願わくば

 「蓮の花が咲く時には、音がするのよ」
 あれは子供の頃、菫に連れられ将臣や譲と共に訪れた鎌倉の八幡様だっただろうか。
 そう言って皺だらけの指先が示した先には、真っ白な大輪の花がいくつも咲いていた。
 
 
 
 
 
 
 厨からは、夕餉の支度をするおいしそうな匂いが漂っている。
(今日は何かな……)
 庭で剣の稽古を済ませた望美が匂いに釣られるように厨の傍まで来た時、その声は聞こえた。
「まぁ! なんと失礼な!」
 物静かな女の常にない大きな声に、望美はそのまま壁に寄って耳をそばだてた。
「あちらの三の姫といえば、何度も文を寄こして、とうとう一度も相手にされなかった女じゃありませんか! それを奥方様をそのように悪しざまに!」
「でも、望美様はその……私たち同様日の下をお出かけになられるでしょう? そのように言われても仕方ないと」
「肌の白さがなんですか。陽射しを浴びれば誰とて肌が焼けるのは当然のことです」
 聞こえてくるやりとりから、どうやら望美の日焼け具合の話らしいというのはわかった。
 
 確かに望美は、陽射しの下、気軽に外出している。嫁いだばかりの頃、それが別当の妻らしからぬ振る舞いだと知った時には少し悩んだりもしたけれど、ヒノエはそれを禁じたりはしなかった。
『確かに、閉じ込めておきたいくらい大切だけど、ね。姫君、ここはお前の世界とはいろいろ違うこともあるだろうけど、オレは望美が望美らしく笑ってくれてるほうがいいな』
 落ち込む望美の頬に手を添えて、言い聞かせるようにそう言ってくれたヒノエの眼差しが思い出される。
 結局、誰かを伴っていれば構わない、という彼の言いつけをそこそこ──半分ほど遵守することで、望美の外出は継続中だ。
 
「それをなんですかっ。下賤の出だから夏になると変色するなどと……奥方様は龍神様が天つ国からお連れくださった神子姫様ですよ?」
 表情こそ見えないが、年長者である女の怒りあらわな顔は容易に想像がついた。
 そっと壁から身を離し、己の袖を少し捲ってみる。日焼け止めなどないこの世界。見事に焼けた手首から先と、腕の白さが対照的だ。
「変色って……」
 呟きが零れる。両手を己の頬に添えてみたところで顔の色はわからないが、手の甲の焼け具合を見ればおよそ想像がつく。日々鏡は見ているものの、この世界の鏡は肌の色までは明確に映してくれない為、あまり意識していなかった。
「そんなにひどい……?」
 源氏に同行していた頃ならいざ知らず、ヒノエも実のところ呆れていたのではないだろうか。芽生えた不安に、しばしそのまま固まった望美は、どうにかしなければと強く思った。
 
 
 
