記憶の欠片 幕間 甘い匂い

 ここまで確実に追ってきたはずの気配が、突然かき消すように途絶える。こんなことはもう何度もあった。
「ちっ、見失ったか」
 舌打ちをして、周囲を見渡すが、あの独特の暗く淀んだ気配も匂いもなく、ただカミ達のささめく気配と森の静寂があるばかりだ。
 彼は張りつめていた何かを解くように、息を吐いた。
 
 あれが現れるようになったのは、鬼斬丸が壊されてからすぐのことだった。
 季封村には元々カミが多く、不可思議な気配も匂いもいたるところに溢れている。その中に在ってなお、あれは異質だ。
 害もないのでさして関わる気はなかったが、得体の知れないものが己のテリトリーに現れるのは不快で、気配に気づけば戯れ程度に周囲を探っていた。
 あの存在が纏う、濃く凝ったような匂いを辿るのは容易い。それなのに追い詰めるに至らないのは、こうしていつもふっつりと消えてしまうからだ。
 蠢く闇。けれど、それが本質を現しているわけではないと、本能が告げていた。
 やがて、それを確信する出来事が起きる。
 ある日、たまたま村の男がそれに遭遇する場に立ち会った。
 逢魔が時に浮かぶ闇。
 あれは人を襲うのだろうかと、傍観を決め込んだ。
 闇は動かない。
 動いたのは、村人の方だ。驚愕したように目を見開き、しばしそれを見つめた男はやがて悲しそうに手を伸べて「迷ったのか?」と呟いた。
 男が何を見たのかはわからなかったが、ただ闇でない何かを見ているらしいことは確信した。
 まもなく闇は消え去り、呆然と立ち尽くす男だけが残された。
 
 今日も散歩中に感じたあの匂いを辿っていると、突如凶悪な気配を感じた。
 駆けつけてみれば、匂いがあの闇の塊と同一のケモノがいた。
 大きなそれが、ひとりの少女めがけて力を放つ。彼は考える間もなく彼女の元に走り、庇うように抱き寄せた。
「あれが玉依姫、なのか?」
 ケモノの攻撃に、為す術もなく晒されていたあれが、本当に鬼斬丸を壊した玉依姫なのだろうか。
 腕に残る細い腰の感触と、抱き寄せた時に感じた甘さをはらむ不思議な匂い。
 ふと己の手を見れば、甲に幾つかの赤い線が走り、血が滲んでいる。彼女を庇った時のものだろう。
 あの女のほうは大丈夫だっただろうか。
 そんな風に思いかけて、ふんと鼻を鳴らし「俺の知ったことか」とひとりごちた。
 村人達が言っていた、宇賀谷の玉依姫が呼び寄せたという、次代の玉依。
 遠目には幾度か見たが、近づいたのは今日が初めてだ。
 もっとも、彼女が本当に鬼斬丸を壊した張本人だというなら、次代のというよりも既に現玉依姫なのだろう。
 いつのまにか、周囲にはうるさいほどの虫の音が響いていた。先ほどのケモノの気配に押し黙ったのであろうそれらが、一斉に鳴き出したということは、やはりもうここには禍々しい何かはいないということだろう。
 すっかり暮れて暗くなった中、彼は元来た道を歩き出した。
 彼は幼い頃から、自分の内に、己ではない別の気配を感じていた。そういう気配も、目の前を過ぎるカミたちも、普通は感じることも見ることもないのだと理解したのは、物心付く頃を少し過ぎてからだ。
 共感できる相手を持たないまま、異質である自分という存在が何者なのか手探りで得てきた情報は、おぼろげながらひとつの答えをかたち創っていた。
 そして今日。彼女に触れて、それを嫌と言うほど思い知らされた。
 守護者の血。
 己の内で脈打つものがざわつき、命じる。玉依姫の元に在れ、側で彼女を守れと。
 そんなものに従う気はやはりないが、あの匂いをもつ者には興味がわいた。
 血の匂いが立ちこめる玉依の神社に身を置きながら、彼女からは少しもそういう淀んだ匂いはしなかった。それどころか、清浄で、果実のように甘いそれ。
 関わるのが面倒だったし、化け物の後を追いがてらすぐにあの場から姿を消したが、もう1度触れて、その匂いを確かめてみたい、と彼は思った。