o-mail

 
 
あれば便利かもと思ったことはあるけれど、
必要とまでは感じなくて、持つ気にはなれなかった携帯電話。
電波の届かないこの村では無用の長物で、それこそ持つ意味がない。
普段なら逢いに行くか家に電話をすればいいことだけれど、
こんな遅くになってしまえばそのどちらもできなくて。
 
だからさっき、
 
 
『明日寝坊しないでくださいネ。
 
 おやすみなさい』
 
 
と送ってみた。
 
 
 
 
* * *  
 
 
 
 
 
 シンと寝静まった家の中。
 雨戸の前、床にぺたりと座ったまま返信を待つ。
 桜の蕾が綻び始めた季節とはいえ、夜遅くともなれば気温はぐんと下がり、流れ込む外気は冷たい。
 柱時計の振り子が揺れる規則正しい音が微かに聞こえるそこで、珠紀は立てた両膝の上で組んだ腕に顎をのせて、ただそれを待っていた。
「ニィ!」
 わずかばかり開けたままの戸の隙間からするりと姿を現したオサキ狐は、帰還を告げる声と共に飛びついてくる。
「おーちゃん、おかえり。ありがとね」
 柔らかな毛を撫でながら、開けていた雨戸を閉めようと手をかけた。
 その時。
「おかえり、じゃねえよ。ナニゴトかと思うだろうが」
「真弘先輩っ!?」
 こんな場所にいるはずのない相手の声にすかさず立ち上がり、閉めかけた雨戸を慌てて開ける。
 飛び出す勢いで隙間から顔を覗かせると、そこには逢いたくてたまらなかった彼が、ポケットに両手を入れて立っていた。
「声がでかい」
 珠紀の勢いに狼狽えたように言った真弘は、「おまえ、そんな格好してんなよ」と少し不機嫌そうな顔だ。
「そんなって……」
 珠紀の服装はといえば、17歳の女の子が寝るにはまっとうな、ヒラヒラでもスケスケでもないパジャマだ。
 クマの柄は少し子供っぽいかもしれないとは思うけれど、お気に入りなのだから仕方ない。もう後は寝るばかりのこんな時間に着ているものとしては普通だ、と自分では思う。
「なにか変ですか?」
 上着の裾を引っ張っておかしいところがないか確認してから、もう一度真弘を見遣る。
「男の前にそんな格好で出てくんなっ」
「そ、そんなの、先輩が来るって知ってたら私だって……って、あれ? おーちゃん、手紙渡してないの? 落としちゃった?」
 そもそも、なんでここに真弘がいるのかという根本的な問題に思い至った珠紀は、オサキ狐へと視線を落とした。
 手紙を見れば、なにか問題が生じたわけではないことは伝わったはずで、それがこうして駆けつけてくれたということは、彼は手紙を読んでいないのかもしれない。
 オサキ狐は真弘と珠紀の顔を交互に見て、2本の尻尾をふさふさと揺するばかりだ。
「なんかあったか?」
「いえ、その……」
 何かあったわけではない。
 ただ、今、なにをしているかなと考えて。
 明日になれば逢えるとわかっているのに、逢いたくてたまらなくて。
 逢うのも声を聞くのもかなわない、深夜に近い時刻。
 せめて『おやすみなさい』と伝えたくて「起きてたらでいいから渡して来てね?」とオサキ狐を遣いに出した。
「すみません。おやすみなさいって言いたかっただけで」
 なんでもよかった。
 逢えなくて、声も聞けなくて、だから手紙を届けてみた。
 少しだけでも、繋がりたくて。
「んなもん、なんでわざわざ……せいぜい電話でいいんじゃねえか?」
「こんな時間に、家の電話なんて鳴らせません」
「いいから鳴らせ。こんな時間にクリスタルガイが来る方が心臓に悪い」
「ごめんなさい。っていうか、先輩、もうちょっとこっちに来てくださいよ」
 すぐ傍に来てくれればいいと思うのに、真弘は数メートル離れた場所に立ったままでいる。
「すぐ帰るからここでいいんだよっ。で、……何時からだ?」
「はい?」
「おまえが言う電話できないような時間っていうのは、何時からだ?」
「9時くらい、ですか?」
「じゃあ9時以降の電話は必ず俺様が直々に出てやる。それで文句ないな?」
 疑問形を取りながら、それはもう有無を言わせない口調で言い切った真弘は、素っ気ないほどに「っつうことで俺は帰る。じゃあな」と背を向けてしまう。
「あ、先輩」
 呼びかけると足を止めた真弘は、肩越しに振り返った。
 今夜はもう逢えないと思っていた相手に逢えた嬉しさのままに、「来てくれてありがとうございました」と微笑んだ。
 真弘は何か言いかけて、けれど何も言わずに軽く片手を挙げるとそのまま歩き出す。
「先輩、おやすみなさい」
「おう」
 答えてはくれたものの、真弘がもう振り向くことはなかった。
 学校の帰り道もそうだった。
 家まで送ってくれた真弘を見送っていても、彼が振り返ってくれることは滅多になかった。
 少し淋しいけれど、振り返ってもう一度顔を見てしまえばきっとますます離れがたくなるのはわかっていたから、それでいいと珠紀は思う。
 その背中が見えなくなるまで見送って今度こそ雨戸を閉めると、オサキ狐はくるりと空中回転して人型へと変化した。
「おとしてないのー」
 小さく折りたたんだ便せんが、その手に握られている。
 落としていないならばなんで渡さなかったのだろうと不思議に思いながら差し出されるままに受け取って開いてみる。
 珠紀の書いたメッセージの下。
 真弘の口調のようにぶっきらぼうな字で、おおよそコイビトに送るようなものではない、それはそれでとても彼らしいメッセージが書かれていて、笑みが零れてしまう。
 ちゃんと手紙を読んだのだ。
 読んで、多分何かというほどのことはないとわかっていて、それでも様子を見に来てくれた。
 大好き、と思う。
 優しくて、格好良くて、一番大切な人。
「おーちゃん。もう一度お遣いお願いしていい?」
「うんっ。おつかいー、いくー」
 主の役に立てるのが嬉しいと全身で表現してくれる使い魔の頭を撫でた珠紀は、急いで便せんにメッセージをしたためると、最初に送ったのと同じように小さく折り畳んだ。
 