 
 ジワジワと木々の間に響く蝉時雨。
 まだ夜は明けたばかりで、しかもそろそろ夏も終わろうというのに、蝉たちは相変わらず騒がしい。もっとも、生を謳歌できる季節があとわずかだからこそ、必死で声をあげているのかもしれない。
 暑さの盛りを過ぎた近頃は、夜にはすっかり涼しくて、明け始めたこの時間に吹く風は爽やかで気持ちいい。
 熊野で過ごす2度目の夏。でもそれが本当は3度目だと知るのは、ヒノエと望美だけだ。
 そのヒノエは、目下仕事で邸を留守にしている。秋の神事で忙しくなる前に出来る用事は一通り済ませておくのだと言って、一昨日から伊勢へと出向いてい た。明日には戻る予定だから、それまでにぜひともアレを入手して、事態を改善したい。そんな思いから、望美は日が昇ると同時に邸を出てきた。
 三の姫、などと言われていた女がどこのお姫様かは知らないけれど、ヒノエに想いを寄せていたらしい女に「変色している」とまで言われては面白くない。なにより、ヒノエがどう思っているかも気になった。
 そうはいっても、残念ながらこの世界には美白クリームもなければ、化粧水もない。焼けてしまった肌は、秋になれば徐々に元に戻るけれど、出来ることはしておきたい。
 まさか立ち聞きしていたとも言えない望美は、精一杯さりげなく、そういう効果の期待できるものはないかと邸の者に尋ねて回った。
「そうですねぇ。蓮の葉に宿る朝露を塗れば、仏様の加護か、輝くような美女へと生まれ変わる、などという話もございますが……」
 思案するように視線を彷徨わせた女は、私は試したことはございませんが、と付け加えた。
 蓮の葉に宿る朝露。それは、なんだかおまじないのようにも思えるし、もしかしたら蓮の葉の成分が肌にいいのかもしれない。よくわからないけれど、試すことができそうなものは、この際やるだけやってみよう。
 思い立ったら即実行。望美は翌朝早く起き、邸をこっそり抜け出した。
 朝、日が昇る少し前から朝餉の時間までが、邸の者たちの一番忙しい時間だ。使用人が邸にいて身の回りの世話をしてもらう、などという生活に慣れない望美 の希望もあって、邸に仕えているのは必要最低限の人数の為、用事の多い朝のうちは望美の所在に目が届きにくい。
 念の為、護身用に剣を持ち、望美は意気揚々と邸の近くの森へと足を踏み入れた。
(まだ咲いているかな)
 目指すのは以前にも一度行ったことがある場所だった。偶然見つけたそこは、ひょうたん型の大きな沼があり、たくさんの蓮が自生しているのだ。以前訪れた 時にはまだ蕾もついていなかったけれど、蓮といえば夏の花。夏も終盤ともいえるこの時期では、花は見られないかもしれない。
 もっとも、必要なのは『蓮の葉に宿る朝露』なので花の有無は関係ない。ただ、ふと菫の言葉を思い出し、蓮の花の咲く音を聞いてみたいと思った。蓮の花が開くのは早朝だというから、あるいは見られるかも知れない。そんな期待を胸に、歩を進める。
 蝉の声に混じって時折鳥のさえずりが響き、梢を見上げれば力強く茂った葉の間から、雲ひとつない空が覗く。朝の心地よい風景の中、隣にヒノエがいないの が少し淋しい。零れそうになるため息を飲み込んだ望美は、気持ちを入れ替えるように、朝の清涼な空気を胸一杯吸い込んでもやもやした思いと共に吐き出し た。
 
 沼に着いてみれば、そこは水面から力強く立ち上がった蓮の葉に埋め尽くされている。やはり花の盛りは過ぎていて、多くは花弁を散らして実に変じていた。それでも咲き残った薄紅の花が点在しており、まだ十分に花を楽しむこともできる。
「えーと、朝露、朝露……」
 沼に沿って歩きながら、ちょうど望美の目線の高さにある蓮の葉を注意深く見ながら歩く。望美の掌の何倍もある大きな葉は沼を覆うほどにたくさんあるけれど、肝心の露が見つからない。
 足を止めては背伸びをしたり、屈み込んでみたりしながら沼を半周ほどした場所でようやくそれを見つけた。
 濃い緑の葉の上で清涼な輝きを放つそれは、確かに不思議な力を宿しているようにも見える。
 葉に片手をかけて静かに傾け、もう片方の手でそれを受ける。掌に載せたたったひとしずくの朝露を両手で挟み、己の頬にペタペタとのばしながらつけてみる。
 しっとり濡れた頬が風を受け、ひんやりして感じるのは心地よかったけれど、この量ではあまりに心許ない。けれど、朝露は期待したほどには見当たらないのだ。
 落胆した望美の視線の先、蓮の蕾がひとつ目に入った。ふっくらと膨らんだ蕾は今にも綻びそうだ。
 ふと、あの日の光景が思い出される。
 
『こっちの池が平家の池。あっちが源氏の池』
 菫はそう言って、八幡様の池を指していた。
『りょうほう、おんなじにきれいだね』
 望美がそう言うと、『……そうね。両方綺麗ね』と微笑んでくれた顔が少し淋しそうに見えたのを、朧気に覚えている。
 未来が見えたという星の姫。
 源平の争いに巻き込まれる望美たちの運命をも、菫は見通していたのだろうか。だからあんな風に、淋しそうな顔をしていたのだろうか。
 確かにこの世界に来たせいで、たくさん泣いたり傷ついたりもした。
 けれど、出逢えた。一番大切で、大好きな人に。
 自分が誰かをこんなに愛しく思えると教えてくれた、たったひとりの相手。
 
