優しい嘘

 今日は朝からついていなかった、と雪にまみれて思う。
 心を映したようなどんより灰色空を見上げ、泣きたい気持ちでため息をついた。
 
 いつの間にか鳴りやんだ目覚ましに飛び起きたのは、今朝のこと。
 早くから出かけた美鶴ちゃんが用意して行ってくれた朝ご飯は諦めて、先輩に約束していたやきそばパンを作った。
 お弁当を作るとしたらちょっと時間が足りなかったかもしれないけれど、やきそばパンでよかったと思いながらデザートの林檎と苺をタッパに入れてギリギリセーフ。
 寝グセをどうにかブローして時計を見ると、いつもの時間を3分過ぎている。
 誰もいない家を「いってきます」と飛び出せば、今朝も凜とした空気に雪の白がまぶしい。生まれ育ったあたりはこんな風に積もることが滅多になかったから、それだけで楽しい気分になる。
 早足で境内を抜けると、石段の下には既に先輩が待っていた。駆け出したい気持ちを雪に阻まれながら、精一杯早く階段を降りる。
「先輩!」
 私を見上げて軽く手をあげた先輩に手を振りかけて、最後の数段で躓いた……のは、抱き留めてくれたからよしとしよう。
 第一声は「俺のやきそばパンは無事かっ!?」だったけど。

 授業ではやたらとよくあてられ、だんだん頭痛までしてくるし、ついていないという気分はいや増すばかり。それでも今日は5限で終わりだし、先輩と寄り道でもして帰ろうなんて、自分を励ましながらたどり着いた昼休み。それは起きた。
 今日のお昼は、どこになるんだろう。
 階段を上りながらそんなことを考えて、屋上のドアを開けた時。

「──っ!!」

 皆、揃っていた。揃っていて、もう1人見慣れない女子生徒がいた。
 いた、どころか、真弘先輩にキスをして。
 慌てたように体を離した先輩が、顔を真っ赤にしながら腕で口をおさえている。

 今のは、なに?

 ドアノブに手をかけたまま、そこから屋上に踏み出すことも出来ず、呆然と立ちつくす。いつもなら人の気配に敏い皆もその光景にあっけにとられているのか、私がここにいることに気付かない。

 今のは、なにっ!?

