なんの罰ゲームだこれは。
そう思ってはみたものの、実際は罰ゲームでもなければ、誰かに強制されたわけでもない。
早く渡してしまえばそれで済むはずだったのに、今日に限って珠紀がなかなか現れないばっかりに、真弘は先ほどから校門から出てくる生徒たちの好奇の目に晒されている。
鴉取先輩だ、とひそひそと言い合い、時にはクスリと笑いを漏らしながら過ぎていく彼らに喚き立てるわけにもいかず、迎えに来る約束をしたことを心底後悔しながら、雨が上がり雲の切れ間から青色が覗き始めた空を恨めしく見上げた。
「先輩、明日は勉強会じゃなくて、昼からパーティですからね」
鴉取家で一緒に勉強をした珠紀を、神社まで送り届けた土曜日の別れ際。傘を差しながら、濡れた石段を何段か上った珠紀はそう言って振り返った。
浪人生となった真弘と、受験生となった珠紀は、週末のデートといえば、もっぱらどちらかの家で勉強会をしている。清く正しく真面目なそのデートは、真剣に大学進学を目指しているからというよりも、単なるお財布事情によるところが大きい。
本当はバイトのひとつでもしたいところだが、この村で、守護五家の者をバイトさせてやろうなどという剛気な店は一軒たりともありはしないだろう。かといって、村の外までバスで往復何時間もかけてバイトに行くというのは、浪人生にはかなりハードルが高い所行だ。
そんな事情は珠紀も似たり寄ったりで、結局限られた小遣いでのデートとなれば、村の外でのデートなど月に1度がせいぜいで、それ以外の週末は互いの家でうだうだと過ごす羽目になり、家の者の目を考慮すれば勉強会となることが多かった。もっとも、勉強会というのは名目で、その実、雑談をしたりゲームをしたり、時にはDVDなど観て過ごす時間の方が長くなるのは、当然といえば当然だった。
今日もそんな風にして過ごした別れ際。珠紀の突然の発言だった。
「パーティか。明日なら祐一の奴も帰ってるし、久し振りに全員で盛り上がるか」
「はい」
「で、なんのパーティだ? そろそろ鍋って季節じゃないよな」
これまでも鍋パーティは幾度かしたが、蒸し暑い梅雨時ともなれば、そろそろ鍋という気分ではない。ここはやはり焼き肉パーティが妥当だろう、などと考えている真弘を見つめ、珠紀はひとつ息を吐く。
「……です」
パタパタと傘を叩く雨音に消された珠紀の声を「なんだ?」と尋ねると、一段大きな声で珠紀が答えた。
「誕生日パーティです」
「そうか、誕生……、は? 誰のだ?」
「私です。明後日誕生日なんです、私」
これまでいつなのかと考えたことすらなかった珠紀の誕生日。それが明後日。
マジかよ。知らなかった。
漏れかけた呟きをどうにか押しとどめた真弘に、彼女はにこにこと笑顔を張り付かせたままだ。
「先輩には今日まで少しも全くこれっぽっちも興味を持って貰えず、日にちを訊かれることもなかった、私の誕生パーティです。もちろん参加してくれますよね?」
コワイ。
珠紀の口元は確かに笑みを形作り、声だって穏やかで明るい。
それなのに、嫌味を隠さないその物言いも、笑っていない目も怖い。
この迫力は美鶴のそれだ。変なところで、近頃珠紀は美鶴に似てきているのではないか。
そんなことを思いつつ、背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、真弘は誤魔化すように乾いた笑い声をあげると「知ってたに決まってる」と断言した。
「俺を誰だと思ってる。おまえの彼氏だぞ? その俺様が自分の女の誕生日を知らないワケがないだろう。当然だ! 明後日だろ? 明後日っ! パーティが明日っていうから、誰のかと思っただけだ」
疑いの眼差しでこちらを見下ろす珠紀に捲し立てるように言った真弘は、「わかったら早く家入れ」などと言って石段の途中でこちらを見ている珠紀を追い立てた。
翌日のパーティは、久しぶりに全員が集まり、珠紀を囲んで大いに盛り上がった。
その帰り道。
「最低っすね」
誕生日プレゼントは当日に渡すものだ、今日渡すのは邪道だから持ってこなかった、などという主張が言い訳でしかないことなど、長年のつきあいである幼馴染み達には当然のように見破られていた。
珠紀の誕生日を知らなかったと白状した真弘に、周囲は呆れ顔だ。
「しょうがねぇだろがっ。聞いたの昨日の夕方だぞ?」
「買い食いし過ぎて金がないだけかと思ったんだが、知らなかったとは予想の上を行くな」