「望美っ」
 沼に響いた声に、物思いから引き戻される。
 よく知る声。たった今まで考えていた、誰よりも好きな人の声だ。
「ヒノエくんっ!?」
 背の高い蓮の葉に邪魔されてよく見えないけれど、沼の向こうに呼び掛けるように声をあげると、すぐにヒノエが姿を現した。
 
 
 元々、今日には戻れるだろうと踏んでいた。
 それでも、長引く可能性も捨てきれず、待たせてがっかりさせるのを避けたかったヒノエは、予定を1日ずらして望美に伝えていた。
 だから、驚かせるはずだったのだ。
 夜明けと共に湊に着いたヒノエは、必要な指示だけ残して邸に向かった。この時間ならば望美はおそらく寝ているだろう。寝所に忍び入れば、寝ぼけながらも驚く望美の顔が見られるに違いない。
 その表情を楽しみにしながら足音を忍ばせて寝所へとやって来たヒノエは、逆に驚かされる羽目になった。望美がいない。
 邸の者たちに訊くうちに、望美が蓮を見に行ったのかもしれないと考え急いでここまで来てみれば、彼女はけろりと笑っている。
「おかえりなさい。早かったんだね。びっくりしちゃった」
「それはこっちの台詞だよ、姫君。散歩にしては、ずいぶん早起きだね」
「あー……はは。うん……まぁ、……」
 返答に困っているように、望美は視線を彷徨わせる。人の目をまっすぐ見て話すことの多い彼女にしては、珍しいことだ。こんな時は、よほど照れている時か、何か隠し事をしているのだ。
 ヒノエは笑いを堪えて「どうかしたのかい?」と尋ねた。
 本当は、望美がここに来た目的は見当が付いている。邸で、昨夜望美が皆に『お肌が綺麗になる方法とかあったりするの?』などと、少しそわそわした素振りで訊いて回っていたのは既に確認済みだ。そして、訊かれた者のひとりが、蓮の葉の朝露の話をしたことも。
「……ヒノエくん。知ってて訊いてるでしょ?」
 笑いを堪える気配に気付いたのか、上目遣いで望美が訊いてくる。
「ふふ、相変わらず察しがいいね、姫君。でも、正解かどうかは教えてくれないとわからないな。……お目当ては朝露かい?」
「……うん」
 望美はヒノエに知られたことが恥ずかしいのか、ほんのり頬を染めつつ、気まずそうだ。
 綺麗になりたいという女心は、わからなくもない。
 蓮の朝露で綺麗になれる、というのは以前誰かに聞いたことがあるような気がするけれど、それなりの身分となった望美が、それを誰かに取って来させるのではなく自ら集めに出るというのが相変わらずで彼女らしい。
 もしも望美が誰かに言いつけたなら、知ることが出来ただろう。朝露はもっと涼しくなって朝夕に気温差がつかないと、たくさんは現れないのだということを。
「ヒノエくんだって、綺麗な人の方がいいでしょう?」
「もちろん。だけど、オレは姫君以上の女には逢ったことはないけどね」
 笑いながらそう言えば、望美はますます頬を染めながら「お世辞でも嬉しいけど」などと呟く。
 強気な瞳も好ましいけれど、恥じらう姿も愛らしい。
 源氏に同行していた時には常に恋敵が周囲にいて気が気じゃなかったけれど、こうして独り占めしてみても、ともすればこんな風に目の届かない所にするりと抜け出してしまうのだから、相変わらず気が抜けない。
 押してみたり、引いてみたり。恋の駆け引きを楽しんできた女たちとは違う。望美のことはいつだって追いかけて、掴まえておきたいのだ。
「お世辞? 熊野どころかこの国一の姫君が綺麗じゃないってなら、他の姫君が絶望するぜ。……誰かが何か言ったのかい?」
「……ううん。でも色白のほうがいいでしょう?」
 恥じらうでなく、軽口に応酬してくるでなく、思いのほか真剣な顔だ。望美は否定したけれど、やはり何か言われたのかもしれない。
「色白ねぇ……」
 もしも色白が美人の条件だというなら、望美はなんの問題もない。彼女の素肌の白さなど、ヒノエは誰より知っている。
