びくりと体が揺れて目が覚める。
ああ、夢だ。
ゆるゆると息を吐き出しながら安堵するのに、先ほどまでの余韻か、胸が重苦しいまま拍動が全身に響いていた。
大丈夫。ただの夢。
そう言い聞かせて、珠紀はそっと体を反転させた。
* * *
布団の中で、唐突に目を覚ます。枕元の時計を見るともなしに見れば、時刻は3時24分。
静かに身を起こし、布団の中の膝をたてて、そこに顔を埋める。夢の余韻を引きずるように、まだ少し体が震えていた。細く長く息を吐き出して、単なる夢だと言い聞かせるのに、胸の鼓動が収まらない。
(大丈夫……。真弘先輩は大丈夫)
心の中で繰り返す。
今頃きっと、天下をとったような顔で眠っているはずだ。きっと大の字になって、焼きそばパンの夢でも見ているに違いない。
言い聞かせるのに、胸苦しさは消えないままだ。
(真弘先輩……)
いつでも電話してこい、と言われていたけれど、さすがにこんな理由で電話などできるはずもない。
けれど。
ただの夢じゃなかったらどうしよう。
玉依姫の力で、なにかを感じ取ったのだとしたらどうしよう。
止まらない震えは、布団から出ている肩や背中が冷えてきているからだけではない。
いつもならまったく気にならない目覚ましの秒針の音がやけに大きく聞こえて、珠紀は何かを急かされているような心地になった。
「ニィ」
布団をめくられて寒くなってきたのか、傍らで丸まっていたオサキ狐が小さく不満を訴えて、掛布団の奥へと移動していく。その姿を見るともなしに見ていた珠紀は、水でも飲もうと立ち上がった。
そろそろ初雪が降りそうな時節。己の腕をそっと抱き寄せながら、ひやりとした廊下の板を踏みしめる。暗がりのなか階下に降りていくと、階段の横に置かれた電話が目に入った。
非常識だとわかっている。ただの夢なのだから、きっと彼は大丈夫に決まっている。でも心配で堪らない。
電話の前に立った珠紀は、迷いながらも受話器を持ち上げた。
ただの夢だと笑い飛ばして欲しい。
こんな時間に電話をかけるなと怒ってくれるんでもいい。
ダイヤルに指をかけて、でもやっぱり、と受話器を置いた。
受話器に手を置いたまま、しばし固まった珠紀は、再び思い切って受話器を持ち上げ、指が覚えた番号をまわす。珠紀はこのレトロなダイヤル式黒電話が気に入ってはいるけれど、こんな時はゆるやかに戻るダイヤルがもどかしい。
そして、番号すべてをまわし終えて、コールが鳴り出す直前。受話器を置いて、長く息をはいた。
やっぱりこんなことで電話していい時間じゃない。
真弘の声を諦めた珠紀は、台所で水を飲み部屋に戻った。
不安は消えないけれど、動悸も震えも収まった。だからといって、もうとても眠れそうにない。あと1時間と少しすれば、徐々に外は明るくなってくる。境内でも掃除して、朝を迎えたら理由をつけて逢いに行こう。そんなことを思いながら、珠紀は着替えて外に出た。
夜明け前。空気は冷たく冴え渡り、ひときわ闇が深くなる時刻。
それでもここまで駆けてきた真弘は、少しの寒さも感じなかった。
白い息を規則正しく放ちながら、境内への階段を軽やかに登っていく。
(で、どうすんだ? 俺?)
彼女は今頃布団にくるまって、もしかしたら自分の夢でも見てくれているかも知れない。こんな時間に訪ねるわけにもいかないし、様子だけ見ようにも2階の彼女の部屋のカーテンは閉ざされているだろう。神社と宇賀谷邸の周囲を見回り、異変がないのを確かめたら、すぐに帰るしかない。
真弘がこんな時間にここまでやって来たのは、電話のせいだった。
自慢じゃないが、寝起きは悪い。それなのに、電話が鳴った気がして目が覚めた。
鴉取家では、21時を過ぎると通話回線は真弘の部屋へと持ち込まれる。夜遅くに電話を掛けるのは申し訳ない、と言った珠紀の為だ。絶対に自分が出るから気にせず掛けろと言ってあったものの、約束なしに夜遅くに掛かってきたことは今のところまだない。
その電話が、鳴った気がしたのだ。
時計を見れば、まだ明け方にも届かない時刻。
こんな時間に鳴る電話といえば、誰かの急病や訃報を告げる電話か、たちの悪いイタズラや間違い。そして、珠紀。
寝ぼけた頭で起き上がり、枕元に鎮座したそれを見つめること10秒あまり。電話は変わらず押し黙ったままだ。
気のせいに違いないと考え、再びぬくぬくとした掛け布団の中にもぐりながら、念の為、珠紀の気配を探る。宇賀谷家にある彼女の気配の周囲にも、不審なところはない。問題なさそうだ。
けれど。
(……仕方ねえな)
それでも落ち着かない心地は消えることはなく、もう一度寝るのは取りやめてベッドを抜け出した。
着替えて家を出た真弘は、その寒さに一瞬身をちぢこませたものの、すぐに宇賀谷家に足を向けた。ゆるやかな歩調は徐々に早足になり、結局ここまで駆けてきた。