駄目押しのような祐一の言葉に「昨日の夕方まで知らなかったっていうのがびっくりです」などと慎司までもが畳みかける。
「んだよ。じゃあ、おまえらはいつから知ってたんだよ?」
「僕は去年誕生日プレゼントを貰った時に訊いたので」
慎司の言葉に、祐一と拓磨も同じく先月プレゼントを貰った時と答え、まだ祝って貰っていない卓は「基本情報ですから」と微笑んだ。遼に至っては「誕生日くらい知ってて当然だ」などと言い、くだらない質問をするなと言わんばかりの態度に敗北感さえ覚えた。
確かに、つきあっている彼女の誕生日も知らずにいたというのは問題だとは思う。
本当は、花を買うくらいならば村から出なくとも調達は可能だったし、パーティに間に合わせることは出来た。けれど、珠紀の誕生日プレゼントを間に合わせで済ませる気になどなれるはずがない。
大切な珠紀の誕生日。
ならばなぜ今までそれを気にかけたことがなかったかといえば、真弘にとって誕生日とは祝うべき特別な日ではなかったからだ。自分が生まれたその日を、どうにか生き延びて迎えられたと安堵しながら、次はないかもしれないなどと考える。誕生日とはそういう日だ。
それが世間一般の感覚とかけ離れたものだというのは認識しているが、物心ついてから──あの日以来、そうだったのだから仕方ない。
真弘がこれまで彼女の誕生日を気に掛けたことがないのは、つまりそういうわけだった。
「もっと早く言えっつうんだ」
訊きもしなかった己を棚に上げ、ひとりごちてみても始まらない。
初めてのプレゼントはクリスマス。事前リサーチは完璧で、珠紀を驚かせつつも喜ばせることに成功した。あの時、贈り物とは案外高くつくことを学んだ真弘は、いつもなら冬休み明けにはなくなっているお年玉を温存していたお陰で、プレゼントの資金源には事欠かない。
今回はリサーチこそしていないものの、珠紀の喜びそうなものに、ひとつだけ心当たりがあった。
先週のこと。
真弘の部屋で、買ってきたばかりのファッション誌を見ていた珠紀が「可愛い」と呟いて、ふわりと微笑んだ。
あまりに幸せそうな笑みで誌面を見つめているから、なにがそんなに珠紀の心を捉えたのかとその手元を覗き込むと、ノースリーブで胸元の大きくあいた小花柄のワンピースを着た少女が快活に笑っていた。
確かに可愛いし、珠紀にも似合うに違いない。いやむしろ、珠紀が着た方が絶対に可愛い。しかし、その胸元の開きっぷりは好ましいほどに目の毒で、しかも他の男も目にするかと思うと、とても許せそうにない。
「やめとけやめとけ」
「え? なんですか?」
「あー、だから……なんだ、そういう服はもっとこう、胸がでかい奴が着た方が……痛っ!」
後頭部に走った痛みに顔をしかめると、先ほどまでの笑みはどこへやら、隣に座る彼女はむぅとこちらを睨んでいる。
「どうせ私は平らです! まだこれから育つんです!」
真弘は別に珠紀の胸が平らだなんて思っていない。残念ながらまだ服の上からしか見たことがないものの、大きくはなさそうだが、けして小さくもないだろう。
それでも、もちろん大きいに超したことはない。育つというなら大歓迎だ。
「それは……楽しみだな」
つるりと滑り出た本音に「先輩のスケベ」と氷のような眼差しを向けられた真弘は「おぉ、俺は健全で正常な18歳男子だからな」と開き直って胸を張った。
「もぉ」
ほんのり頬を染めつつも、「服じゃなくて私が言ったのはこっちです」と珠紀が指さしたのはシロクマのぬいぐるみだ。
新緑の木漏れ日の下。少女の隣に置かれた茶色いトランクケースの上に座らされているそれは、誌面の中からつぶらな瞳をこちらに向けていた。
そして今。
健全で正常な18歳男子は、シロクマのぬいぐるみを抱きかかえながら、校門の前に立ち尽くしている。
その姿が他にどれほどの違和感を与えるかなど、通り過ぎる生徒の面白がるような眼差しがなくとも、容易に想像がつく。
本当は、こんな風に剥き出しのぬいぐるみを抱えて待つ予定ではなかった。元々は、腕の中のこれもきちんとプレゼントらしくラッピングが施されていたのだ。風船に入れるという変わったラッピングで珠紀も驚くに違いないと喜び勇んで帰ってきたのに、あろうことか混み合う電車で割れてしまった。
しかし、学校に迎えに行く約束をしている以上、時間的にも店に引き返す余裕はなかった。大切なのは本体であるクマだ。幸いクマの首には可愛らしくリボンが巻かれ、プレゼントの体裁は保っている。紙袋に入っているのだし、風船の残骸を取り除けば大丈夫だろう。
