確かに在った。それでも、彼らが欲しかったのは謝罪でも哀れみでもない。長い年月の中で、そんなものからは何も取り戻せないのだと、彼らは嫌というほど知っていた。
 鬼斬丸の封印の為、世界の存続の為に失われた命。
 犠牲者にとっての世界とは、漠然とした多数の為にあるものではなく、大切な誰かが生きていく為の場所だった。
 悲しみや絶望の中、魄達が願ったのはそんな誰かの笑顔や幸せであって、けっして賀茂が語ったような暗い想いに塗り潰された憎悪ではなかった。
 蛍のような無数の優しい光が、何かを探すように漂う。水面に儚く映るひとつひとつの光が、今までこの世界を繋いできた。大切な誰かに心を遺しながら、それでも贄になった、ならざるを得なかった人々。その数の多さを前に、改めて自分と真弘とがどれほど恵まれていたかを思い知った。
「ありがとう……ごめんなさい」
 胸に溢れる想いが、同調した魄達のものなのか、それとも自身のものかもわからないまま、滑り落ちた涙が珠紀の頬を濡らす。
 ありがとう。何も出来なくてごめんなさい。
 戻る肉体のない彼らに伝えられるのは、感謝と謝罪でしかない。
「大丈夫か!?」
 ふいに強く肩を揺すられた。真弘だ。そう認識は出来るが、すぐに言葉が出てこない。
「おい?」
 答えのない珠紀を不審に思ったのか、遼も声をかけてきた。
 ふたりの顔をぼんやりと交互に見た珠紀は、自分が泣いていることに気付いて涙を拭くと、己を落ち着かせるようにゆるりと息を吐く。そうして再び視線を向けて、初めて二人が傷だらけだということに気付いた。
「二人ともそのケガ! 大丈夫!?」
 正気付いた珠紀に安堵したように表情を緩めた真弘は「こんなもんかすり傷だ」と笑う。その肩口は血に濡れ、どう見てもかすり傷の域を超えているし、遼の腕も裂けた袖口から覗くケガが痛々しい。
 珠紀の視線に気付いたのか、遼も「こっちもたいした傷じゃない」とぶっきらぼうに言って「どうせすぐ治る」と付け加えた。
 真弘達の回復力の凄さはロゴスとの戦いの折に目にしていたが、遼も同様なのだろうか。
 しかしなんにしろ、すぐに治るかどうかよりも、その傷が痛むのではないかということが気に掛かる。
「でも……」
「珠紀さん?」
 言葉を連ねようとする珠紀の背後から、聞き慣れた穏やかな声が掛かり、慌てて振り返った。
「ああ、無事だったようですね」
 そこには、卓達が戻って来ていた。泥まみれで所々裂けた彼らの服が、結界の破壊にもかなりの労力を要したことを物語っている。それでも皆が無事だったことに安堵して笑顔を返そうとした珠紀は、彼らの後ろにいる人物に気付き表情を強ばらせた。
「やぁ、お疲れ様だったねぇ」
 くたびれたいつものスーツ姿で、芦屋がゆったりと歩んでくる。
「何がお疲れ様だっ、ふざけんなっ!」
 相手の様子を窺うこともなく、真弘が真っ先に噛みついた。
「そんな怖い顔しないでよ」
 軽く肩をすくめながらも悪びれた様子もない芦屋は「一応協力はしたんだからさ。ね?」などと卓の肩に手を掛ける。
「結界を壊せたのは、芦屋さんの協力があったからなんですよ」
 苦笑しながらも、卓はそう答えて頷いた。
 結界の依り代はすぐに見つけたものの、そこに近づくことが出来ないよう、二重三重の結界が張り巡らせてあったのだという。それらの結界を内側から破壊するのに協力してくれたのが芦屋だったと説明した卓は、珠紀に歩み寄ると「よくがんばりましたね」と言ってそっと頭を撫でてくれた。
 小さな子供にするようなその行為に、くすぐったさを覚えながらも微笑んで頷く珠紀の隣で、「あっちは放っといていいのかよ?」というひどく不機嫌な真弘の声が上がる。
 真弘が顎で指したその先には、賀茂が倒れ伏していた。
