きっかけは、クリーム鯛焼きだった。
鯛焼きを食べて帰ろうという拓磨に、商店街の鯛焼き屋は、今の季節はあんこの鯛焼きしか売ってないから行きたくない、と答えた。
すると拓磨は、あんこがあれば十分だと主張し、だってクリームの方が好きなんだもん、と珠紀が譲らなかった。
あんこがオーソドックスであるというのを認めるのはやぶさかではないが、クリーム全否定は許せない。
というのが理由ではもちろんなくて、もう鯛焼きには飽き飽きしていたし、そもそも今日は鯛焼き屋になど寄りたくなかった。
ちょっとした言い合いに拍車がかかり、道々止めることもできないままに続いたそれが、神社に到着する頃には本格的にケンカになっていた。
「拓磨なんて大っ嫌い!」
「ああ、そうかよ! 勝手にしろ」
境内へと続く階段を駆け上った背に聞こえたのは、拓磨の捨て台詞だった。
* * *
「サイアク……」
玄関の戸を引きながら、珠紀は盛大なため息を落とした。
今日は拓磨の誕生日だ。
本当なら今日は珠紀の手料理で誕生日を祝い、プレゼントを渡すはずだったのに、鯛焼きのせいでぶち壊しだ。
妥協して拓磨の言うとおりに鯛焼き屋に寄ればよかったのだろうけれど、今日はどうしてもそうせずに帰ってきたかった。
「お帰りなさいませ。……鬼崎さんは一緒ではないのですか?」
「一緒じゃないよ。もうあんな奴知らないっ」
靴を脱いで足音荒く歩く珠紀の後を、出迎えに出てきた美鶴が続く。
「まったく、鯛焼き鯛焼きって。そんなに好きなら、鯛焼きに誕生日を祝って貰えばいいのよっ」
「あの、では、お夕飯は? それに、プレゼントの支度も……」
「もう、拓磨になんてあげない! 美鶴ちゃん、二人で食べよう!」
「え゛っ」
声に振り向けば、顔をひきつらせた美鶴が固まっていた。
それはそうだ。当然だ、と思う。
珠紀は慌ててフォローするように付け足した。
「あ、だ、大丈夫だよ。アレンジバージョンをいろいろ考えてあるの」
「……。あのう、非常に申し上げにくいのですが」
「どうしたの?」
「今日はこれから言蔵の家に行こうかと……。あぁ、でもやはりやめておきます。珠紀様おひとりというのも心配ですし」
「あ、大丈夫、大丈夫。たまには実家に帰ってゆっくりしてきなよ。私のことは心配しないで。なんなら泊まってきたら?」
いくら代々のしきたりとはいえ、自分よりも年下の美鶴が、実家を出てここに住んでいていいのだろうか、と珠紀は今でも時々思う。
静紀を欠いた宇賀谷家に、彼女がいてくれるのはとても嬉しいし、心強い。
けれど、もっと年相応の生活──例えば実家に戻って学校に通うとか、そんな生活をした方がいいのではないか。そう考えて、美鶴に提案してみたことはあるけれど、お邪魔ですか? などと泣きそうな顔で言われれば、もうそれ以上は何も言えなかった。
だからこそ、こんな風に美鶴から実家に行こうと思うなどと聞かされれば、泊まりでゆっくり過ごしてくればいいと思ってしまう。
「いえ、それは。あまり遅くなる前に帰るつもりですが……本当によろしいのですか?」
「うん。おーちゃんもいるし、心配ないよ。美鶴ちゃんも、気が変わったら、気にせず泊まってきていいからね」
「ありがとうございます」
微笑んで、ぺこりと頭をさげた美鶴は、珠紀が帰る前におよそ支度を済ませていたのか、そそくさと家を出て行った。
火力は弱めにじわじわと。
この1週間で学んだのは、焦ると仕上がりが固くなっておいしくない、ということだ。
かといって、弱すぎると必要な水分までとんでしまうのかパサパサした感じになって、それはそれでおいしくないのだ。
まずこの火加減が難しい。
目を離さず、ぷくぷく気泡が立ってきはじめたら、具を入れる頃合いをはかる。早すぎれば、沈んで表面化してしまうし、遅いとうまく馴染まない。
「たーまーきー。てつだうー」
背後で、そわそわとこちらを覗き込む気配がする。オサキ狐だ。
近頃はすっかり人型で過ごすことにも慣れ、幼い子供のように、なにかと手伝いたがる。それはとても微笑ましく、可愛く感じている珠紀ではあるが、これはさすがに難しくて、気軽にお願いというわけにもいかない。