そんな風に考えながら村に帰り着いてみればひどい雨。傘を差し紙袋を濡らすことがないよう気をつけながら家に帰ったものの、紙袋は湿気と抱えて歩いたゆえにヨレっとした見た目に陥り、プレゼントとして渡すには気が引けるシロモノになっていた。
家にも紙袋くらいはあったはず、と漁ってみたが、スーパーの袋やどこぞの和菓子屋の名前の入った袋ばかりで、間に合わせ感ありありのそれらは、とても使えそうにない。
珠紀の下校時間は迫っている。そうでなくとも今日まで渡すのを引っ張った以上、迎えに行ってプレゼントを渡すという約束は絶対に違えるわけにはいかない。
焦る真弘は、可愛い袋を文具屋あたりで買えばいいということすら思い浮かばず、傘で隠して歩けばそうそう人目につかない、珠紀に逢ったらすぐに渡すのだし大丈夫だ、と強引に納得して、クマを抱えて家を出たのだ。
罰ゲームでなけりゃ、修行だな。つーか、苦行だ。
なかばふて腐れたようにそんなことを思いつつ、門の柱に寄りかかる。
人目を隠してくれるはずの傘は、こうして雨があがってしまえばさしているわけにもいかず、またひとり校門から出て行く生徒の眼差しがちらりとこちらに向けられた。
数人の女の子のグループの「やだぁ。なにあれ、可愛い」などとひそひそと聞こえてきた声に、真弘の中で何かが切れた。
限界だ。もう限界だ。こんな場所で待っていないで、教室まで迎えに行こう。クマを抱えて校内をうろうろするのも気が進まないが、その方が早く珠紀に逢えるだろう。
真弘が柱から背を離した瞬間、水たまりを飛び跳ねるようにして避けながら、ぱたぱたと珠紀が駆け出してきた。
「すみません、先輩。先生に捕ま……」
言いかけた言葉は、真弘の腕の中に縫い止められた視線と共に止まる。
驚きに瞠られた目は、雑誌を見ていたのと同じように柔らかに細められ、「可愛い……」という呟きが零れる。
「ん」
やっとこの恥ずかしいシロモノを手離せる。
安堵感と共に押しつけるように渡すと、鞄を肩に掛けた珠紀は特別な宝物でも受け取るような恭しい様で、両手をクマの脇に差し入れ、そのまま無邪気な子供のような笑顔できゅっとそのクマを抱きしめた。
「ありがとうございます!」
嬉しそうな珠紀を前に、先ほどまで好奇の目に晒されていた不快な気分は容易く吹き飛んだ。
代わりにやって来たのは、可愛い、嬉しいなどと言いながら満面の笑みでぬいぐるみを抱きしめる珠紀への愛おしさと、抱きしめられるシロクマに対するわずかながらの嫉妬心だ。
可愛いなどと言われたくはないが、ここまで幸せそうな顔で珠紀に抱きしめられたことなど、多分一度もないのではないか。ぬいぐるみ相手にそんな対抗心を感じる自分に内心苦笑していると、珠紀は「よし。じゃあ、君の名前はまひろだ」などとクマに話しかける。
「はあ? なんで俺の名前なんだよ」
「だって……ずっと一緒にいられるみたいでいいじゃないですか」
発言自体は可愛く思える。以前、オサキ狐にそう名付けかけた時のように不快に感じないのは、自分の心情が変化したからだろう。
しかし。
「一緒に寝ようね、まひろ?」
一緒に寝る。
自分だってまだなのに。シロクマの分際で。
しかし、さすがにぬいぐるみ相手にそんなことを思っているなどとは気付かれたくない。
「おい、名前変えろ。クマ子にしとけ」
「……クリスタルガイの時よりひどくないですか?」
「ひどいとはなんだ! ……わかった。だったら、クリスティーヌとかセシリアとか、なんならティアラでもいいぞ」
確かにクマ子は安直すぎるかもしれないと思い直し、真弘はクリスタルガイ歴代ヒロインの名前を挙げてみた。
「なんで女の子の名前ばっかりなんですか?」
「うるせぇ。そいつはメスだ、買ってきた俺様が言うんだから間違いない。いいな絶対メスだからな!」
「……? はあ」
せめてもの譲歩だ。それなら一緒に寝ることは許してやろう。
「……考えときます」
腑に落ちない表情の珠紀に、真弘は肝心なことを言い忘れていたことを思い出した。
「珠紀。誕生日おめでとう」
「ありがとうございます! ふふ、今までで一番嬉しい誕生日です」
「ま、この俺様が祝ってやってるんだ。当然だな」
「先輩は8月ですよね。楽しみにしててくださいね」
「おう、期待してるぜ?」
あの日以来、誕生日を楽しみだなんて思ったことは一度もない。けれど今年は、幸せな気持ちで過ごせることは間違いないだろう。
梅雨とも思えない青空を見上げて、真弘は自分の誕生日が待ち遠しいと心から思えた。