 二度の強大な結界術は、あの男を相当消耗させたはずだ。まさか死んでしまったのだろうか。近づいて確かめようと思うのに怖くて踏み出せずにいると、芦屋が傍らまで行って膝をつく。賀茂の首元に手を添えて、脈の確認をしているらしい。
 固唾を呑んで見守っていると、ややして立ち上がった芦屋は「いやあ、よかった。ちゃんと生きてるよ。死人が出るといろいろうるさくてね」などと笑いながら頭を掻いた。
 あまりにさばさばとした物言いに眉をひそめた珠紀の隣で、真弘がホッとしたように息をついたのを感じる。その横顔に視線を向けながら、そういえば、と珠紀は思う。
 真弘の記憶。
 もしも彼の記憶喪失が妖に魄を食らわれたせいだというならば、こうして解放した以上、戻っているのではないか。
「先輩。その……思い出しましたか?」
 これで記憶が戻っていなければ、普通の記憶喪失か、もしくは食らわれた魄が完全に失われたかだろう。
 おずおずと訊ね、窺うようにじっと見つめると、真弘はばつが悪そうに視線を逸らし「あー……悪い」と謝罪の言葉を口にした。
「それって……」
 瞬時に最悪の事態が頭を過ぎる。それでも、まだ周囲に多くの光が漂っていることに希望を繋いだ珠紀は「さ、探します。まだそこらへんにいるかもっ! 真弘先輩のなら、もしかしたらものすごくちっちゃいのかもしれないし」と一息にまくしたてた。
「は?」
 周囲を見渡してから、もしや足下の葉っぱの影にでもいるのではと屈みこんでそれらしい光はないかと探し始めた珠紀の頭上から「だぁれがちっちゃいだ!」と抗議の声が上がる。
「でも」
「ちげーよ! 忘れて悪かったっつってんだ」
「え……それって……」
 珠紀はゆっくり立ち上がり、確かめるようにその目を覗き込む。
「いつの間に戻ったのか、気付きませんでしたねえ」
「小さかった、ってことでしょうか?」
「真弘だからな」
「自己主張の強さは、魄の大きさに反映しないってことすね」
 拓磨の言葉に一同が納得したように頷くと「お・ま・え・らぁっ!」と真弘ががなりたてる。
 珠紀は拳を振りあげた真弘の制服の裾を軽くひいて、「先輩、本当に?」と重ねて尋ねた。
「おう! 鴉取真弘先輩様、完全復活だぜ!」
 胸を張った真弘は「悪かった。心配させたよな」といつもとは違う優しい仕草で、先程の涙の跡を拭うように珠紀の頬を撫でた。
「さて、じゃあ撤収するかな」
 気怠げに片足に重心を掛けて立っていた芦屋が、言いながら周囲を軽く見回す。
 蒼い光──魄はひとつ、またひとつと消えて、ずいぶんと数が少なくなってきていた。村へ漂っていくものもあれば、ふわりと空へ昇っていくものもある。逢いたい誰かの元へと、還って行くのだろう。
 そして、横たわる賀茂を気遣うように漂う仄かな光がひとつ。
 その光景を見つめながら、「おまえさえ死ねば、彼女を死なせずに済んだものをっ!!」という賀茂の声を思い出す。
 失わざるを得なかったのは、贄になった者だけではない。遺された側も、かけがえのないものを失った。そして、それを強要してきたのは代々の玉依姫だ。
 けれど、珠紀の胸に彼女達に対する嫌悪は既になかった。使命と倫理との間で揺れ動きながら、痛みを押し殺して贄を選び続けた玉依姫。妖に引き摺られそうになった珠紀を助けてくれたのは、紛れもなく彼女らだった。
 死んでなお玉依姫で在り続けた彼女達も、贄となった人々と共に解放されたことで少しは救われたのだろうか。
「芦屋さん」
 珠紀は息をつき、迷いそうになる心を励ましながら、芦屋をまっすぐに見つめた。
「先日のお話の件ですが、……今後も季封村は典薬寮の関与をお断りします」