 
 
 帰り道は嫌いだ。
 学校帰りに珠紀を送るようになってから、真弘はそう思うようになった。
 また明日と手を振って、そのまますぐ石段を昇り家に入ってくれればいいのに、彼女ときたらいつも自分を見送っている。
 それはもう、捨て猫が通りがかりの人間に拾ってくれと訴える眼差し並に強く引き留めるのだからタチが悪い。
 稀に気配に負けて振り返れば、離れがたい気持ちはいや増すばかりで、だからと言ってずっと一緒にいるなんてことがかなうわけでもなく、結局それを振り切って帰途につく羽目になる。
 自室のベッドに寄りかかって雑誌を読んでいた真弘が、コツンコツンと窓から響く音に立ち上がってカーテンを開け息を呑んだのは、先刻のことだ。
 何が起きたのかと焦った真弘だったが、開けてやった窓から入り込んだオサキ狐に手渡された手紙に目を走らせ、特別重大事件が発生したわけでもなさそうだと安堵した。
 敢えて使い魔に持たせるほどでもない、平凡にして平和な文面は、明日のデートを楽しみにしていると告げているようで嬉しかった。
 同時に、わざわざこれを書いてよこした珠紀が、例えば何か落ち込んでいるかもしれないとか、自分と同じように少しだけ寂しい気持ちでいるかもしれないなどと考えた。
 返事を書いて、手渡して。
 けれど結局それごと抱えて、夜道を走った。
 逢いに行く口実が欲しかっただけだ、というのは自覚している。
 ガキみてえなパジャマだったな。
 思い出して、真弘は小さく笑った。
 とぼけたクマがいくつも張り付いた珠紀のパジャマ。 
 こんな時間なのだから当然といえば当然の格好かもしれないけれど、パジャマ姿で顔を覗かせるとは思いもよらなかった。しかも、その姿を無防備に晒して狼狽える様子もなかったのだから、始末に負えない。
 せっかく逢えたものの、自制心を天秤にかければ、近寄ることは憚られた。
 そして今、学校の帰り道と同じ思いを味わう羽目になっている。
「情けねぇ……」
 月明かりの道に、呟きを落とす。
 大切で、愛しくて、いつだって離れがたくて。
 だから帰り道は、いつも寂しい。
 そんな風に思う自分が、我ながら情けない。
 ふと背後から何かがやってくる気配を感じて、真弘は闇の向こうに目をこらした。オサキ狐だ。
 軽快な足取りに危機感はなく、緊急事態ではなさそうだ。
「おぅ、クリスタルガイ。どうした?」
「ニィー」
 目の前までやってくると、先ほどと同じように器用に尻尾で挟んでいた手紙を真弘に差し出した。
 受け取って、折り畳まれたそれを開いて目を走らせる。
「ばか……知ってるっつうの」
 呟きが零れる。
 ここに珠紀がいなくてよかった、と思う。
 照れている顔など、見せたくはない。
「ニィ」
「ぃよし! クリスタルガイ。うちまで一緒に来い」
 短く鳴いて答えたオサキ狐を抱えた真弘は、彼女への返事を考えながら家路を急いだ。

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