side-SUEZEN

 珠紀が再び季封村での生活を始めるにあたって、両親からはいくつかの条件が提示された。
 大ケガするような何かがあったら、即刻玉依姫をやめること。
 なるべく家に電話して、近況報告すること。
 学期間の長期休みの時には、少しは家に戻ってくること。
 学校の成績を下げないようにすること。
 とりあえずカミたちが騒ぐこともない近頃、滅多なことで大ケガの心配はなさそうだ。
 週末には必ず家に連絡をしているし、お正月明けには2日間ほど実家に戻る約束もしている。
 そして、成績。
 目下の問題は、2学期の期末テストだ。
 転校で教科書が変わったのもハンデだし、鬼斬丸のあれこれの時には授業も上の空、家に帰っても勉強していたのは蔵の書物ばかりとあっては、さすがに危機感が漂う。
 珠紀の成績は、今までおおよそ真ん中か、それより上くらいをキープしてきた。
 村に住み始めてからの最初の学期末テストとあっては、両親──特に母親はしっかりチェックを入れてくるに違いない。
 こちらに戻ることに大反対だった母親をどうにか説得して手に入れたこの生活を守るべく、珠紀はテスト1週間前頃からずっと、真弘と一緒に過ごしたい気持ちを抑え込んで頑張ってきた。
 それも、ようやく明日で終了だ。
 あと1日。でももう、その1日がどうしても我慢できないくらい、彼と一緒に過ごしたかった。
 だから今日は了承さえ得られれば、一緒に試験勉強をしようと心に決めて家を出た。
 そして。
 首尾良く彼女は真弘と歩いている。
「パン屋にすっか?」
「な、何がですか?」
「何っておまえ、昼メシだよ、昼メシ。買って帰んだろ?」
「あ、あぁはい昼。そうですね、パンでいいですよ」
 商店街を並んで歩きながら、珠紀は気もそぞろだ。
 真弘の家で勉強をする。ふたりで過ごせる。
 それは望んでいたことだったわけで、非常に喜ばしい。
 が、しかし。
 『ふたり』を通り越して、まさか『ふたりきり』だなんて考えてもみなかった。
 今日はうち親出掛けてんぞ? と言われた時は、だったらお昼ご飯は手料理を作って食べて貰うのもいいかもしれない。あぁでも親の留守中に勝手に台所を使うなんて申し訳ないか、と真っ先に考えてそれをそのまま口にした。
 答えてみてからちょっと待ってと思考を止めて、ようやく真弘の言葉の意味するところに思い至り、以降まったくもって落ち着かない心地でいる。
「なんにすんだぁ?」
 パン屋に入った真弘は、トレーとトングを手に尋ねながら、嬉々としてやきそばパンを確保している。しかも二つ。
「また、やきそばパンですか?」
「またとはなんだ、またとは」
 真弘がやきそばパンをこよなく愛しているのは知っている。
 それはもう毎日毎日、よくこうも連日飽きもせずにと感心するほどに、真弘が昼休みに手にしているのはやきそばパンだ。もちろんやきそばパン以外も食べてはいるが、時にメインに、時にデザートにと、真弘はそれを口にしている。
「おまえ、わかってないな」
「何がですか?」
「やきそばパンの素晴らしさについてだ」
 冗談かと思いきや、彼は真剣な表情で頷くと、やきそばパンがいかに魅力的な食べ物であるかを語りだす。
 曰く。紅生姜のアクセント。ソースのハーモニー。炭水化物を炭水化物で挟むという一見微妙な組み合わせが織りなす絶妙な味。
「聞いてんのか?」
「もちろんです。私、そのサンドイッチにします」
「オイ!」
 真弘の大好きな物ならば一緒に食べたいという気持ちはあるけれど、青のりがかかっている時点でアウトだ。好きな人を前に、歯に青のりをつけている姿など想像もしたくない。
「あ、クリームパンも」
 そんな風に戯れるようにしてやってきた鴉取家は、事前に聞いていた通り人の気配はなかった。
 部屋の外で1分少々待たされはしたけれど、突然の来訪にしては彼の部屋は今日も片付いている。
 折りたたみのテーブルを出してくれるのを見つめながら、勉強しに来たのだからと己に繰り返し言い聞かせる。
 サンドイッチを食べながらつい真弘の口元に目がいき、こっそり慌てて逸らしてみたり、ふと立ち上がった相手に身構えてみて、ティッシュを取っただけなのを確認して安心してみたり。
 トクトクと何かを急かす胸の音を無視して、食後の休憩もなくすぐに教科書を広げた。
 明日は数学と古典。どちらも得意とは言い難い。
 蔵の書物をすらすらと読める玉依姫の力が古典のテストにも使えればいいのになどと思いつつ、2科目の教科書を手に取ってみる。
「先輩は明日のテスト、何ですか?」
「化学と現国。っつうか、おまえさぁ」
「はい?」
 苦手な数学から手をつけようと決めて、問題集を開きながら返事をする。
「勉強、すんのか?」
 ドクンとはねた心臓に、落ち着けおちつけと言い聞かせながらシャーペンを手にして、精一杯平静な声で答えた。
「その為に来たんじゃないですか。先輩はしないんですか?」
 受験生がそんなことでいいんですか? などと口にしつつ、顔をあげて真弘を見ることもできない。
 ふたり以外誰もいないこの家で、勉強もせずに過ごすなんてとても心臓がもちそうにない気がした。
 顔をあげないままちらりと視線だけで様子を探ってみると、珠紀の心中を知ってか知らずか、テーブル越しに座った真弘も教科書を取り出した。
 やっぱりもう1日我慢すればよかった、と内心こっそりため息を落とす。
 数式も公式も、目で追うばかりでまったく頭に入ってこない。
 意識がひたすら真弘へと向かってしまうのだから、それは当然のことだった。
 このままでは、明日の数学はかなりピンチだ。
 前方に流れがちな集中力をどうにかテキストに呼び戻して3問ほど問題を解いたところで、「休憩!」と声が響き、真弘はごろりと寝そべった。
「先輩、それはいくらなんでも早くないですか?」
「俺様はいいんだよ。おまえはしっかりやっとけ」
 そう言われて、珠紀は再び数式に取りかかる。
 真弘はといえば、話しかけてくるでもなく横になったままだ。
 2ページほど進めても、まだ寝そべったままの彼が気に掛かって様子を伺うと、その瞼は閉じられていた。
 
