SU・E・ZE・N

 目を覚ませば、いつもの天井の木目。
 畳に転がっていつの間にか眠ってしまうのはいつものこと。
 真弘は見るともなしに木目を見ながら、今日の記憶をたぐり寄せる。
 2学期の期末テストも明日で終了という今日。
 学校帰りに「先輩、一緒に勉強しましょう」などと満開の笑顔で言った珠紀が真弘の家にやって来た。
 今日はうち親出掛けてんぞ、と言った真弘の真意など華麗にすり抜けた珠紀からは、
「じゃあお昼は何か買って帰りましょうか? 留守中に勝手に台所を使うのも申し訳ないし」
などと見当違いの答えが返る。
 珠紀が真弘の部屋で過ごすのは初めてではないけれど、鴉取家で二人きりというのは初めてで、否応なくそんなアレコレを意識しながらやきそばパンを頬張る真弘の前でサンドイッチを食べ終えた彼女は、本当に真剣に勉強を始めた。
「勉強、すんのか?」
「その為に来たんじゃないですか。先輩はしないんですか?」
 受験生がそんなことでいいんですか? と至極真面目に答えた珠紀は、教科書から顔もあげない。
 口実などではなく、本当に勉強する気らしい彼女の姿に、仕方なくテーブル越しに座ってノートを開いてみても集中出来るはずもなく、早々に「休憩!」と宣言して畳に寝そべった。
 そこまでは覚えている。
 まだ外は明るい。
 寝ていたとしても、それほど時間は経っていないはずだ。
 ようやくはっきり覚醒してきた真弘は、珠紀はどうしたかと視線を巡らす。
「──っ!?」
 それを見つけ声にならない声をあげた真弘は、飛び起きて座ったまま後ずさり、背中と後頭部をしたたかに壁に打ち付けた。
 寄り添うように、お互いの呼吸すら感じられるほどの至近距離にあったのは、珠紀の寝顔だった。
 
 落ち着け、俺!
 
 言い聞かせながら状況を探る。
 時計の針は1時間半ほど進んでいた。
 テーブルに広げられた教科書の類は、真弘のものはもちろん、彼女のそれも開いたままだ。
 状況もなにも、十中八九、熟睡した真弘の隣に珠紀が寝そべって、そのまま眠ってしまったということに違いない。
 こちらを向いて眠る姿に、無防備にもほどがある、と思う。
 少し早くなったままの鼓動に気付かないふりで、真弘はその背を壁に預けて座り直した。
「珠紀?」
 そっと呼んでみるが、起きる気配はない。
 スカートからのぞく足に目がいきかけ、慌てて逸らしてみても、今度は吸い寄せられるように薄く開いた桜色の唇に視線がいく。
 ふっくらとしたその唇に口づけたのは、まだほんの数える程度だ。
 ごくりと生唾を飲み、もう一度慌てて視線を逸らす。
 珠紀の寝顔を見るのは、初めてのことではない。
 鬼斬丸にまつわる一連の出来事の中では、何度か目にした。
 最たるものは、森で一晩中寄り添っていた時。
 あれはあれで、ある種拷問に近かったようにも思うが、幸か不幸かあの時はそれどころではなかった。
 しかし、今。
 追っ手から逃れているわけでもなければ、隙あらば襲いかかってこようとするカミに囲まれているわけでもない。
 むしろ、今、珠紀を襲う者がいるとしたらそれは間違いなく。
 
 いやいやいや! さすがにそれは駄目だっ!
 
 寝込みを襲うなど、男の風上にも置けない野郎のすることだ。
 叱咤するように心の内で言い聞かせてみても、別の思考が耳元で囁く。
 
 据え膳食わぬは男の恥。
 
 もう1度喉を鳴らし、すやすやと眠る彼女を見遣る。
 壁から背を離した真弘は、そろそろと四つ這いで近づいてみた。
 少しも起きる気配のない姿に、触れるくらいなら許されるんじゃないか、などと考えてみる。
 自分の発想に、そうだそうだと同意をして。
 不埒なマネをするわけではない。ただ少し、触れてみるだけだ。
 一応つきあっているのだし、そのくらいは許される。……はず。
 真弘は、珠紀にそっと手を伸ばした。
 その指先が、ほんのり上気した頬に触れようとした刹那。
 瞼がぴくりと反応し、うっすら開いた瞳に瞬時に手を引っ込める。
 寝ぼけ眼はどこか焦点があわないようで、それでもこちらをじっと見ている。
「さ、さささわってないぞ! 俺はまだ、その」
 ヨコシマな感情を見透かされている気がして、真弘は引っ込めた手を顔の前で振った。
 それなのに、当の珠紀ときたら「せんぱい」と呟いてふにゃりと笑い、再び目を閉じてしまう。
「……」
 バクバクと脈うつ己の拍動が、全身に響く。
 無防備な笑顔は、健全な男子にはいっそ凶悪なのだと知った18の冬。
 無理。無理無理無理無理。
 こんな姿を前にして、自制なんてそうきくものではない。
「だぁーっ 起きろっ! 起きろ起きろっ! 起きて、勉強しやがれぇっ!!」
 真弘の叫びが、部屋いっぱいに響いた。

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