 多くの玉依姫達が守ってきたのは、鬼斬丸の封印だったけれど、それはきっと手段でしかない。鬼斬丸の封印により、守りたかったものがあったはずだ。
 それは贄になった人達と同じ。大切な誰かが生きていく為の世界──場所だった。
 守りたいと願うだけでは、守れない。だからこそ、今はっきりと言わなくてはならない。
「この村のことも、守護者のみんなにも、一切手は出さないでください」
 凜と言い切る珠紀に、値踏みするような眼差しが向けられる。
 腕を組んだ芦屋は「ふーん、強気になったねぇ」と薄く笑みを浮かべた。
「それはつまり、国を敵にまわしてもいいってことかい?」
 ゆっくりと歩み寄ってくる男に、真弘を始め守護者の皆が警戒しているのを感じる。
 珠紀は芦屋から視線をはずすことなく「はい」ときっぱり返答した。
「結構結構。当代玉依姫にその決意があるんだったら、おじさんも安心だ」
 これからも頑張ってくれたまえ、などと言ってカラカラと笑う。緊張感の欠片もないその様に、一同はあっけにとられた。
「実は典薬寮としても、今後も君達にここを自治して貰うのがいいだろうと結論が出てね。で、僕がこうして駆けつけたってわけだ」
「じゃあ、もう先輩達を見張ったりしないってことですか?」
 芦屋は、典薬寮の中に守護者を排除すべきという意見があると言っていた。珠紀が典薬寮に最も不安を覚えるのは、村ではなく仲間への干渉だ。ここは、はっきりさせておかなくてはいけない。
「それは無理かな」
「そんな──っ!」
「けれど少なくともこれまで通り、干渉せずに放って置いて頂ける、ということですよね?」
 会話に割って入ったのは卓だった。視線をやると、大丈夫と言い聞かせるようにひとつ頷いた年長者は、違いますか? と問いを重ねた。
「もちろん。君達が妙な方向に暴走でもしない限り、僕等はただ様子を見ているだけだ。君達ほどの力がある人間を、さすがに野放しにしておくわけにはいかないからね。悪いが今まで通り、多少の制限はさせて貰うよ」
「制限ってどういうことですか?」
 尖る声で珠紀が訊ねると、「村に閉じ込めてどうこうって意味じゃない。ま、所在不明は勘弁して欲しいって程度かな」と答えが返った。
 なんでそんな制限を受けなくてはいけないのかと、納得がいかない珠紀の隣で「ま、そりゃそうだよな」と理解を示したのは、意外にも真弘だった。
「いきなり羽が生えるような奴が、どこに行ったかわかんねえってんじゃ、典薬寮も立場がないってとこだろ」
「そうだな。小さくとも、人間離れしていることは確かだ」
 祐一の言葉に、皆が己のカミの力を棚上げして頷くと「誰が小さいだ!」と真弘の怒声が響いた。
 そんなやりとりに少しだけ心を和ませた珠紀は、きっと一度に何もかもを変えることは出来ないのだろう、と思った。少なくとも、こうして彼らが笑って過ごせるのなら、今はそれでいいのかもしれない。
 わかりました、と頷くと、芦屋は「ま、今後もひとつよろしく頼むよ」と珠紀の肩を軽く叩いた。
「さーて。じゃ、うちの職員を回収して帰るかな」
 芦屋は再び賀茂に歩み寄ると、気を失ったままの男を見下ろし途方に暮れた声を上げた。
「いやあ、しかし大の男を運ぶとなると重いよなあ。でもここに放って置くわけにもいかんしなあ」
 聞こえよがしの独り言は、暗に手伝えと言っているのだろう。
「お手伝いしましょうか?」
 卓が声を掛けると、待ってましたとばかりに振り返った芦屋は満面の笑みだ。
「そう? いやあ、助かるよ。力仕事は苦手でね」
「いいえ。お手伝いがてらご一緒しましょう。私も今回のことや今後のことについて、じっくり、お話をお伺いしたいですし」