「じゃあね、おーちゃん。テーブルを布巾で拭いておいてくれる?」
「うんっ!」
快活な返事を響かせて、ふーきふきーなどと歌うように言って、オサキ狐は布巾を片手に居間へと駆けていった。
珠紀は目の前のそれを眺めながら、ため息をついた。
「あーあ、せっかく練習したのにな……」
珠紀が作っているのは、鯛焼きだ。
拓磨の誕生日が近づくにつれて、珠紀は途方に暮れていた。女子校育ちの珠紀にとって、同年代の男の子の誕生日プレゼントなど、何を贈っていいのか見当もつかない。
散々悩んだ挙げ句、確実に喜んで貰えるのは鯛焼きしかないと思い至った珠紀は、通販で鯛焼き型を買った。
ワッフルメーカーのように電気式でタイマーがついているものもあったけれど、どうせ作ってあげるならば、ちゃんと直火で作ってあげたい。いつも鯛焼き屋で見ているが、慣れればそこまで難しくはないだろう。
そう考えて、火に掛けて使う型を買ったのだが、これが予想以上に難しい。
珠紀はここ1週間、毎夜鯛焼き作りの特訓に励んでいた。
お陰で、ここしばらくは夕食後に、美鶴とふたりで黙々と成功失敗入り乱れた練習作品を食べ続けた。
先ほど、美鶴が顔をひきつらせていたのは、珠紀同様あんこの鯛焼きは当分見たくもないほど食べ続けてきたからだ。
そのうえ体重が1kgも増えた。夕食を控えていたとはいえ、夜に甘いものを食べ続けた当然の結果といえたが、17歳の乙女にとって由々しき事態である。
せめてもの救いは、見目麗しい鯛焼きが作れるようになったことだが、それも拓磨とのケンカで水泡に帰した。
「せっかく尻尾の先まであんこを入れるのも、上手になったのになぁ」
あとで綺麗にラッピングでもして、拓磨の家に行ってみよう。
そう考えて、夕飯がてら鯛焼きを焼き始めた。
本当は出来たてを食べて欲しかったけれど、こうなっては仕方ない。謝って、鯛焼きを渡して、せめて今日中におめでとうと伝えたい。
「たーまきー、あのね」
ぱたぱたと足音を響かせて、台所に入ってくる気配は振り返るまでもなくオサキ狐だ。
珠紀はそろそろ具材投入時を迎える鯛焼きから目を離さずに、尋ねた。
「拭き終わった?」
「うん。ぴかぴかなのー。きれいになった」
背後の声は、手伝い達成の喜びに満ちた得意げな声だ。ご褒美に、この鯛焼きをあげよう。そう考えて、珠紀はリクエストを訊いた。
「ありがとね。ねえ、おーちゃん。鯛焼き、なにいれる? あんこかチョコか、ハムチーズとかツナコーンもできるよ?」
「クリームはないのか?」
「は!?」
まさかの声に慌てて振り返ると、そこにはオサキ狐と共に、ばつの悪そうな顔の拓磨が立っていた。
「な、なんで拓磨がここにいるの!?」
「なんでって……、おい、それ、いいのか?」
鯛焼きを指されて見れば、気泡は固まりつつある。これ以上焼いてから中身を入れると、皮と馴染まない。珠紀は、慌てて一番手近にあった粒あんを投入した。
できあがったそれは、練習の成果がまったく感じられない、あんが多すぎてはみだした、不格好な鯛焼きだった。
「美鶴から電話がきた」
失敗した本日第一号の鯛焼きは、オサキ狐が頬張っている。
珠紀が改めて鯛焼きを作る隣で、拓磨はぽつりとそう言った。
「今日は美鶴が言蔵の家に行くから、珠紀ひとりだと不用心だからと言われて、だな」
「別に、おーちゃんがいるから大丈夫」
「……」
来てくれて嬉しいのに、なんとなくすぐには素直になれない。
けれど、二個目の鯛焼きは、確認するまでもなく拓磨の好きな粒あんを入れた。
「へえ、うまいもんだな」
珠紀の手元をのぞき込んだ拓磨が、感心したように呟いた。
「そりゃもうこの1週間毎日練習を……」
あ、と言葉をきった珠紀に驚いたように目をみはった拓磨は、「毎日練習してたのか?」と目元を和ませて尋ねる。
ここまできたら、意地をはっていてもしかたない。
珠紀は素直に「うん」と頷いて、注意深く型を二つ折りにして、あんこをのせた半身に、もう半身をかぶせて鯛焼きを仕上げた。