 もしかして、寝てる?
 
「先輩?」
 そろりと呼びかける。
 仰向けで、自分の腕を枕に目を閉じた彼はぴくりともしない。
「寝ちゃったんですか?」
 もう1度小さく問いかけてみた珠紀は、反応のない真弘に、それまでの緊張がするりととけていくのを感じた。
 こんな風に、あの時も先輩は寝ていたっけ。
 村へと帰ってきた珠紀を迎えにきているはずの真弘を探して、入って行った森の中。
 草の上に寝そべって、気持ちよさそうに寝ていた姿が思い出される。
 ふと、広げられた彼のノートに目を落とせば、けして綺麗とは言えないながらも、きちんとラインが引いてあったり、書き込みがされている。
 授業中、ノートなどきちんとは取らないタイプかと思っていたけれど、案外そうでもないらしい。
 並ぶ文字を目で追いながら、真弘はこれからどうするつもりなのだろうと考えてみる。
 大学を受験するとは聞いている。問題はその先だ。
 どこに受かるにしても、交通の便等諸々考え合わせれば、村から大学に通うのは難しいだろう。となれば、村を出て一人暮らしをするのかもしれない。
 今の彼なら、それが許される。
 贄としてこの村に縛られ続けた真弘が手にした自由を喜びながら、いつでも遠くに行ってしまえるというのは不安でならない。
「やーめた」
 小さく呟いて、暗くなりそうな思考を追いやる。今ひとりで考え込んでも、どうにもならない。いざとなったら追いかければいい。
 珠紀は手に弄んでいたシャーペンを置いて立ち上がると、静かに真弘の傍に行き、その顔を覗き込んだ。
 起きている時は、瞳の力強さや活発さが際だちガキ大将そのものの彼も、瞼がそれを隠してしまえば端整な印象ばかりが残る。
 だいたい守護者というのは血なんかではなく、容姿で選ばれているのではと思えるほどに、皆整っている。それは守護者でない分家筋の美鶴にでさえ言えることなのに、肝心の玉依姫が、どうもその法則から外れている気がしてならない。
 もう少し近づきたくて、珠紀は思い切ってその隣に寝そべってみた。
 相手が起きていたら間違ってもここまでは出来ないけれど、起きる気配がない今ならば少しだけ大胆になれる。
 しかし、いざ実行してみれば気恥ずかしさが先立ち、珠紀は目を閉じた。
 隣に彼がいる。それだけで安心できる。安堵の息をひとつ吐いて、隣の気配に耳を澄ませる。
 すーすーと響く寝息の穏やかな規則正しさに導かれるように、彼女もまた眠りの縁へと落ちていった。
 