 じっくり、にやけに力が籠もっていた気がするのは、気のせいだろうか。背を向けた卓の表情は見えないが、引きつった笑いで応じる芦屋を見れば、卓の目が笑っていなそうなことは想像がついた。
 「手伝いますよ」と進み出た拓磨に、「僕も」と慎司が続く。結局、言霊で軽くした賀茂を、拓磨が背負っていくこととなった。
「あの……。その人、どうなるんですか?」
「どうって? ああ、大丈夫。もう君達に迷惑はかけないよ」
 自分や真弘を恨む賀茂が、再び今回のようなことを起こすのではないかという不安は確かにあった。でも、それより気に掛かるのは、今後の彼の処遇だった。
 典薬寮は、玉依と敵対しないことを選んだ。ならばその組織に属しながら、それをよしとしない賀茂はどのような扱いを受けるのだろうか。
「それって、賀茂さんも典薬寮が見張るってことですか?」
「ま、監視下には置かれるよ。典薬寮は君達と事を構える気はないからね。それなのに、今回みたいなことがあれば、話がややこしくなるだろう?」
「監視下……」
 思わず呟きが零れる。それは少なくとも平穏には遠い言葉に思えたからだ。
「あの聖女様でさえ、職員同伴とはいえ、好きにこの村の来るくらいだからね。君が心配するほど酷い扱いじゃない。一応うちもお役所だからね。人権諸々うるさいんだよ」
 表情を曇らせた珠紀に、芦屋が苦笑して付け加えた。
 この男が口にすると、人権という言葉すら胡散臭い気がするものの、ここは信じて頷くしかない。
「少なくとも、君達に迷惑はかけないと約束するよ」
「それで。先程の協力と今後の彼への監視だけで、今回のことは全部水に流せ、という意味でしょうか?」
 卓が迫ると「まぁまぁ、仲良くやろうじゃないか、な?」と芦屋が視線を泳がす。その視線の先で、狗谷が「くだらない」と鼻を鳴らして呟いた。
「ほ、ほら、守護者も増えたことだしさあ」
「そうですね、狗谷くんもいろいろ話を聞かせて下さいね?」
「なんで俺がっ、──って、おい!」
 芦屋は少しでも卓の矛先を分散したいのか、遼の腕をしっかと掴んだ。
「君も一緒に行こうじゃないかっ! な!? 守護者になるんだろ? というか君は守護者だから。なっ、そうしよう!」
 半ば引き摺られるように道連れにされた遼に、同情にも似た思いを感じていると、祐一もそれに続くように歩き出す。
 皆と一緒に帰らなくてはと続いて歩き出そうとした珠紀に「お前達は休んでから戻るといい」と祐一が振り返った。答える間もなく「おう」と真弘が声をあげ、珠紀の手をぎゅっと握る。
 祐一も後は振り返ることなく、そのまま立ち去ってしまった。
 皆がいなくなってしまえば、あるのは静寂と夕闇と、繋いだ手のぬくもり。かすかに吹く風の冷たさに、真弘の手の熱を殊更に意識しながら「終わりましたね」と微笑む。
「ホントに全部思い出しましたか?」
「……おう」
「覚えてなかった間のこと、覚えてますか?」
「あー、……まあ、な」
 気まずそうな気配を漂わせ、歯切れの悪い答えを返す真弘に悪戯心が呼び起こされる。
 珠紀は繋いだ手をそのままに、敢えて真弘から視線を外したまま「先輩冷たかったなぁ」とぼやいた。
「おまえ誰だ、とか言うし、彼女だったって言っても信じてくれないし」
「……悪かった」
「一緒に学校行くのも当番制とか言うし」
「だから……」
「思い出してくれないだけじゃなくて、もう好きになって貰えないんじゃないかって、私……」
 震えた語尾はそのまま言葉にならず、雫になってこぼれ落ちた。
 怖かったのは、真弘が思い出さないことではなかった。もうこのまま、二度と再び好きにはなって貰えない気がして、最初はそれが怖かった。
 もっとも、記憶をなくしてなお、彼は好きだと言ってくれた。だからこんな風に泣くつもりなどなかったのに、すべてが終わったという安堵は思いのほか涙腺を緩くしてしまったらしい。
