満月の誘惑

「あ!」
 声をあげた珠紀が、「見ましたか?」と目を輝かせて問いかけてくる。
「おぅ。……こっち見てないで、空見とけ。願い事すんだろ?」
 そう言って真弘が空を見遣ると、またひとつ星が流れた。
 心の中で、願い事をひとつ。
 隣を見ると、見上げていた視線をこちらに寄こした彼女が、満足げに微笑んでいる。どうやら、願いは無事奏上されたらしい。

「今日は流れ星がいっぱい見られるって天気予報で言ってたんです。先輩、一緒に見ませんか?」
 8月も半ばにさしかかり、残暑厳しい季封村も夜は多少涼やかに過ごせるようになってきた。
 夕飯を済ませ、窓を開け放った自室でうだうだと過ごしていた真弘に掛かってきた珠紀からの電話。受話器の向こうで声を弾ませた彼女の、楽しげな笑顔が見える気がした。

「先輩も、何かお願いしましたか?」
「まあな」
 草の上に並んで座り、先ほどからふたりで空を見上げている。
 電話を切ってすぐ神社に足を運んだ真弘は、どうせなら、と星がよく見える場所まで珠紀を連れ出した。
 山間を抜けた林の先。周囲に人家の明かりはなく、頭上を遮るものがないこの原っぱは、星を見るには絶好の場所だった。押し潰されそうな不安に駆られ、ひとりになりたい時に足を向けていたここに、こんなに満たされた気持ちで訪れる日が来ようとは、あの頃の自分は想像してみることもなかった。着いて早々、珠紀が歓声をあげたこの星空は、手を伸ばせば届きそうな星を、手にすることが出来ない未来になぞらえて、ため息と共に見上げ続けた空だ。
(こんなに喜ぶんなら、とっくに連れてきてやりゃよかったな)
 子供のように顔いっぱいに好奇心を浮かべて空を見上げる横顔を見つめていると、ふいにその顔がこちらに向けられ、真弘は慌てて視線を逸らした。
「なにを願ったんですか? 焼きそばパンをたくさん食べたいとか?」
「願うまでもねえな。毎日食ってる」
「じゃあ……背が伸びますように、ですか?」
「んなもん、成長期の俺様がわざわざ願うか」
「成長期……」
「なんだよ?」
「いえ。……あ、成績があがりますようにとか、来年は受かりますようにとか?」
 浪人生にとって、それは至極まっとうな願いだろう。
 珠紀は、真弘が大学に受かっていたとは知らない。珠紀だけでなく、祐一を除く全員が、本当のことを知らないままだ。
 鬼斬丸を壊してからそれなりの時が過ぎ、村の雰囲気もずいぶん落ち着いた。だからこそ、進学すれば村を離れなくてはならないのを承知の上で、大学を受けた。
 けれど、いざ自分の受験番号が張り出されているのを目にし、それが現実となりかけた途端迷いが生まれた。村を離れるということは、いざという時、誰よりも早く傍に駆けつけることが出来なくなるということだ。
 迷って、考えて、眠れないままに朝を迎えて。
 やはり珠紀を他の誰かに任せる気にはなれず、浪人することを選んだ。
 落ちたと伝えた時の一同の顔に浮かんだ、やっぱり、という表情には少し、いやかなり悔しい気分を味わったけれど、本当のことを知れば気にするであろう珠紀のことを思えば、成績が悪くて落ちたと思われていた方が何倍もよかった。
「……落ちてくる星に願うのか? 縁起でもねーなぁ」
 そう言って笑うと、珠紀も「そういえばそうですね」と釣られたように笑う。
「じゃあ、うーん……。……世界征服とか?」
 見当がつかなくなったのか、突拍子もないことを言い出した珠紀に、「おまえ……俺をなんだと思ってるんだ?」と軽く睨めば、「冗談です」と誤魔化すように笑う。
 そんな珠紀の肩越しの遥か上空では、満月が明るく輝いている。こんな日は、儚い光は月明かりに飲まれてしまい、星を見るのにいい日とはいえない。
 天気予報で言っていたというからには、なにかの流星群が見頃なのだろうが、こんな月の夜に見えるだろうかと少し心配だったが、杞憂に終わってよかった。
「俺よりおまえはどうなんだよ? 何願ったんだ?」
「ふふ、あのですね。先輩の願いが叶いますようにって願っときました。だから、先輩のお願い事は絶対叶いますよ?」
「……却下だ」
「えぇぇぇ!? なんでですか?」
「んなもん……、いいからなんか願い直せ。ほら、また流れたぞ」
 促してみても、珠紀は空を見上げることなく、こちらを向いたまま少し不服そうに唇を尖らせている。
「だって……一番の願いは、もう叶ってるんです。先輩が叶えてくれてるから」
 真弘が叶えている珠紀の願い。それは、彼女が叶えてくれている真弘の願いと、同じということだろうか。
 なんとなく照れ臭くなり、目を逸らして再び星空を見上げてみても、珠紀の視線がこちらに注がれているのを感じて鼓動が早まる。
「それだと星が困んだろうが。訂正しとけ」
 星に願いを捧げるなんてことは、今までしたことはなかった。本当に望むことなら自分で叶えるし、目下一番の願いは叶っている。それでも願ってみる気になったのは、珠紀があまりに一生懸命に流れる星を探していたからだ。
 何を願いたいのだろうかと疑問に思いつつ、そんな彼女に倣って、なんとなく、でも心から願った。珠紀の願いが叶うように、と。
「なんで困るんですか。先輩、そんな無茶なお願いしたんですか? やっぱり世界征服?」
「だからなんで世界征服なんだよ!?」
「だって先輩、時々笑い方が悪役っぽいです」
「ほぉ、おまえが俺をどう思っているか、よぉくわかった」
 彼女の髪をぐしゃぐしゃと両手でかき混ぜるようにしてやると「ちょ、先輩、やめてください」と抗議の声があがる。
「うっせぇ。いいから訂正しとけ」
 これだけ間を置かずに星が流れているということは、流星群は今がピークなのだろう。それも、あとどれくらい続くかわからない。願い事を正すなら、早い方がいいに違いない。
「早く考えないと終わっちまうぞ」
 言って軽く伸びをしてから草の上に寝転がり、己の両腕を頭の後ろで組んで目を閉じた。草の匂いのする空気を肺いっぱいに吸い込んでから、ゆるゆると吐き出す。
 遠慮がちに虫の声が響く中、傍らに珠紀の気配を感じる。それだけで、なんだかとても幸せだ。
「じゃあ……。先輩が明日も一緒にいてくれますように」
 呟くような彼女の声に瞼を上げると、てっきりこちらを見て言っているのかと思いきや、彼女は空を仰いで願っている。
「明日も明後日も、……ずっと傍にいてくれますように」
 真剣な顔でそんなことを口にする姿に、苦笑する。
(そんなもん星に願ってどうする)
 願うなら、それは星にではないだろう。だいたいそんなことは、今更願うまでもないことだ。
 寝転んだまま横顔を見つめていると、「聞いてますか?」と珠紀が覗き込んできた。やはり、願いは真弘に向けられていたらしい。
 小首を傾げる彼女の姿を、背後の月明かりが蒼く縁取る。
「星に言ってんだろ?」
 ニヤリと笑ってやると、真弘を上から覗き込んだまま「ほら、やっぱり悪役っぽいです」などと言ってまた唇を尖らせた。
「……世界なんかいるか」
 髪の先から零れる月の光に誘われるように、真弘は片肘をついて身を起こす。もう片方の手で、世界よりも欲しくて溜まらない存在をそっと抱き寄せ、くちづけた。

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