 もっとも、露出している部分は日に焼けて、今は快活な印象だ。それを誰かに指摘されたのだろうか。だとしたら、こんな風に朝露を探しにくるのではなく、外出をやめればいいものを、そうしないのが望美らしいといえば望美らしい。
「望美はどう思う?」
「もぉ! 今はヒノエくんに訊いてるんだよ」
 もしもここで、色白の方がいい、と答えるだけで邸に籠もってくれるなら、ヒノエの心配の種はひとつ減ることになる。けれど、それではきっと邸の外で望美 を慕う者たちが、ヒノエが彼女を閉じ込めていると恨みに思うかもしれないし、何より望美自身、そんな退屈な生活など頑張っても半月が限界だろう。
 そもそも望美は屋敷で皆にかしづかれてひっそりと咲く花ではなく、陽の光を受けてその光に負けないほどに輝く花なのだ。そうして、その花の輝きに惹かれずにいられない男がここにひとり。
「なんで笑うの?」
 漏れた苦笑に、望美が唇を尖らす。
「いいや。ねえ望美。お前の肌が白いなんてことは、オレは誰より知ってるつもりだけど?」
「そういうんじゃなくて」
「違うのかい?」
 問えば、望美は「違わないけど……違うような……」などと呟きながら考え込んでしまう。
 いったい誰が彼女に余計なことを吹き込んだのかは後で確かめるとして、望美が気にしているならば、伝えなければいけないことなどたったひとつだ。
「誰が何を言ったんだか知らないけどさ。オレはこうして日差しの下も一緒に歩けるお前が、誰より好きだし綺麗だと思うけど?」
 それでは駄目かと視線で問えば、恥ずかしそうに、でも安堵が透ける顔で望美は嬉しそうに微笑んだ。
「さて、姫君。そろそろ帰らないと、お前がいなくなったことに気付いて、みんな心配しているよ」
 釘を刺すように、オレもそのひとりだったけどね、と言えば、申し訳なさそうに「ごめんね」と返る。
 差し出した手を取りかけた望美は、なにかを思い出したように沼に視線を向けた。その視線の先には、今にも咲きそうな蓮の花がひとつ。
「ヒノエくん。蓮の花が咲く音、聞いたことある?」
「花が咲く音?」
「うん。子供の頃聞いたことがあるの。蓮の花が咲く時……」
「しっ」
 言葉を紡ぐ桜色の唇を、指先で留める。視線で示すと、蕾の外側の花弁が開いた。まもなく内側の花弁もほどけるようにふぁさりと開き、瑞々しく咲く薄紅の花となった。
「……こんな音かい?」
「そうみたい。なんだ……」
 気になっていたものに出会えた割に、望美は拍子抜けしたような顔でたった今咲いたばかりの花を見つめる。どうやら描いていたものとは違ったらしい。
「期待と違ってたって顔だね」
「うーん……うん。もっとね、ポンって音をたてて咲くのかと思ってたから」
 望美の言葉に、その情景を想像してみる。
 蓮の池にいくつもある蕾が、ポンポンと音をたてて次々に開いていく。なかなかに楽しそうな光景だ。
「……今、バカにしたでしょ?」
「まさか。ふふ、ホントにおまえといると退屈しないよ。姫君」
「やっぱりバカにしてる」
「してないよ。できるはずないだろ? 望美ほどの女は、世界中探したって見つかるはずがないからね」
 片目を閉じて微笑めば、「もぉ」などと言いながら黙ってしまう。そんな望美の手を取って、「知ってるかい?」と問い掛ける。
「人間死んだら、天上の蓮の上に生まれかわるらしいぜ?」
「そうなの?」
「願わくば共にひとつの蓮の上、ってね」
 歌うように言って、繋いだ指先に口づけた。
「さて。姫君の願いは叶ったようだし、帰ろうぜ?」
 このままここでふたりきりでいるのもいいけれど、さすがにそれでは邸の者たちが気の毒というものだ。
 焦らずとも、今日はもう出掛ける用事もないのだから、ゆっくりと望美を独占できる。
 生まれ変わるまでもない。今も、これからも、望美が一緒にいるならそこが天上だ。
「うん」
 日に焼けた天女は、極上の笑顔で頷いた。

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