「悪かったって。泣くな」
 繋いだ手が離され、顔を上げようとした瞬間、抱きしめられた。
 翼の消えた背中に手をまわしてしがみつくと、応えるようにその腕に力がこもる。ひとしきりそうしてぬくもりに包まれた珠紀が落ち着く頃、ぽんと背中を叩いた真弘が身を離した。
 いつの間にか、すっかり濃くなった夕闇に漂う光はごくわずかとなり、それらが惑うように漂っている。二人並んで見つめていると、光はやがて村を目指すもの、ふわりと舞い上がり上昇していくものとに分かれ始めた。
「先輩。犠牲になった人達は、先輩や玉依姫を恨んでいる人もいました」
「だろうな」
「でも、願ってたのは賀茂さんが言ってたようなことじゃないんです。みんな叶うならもう一度逢いたいって……逢って伝えたいって思ってた。今この瞬間も、遺してきた大切な人達を想ってるのに。あの人の大切な人だって、きっとそう願ってただけなのに、なんで……」
「……。あいつにはあいつの正義があったんだろうよ。で、おまえを護りきるのが俺様の正義だ。それだけは譲れねえ」
 真弘の言葉は嬉しくて、同時にやはり珠紀を不安にさせた。けれどそれを口には出来ず、ただ、残る最後の光を見つめながら「逢えるかな」と呟いた。
「逢えるに決まってる」
 真弘の声に応えるように、光は空へと昇って行った。

「なんっであの女が教室にいたんだ!? あいつ23歳……」
「しっ! 先輩っ、誰かに聞かれたらどうするんですか」
 終業式の帰り道。周囲に人も見あたらない林の道まで来た途端、もういいだろうとばかりに真弘が声を張り上げた。
 それをすかさず制した珠紀に、「誰もいないだろが」と言って軽く周囲を見渡すと「なんでまたあの女が高校生のフリしてんだよ」と問う。
 2学期の最終日。朝のホームルームに担任と共に現れたのは清乃だった。
 転校生と紹介された彼女は、「出戻りでーす」と教室を見渡しながら朗らかに挨拶をすると、親の仕事の都合でなどという担任の事情説明もそこそこに、珠紀の傍に歩み寄り「心の友よ! また一緒に青春しようね!」などと言って抱きついてきた。
 噂のせいで出来た珠紀とクラスメートとの距離は、意識を取り戻した村人達が「玉依姫と守護者に助けられた」と口々に言ってくれたお陰で、多少改善がみられていた。それでも、すべてが元通りとはいかない微妙な空気の中、清乃がいてくれるなら心強い。今までも教室には拓磨がいてくれたが、彼女がいてくれるなら3学期はもっと楽しくなるだろう。
「カミさまの動向を見たり、いろいろあるみたいですよ?」
 清乃が再び転校してきたのは、当然珠紀達の様子を監視する為に違いないと思った。しかし、当たり前の顔で空いていた珠紀の隣の席に腰を下ろした清乃は「それもあるけど……まあ珠紀ちゃんの味方をする為かな」などと顰めた声で言って楽しそうに笑っていた。もっとも彼女の言っていた「芦屋さんも、もちろん味方だよ。あの人わかりにくいから誤解招くけどね」という発言については、どうも信じられない気がしてならないけれど。
 隣を歩く真弘は、なんとなく納得がいかないという顔をしながらも「ふーん」と答え「腹減った」などと己のお腹を撫でている。
「そういえば通知表、どうでしたか?」
 今日はその為に登校したようなものだ。
 珠紀はといえば、皆の協力のお陰もあり、少し下がったものの親元に連れ戻されるほどではなかった。対して、真弘は大丈夫だっただろうか。受験をする以上、2学期の通知表はかなり重要なはずだ。それなのに、記憶喪失のまま期末を受けたのはかなりのハンデになったのではないか。
 心配しながら訊ねると、一瞬立ち止まった真弘は、珠紀から視線をそらすと再びすたすたと歩き始めた。