練習し始めの頃は、この段階でダメにした鯛焼きも多かったが、鯛焼き二号は理想的な仕上がりだ。
「あのね、拓磨。……誕生日おめでとう」
お皿にのせて、熱々の鯛焼きを差し出す。
誕生日の段取りもなにも、あったものではない。
まさか台所に二人立ち尽くして、皿にのせた鯛焼きをそのまま差し出す羽目になろうとは思ってもみなかった。
ふたりで祝う初めての誕生日。
鯛焼きにリボンをかけるつもりがあったわけではないけれど、夕飯に手料理を振る舞った後、居間で拓磨を待たせておいて、ケーキがわりに鯛焼きを出して驚かせて……などと珠紀なりにいろいろ考えていたのだ。
それなのに。
「熱っ!」
「ちょっ、焼きたてなんだから熱いに決まってるよ。大丈夫?」
「うまい!」
拓磨が心底幸せそうな笑みを浮かべて、はふはふと鯛焼きを食べている。
ああ、こんな笑顔が見たかったんだ、などと思いながら、珠紀もつられて笑顔になる。
「さっきはごめんね。今日は鯛焼きを作ってあげようと思ってたから、どうしても寄り道したくなかったの」
「いや、俺も悪かった。少しムキになりすぎた。せっかくの誕生日だから、ふたりで鯛焼きを食べたら、いつもより、その、おいしく食べられるんじゃないか、とか思ってだな……。悪かった」
「そっか……。ごめんね」
鯛焼きを手にする拓磨と向き合って、珠紀は改めて「誕生日おめでとう」と微笑んだ。
「サンキュ」
「拓磨、夕飯まだでしょう? 何か作るよ。鯛焼きも、ハムとかチーズとか入れたら、ちょっとした軽食になるけど、それじゃ足りないで……」
「ハムとチーズ、だと?」
拓磨の頬がぴくりと引きつる。
「珠紀。さっきもちょっと思ったんだけどな。クリームや、この際チョコレートまでは大目にみる。でもなあ、ハムとチーズやツナにコーンの鯛焼きなんて聞いたことないぞ」
「なんで? クレープとかホットサンドだったら普通にあるんだから、きっとおいしいと思うよ?」
そう言って見上げると、拓磨は呆れたように長いため息を吐き出した。その表情は、こいつわかっていない、という彼の心情を無言のうちに表している。
それだけでも、なんとなく珠紀は面白くない気分になる。
それなのに、彼は珠紀の心情に気づくことなく、ゆるゆると首を振って口を開いた。
「おまえは本当にわかってないな。鯛焼きというのは、この皮に包まれた甘いあんこに和を感じ、心和ませる食べ物なんだぞ? ハムやチーズの鯛焼きなんて、邪道も邪道。センスを疑うな」
「ちょっと! それじゃあ、まるで私がセンスないみたいじゃない!」
「そんなこと言ってないだろ。ハムやチーズの鯛焼きを食べたがる奴の気が知れないと言っただけだ」
「同じことでしょっ! もぉ、拓磨なんてっ」
「ストップ」
そう言って、拓磨が珠紀の口を手でふさいだ。
「大嫌い、とか言うなよ? あれは、その……結構傷つく」
言いにくそうに告げた拓磨に、珠紀は今日別れ際に自分が言ったことを思い出した。
せっかくの誕生日なのに、あやうく2回も大嫌いと言うところだった。こんなに大好きなのに。
そっと手を伸ばして、拓磨の服の裾を引きながら、「ごめんね。嫌いなんかじゃないよ」というと、珠紀の肩に手が掛かった。
ほんの少し上向くと、優しげにこちらを見ている眼差しがあった。
顔を寄せてくる気配に、そのまま珠紀が目を閉じる。
けれど。
「たまきー。たいやき、チョコがいいー」
すっかり存在を忘れていた、オサキ狐の元気な声が響いて、慌てて目を開く。
「……」
「……」
中途半端な姿勢で、首だけ巡らせば、無邪気な瞳がこちらをじっと見つめていた。
拓磨とふたり、顔を見合わせて苦笑して。
「うん、いいよ。じゃあ、次はおーちゃんのを焼こうね」
「……斬九浪。わざと…じゃないよな?」
「みゅ? たくまも、たいやきすきー?」
オサキ狐は小首を傾げてから、拓磨に尋ねる。
「あぁ、当然だ」
「うんうん。じゃあ、たまきはすき?」
「それは、……当然だ」
耳まで赤く染めながら、珠紀は本日3個目の鯛焼きを作り始めた。