 ふと、慎司くんと目があった。
 慎司くんが何か言おうと口を開きかけたのを待たず、私はその場から勢いよく身を翻した。
 足がもつれそうになりながら階段を駆け下りて、走る。
「珠紀!」
 廊下の角を曲がった途端、背後から真弘先輩の声が追いかけてきた。
 走る。走る。先輩相手ならすぐに捕まってしまいそうだけれど、どこに向かっているかもわからず、昼休みを楽しげに過ごす生徒の間を駆け抜ける。
「待てって! こらっ、待ちやがれ!」
 ああ、捕まっちゃう。
 とても教室までは逃げ切れそうになくて、私は咄嗟に保健室に逃げ込んだ。
 息をきらしたまま、室内を見回す。
 幸か不幸か保健の先生はいなかった。ベッドを囲むカーテンは開け放たれて、休んでいる生徒もいない。
「珠紀っ」
 背後の引き戸が勢いよく開けられて、真弘先輩もすぐに駆け込んでくる。
 私が息を切らしているのとは対照的に、先輩はほとんど息があがっていない。
「なに逃げてんだよ」
「逃げ、た、わけじゃ……。逃げたわけじゃ、ないですよ」
 どうにか息を整えて、先輩の目を見ずに答える。
「ほ、保健室に、用があったんです」
 動機、息切れ、頭痛。泣きたいくらい最悪の気分。保健室に来る用事は、充分足りている。
「うそつけ。あー……さっきのは、だな」
 先輩は歯切れ悪く話し出す。
 一緒にいた女の子は、慎司くんのクラスに転入してきた帰国子女であること。
 慎司くんは先生に校内を案内するように言われて、屋上に連れてきていたこと。
 その子が雪で足を滑らせたのをたまたま真弘先輩が助けたら、あんなことになったこと。
「まあ、感謝っつうか……挨拶、そう挨拶しようとして、だ! 外国ではあんなのは挨拶だからな!」
 ここは日本です。
 冷ややかな心の声は、先輩に届かない。
 挨拶。
 挨拶でキス。
 先輩はそれでいいんだ。ふーん。
「だいたい、さっきのは……」
「挨拶ですか。そうですか。いいんじゃないですか?」
 自分でもわかる。今すごくとんがった声をしている。
 冷たい、可愛げない声。言葉。わかっているのに止まらない。
「珠紀?」
「私もしてみようかな、挨拶。玉依姫の力って口移しなんですよね? じゃあ拓磨や祐一先輩にも挨拶してみようかな。真弘先輩みたいに覚醒できちゃったりして」
 なに言ってるんだろう、私。
 真弘先輩以外となんて、絶対誰ともキスなんてしたくない。
 でもなんだか悔しくて、悲しくて。
「……洒落になんねえって、わかって言ってんだろうな?」
 低く抑えたような先輩の声に顔をあげると、怒りが透けて見える目がこちらをじっと見ている。
 あやまらなくちゃと思うのに、いろいろな感情が邪魔をしてうまく言葉が出てこなくて、私は目を逸らして俯いた。
 だって先輩は、あの子とキスしたくせに。
 そう思ったら、謝罪とは正反対の言葉が口をつく。 
「挨拶なら、別にいいじゃないですか」
 ふいに引き戸がひかれ、保健の先生が戻ってきた。
「あら、どうしたの?」
 先生と入れ違うように、先輩はぼそりと「勝手にしろ」と言って出て行ってしまった。
 追いかけることも出来ず立ちつくす。
 ひどいことを言ったとわかっているけれど、でも心の中のモヤモヤぐるぐるはどうしようもない。
「彼氏とケンカした?」
 少し呆れたような口調の先生は軽く笑って、ふと私をじっと見ると一応計るようにと体温計を差し出してきた。
 受け取って丸椅子に座りながら、体温計を脇にさそうと腕を動かすと、手さげの中の袋が、カサリと音を立てた。
 先輩に、食べて貰うつもりだったやきそばパン。
 喜んでくれるかなとか、おいしいって言ってくれるといいなとか、思いながら作ったのに。
 あれ?
 そういえば、ここにこれがあるってことは、先輩はお昼どうしたかな。
 そんなことを考えているうちに電子音が響き、体温計が測定終了を告げた。
 取り出して見たデジタルの表示は、38.3度。
「どう?」
 先生に体温計を手渡す。
「あら、やっぱり。どうする? ここで寝て行ってもいいけれど、今日はもうあと1時間で終わりでしょう? 早退してもいいわよ?」
 どうしよう。
 今日も一緒に帰る約束はしていたけれど、先輩は怒っているだろうし、きっと一緒になんて帰ってくれない。
 だったら。
「早退、します」
「そうね。うちの人に連絡して、迎えに来て貰う?」
「大丈夫です」
 