「先輩?」
「長い人生においてだなぁ。学校の成績なんざ……」
「……悪かったんですね」
「うるせっ」
 ふてくされたように唇を尖らせた真弘の横顔が子供じみて見え、珠紀はクスクスと笑い声を漏らす。
「笑ってんじゃねーぞ」
 悔しそうに言うやいなや、珠紀の長い髪を両手でぐしゃぐしゃかき乱す真弘から身をよじって逃げる。こんなじゃれ合いが出来る日常が、なんだか嬉しくてならない。
 そうして幸せな気持ちを感じるほどに気に掛かるのは、賀茂のことだ。
 芦屋からの連絡によれば、目を覚ました賀茂はなにも覚えていなかったのだという。今回の出来事だけではない。自分の名すら忘れてしまったという彼は、術をふるう力も失ってしまい、恐らくは典薬寮から除名されることになるだろうとのことだった。
 悲しみも恨みも、全部忘れることが出来たのは幸せだろうか。それとも、大切な誰かとの時間すらも忘れてしまったのは、彼にとって不幸だろうか。
「……」
「どした?」
 怪訝そうにこちらを見る真弘に、珠紀は少し考えて口を開いた。
「私、あの人の……賀茂さんの気持ちがわかる気がするんです」
「はあ?」
 脈絡のない言葉に、何を言っているのかという表情で立ち止まった真弘に曖昧な笑みを返した珠紀は、真弘が死ななければ世界が救われないのだと知った時の痛みを思い出す。もしもあの時、ひとつでも歯車が狂っていたなら、鬼斬丸を壊すどころか、二度とこの目を見つめ返すことは出来なかっただろう。
「もし真弘先輩が鬼斬丸の封印の為に犠牲になってたら、きっと憎んでたと思います。玉依姫も、助けてくれなかったみんなのことも……、真弘先輩がいないのに続いている、世界も」
「……。そーか、そーか。そんっなに俺様のことが好きか」
「──! もうっ! そんな話をしてるんじゃ……」
 何を急に恥ずかしいことを言い出しているのだろうと思いつつ、反論しかけた珠紀にガキ大将のような笑みを向けた真弘は「バカなんだからあんま難しく考えんな」などと言って歩き出す。
「むぅ、赤点とりまくってる人にバカとか言われたくないです」
「だとぉ!?」
 絶望してはいけないと励ましながら、真弘と手探りで見つけだした未来。今、自分がいるのはあの時掴み取った未来だ。
 そして、この先も共に在りたいと願う。だからこそ、やはり訊いてみたいと珠紀は思った。
 そっと深呼吸をひとつして、先輩、と呼びかけた。
「私、ずっと先輩に訊いてみたかったことがあるんです」
 さっきまで子供のように笑っていた真弘は、まるで珠紀が何を言い出すのか知っていそうな、いつかの大人びた顔で「言ってみろ」と歩みを止めてこちらに向き直った。
「真弘先輩は……先輩は玉依姫を、恨んでませんか?」
 数瞬黙った真弘は「恨んでないって言ったら嘘になるな。恨んだこともある」と答えた。
 やっぱり、と落胆する。わかっていたはずの答えでも、こうして突きつけられるのはやはり辛かった。
「そう……ですよね」
「ばーか、んな顔してんな。昔のことだ。ガキん時は思ったよ。俺がこんな目に遭ってんのに、俺の玉依姫はなにしてやがるってな」
「ごめんなさい」
 俯いて悲痛な声で謝罪する珠紀に、真弘が呆れたように溜息を落とす。その溜息すら軽蔑に聞こえ、珠紀はますますいたたまれない心地になった。
「だから、昔のことだっつってるだろが。おまえがこの村に戻ってくるって聞いてよ。初めておまえに逢った時から、守ってやるって思ってた。命がけで守ってやるってな」
「命なんてかけないでくださいっ」
 慌てて顔をあげた珠紀に、ほんの一瞬目を瞠った真弘はすぐに破顔した。 
「意気込みの問題だ、意気込みの」
「でも──っ」
