妻問い

そういえば丸腰で出かけてきてしまったとか。
 また朔を心配させてしまうとか。
 そんなことに考えが至ったのは、河原に着いてからのことだった。
 弁慶の寝起きする診療所の辺りまで来た望美は、ごろごろと転がる石に足を取られないように注意深く歩いていた。
 昼間は長閑なばかりの河原も、今はそこで寝起きする者がおこした火がほんのいくつか灯るばかりで、陽射しの下とは違った表情を見せている。
 望美は通い慣れた小屋の前まで来ると、「弁慶さん」と呼びかけた。
 息を潜めていらえを待つが、そもそも扉の隙間から漏れてくる明かりもなく、人の気配すらなさそうだ。
 留守だろうか。
 それとも眠っているのだろうか。
 こんな時間に押し掛けてきて、迷惑だったかもしれない。
 なんで明日にしなかったんだろう。
 冷えてきた頭でそんなことを考えながら、望美はその場に立ち尽くす。
 ヒノエから知らなかった話を聞かされて、とにかくここまで駆けて来たものの、そもそもこういう行動が考えなしというのではないだろうか。
 このまま引き返そうかとも思いつつ、もう一度だけ「弁慶さん」と呼びかけた。
 やはり返答はない。
 明日にしようとため息を落とした望美の背後から「望美さん?」と声がかかり、びくりと肩を揺らして振り返る。
「こんな遅くにどうしたんです? 何かあったんですか?」
 足早に近づいてきた小屋の家主は、心配そうに覗き込んできた。
 ああ、弁慶さんだ。
 今日まともに顔を合わせることなく過ごしてしまった相手の存在が間近にあるのを確認し、胸にじわりと安堵が広がる。
「邸で病人でも? ひとりで来たんですか?」
 彼も驚いているのだろう。矢継ぎ早に質問を口にする。
 望美も、言わなければと口を開きかけるものの、いざ彼を前にすると言うべきことは頭の中で散乱してしまう。
 その中からどうにか探し出して、選び出して、引っ張り出す。
「わ、私、あの……知らなくて、頼朝がそんな条件出したなんて知らなかったし」
 落ち着かなくちゃ。でも落ち着いてなんかいられない。だって言わなくちゃ。
 気ばかりが急く望美を前に、ふと闇の向こうに視線を走らせた弁慶は、ため息をつき「ヒノエから、ですか?」と苦笑を浮かべた。
「はい、ヒノエくんが、龍神の神子がき、キムスメじゃなくて代わりの人が鎌倉の使者の人に恩賞で頼朝の……」
 もう自分でも何を言っているのだかわからなくなっている望美の口を、弁慶のそれが柔らかく塞ぐ。
「──っ!」
「とりあえず、中に入って落ち着きませんか?」
 望美はそれまでの焦りを、たった今の口づけで、違う意味での落ち着かなさに塗り替えられたのを感じながら、促されるままに小屋へと入った。
 