 そして今、私は雪に埋もれている。
 雪の季節になって、学校の行き帰りはいつも先輩と一緒だった。
 踏みしめる雪がキュっと鳴るのも楽しくて、あっという間に過ぎる登下校の時間。
 なのに、ひとりで歩く通学路は、ただただ寒くて歩きにくい。
 少しでも早く帰りたくて、林の脇を抜ける近道をしようとしたのが間違いだった。
 人があまり通らないそこは踏みならされた道がなく、獣の足跡すら見当たらないまっさらな雪。
 一瞬引き返そうとも思ったけれど、なんだかそれも悔しくて、ここまで来たらもう引き返すよりは進んでしまおうと思った。それも、間違い。
 少し進むと、はらはらと粉雪が降り出した。
 灰色の空を見上げると、音もなく降る雪に吸い込まれていくような心地になる。
 不思議な気持ちで空を見ながら歩いていて。
「──っ!」
 踏みしめるはずの地面がなくなり、景色が反転して、雪に埋もれた。
 一瞬何が起こったかわからない。
「ニィ」
 仰向けで雪に転がる私の耳元で、おーちゃんの声がする。 
 頭を起こして周囲を窺う。うっかり足を踏み外して、林の中に滑り落ちたらしい。
「びっくりしたぁ……」
「ニィ」
 心配そうな声に、大丈夫だよと答えて身を起こす。
 蒼く深い瞳が、気遣うように見上げてくる。
「はは、びっくりしたね」
 おーちゃんの頭を軽く撫でながら滑り落ちた所を見上げると、2、3メートルの緩やかな斜面だった。
 体についた雪を払いながら立ち上がりかけ、ズキリとした痛みに息を飲んで動きを止める。
「ニッ!?」
 痛い。足首が痛い。体重を乗せたら、ものすごく痛い。
 おーちゃんは心配そうにこちらを見上げながら、動きを止めた私の傍を右に左に歩いている。
 体重を乗せないようにそうっと立ち上がって、おそるおそる斜面に足をかけて、再び走る痛みに動きを止めた。
「ニィ!」
「どうしよう、か?」
 おーちゃんに向かって。
 でも自分自身に問いかけてみる。一人で帰るのは、結構辛そうだ。そうは言っても、どうにか帰るしかない。
 ふと、真弘先輩の顔が過ぎった。
 おーちゃんに頼めば呼んできてもらうことも出来るけれど、まだ授業中だし、なによりさっきの自分の発言を思えばこんなことで助けに来て貰うのもどうかと思う。
 保健室を出て行った時の、眉を顰めた表情が思い出され、無意識にため息が零れた。
「ニィーッ」
「大丈夫だよ。ゆっくりだったら上れるから」
 答えて、そうっと足を前に出す。痛めた足を庇いながら、そろそろと上る。いつもならなんてことない距離が、すごく長く辛く感じる。
 降りしきる雪に体は冷えるのに、痛みに耐えて動くからか、なんだか嫌な汗まで出てきた。
「あ゛っ!」
 半分上ったところで、雪に足を取られてまた下まで滑り落ちた。今度はうつぶせて雪に埋もれたまましばし固まる。
 なんだかコントのようだと笑ってしまう気持ちと、情けなくて泣きたい気分。混ぜこぜの気持ちを持てあましながら、よろよろと立ち上がった。
「ニィ」
 肩に駆け上ってきたおーちゃんのふわふわの毛並みを、そっと撫でる。
「やっぱり誰かに来て貰わないと無理かなぁ?」
「ニィ」
「おーちゃん、真弘先輩以外なら誰でもいいから、誰か呼んでき」
「珠紀っ!?」
 声が頭上から聞こえたと思った次の瞬間、先輩はもう目の前にいた。
「あーあー、ひでぇことになってやがんなぁ」
 頭もコートも制服のスカートも、雪まみれになっているそれを雑な仕草でバタバタとはたく。
 なんで、ここにいるの?
 心の声が聞こえたように、先輩はどこか得意げに笑った。
「祐一のやつがさ、下駄箱んとこで早退してくおまえのこと見かけたって言ってたんだよ。家まで行ってみても帰ってねえし。で、探してた」
「先輩、授業は?」
「自習だ、自習」
 先輩の額には、この寒さに似合わずうっすら汗が浮かんでいた。
 少し心細かったから、こんな風に駆けつけてくれてすごく嬉しいのに。
 ありがとう、と言いたいのに、言葉がうまく出てこない。
「ったく。まっすぐ家に帰ることもできないなんざ、小学生か? おまえは」
 そう言って手を差し出してくれる。反射のように、その温かい手につかまって足を踏み出して、痛みに顔をしかめる。
 そういえば足を捻挫していた。
「おいっ、大丈夫か?」
「足、くじいちゃったみたいで」
「……ちょっと目を離すと、おまえは」
 先輩はしゃがんで、「ほら」とこちらに背を向ける。
 それは、もしかしてもしかすると。
「おぶってやるから、早くしろ」