「いいじゃねえか。生きてんだからよ。この鴉取真弘先輩様が、そう簡単にくたばると思うか?」
 そう言うと、いつもの乱暴な仕草で、珠紀の髪をかき混ぜるように撫でた。
 確かに真弘は生きている。自分は失わずにすんだ。けれど賀茂は失った。賀茂だけでなく、多くの失った人達がいる。それは絶対に忘れてはいけないことだ。
 いつもなら「やめてください」と逃げる珠紀が、されるがままに髪を乱されているのを不思議に思ったのか、真弘の手は乱した髪をおおざっぱに整え始めた。その指先が髪を梳く感触を黙って感じていると「おまえはどうなんだよ?」と問い掛けられた。
「私が、なんですか?」
「玉依姫を許せてないのは、おまえのほうなんじゃないのか?」
 今度は珠紀が目を瞠る番だ。
 真弘は珠紀が迷っていたことも知っていたのだろうか。だとしたら、やっぱりなんだかずるいと思ってしまう。普段はあまりに子供じみたことを言うから、年上だということすら忘れそうになるけれど、やっぱり彼は『先輩』なのだ。
「あの時、魄を解放するのを手伝ってくれたのは玉依姫なんです」
 珠紀は、騒動の後も敢えて他の守護者には話していなかったことを口にした。隠そうと思ったわけではない。ただ、今更彼らに言う必要があると思えなかっただけだ。
「……? 玉依姫が他にいるってことか?」
「そうじゃなくて……。あの沼で贄になったのは、村人だけじゃなくて、玉依姫もだったんです」
「──っ!」
 多分これは蔵の書物にも書かれていなかったはずのことだ。だからきっと、真弘も知らない。
「玉依姫が次の玉依姫にすべてを譲り渡したら、最期には自分が贄になる、それが玉依姫の最期の役目だったって……」
 それは贄の儀同様、密やかに、けれど公然と行われてきた儀式。
 村人が守護者を忌むほどに玉依姫を憎まずにきたのは、玉依姫が神事を取り仕切ってきたからというだけではなく、恐らくは最期に自らを捧げてきたからだろう。
 珠紀がする必要のなくなったその務めを果たした玉依姫達。魄との同調で、珠紀は彼女らの心にも触れた。
「許せないなんて、言えないです。だってみんな苦しんでた。平気で贄を差し出してたんじゃない。申し訳なくて、悲しくて……苦しいのを我慢しながら、仕方ないって言い聞かせてた」
「そっか」
 頷いた真弘は、ゆっくりと歩き出す。倣うように珠紀も歩き始めた。
「で? 本当に玉依姫続けんのか?」
「はい。芦屋さんに、手を出さないで下さいって言っちゃったし」
「んなもん……」
「それだけじゃなくて」
 芦屋に大見得を切ってしまったから、というだけが理由ではない。けれど、まだ明確には見つけていないそれを伝えるのはとても難しそうだ。
「私、この村に来たとき懐かしいって思いました。子供の頃に来ていたことがあったとかそういうんじゃなくて……先輩がおかえりって言ってくれた時も、本当にやっと戻って来れたってホッとしたんです。ここに住んでた時間の方がずっと短いはずなのに、なんだか不思議なんだけど」
「不思議じゃないだろ? なんたってここは俺様がいるんだからな」
 当然だと頷く背中に「違います」と即答すると、前を歩く真弘は「だとぉ!?」とすかさず振り返った。
「先輩の傍に戻れて嬉しいというのはもちろんなんですけど……もっと違う、私の中の何かが、この村に在ることを望んでるっていうか」
「……玉依の血ってとこか」
「鬼斬丸がなくなって、玉依姫がいる意味はもうないのかもしれないって思ってたんです。でもこれからは、鬼斬丸がないせいで起きる問題もあるかもしれないし。だから、これから何が出来るのか探していこうかなって」
『玉依姫は、あくまでも鬼斬丸の封印を守るために存在したのよ。それ以上でもそれ以下でもないわ』