「だぁーっ 起きろっ! 起きろ起きろっ! 起きて、勉強しやがれぇっ!!」
 
 響いた声に何事かと身を起こした珠紀は、状況が把握できずにしばし固まる
 真弘の部屋。
 寝ていた自分。
 なぜか真っ赤になって不機嫌そうにしている、顔。
「あれ? すみません。私も寝ちゃったんですね」
 ここしばらく、詰め込むように夜遅くまで勉強をしていたから寝不足だったとはいえ、本当に寝てしまうとは恥ずかし過ぎる。
 それにしても。
「先輩。顔、真っ赤ですよ?」
 エアコンは室温を快適に整え、暑いほどではない。なんでそこまで赤くなっているのだろう。
「先輩。まさか私が寝ている間に、なんかやらしいことしましたか?」
 真弘に限ってそんなことをするはずがないと確信しつつ、茶化すように見つめてみる。
「す、するか!」
「本当に?」
「おまえ……そういう心配するくらいなら、男の隣で気安く寝るなっつうの」
「真弘先輩相手じゃなきゃ、しませんよ?」
「あ・た・り・ま・え・だ。ほら、勉強すんぞ」
「はぁい」
 立ち上がって、まだ少し顔が赤い真弘に「先輩」と呼びかける。
「なんだ?」
「テスト終わったら、デートしましょうね」
「終わったら、いくらでもつきあってやるよ」
 受験生の邪魔をする気はないけれど、その為にこんなに頑張って勉強しているのだ。
 だからこそ。
「先輩、赤点とらないでくださいね?」
「あ? 誰にモノ言ってんだ。鴉取真弘先輩様が赤点なんてとるわけ……」
「夏休み」
 珠紀は真弘の言葉を遮って言った。
 紅陵学院は期末の赤点の数に応じて、長期の休みに補講が組まれるのだという。
 それを教えてくれた祐一は、頑張らないと真弘や拓磨のようになるぞ、と言って薄く笑った。
「……?」
「今年の夏休み、拓磨と真弘先輩は補講でほぼ毎日学校だったって祐一先輩にききました」
「あれは」
 言いかけて言葉をきった真弘は、ニヤリと笑う。
「よし、珠紀! 賭けようぜ。もし今回1科目でも俺に赤点があったら、おまえの言うこと、なんっでもきいてやる」
「なんでも、ですか?」
「おぉ、なんでもだ。男に二言はないぜ?」
 1学期末はほぼ全滅だったと聞いているのに、この自信満々な様子はなんだろう。
 疑問に思ったものの、真弘のそんな態度は今に始まったことではないかと思い直す。
「もし、1個もなかったら?」
「そりゃ当然、おまえが俺様の言うことをなんでも聞け」
 なんでも。1個とはいえ、なんでもなんて頷いていいんだろうか。
 ほんの一瞬考えて、真弘を見つめて頷いた。
「……1個だけですよ?」
「……。あっさり受けるのな」
 自分から持ちかけたくせに、意外そうな表情をする彼がなんだかおかしい。
 珠紀は笑みを浮かべて、もうひとつの情報を確認するように告げてみた。
「だって、先輩。中間テストもいろいろすごかったって聞いてますよ?」
「それも祐一か」
「いえ、卓さんです。それに……」
 恨めしそうに脱力する真弘に、差し出すように本心を告げる。
 いつだって真弘は、珠紀が本当に望まないことを要求なんてするはずがない。
 だから。
「先輩のお願いなら、いいですよ?」
「え?」
 虚を突かれたような視線から逃れるように、珠紀は問題集に取りかかり始めた。
 
 この時、珠紀は知らなかった。
 贄の運命から放たれて未来に目を向け始めた真弘が、案外受験生らしく勉強に取り組んでいたことを。

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