記憶の欠片 幕間 選択肢のない選択

「私ね先生に会うまで、この村が大嫌いだった」
 川縁の草の上に座った彼女の横顔を、夕焼けが鮮やかに照らす。少し眩しそうに目を細めた彼女は、懐かしむような笑みを浮かべて言葉を続けた。
「高校生になって、先生が村に来たじゃない? そしたら先生いちいち村の景色を誉めるから、そうかこの村も悪くないかもって思うようになったの」
 始めにこの村を訪れたのは、表向きは教師として、その実、村のカミの動向を調査する為だった。鬼斬丸を擁すこの村は、それ専属の担当者がいたが、彼らだけでは手が回らない細かな調査やサポートをするというのが、彼に与えられた仕事だった。
 やがて任期を過ぎ転属になってこの村を離れても、時間を作ってはここに通い続けたのは、彼女がいたからだ。
 あと少しで。
 色づき始めた葉が枯れ落ちる頃には、この閉ざされた村から彼女を連れ出すことが出来るはずだった。
「なんか話してよ。さっきから、私ばっかり話してるよ」
「すぐに村を出よう。典薬寮が出入りに使っている道がある。そこからなら、誰にも見つからずにこの村から出られる」
 草の上に置かれた手に、己の手を重ねる。指先を絡めながら、男は懇願するように言った。その姿を見つめた彼女は、まるで哀れむように目を伏せて首を振る。
「……ダメ。それはできない」
「なぜっ!? このままでは……」
「だって……、世界が終わってしまうから」
 この村の人間ならば、成人する頃までには、知っていなければならないことだった。
 鬼斬丸のこと。その封印を管理する玉依姫と守護者のこと。そして、封印を維持する手段。
 世界の存続を秤にかけて、諦めと共に差し出され続けた命。
 次に捧げる贄に選ばれたのは、彼女だった。
「いくらでも代わりはいる」
 そう口にしてはみたが、代わりがいないというのはわかっていた。
 彼女以上の贄はいない。玉依姫によって選ばれるとは、そういうことだ。
「知ってるでしょう? 代わりはいないのよ」
 そうだ。知っている。封印を管理する玉依姫がそう言うのだ。今、彼女以上に封印を守れる命はないのだろう。
「綺麗だね。先生と過ごす最後の日が、こんなに綺麗な夕焼けでよかった。私が守る世界はこんなに綺麗なんだって、少しは自分に納得させられるもの」
 諦めを浮かべた彼女に、かける言葉が見つからない。
 世界の為。
 くだらないと吐き捨てることなど許されない、絶対的な重みがそこにはあった。
「……約束を、守れなくてごめんね?」
 呟くように言って、男の首に腕を回し抱きついた彼女は、彼の耳元で小さく男の名を呼んだ。
 クセになっているから変えられないと赤い顔で言い張った彼女は、制服を脱いでからもずっと「先生」と呼び続けた。
 それなのに、なぜ今この時に、名前を呼ぶのだろう。
「あのね。贄になる人は、来世で必ず幸せになるんだって」
 抱きついたままで、彼女はそう言った。
「そんなもの、意味がない。だから……」
「うん。私もそう思う。だからね、もしもそんな幸せが得られるなら、先生に全部あげるから、だからきっと幸せになって?」
 強く強く抱きしめる。
 ひとつの命で、無数の命が救われるというならば、どちらを優先すべきかなど、わかりすぎるほどにわかっていた。
「……死ぬってどんなだろう」
 抱きついたまま、ぽつりと落とした言葉は、ほんの少し震えていた。
 そろりと体を離した彼女は、男の顔をじっと見つめて、その手をおずおずと男の顔に添えた。
 その手に己の手を重ねる。
「贄になる時は、全然怖くないんだって。村長が言ってた。望む夢を見て、幸せな気持ちで死ねるんだって」
「……」
「夢の中の先生も、こんな風にあたたかいといいな」
 微笑んだ彼女の目から、涙が零れて頬を濡らした。

 ふたりの前に、選択肢はなかった。あったのは絶望だけだ。
 世界の為に。無数の命を救う為に。彼女のただひとつの命を差し出すほかなかった。
 泣きながら笑ったそれが、彼女の最期の笑顔になった
 

 季封村に次代の玉依姫がやってきたのは、そのすぐ後のことだった。