 いつかの静紀の言葉の意味が、今はわかる気がした。鬼斬丸がなくなった以上、存在意義になど縛られることなく出来ることを自由にやっていい。それがきっと、これからの玉依姫だ。
 同時に、守護者もやはり縛られるべきではない、と思う。
 新たに守護者に加わった遼は、「気が向いた時だけだ」などと言いつつも皆と過ごす機会が増えていた。特に拓磨とはなんだかんだとケンカをしつつも、つかず離れずの距離にいるのが可笑しい。そんな風に仲間が増えたことを楽しく感じつつも、珠紀はそれを素直に喜べずにいた。
「また、つまんねーこと考えてんじゃねえだろうな?」
 黙り込む珠紀の考えを見透かすように、真弘が口を開いた。
「俺は何があってもおまえの守護者だ。いいな?」
「でもっ」
「でもじゃねえっ。あのなぁ。間違えんなよ? 珠紀。わかるまで何度だって言ってやる。玉依姫だから守るんじゃない。おまえだから守るっつってるんだ。だいたいおまえは玉依姫じゃなくなったとしたって、危ないことにも平気で首を突っ込むに決まってる。俺様が見張っとかないでどうする」
「……」
「他の奴らだって同じだ。それはおまえがとやかく言うことじゃない。あいつらが決めることだ。違うか?」
「……はい」
 今度は素直に頷いた珠紀に、よしと頷いた真弘は軽く伸びをすると、振り返らないままに言葉を続けた。
「ったく、あの本は蔵に戻しとけよ? あんなもん部屋で眺めてっから暗いこと考えんだ。わかったな?」
「あの本って?」
「だから、あれだ。俺がガキん時に塗りつぶした本だよ」
「え……」
 一瞬なんで真弘が、あの本を蔵から持って来ていることを知っているのかと疑問に感じた珠紀だったが、すぐに先日部屋に来た時にでも見られたのだろうと思い至った。
「あんなの昔のことだ。今更そんなもん見て、おまえが落ち込むことはないって言ってんだ」
 幼かった真弘の悲しみを、蔵に置き去りにしておけないと思った。でも今、ここにいる彼が笑っていてくれるなら。笑い続けてくれる為に出来ることを、したいと思う。
「はい。……先輩。手を、繋いでもいいですか?」
 ためらいがちな問いに「あのなぁ」と盛大に溜息をつかれ、何か問題発言をしたかと狼狽える。そんな珠紀の手を素早く握り「繋ぎたい時はいちいち訊くな。俺様もそうする」と再び歩き出した真弘の耳が、いつもより赤く見えるのは気のせいだろうか。
「……ってるに決まってるからな」
「……? なんですか?」
「だからっ! 手を繋いでない時でも、だな」
 心は繋がってるに決まってる、と。
 早口で呟くように言われたその言葉は、ひどく覚えのある台詞だ。
(もしかして、あれって夢じゃなかったの?)
「わかったなっ!?」
 微笑んだ珠紀は返事の代わりに、繋いだぬくもりをぎゅっと握りなおした。
「ところで、だ。珠紀」
「なんですか?」
「おまえも三人でいいっつったよな?」
 ニヤリと笑うその表情は、珠紀がよく知る悪役のような笑顔だ。
「──っ! 知りませんっ! 忘れましたっ!」
「安心しろ。俺様は覚えてる」
 この状況は安心していい状態ではないように思え、手をほどこうとすると、許さないとばかりに指が絡まる。どうにも逃がしてくれそうにはない。
「私は忘れましたっ」
「そうかそうか。じゃあ、この鴉取真弘先輩様が直々に思い出させてやる」
「なにを……──っ!?」
 絡めた指先が強く引かれたと思った次の瞬間、間近に迫った真弘の顔。
「目ぇ閉じろ、ばか」
 ぶっきらぼうな物言いは、照れ隠しだとすぐにわかる。なんだか可愛いなどと言ったら、きっと怒られるに違いない。
 珠紀はこみ上げる幸せな笑いを堪えながら、目を閉じて寄せられるぬくもりを感じていた。