「どうぞ」
 差し出された湯気の立つ椀を受け取り、顔に近づけてなんとなく匂いをかいでしまう。
 過去弁慶に渡されたこういうものの多くはひどい苦味を伴うことが多く、望美はそれがなかば習慣になっていた。
「ふふ、薬湯ですがお茶のようなものです。苦くないので安心してください」
「……いただきます」
 見透かされていたことに恥ずかしさを覚えながら、望美はそれを口にした。
 ほんのりとした甘さが、口に広がる。
 椀から手に伝わる熱と、体へと流れ込んだそれとが、思いのほか自分の体が冷えていたことを教えた。
「あの、ごめんなさい」
 ひとつ息を吐いた望美は椀を手にしたまま、向かいに腰を下ろした弁慶にぽつりと言った。
 ヒノエに聞かされたこと以外にも、知らない間に自分が彼に迷惑をかけていたことがたくさんあったのかもしれない。
 そんなことも知らないで、気をもんでいたのが恥ずかしいし申し訳ない。
 そう思っての言葉だった。
「君が謝らなくてはならないようなことが、なにかありましたか?」
 いつもの穏和な笑みを浮かべた薬師は、軽く首を傾げた。
「あぁ、この間一緒に薬草を摘みに行った時、間違えて毒草を集めてしまったことですか? それとも、洗濯をしてくれた時に下流まで衣を流してしまったことでしょうか? あ、もしかして、火をおこそうとして家まで燃やしかけた時のことですか?」
「べ、弁慶さん?」
「それとも……、今日僕に会ってくれずに、ひとりで神泉苑に行ったことですか?」
「なんで……それ……」
 昼間邸を出た望美は、神泉苑へと足を向けた。
 市がたつような賑々しい場所には行きたくなかったし、かといって闇雲に歩き回る気もなかった。
 桜の季節も過ぎた神泉苑ならば、静かに過ごせそうな気がした。それだけだ。
 それをなぜ弁慶が知っているのだろうか。
 考えかけて、朔の言葉を思い出す。
 『弁慶殿も探しに行ったはずなんだけれど……』
 彼はあそこまで探しに来てくれたのかもしれない。
「声を、かけてくれればよかったのに」
「今日は僕に逢いたくなかった。違いますか?」
「それは……そう、なんですけど。でも、違うんです。私知らなくて、頼朝があんな条件を出してきた話とか、だって弁慶さん、私に何も話してくれないし。……あれ? どうしてヒノエくんに聞いたってわかったんですか?」
「あのことを知っていて、わざわざ君にそんな話をするのはヒノエくらいのものです。それに、熊野の烏がいたでしょう?」
 なんのことかと首を傾げた望美に、弁慶は苦笑を浮かべた。
「気付きませんでしたか? おおかた夜道を君一人で行かせるくらいならと護衛につけたのでしょうが、だったら止めるべきです」
 まったく、とため息を落とした弁慶は、大きな掌をそっと望美の頬にあてた。
「言ったでしょう? 戦は終わっても、物騒なのにはかわりないんです。それは昼でも夜でも同じですよ、望美さん」
「……ごめんなさい」
「今日の君は、あやまってばかりですね」
 温かな掌がそっと離される。咄嗟に椀を置き、離れていく手をとった望美は、両手でぎゅっと握った。
「私……。弁慶さんは治せないって言ったけど、やっぱり弁慶さんにしか治せません。私なんにも知らなかったから……弁慶さんはあの告白なんてなかったような顔してるし、譲くんは帰っちゃったし、だから」
 まくしたてる望美の後頭部に大きな手が回ったかと思うと、そのまま引き寄せられる。
 今度は抱き込まれて、先ほどよりもずっと長く口づけられた。
「あの時、聞いていたんですね。……これで少しは治りますか?」
「~~~~~っ」
 顔に熱が集まっているのを感じる。きっと自分は今、真っ赤になっているだろう。
 望美はそっと弁慶から身を離すと、早まった胸の鼓動を宥めながら座り直した。
 彼はそんな彼女の手をとると、大切そうに掌に包み込んで言葉を続けた。
「今日神泉苑で、もし望美さんが龍神に呼びかけたなら、駆けつけて止めようと思っていました」
「え?」
「応龍が選択は1度だけだと言ったのは聞きました。そして望美さんは選んだというのも。けれど、龍神ならば神子の呼びかけに応えるのではないかと、選択しなおすことも可能ではないのかと、少し心配していました」
 それは望美が初めて目にする、彼の弱気な顔だった。
「ひどいことを言ったという自覚はあるんです、これでも。望美さんが生まれた世界に、たくさん大切な物を残してきていることも、ここに残るようにお願いすることは、それを捨ててくださいということだとわかっていながら、あの時僕はこの世界に残って欲しいとお願いしました。そんな僕が、故郷を懐かしんで気落ちしている望美さんを、慰める資格などないでしょう?」
 ああ、そんな風に思っていたのか。だから彼は治せないと言ったのだ。
 もしかしたら望美が不安だったのと同じように、弁慶も不安があったのかもしれない。
 そう思うと、自然笑みが湧いた。
 お互いが好きで、大切で。だから不安になるのだ、自分たちは。
「弁慶さん。私が、き、生娘じゃないなら、責任とってお嫁さんにしてください!」
 一瞬沈黙がおりて、望美はなんだか取り返しのつかないことを言ったのではないかと不安になった。
 その時。
 堪えきれないように弁慶が吹き出して、そのまま強く抱きしめられる。
「君は本当に……」
 言いかけた彼の体の震えが、まだ笑いをこらえながらの言葉だというのを如実に物語っている。
「もぉ! いいですっ!」
 自分がどれだけ恥ずかしい台詞を言ったかを少なからず自覚している望美が抱きしめられた腕の中でもがくと、思いのほか強い力で更に抱き込まれた。
「駄目ですよ、逃がしません。もうこのまま帰るのはやめにしませんか?」
「はい、……えっ!?」
「と言いたいところですが、今日のところは送っていきますね」
 ホッとしたような、少し残念なような気持ちで、望美は「はい」と頷いた。
 
「私は、この世界にいて大丈夫なんでしょうか?」
 弁慶と手を繋ぎながら帰る道すがら、望美はぽつりと不安を零す。
 運命も時空もねじ曲げてきた自分が、本当に彼の傍にいていいのだろうか。
 自分の生きてきた世界の義経や弁慶の悲劇を、望美だって知っている。
 この世界は確かに同じ歴史を辿る世界ではないけれど、辿らないで済むはずの悲劇を、小さな変化が呼び込んでしまう可能性もあるのだということを、幾度も時空を超えた望美は誰よりも知っていた。
「鎌倉の申し出の件は聞いたのでしょう? 僕としては今後つまらないやりとりや駆け引きに君を置くのも本意ではないので、いろいろと根回しをしていたんですよ」
「根回し、ですか」
「ええ、あちこちに。いろいろと」
にっこりと。
弁慶が浮かべた笑みは、背中が薄ら寒くなるような笑みだった。
「そ、そうですか。いろいろ……」
 ひきつった笑みで応えた望美の手を励ますように、繋いだ弁慶の手にきゅっと力がこもる。
 大丈夫です、と。ここにいていいんですよ、と言われている気がした。
「ですから、今、あれこれ空き邸をあたっているんです。さすがに診療所では手狭でしょう?」
「……?」
「僕と一緒に暮らしていただけませんか?」
 それは欲しくて溜まらなかった言葉だった。
 考えるまでもない。望美は、はいと弾んだ声音で即答した。
「ふふ、僕が先に言うつもりだったのに、まさか先を越されるとは思わなかったな」
 先ほどの彼女の言葉を思い出しているのだろう。弁慶は面白そうに言って、望美を見つめた。
「君は本当に不思議な人ですね。いざという時には、僕の予想も期待も軽々と飛び越えてしまう」
「弁慶さんだってそうですよ。知らない間にいろいろ動いていたりして。でも、やっぱり隠し事はやめてください。私なんて大した力にはなれないことの方が多いけど、一緒に考えて、一緒に悩みたいんです」
「……善処します」
「それから。私、頑張って弁慶さんを幸せにしますね」
 望美のどこか女性らしからぬ台詞に、弁慶はまた楽しげに目を細めた。

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