 恥ずかしい。
 なんか、高校生にもなっておんぶとかってすごく恥ずかしい。
 しかも、好きな人にしてもらうなんて。
「や、私、あの……重いですし」
「知ってる」
「ひどっ」
「冗談だ。ほら、とっとと乗らねえと置いてくぞ」
 息をついて、心を決めてから、その肩にそろりと手をかけて、おんぶする。
 うぅ、ドキドキが背中越しに先輩にまで響かないかな。
「ニィッ」
 おーちゃんの声に促されて、先輩は私の鞄も手にすると、軽く雪の斜面を蹴った。足下から吹き上がる風に後押しされて、ひと飛びで元の道に戻る。
 先輩はそのまま歩き出した。
「あの、歩けます」
 恥ずかしいのと申し訳ないのとで、なんだかいたたまれなくて、そろりと切り出してみる。
 痛いけど、平らな道ならどうにか歩けるかもしれない。
「いいから乗っとけ」
「……」
「それよりだ、珠紀」
 背負われていると、先輩の声が直接体に響く気がする。
 怒っているような、少し低い声。
「俺以外を呼んで来いっつうのはどういうことだ、コラっ」
 さっきおーちゃんに言った言葉を、聞かれていたらしい。
 先輩はそのまま黙って、私の言い訳を待っている。
「……だって先輩怒ってたし」
 私もひどいこと言ったし。
「怒るに決まってるだろがっ。あのなぁ、俺はおまえのなんだ?」
「……彼氏、です。多分」
「多分は余計だ、多分は。俺はお前の、か、彼氏なんだからよ。他の男なんて呼んでんじゃねぇぞ、ばか」
「だって、先輩なんて他の子とキスしてるし」
「あれはー、向こうがいきなり」
「つきあうんですか?」
「なんでそうなるんだよっ」
「だって。可愛い子っぽかったし、背だって小さくてちょうどよさそうだったし、先輩だってよけなかったし」
 ひと息に言う。
 身長を気にしている先輩に、並んでお似合いの彼女の背丈。口に出してみると、ますます泣きたい気分になってきた。
「よけた。未遂だ未遂」
「よけたんですか?」
「当たり前だ」
「なんでそれを先に言ってくれないんですかっ」
「言おうとしたのをお前があんなこと言うからっ。だいたい俺様は、好きでもない女とつきあうほど、ヒマじゃねーんだよ」
 先輩の言葉を、頭の中でもう一度反芻してみる。
 好きでもない女とつきあうほど、ヒマじゃない。
 だったら。
「好き、ですか? 私のこと?」
 彼氏と言ったり、俺の女と言ったり、傍にいてくれるのは確かだけれど。
 鬼斬丸のことが済んで以降、一度も好きだなんて言われることがないまま、まるでつきあっているような、でも単に仲のいい先輩と後輩のような、どこか曖昧なふたり。
「……お前はどうなんだよ」
「私は……」
 私は、なんてそんなの答えは決まってる。
 でも先に言うのはちょっと悔しい。
「そんなの……先輩なんて、俺様で、態度ばっかり大きいし」
「おい」
「今朝なんて私よりやきそばパン助けちゃうし」
「わーるかったって。つかおまえも助けただろが」
「他の人とキスしそうになってるし」
「だーかーらっ」
 あぁもう!
「でも好きですっ。先輩なんて、格好いいし、優しいし、頼りになるし。こんなに好きなんですからね」
 首にまわした手に力をこめて、ぎゅっとしがみつく。
「おま…っ、苦しいだろが」
 軽く咳こむ先輩に、首をしめたようになっていることに気づいて腕の力をぬく。
「ごめんなさい」
「おまえは俺様の……その、女なんだからよ。だから」
 あんなオンナのこと気にするなと、ぶつぶつと続ける先輩は、俺が好きなのはおまえだけなんだからよ、と付け足すように言う。
 もぉ…。なんだかなぁ。ますます熱があがりそう。
「先輩のせいですよ」
「はあ?」
 くらくらする頭でこまかいことなんていろいろ考えられない。
 ただ好きという気持ちでいっぱいになるから、先輩の温かい背中に全部預けて。
「こんなに好きになっちゃったの、先輩のせいなんですからね。責任とってください」
「お、おぅ」
 耳が真っ赤な先輩が今どんな表情をしているのか背中からは見えないのが残念だなと思いながら、ふと覗く学ランの下の体操服に気付く。
 そういえば先輩は、5限目が体育だったはずと思い出した。
「先輩、自習って本当ですか? ホントは心配してサボって来てくれました?」
「自習だって言ってるだろが」
 だったら体操着なんて着てるわけないのに。
 先輩の優しい嘘に幸せな気持ちになって、そっと目を閉じた。

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