そして、上りきった階段。
息をついた真弘の目に飛び込んできたのは、信じられないものでも見るような表情でこちらを見ている珠紀の顔だった。
「おまえ、なにしてんだよ? こんな時間……っ!?」
手にした箒を放り出して駆けてきた彼女は、真弘にぎゅっと抱きついた。
彼女が比較的早起きなのは知っている。早く起きすぎて時間を持て余し、おみくじをひくことがあるというのも以前聞いた。しかし、珠紀の『早く起きすぎて』という時刻は、こんな時間を指していたのだろうか。放り出した箒を見れば、境内の掃除をしていたというのは想像の範疇だが、それにしてもまだ真っ暗なこの時間にすることではないだろう。
「おい、どうし……」
「本物ですよね?」
「はあ?」
「真弘先輩ですよね?」
「おまえなぁ。そうでなかったら誰に抱きついてんだよ?」
「だって、こんな時間に先輩が起きてるなんて考えられないです」
俺だって考えられない、と真弘は内心ため息をつく。この寒い季節に、至上の楽園ではないかと思えるほどのぬくもりを宿したベッドを這い出すのは至難の業だ。それなのに、なんとなく気になったというだけで、楽園を捨ててここまで来てしまった。
「俺はその……だからだな。そう! おまえがたまには早起きして、境内の掃除をしているんじゃないかと思ってだな。監督してやろうかと思ったんだよ」
そんな理由があるかと自分でも思うが、鳴ったわけでもない電話が気になってと白状するよりも、まだマシに思えた。
なんの根拠もないのに、様子を見に来ずにはいられないほどに、珠紀のことが気になったのだ。
「わけわかんないです」
案の定、珠紀は怪訝な顔をする。
しかし、わけがわからないのはこちらも同じだ。こんな時間に境内を掃除しているのも、その珠紀が「真弘先輩ですよね?」などと確認するのも意味不明だ。
腑に落ちない心地ながらも、胸元にすがりつくようにしている珠紀の背に腕を回せば、彼女が少し震えているのがわかった。寒いのか? と訊きかけた言葉は、夢じゃないですよね? という不安そうな声に打ち消される。
わかりきったことを再確認する珠紀に、寝ぼけてんじゃねーぞと茶化しかけた真弘は、その眼差しが思いのほか真剣だったのでやめておいた。かわりに、彼女の冷えた頬に両の手を添え、挟み押して彼女の唇を尖らせてやる。そうして「正真正銘天上天下鴉取真弘先輩様だ」と笑ってやると、「変な顔させないでくださいっ、だいたい日本語変ですよ」と身を離した珠紀が頬を膨らませた。
「で、どうした? なんかあったんだろ?」
「……ずるいです」
珠紀は頬を膨らませたままだ。
「せっかく電話鳴らす前に切ったのに、こんな風に突然来るなんて」
やはり珠紀は電話を掛けたのだ。自分の行動が見当違いではなかったことに安堵しつつ、真弘は返した。
「……鳴ったぞ。電話」
「えぇっ! ホントですか? ごめんなさい。すぐに切ったんですけど」
「たぶん、鳴らなかった」
「……どっちですか?」
「うっせぇっ。おまえが呼んでるような気がしたんだよ。だから、来た。悪いかっ!?」
鳴らさなかったというけれど、電話は鳴ったのかもしれない。鳴らなかったのかもしれない。そんなことはどちらでもいい。珠紀は呼ぼうとしたし、自分はこうして駆けつけた。それがすべてだ。
「悪く、ないです……。来てくれて、嬉しいです」
頼りなげに微笑んだ彼女に「まず最初にそれを言え」と言った真弘は、もう一度そっと彼女を抱き寄せた。
「で? 白状しろ。何があった?」
怖い夢を見たんです、と。
観念したように、ぽつりと珠紀が告白した。
体を反転させた珠紀は、遠慮がちに「せんぱい」と呼び掛ける。
身を寄せて、自分とは違う穏やかな拍動に、自分の鼓動も宥められていくのを感じた。
ふと傍らのぬくもりが小さく笑って、珠紀のことを抱き寄せた。
「おまえに『先輩』って呼ばれんの、すげー久し振り」
「起きてたんですか?」
「起きたんだよ。なんだ? また変な夢でも見たか?」
真弘は憶えているだろうか。
怖い夢を見て、不安に押しつぶされそうな気持ちを祓うように、境内を掃除していたあの日。なかなか夜は明けなくて、必死で箒を動かしていた時に、駆けつけてくれた真弘に、そんな都合のいい話があるわけないと夢かと思った。
「……はい」
「……正真正銘天上天下鴉取真弘先輩様がここにいるんだ。大丈夫に決まってるだろが」
その言葉に、真弘もあの日のことを思い出しているのだとわかって、珠紀は幸せな心地になった。
もう悪夢の余韻はどこにもない。
「まだこんな時間か。寝るぞ。明日は1限休講だからな。ギリギリまで寝る」
宣言した真弘は、珠紀を抱き込んだまま目を閉じる。
ぬくもりに包まれながら、珠紀も穏やかな気持ちで再び目を閉じた。